1章 拾陸ノ夜 あなたを想えば
「…………ありがとう」
「な、何ですの急に？」
「だって、アンタには何の義理も無いのに、こうしてついて来てくれたでしょ。今のうちにお礼言っとこうかと思って」
私が京都に来て13日目の夜。
そして、北神宗次がNOIRを掃討にやって来てしまう日。
時刻は午後20時3分。
人払いの結界を張った糺の森には人っ子一人おらず、不気味な雰囲気を醸し出している
大枠で見れば、この2日間でNOIRを取り巻く状況は大きく進展した。
まず、伊吹さんとノアちゃんの二人は店主さんの"大切な人"を見つけるのに成功したらしい。かなりギリギリだったけど、今晩、この下賀茂神社まで来るように手筈は整えられている。
店主さんの"大切な人"――――アイリというらしい――――は伊吹さんの予想通り三重で見つかったらしい。小説家の面目躍如というところだろうか。
そしてもう一つ、NOIRの中と外で時間の進み方が違うという点に関しては、今は考慮しなくても良さそうだという事がわかった。元々私が懸念していたのが、私が1日経ったと思っていても、店側では何日も経っているという事態によって店主さんが悪霊化など不測の事態となるという事。
だけど、その憂慮も杞憂だったと断言できる。
というのも、どうも生きた人間があの店に入る事で、時間の進行が安定化するらしい事がわかったから。どおりで私があの店に入っている時間にズレが無いわけだ。
しかもここ数日人間が何度も出入りしたせいか、比較的時間の進行は安定化している。ついさっき、初めてバータイムにNOIRを訪れた際も私と店主さんの間に時間進行の認識に齟齬は無かった。
故に残る問題は――――
「それにしても驚きましたわ。貴女が私に助けて欲しいと言ってくるなど」
「…………そんなに驚く事かしら？」
「ええ、とても。わたくしの事を嫌っている貴女から、頼ってもらえるだなんて、考えもしませんでしたわ」
「ほぇ…………っ？！」
不意討ち気味の西薗彩乃の発言に、私は素っ頓狂な声を上げて思わず彼女の顔を見る。
私はこの女に対して真正面から嫌いだと言った事は無い。
まああまり隠す事もしていなかったけれど。
でも、西薗彩乃はそれでも私にやたらと絡んできていたので、実はわかってないんじゃないかと思っていた。
「なんですの？ まさか気付いてないとでも思っていましたの？」
「え、いや……それは…………。正直ちょっと…………」
「まったく、呆れますわね。あそこまであからさまな態度を取られて気が付かないなんて、わたくしが
そこまで能天気な人間だとでも思って？」
西薗彩乃のジト目に私は思わず目を逸らした。
それでも、気になる事があって。
「じゃあアンタはどうして、自分を嫌っている女の頼みなんか聞いてくれたのよ。それに元々の私のお願いだった、鬼闘師としての修業をして欲しいって事も」
私の知る限り、西薗彩乃は人の頼みをタダで受け入れる程聖人ではない。
それどころか基本的な考え方は「何かを得るならば、同等の代価が必要となる」というものであるから、この女は無償の施しをするのも受けるのも嫌う。
私の最初の頼みである鬼闘師としての修業をつけてもらうというものに対して、西薗彩乃は私の実家である北神本家に所蔵される全ての書物の閲覧権限を対価として提示した。
だから今回私が手伝って欲しいと言った時、正直言って断られると思っていた。何しろ、私には支払える対価が無いのだから。
訳がわからない。
私が彼女の事を嫌っていると知っているのであれば、なおさら承諾する理由が見当たらない。
西薗彩乃は対等な取引であれば誰とでも取引する様な見境の無い女でも無いし、普通嫌われている相手からの頼みなど聞きたくない筈だ。
だけど、西薗彩乃は私のそんな疑問に対し、笑って返した。
