1章 玖ノ夜 特級ってロクなの居ない
元々止められるとわかっていたのだと思う。
西薗彩乃はその一発以降、神童特級に攻撃を加える様子も無く、あっさりと拳を収めて席に着いた。
「ごめんあそばせ、咲良」
「え、えぇ…………ありがとう……？」
お礼を言うべき場面なのかよくわからなかったけど。
それでも、この女は私の怒りまでも代弁してくれた気がするから。
やっぱり心の中では感謝していた。
しかし神童特級は。
「やれやれ。どうやら、重大な誤解が生じてしまっている様ですね」
そう言った。
「誤解…………？ 私はあの店は問題ないって報告していた筈です。それなのに、神童さんが対策院に報告を上げたから対策院が動き出してしまった。これのどこに誤解が有るっていうんですか」
彼の言葉に、私は思わず言葉を返していた。
さっきまで何も言い出せなかったのが嘘みたいに。
親しくもないし、一応立場が上の人だから表面上は敬語で話すことは出来たけど、私の喧嘩腰は隠せていないと思う。
でもそんな私に神童特級は怒るでもなく、ただ静かに口を開いただけだった。
「またわたしの悪い癖が出てしまいました。どうもわたしは説明が不足しがちでいけない。いつも伊吹にそう言われているんだが…………おっと失礼、これはこちらの話です。」
神童特級は私達二人の事を苦笑しながら見ていた。
その顔はどこか自嘲めいたものもあって、少なくとも私はそんな彼の顔を見た事が無くて少しの間見入ってしまう。
「まずはわたしの説明不足と、北神さんには無断で報告を上げてしまった件はお詫びします。ですが、事態は貴女方が思っている程悠長に構えていられる様なものでも無いのです。その点だけはご承知おきを」
それはさっきも言っていたけど。
でも私は西薗彩乃が言うように、彼の言葉をそのままそっくり――――NOIRを取り巻く状況が切迫しているだなんて事、信じられるはずも無かった。
だって私はあの場所に行ったのだ。
あの霊(ひと)と話したのだ。
私からの報告ベースでしかを知らない筈の神童秀正が、私よりも事態を深く見ているだなんてあるはずない。
「まず一つ断っておかなければならないのは、咲良さん、私には君以外にも協力者が居るという事です」
「私……以外に……？」
一瞬、彼の言葉の意味がわからなくて、私は固まってしまう。
神童秀正は普段何をしているのかわからない癖に、発言力と影響力はある謎の特級鬼闘師。だから彼個人の懐刀的存在が対策院内に居たとしてもそれは不思議な事ではないのだけれども、でももし本当に彼個人の伝手が有るのだとしたら、どうして個人的に西薗彩乃のラインで調査していた私にわざわざ報告を上げさせようとしたのか疑問でしかない。
そしてその答えは彼自身の口からすぐに出て来ることとなる。
「まあ言ってしまえばわたしの旧い友人なんですけれどもね。あ、勘違いしないでくださいよ。元々例の店――――というより噂に興味があったのは本当ですし、何も最初からブッキングして君に調査の代行をお願いしたわけでもありません。正直言って今のこの事態は私にとっても想定外なんです。本当に運の巡り合わせとしか言いようのないね」
「どういう事ですの？ ちっとも話が見せませんわ」
「そもそもの始まりは、私の友人の小説家がLINEを送ってきた事なんです。『京都で面白そうな店を見つけたから、取材がてら行ってみるね〜！』なんて送ってきたので、最初は笑っていたんですがね。彼女がわたしに勿体付けて連絡してくるときは大抵厄介な事になると相場が決まっているんですよ。噂の事はネットで調べればチラホラ見かけたので承知していましたしね。丁度そんな折、北神さんが京都に行かれるという話を耳にしたものですから、これはもしかして――――と思いまして。こう見えて、私の予感はよく当たるんですよ。というより、この辺り迄は予め西薗さんに伝えておいた筈なんですけども」
その言葉を聞いて私は思わず隣の西薗彩乃を見た。
勿論話の続きは気になるのだが、それ以上に彼の言った言葉が気になり過ぎる。
なぜ彼は私が京都に行く事を知っていたのだろう。そもそも当事者である私自身が最初は名古屋に行くものだと固く信じていたというのに。