「咲良。貴女、わたくしの事、冷血で融通が利かない女とでも思っているのでしょうけど」
「え……いや、流石にそんな事は思ってないけれど」
「本当かしら？ 怪しいですわね…………」
「いや、だからそんな事無いわよ…………！」
嘘だ。
つい最近まで本当にそう思っていた。
「まあいいですわ。ともかく、わたくし、身内には甘いのですわ。それも激甘に。修業の対価の件は、単に南条一哉の益になる事が気に食わなかっただけですわ」
「はぁ、なにそれっ？！ じゃあ何？ 例えば私が一哉兄ぃと絶縁したままになってて同じ事お願いしたら、すんなり受けてくれてたって訳？！」
「そういう事になりますわね」
「はぁ…………っ。アンタの南条家嫌い、どうにかならないのかしらね」
私は西薗彩乃の答えに重い溜息を一つ吐く。
この女の南条家嫌いは尋常ではない。
確かに、西薗本家が没落する事となった一件に南条家も絡んでいたけれど。
何ならこの一件を終結させたのは南条家だけれど。
だけどこの件に関して一番悪いのは当時の西薗家の本家当主・西薗一だ。多くの仲間を裏切り、殺し、この国の転覆すら狙った男だ。そんな事、この女だってわかってる筈なのに。
「そればかりは、わたくしにもどうにもなりませんわ。例え全責任と全ての非が西薗一にあったとしても、やはりわたくしは西薗家が苦渋を嘗める羽目になった切欠を作った南条聖を、南条家の人間を許す気にはなれませんの。人の心というものはそういうものではなくて？ 理屈や理性、決まり事だけで皆が物事を判断するのならば、犯罪なんて起こり得ませんわ」
「そうね……それもそうかもね……」
確かにその理屈で言うなら、私だって責めを受ける立場だ。
今回のNOIRの一件、本来であれば管轄担当の関西支部が対処して然るべきであって、本部所属の私が口出しすることじゃない。
だから、北神宗次の行動を阻もうとしている私は間違っている。
だけど私はその逆の事をしている。
NOIRを、店主さんを護るため。対策院の方針に抗っている。しかも、他の人を巻き込んでまで。
「そして今回の事だってそうですわ。わたくしはわたくしの心に従ったまで。わたくしは貴女の事が好きだから、貴女の事が大事だから。例え貴女から嫌われていようとも、こうして手を差し伸べたいと思ったのですわ。それだけの事です」
西薗彩乃はその童顔を私に向けて、ニッコリと微笑んだ。
そっか、そうなのね。
貴女がそう言うなら、頼ってもいいのね。
私は誰かに弱音を吐いても、力を借りてもいいのね。
幼い頃から幽霊だ、化け物だと蔑まれ、そして勝手に勘違いして孤独になった私でも。
「私もアンタの事、わりと好きよ。わりと」
「え？」
私の言葉に、西薗彩乃は面食らった顔をした。
私からこんな言葉が出るなんて、想像もしてなかったのだろう。
私もそんな素振り見せた事無い訳だし。
「最初は確かにアンタの事、嫌いだったわ。一哉兄ぃの事、理不尽に悪くいうし」
「否定はしませんわ」
「でもこの2週間一緒に過ごしてわかったのよ。アンタが本当は優しくて思い遣りのある人だって事が。事ある毎に私の心配してくれて……。そんなの見てたら、私も安易に嫌えるわけ無いじゃない…………」
「咲良…………」
「あ、でも！ 一哉兄ぃの事悪くいうのは許したわけじゃ無いわよ？！ そこは勘違いしないでよね！！」
指差して宣言する私に、西薗彩乃は終始目を丸くしていて。
そして最後に、フッと笑った。
「昔みたいに『あやのおねーちゃん』って呼んでくれたら、わたくしも少しは考えてあげても良くてよ？」
「それは残念だけど、御免だわ。一体いつの呼び方よ、ソレ」
「8年ぐらい前まではそう呼んでくれてましたわね」
「いい加減忘れなさいよ！！」
まるで本当の姉妹の様に。そして、過去の遺恨を洗い流すように。
私と西薗彩乃の笑い声が糺の森に響き渡った。
★
そして時は進み、21時になる直前。
「現れたわね、遂に。北神宗次――――っ！」
NOIRへと続く"入口"の前で待ち構える私達の前に、北神宗次は現れた。その宣言通り、「二日後の夜」に。
「咲良、わかっていますわね。わたくしに出来るのは、あの男の精神干渉術への対抗策を張ることと、貴女が万が一敗れたときに回収して逃げる事だけ。」
「充分よ。あのロリコンに好き勝手される心配が無くなっただけでも、安心感は桁違いよ」
協力を取り付けた西薗彩乃だったが、戦闘要員として呼んだわけでは無かった。その理由は対策院の規定にある。
対策院では、理由はいくつか有るけれど、鬼闘師と祈祷師の間に完全分業制が敷かれている。そして、お互いがお互いの職務内容に干渉できないようになっている。特に鬼闘師から祈祷師に対しての干渉は完全禁止だ。
今、NOIR掃討の任務は完全に対策院の案件の一つ。
そうなると、祈祷師である北神宗次が担当するこの案件に対し、鬼闘師である西薗彩乃は干渉する事を許されない事となる。本当は祈祷師の援軍も欲しかったところだけれど、生憎、関西方面に知り合いは居ない。
ゆえに、私は西薗彩乃にバックアップをお願いし、私一人で対峙する手を取らざるを得なかった。
だけど、私はそれほど心配していない。
今の私には、一緒に居てくれる仲間がいるから。
そしてその時は来た。
――――リンッ…………ッ！
錫杖を鳴らす、鈴の音に似た音が一帯に響く。
「早速来たわね…………っ！」
「これは…………思考阻害の『阻慮』系の霊術と精神干渉の『心蝕』系の霊術の二重起動…………？ 本当に趣味が悪いですわね、あの変態」
鈴の音を聞いた瞬間、私は自分が霊術をかけられたことを認識した。以前は不意討ちもあって言われるまで気がつかなかったけど、案外落ち着いていれば、自分の変化を感じとるのは容易い。
そして、どこでそんな知識を付けたのかは謎だけど、西薗彩乃の予想は恐らく正解。霊術をかけられた瞬間から、私の思考に雑念が入りやすくなったのと、マイナス思考が付きまとっているのがわかる。
オムライスが食べたくなったり、どうせ今回もまた負ける――――などと突拍子もなく思ってしまうのが何よりの証拠だ。
私達も可能な限りこの「鈴の音」に対策を施した筈だったけど、やっぱり音を完全に遮断しない限り、影響から逃れることは出来ないみたいだ。
「よう逃げんと来たやん。まずは誉めたるわ。で？ 答えは出たん？」
錫杖を鳴らしながら歩いてきた北神宗次は、藍色の着物に黒の袴。まるで時代劇の武士のような格好で私達の前に立った。どうやらコレが、この男の仕事服らしい。
ただ、服装と持ち物が全然合っていない。ついでに顔にも。もう完全に痛いコスプレイヤーにしか見えない。
「そうですわね。わたくし達の答えは出ていてよ」
「おぉっ！ 西薗のとこの彩乃お嬢さんやん！ つー事は、ボクの玩具になる決心が出来たっちゅー事やな？」
相も変わらず生理的嫌悪感に溢れた言葉に、私は言葉も出ない。
早くNOIRでコーヒーが飲みたいけど、その前に敗けたらどうしよう…………って、また思考が引きずられてる。やっぱりこの男の前では短期決戦以外はあり得ない。引き伸ばせば引き伸ばす程私達が不利になる。
だから、私は早々に決裂の言葉を叩きつけてやった。
「アンタ、ホントに超ド級のバカね。そんな訳無いじゃない。私達はアンタの邪魔をしに来たのよ。この先に在るものを護る為。そして、時間稼ぎの為のね」
だけど、そんな事はこのクズにも予想出来ていた事だろう。
予想通りといった表情を見せ、錫杖の鋒を私達に向ける。
「そうかいな。折角チャンスやったのになぁ。これでお前ら二人ともボクの玩具行き確定や。特に彩乃はボクの仕事に茶々入れてくれた件も併せて対策院からも消えてもらおか。まあ、精々可愛がったるから、覚悟しとき」