当の西薗彩乃は私の視線が自分に向いたのに気が付くと、気まずそうに視線を逸らした。
これはもう確定だ。この女は確信犯だ。
「ちょっとどういう事よ。そういえばアンタ、神童特級からの伝言忘れてたけど、勝手に私の事ベラベラ喋っちゃって引っ込みがつかなくなって、私には言い出せなかったとかそんな事言わないわよね？」
「ご、誤解ですわ、咲良？！ 私は例の噂と貴女がこちらに来るという話をしただけで…………っ！」
この反応は絶対にクロだ。
それに何となく展開が見えてきた。
さっきは私の味方をしてくれていたけど、単純に自身の説明不足が発端となって事態がややこしくなっているのを誤魔化そうとしたに違いない。
私が睨むと、西薗彩乃は面白い程慌てだして、ワタワタと手を動かし始めた。
「やっぱりアンタがややこしくしてるんじゃない！ 初日にあのお店に連れて行って女将さんの依頼を貰ったのだって、ハナから私に調査させようと思ってたって事でしょ？！ アンタ、最初私に名古屋駅に来るように言ったわよね？」
「そ、それは…………。わたくしだって中部支部から直行して貴女を迎えに行こうと思っただけなんですもの！ 名古屋駅の方が都合が良かったんですもの！ わたくし、名古屋で修業するなんて一言も言ってませんわ！！」
「最初から事情を話して、京都に呼べば良かったでしょ？！ なんでこんな回りくどい事を……」
「だって…………。咲良と一緒にドライブしたかったんですもの…………」
いじけた様にそっぽを向く西薗彩乃を見ていると、頭が痛くなってきた。
未だに神童特級が対策院に報告を上げてしまった理由はわからないけれど、何か致命的な誤解が私達の間にあるのだということは何となく察することができた。
「そういう事ですか。どおりで貴女方が喧嘩腰なわけです。西薗さん、北神さんが絡むとポンコツになるのは相変わらずですね」
「ポン――――ッ？！」
「君の執事の石動さんも大層心配されてらっしゃいましたよ。『お嬢様は北神様の事となると途端に目の色が変わります』と」
「ちょっと石動、何言ってくれてますの？！ …………もうやだぁ」
顔を真っ赤にして俯き撃沈した西薗彩乃。
そんな彼女を放置して神童特級は話を再開した。
「どうやらとんでもない誤解を与えてしまった様で申し訳ありません、北神さん」
「え、えっと。こちらこそ、このポンコツお嬢様がすみません…………」
「ちょっと咲良？！ 貴女まで…………！」
「アンタは黙ってなさい！」
8歳も年下の子供に怒鳴られてしょんぼりと肩を落とす25歳の女。
見ているこっちが哀れになるから止めて欲しいんだけど…………。
「それで神童さん。どうして対策院本部に報告を上げてしまったんですか？ もしかして、神童さんのお友達の小説家の方の身に何かあったとか……？」
「ああ、それはありません。彼女は私に何か伝えてくるような質の人間ではありませんし、彼女は少々特殊な能力の持ち主ですから、余程の事が無い限り危険に晒されるという事は無いでしょう。そもそも貴女の報告を信じるのであれば、その『店主』なる霊に危険性は無いようですし」
危険性は無い？
ついさっきまで彼が言っていた、「事態は切迫している」という言葉と明らかに矛盾している。
だけどここで余計な一言を挟めば、またそれだけこの場は荒れるだろう。主に私の隣に座っているポンコツのせいで。
「元々は私も静観していたんですけどね。面白そうな店だと思って、日本に帰って来て落ち着いたら行ってみようと思っていた。ただそれぐらいに思っていたんです」
「じゃあどうして…………？」
「先程も言った通り、既に気楽に構えていられる段階ではなくなったからです」
「どういう事ですか。あの霊(彼女)自身に問題が無いのに、どうして危険性があるだなんて……」
彼の言っている事はあまりにも矛盾している。
あの店主さんに悪意は無い。私はそう信じているし、彼自身もたった今認めた。
だというのに、どうして彼女に危険性があるというのだろう。
わからない。
彼の言う事が何一つ理解できない。
「わたしの言い方が悪かったですね。問題があるのはその『店主』自身ではありません。彼女自身が創り出した店――――いや、その店がある異空間そのものに問題があるのです」