「上等じゃない。今回は。今度ばかりはアンタの好きなようにはさせないんだから！」
頭の中を駆け巡る雑念とネガティブシンキングを振り払って、北神宗次を睨み付ける。
同時、北神宗次が私目掛けて駆け出した。
そしてあっという間に間を詰めると、私の頭目掛けて錫杖をフルスイングしてきた。
怖っ！
霊術云々の問題じゃなくて、本当に殺しに来てるじゃない！
だけど、私もこの2週間、毎日限界まで戦闘訓練していたのだ。この程度のスピードであれば、充分躱せる。
私は身を低くして錫杖を躱し、反撃に出る。
ここで一哉兄ぃであれば、カウンターのキックとか入れるんだろうけど、残念ながら私は凡人かつ非力なので別の手段を遣う。
私はゴシックドレスの袖に隠し持っていた呪符を霊術で飛ばして北神宗次に貼り付ける。
私が今使ったのは「爆符」という呪符で、名前の割りに威力に乏しい護身用のお手軽霊具――法具の劣化版の事――だ。怪魔にはほとんど効果は無いけれど、人を怯ませる位の威力はある。
実際。
「うわっ！ 熱っ？！」
極小の爆発に驚いた北神宗次は私から距離を取った。
「何やねん。お前、何時からこんな戦えるようなってん。立ち回り方が鬼闘師のソレやんけ。だいたい、ボクの『侵慮の音』も効き目薄いみたいやし。何したんや」
北神宗次は努めてニヤケ顔を作っていて、その感情は全く読み取れない。だけど、多少なりとも困惑ぐらいはしている筈だ。自分よりも遥かに下のレベルの人間に自分の術を対策され、反撃されたとなれば、戸惑いも生まれるだろう。
「さあ、どうかしらね。そもそも、何かしていたとして、アンタに教える義理なんて無いわよ」
私の挑発にも北神宗次は顔色を変えることは無い。
実際のところ、私にこのグズの術の効き目が薄いのは、後ろで傍観を決め込んでいる様に見せかけた西薗彩乃のアシストのお陰だ。音で霊術をかけるということは、風で音を散らせば良い。そう考えた彼女の霊術で風の壁を作ってもらっている。
もっとも、完全に散らせてしまうと今度は何も聞こえなくなってしまうからこそ、多少なりとも影響が出てしまっているのだけれど。
「ふぅん…………言うようになったやないか、咲良。やけど。コイツなら…………どうや……っ！」
北神宗次は何やら小声で言霊の詠唱を始める。
だが、風に声を散らされて言霊が聞こえず、霊術の種類が判別できない。これは完全に対策が裏目に出た。お陰で次の手が読めなくて対策が立てられない。
だけど、迷っている暇は無いのよ。
ここは一か八かの賭けに出るしかない！
「そおっらっ！」
「っ……！ 『反呪の舞』――――っ！！」
北神宗次が繰り出して来たのは錫杖の突き。
かなりのスピードではあったけど、これも躱すのに問題は無い。
だけど問題はここからだった。
「――――残念やったな」
すれ違いざま、北神宗次がニヤリと嗤う。
私は今の一突きに何らかの霊術を載せて打ってくると呼んでいた。
そこに、対象範囲内に放たれた霊的現象――――今の場面で言えば霊術をそのまま術者に返す霊術を叩きこんで、カウンターとする筈だった。
だけど、実際には突きはタダのブラフで。
私は反撃の一手を全く意味の無いシーンで使ってしまった事となる。
ストックの手を用意できていなかった私は、今完全に無防備で。
私の額に北神宗次の人差し指が触れる。
「これでチェックメイトや。遅延起動『悔顧の念』」
「――――――？！？！？！ あああぁぁぁぁああっ！！」
霊術が発動した瞬間、私は身を裂かれそうな程の恐怖心に見舞われる。
「いやあああぁぁぁ！ やめてぇっ！ あああああぁぁぁぁっ！！」
「咲良？！」
突然襲った恐怖心に、私はパニックに陥った。