「え……？ 創り出した…………空間？」
私は益々混乱の渦中へと叩き落されていった。
これは私達の様な超自然的な力を遣う者達には割とポピュラーな話なのだけれども、人間に"空間"を操る事は絶対にできないと言われている。
私達祈祷師や鬼闘師達が遣う霊術。
ロシアや北欧系術者が遣う精霊術。
教会所属者、特にエクソシスト達が遣う法術。
欧米で最もポピュラーな魔術。
そして一部の特殊な才能を持つ者だけが扱う魔法。
この世界にはありとあらゆる超自然的な力を用いる術が存在している。それぞれの術に得意分野と不得意分野があって、出来る事と出来ないことが決まっている。
例えば、霊術では精霊術者の得意とする一過性死体蘇生術(ネクロマンシー)みたいな事は出来ないし、逆に魔術では木の属性霊術みたいに、人体に直接干渉するような事は出来ない。
そういった具合に、どの術も一長一短なところがあるのだけれども、たった3つだけ、どの術でも成し遂げられない事がある。
それは、"完全に死亡した生命の蘇生"と"時間の操作"、そして"空間の操作と超越"だ。この3つだけは、どのような術を用いても達成する事は出来ない。そんな事は私達の様な人間には九九位普通な常識なのだけれども。
「そんな事、有り得ないじゃないですか。神童さんだってご存じの筈です。空間を創り出すなんて人間に出来る真似じゃ…………」
「当然それぐらい私も承知しています。ですがそれは事実なのです。北神さん、わたしは常識に囚われて今目の前で起きている現実を否定するよりも、受け入れることの方が大事だと思います」
「それは…………そうかも知れませんけど…………」
「単刀直入に言いますと、通説とは異なって、人間が空間を操作したという実例は有ります。彼女の場合空間を創り出しているというより、彼女が夢想した『有り得たかもしれない世界線』を高い精度で再現していると言った方がより正確なのですが…………。まあその事は置いておくとして、とにかく重要なのは、君の言う『店主さん』が実は空間を創り出す力を持っているという事なんです」
突拍子もない神童特級の言葉に、私は黙って話を聞くことしか出来ない。というより、あらゆる術者の常識をアッサリ覆しておいて、この人冷静すぎないかしら。
「『店主さん』がその様な能力を持つようになった切っ掛けは、流石のわたしにもわかりません。だけど、君の報告を聞く限りでは、恐らくその能力心当たりはあっても自覚まではしていない。それ自体は問題ではありません。じゃあ何が問題なのかと言いますと、その創り出した空間が非常に不安定になっているということなんです」
「は、はあ…………？」
私も、いつの間にか復活していた西薗彩乃も頭の中に大量のクエスチョンマークを浮かべざるを得なかった。だって、本気で何言ってるのかわかんないんだもの。
「私がそれに気がついたのは、3日前の君の報告にあった『現実と店の時間の進みがズレていた』という箇所を聞いたときでした。そして、すぐに対処しなければならないと思い立ちました」
「えぇっとぉ…………？ ごめんあそばせ、神童様。咲良のその報告からなぜその様な結論に至られたのか、全くわからないのですけれども」
それは私も思う。
その時間のズレが、なぜ彼をそんなにも焦らせるのか理解が出来ない。
「北神さんは一度、世界を飛ばす怪魔と戦っていますね？」
「は、はい…………。でも、それがどう関係して――――」
「君が戦った式神怪魔【砕火】は『炎獄』と呼ばれる世界を限定的にこの世界に呼び出し、固定する力を持っていました。空間を創り出すには強いイメージが必要ですが、【砕火】は現実に存在するものを投影対象にすることでその過程を省略しています。ですが『店主さん』はそうではない」
「それってどういう…………」
「わたしも詳しくはわかりません。恐らく『店主さん』はどの世界線においても本来起こり得なかった事象をこの世界に具現化してしまったのでしょう。だから、世界の維持には彼女の強いイメージが必要になる。ですが、彼女が何らかの弾みで記憶を失ってしまったが故に、最初に創り出した時の彼女の想いと今現在の彼女の想いに決定的な食い違いが生じてしまった」
相変わらず神童特級の話は理解が出来ない。
なぜ彼がそんなにも不可能と言われている空間創出について詳しいのかわからない。
だけどその時、私の頭の中にあの店主さんの言葉が蘇っていた。
『覚えていません。僕が誰だったかも、大切な人が誰だったかも。……だけど、だからこそ僕は、こうして死んでからも留まっているんでしょう』
その言葉を思い出したとき、私は唐突に理解できた様な気がした。神童特級の言葉がスッと耳に入ってきた。
相変わらず空間の事はわからないけれども。
あの店の時間が、日付が、季節がズレている事の意味が何となくわかってしまった。
「NOIRが存在する空間は今や、存在意義と主の意志が食い違っている、矛盾に満ちた空間と化しているのです。だから、時間の進みも、内部の空間の季節もまるで違っている。私にはその原因まではわかりませんがね」
「このまま放置しておくと…………どうなるんですか」
「今は時間のズレだけで済んでいますが、空間は存在意義の成立を目的として、あらゆる時代、あらゆる平行世界へとその穴を空けるでしょう。NOIRを中心として、あらゆる世界が繋がってしまう」
「世界が、繋がる…………」
「そこでもし、各世界の支柱たるNOIRの存在する空間が維持できなくなってしまえば、繋がってしまった空間同士が融合を始め、世界があらゆる矛盾に満たされ、最終的には繋がってしまった全ての世界を道連れに――――」
神童特級はそこまで言うと、右手に持っていたブランデーのグラスを傾け一気に飲み干すと、私達二人に真剣な眼差しを向けて。
「世界は消滅します」
あまりにもスケールの大きい話に、私は全身の力が抜けていくのを感じた。彼の話は半分も理解できていないけど、あの店主さんが、お店を創り出した時の想いと、今の彼女自身に矛盾を抱えているから、あのお店自体が危険に晒されているのだということは理解ができた。
「対策は有りますの？」
「もちろん有ります。彼女の矛盾を解決してやればいいのです。彼女が最初に想い描いた店の姿を取り戻すことができれば、空間は安定し、危機は脱することが出来るでしょう」
「矛盾を解決…………？」
聞いた瞬間は、あのお店を存続させられると思った。
要は、逆に彼女のお悩み相談をすれば良いのだ。それを解決すれば、矛盾は取り除かれる。そう思った。
だが、現実はそう甘くない。
彼女は記憶を失っているのだ。彼女自身が"始まりの想い"を喪失してしまっている以上、手が付けられない。
「そしてもう一つ。手遅れになる前の今の段階で空間の創造主たる『店主さん』を除霊してしまうこと」
「それはダメっ！！」
私は思わず叫んでいた。
でも。
「北神さん。貴女の気持ちはわかります。ですが、彼女の矛盾を取り除く方法が見つからない限り、我々に取れる手段は除霊以外に存在しません」
そう一蹴されてしまう。
私は心のどこかで何とかなると思い込んでいた。
いや、何とか出来ると、そう思っていた。何か起きても、私自身の責任で、私自身の力で何か出来ると思っていた。
だけど現実は無情だ。
今の私には、NOIRに。いや、あの店主さんに何もしてあげられない。
「貴方様が緊急性を訴え出る意味は、何となくですけど理解しましたわ。ですけど、それだけなら咲良に伝えても不都合は無いのではなくて？ 最悪、咲良一人でも後始末ぐらいはできますわ」
確かに西薗彩乃が言うように、神童特級が対策院に報告を上げる意味がわからない。
それに私だって祈祷師の端くれ。本当に危険だとわかっていたら、自ら手を下す位の覚悟は持っている。
でも、神童特級の答えは全く考えもしなかったものだった。彼にしては珍しく苦々しげな顔をしていた事は私の中でとても印象的で、私の考えが想像以上に甘いことを認識させるには充分なものだった。
「それなんですがね…………。ちょっと面倒な事になりまして。関西支局の特級祈祷師・北神宗次さんがこの案件に個人的に首を突っ込もうとしているみたいなんですよ。私がやむ無く本部に報告したのは、彼を牽制する必要があったからです」
彼の口から出てきた北神宗次。
それは私の嫌いな北神分家の中でも一番嫌いな宇治北神家の当主で、私の大叔父にあたる人物。自分の栄誉と栄光・名声のためには人の善意すら平気で踏みにじる最低の男の名だった。