私の脳裏を駆け巡るのは、悔やんでも悔やみきれない過去の罪、自分が自分で無くなってしまいそうな瞬間、そして耐えがたき別離の日々。元々北神宗次の霊術の影響でマイナス思考に思考誘導されているせいで思い出したくも無い記憶がより悪い記憶として蘇る。
2年前のあの日の家族の死に顔、怨嗟の声、そして悲しみが。
北神宗次にこの身を穢されそうになったあの瞬間、あの気持ちの悪い手の感触、耐え難き嫌悪感が。
大切な人と離れ離れになって過ごしたあの日々が。
怒涛の津波となって私を呑み込む。
「あああ…………ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………っ！！」
「咲良！！ 気をしっかり持つのですわ！！」
私に駆け寄る西薗彩乃の気配には気が付くけれど、自分の中の恐怖心に自らが引き裂かれない様に耐えるのに精一杯で、気を割く様な余裕が無い。
今の私は頭を抱えて蹲る事しかできる事が無い。
「ハハハ。ボクに盾突くからや。ホンマに愚かやなあ、咲良」
「貴方、よくも咲良を…………っ！」
「お、やる気か彩乃？ 鬼闘師であるお前がボクに手出した瞬間、お前は終わりや。咲良はお前を連れ帰ってもらう為のバックアップ要員かなんかでお前の事呼んだんやろうけど――――。全部無駄や。ボクがお前ら逃がすわけないやろ」
「っ…………！ 最低ですわね、北神宗次――――！！」
「何とでも言えや。別に何とも思わんし、好きに喚いとれ」
「…………っ！ 咲良……っ！ 咲良ッ！！」
珍しく本気で焦る西薗彩乃の声が聞こえた時。
私の涙で曇る視界に、ある物が映る。
『俺もお前とは昔みたいに戻りたいと思っててな。だから、5年前の詫び、というには些かちっぽけだが、プレゼントさせてくれ。お前の名前の通り、桜をモチーフにしたペンダント』
それは少し前に、私の大好きな人から貰った唯一のプレゼント。
私は視界に入った輝く桜をモチーフにしたペンダントを必死に掴み、かつて貰った言葉と共にギュッと握りしめた。私の、誰よりも大切な幼馴染みから貰った言葉とプレゼント。
『僕だって咲良さんの力になりたいって気持ちだけは本当ですよ。まあ、僕の場合は護ってもらう立場な上に、何の役にも立たないですけど。それでも怖いんだったら、咲良さんの大切な人の事、思い出してみてください。次に会ったら何しようとか、何を話そうとかそういう事考えましょ』
そして次に蘇ったのは店主さんに貰ったあの言葉。
私には、私の事を大切に想ってくれる人がいる。
それは一哉兄ぃだけじゃない。店主さんだって。そして他にも――――
「咲良、落ち着いて！ 落ち着くのですわ！！」
西薗彩乃だってそうだ。
ずっと私が嫌っていたこのお嬢様だって。
あぁ、そうか。
私は愛されていた。愛されてもいいんだ。
そう思った途端、恐怖で凍り付いた私の心に再び明かりが灯る。
「無駄や。ボクの『悔顧の念』を受けたら――――」
「……黙れ…………っ！」
私は北神宗次の言葉に喰らいついた。
「はぁ？ 何言うてんねや。過去の後悔に引きずられて這いつくばるしか出来んクセに」
「黙れ……って…………言ってんのよ！！」
私の中の恐怖心は微塵も減ってはいない。
今だって過去の記憶に、過去の後悔に苛まれ、許されるのであれば泣いて喚き、倒れ伏したい。
だけど今の私にはそれだけじゃなかった。
今の私には、光が、希望がある――――！！
「確かに私は昔から変わらず愚かかもしれない…………！！ 自分の感情にも、人の感情にも左右されて、割切りも決断も出来ない事だってまだまだある……。だけどそれの何が悪いのよ！！」
「なんやて？」
「私は私の好きな人の為に……何かをしたい……っ！ 好きな人の為に何かをできる人間でいたい…………！！ そして！ 私の事を好きでいてくれる誰かの為にッ！！ それがきっと、人の希望になると信じて！」
「希望やと？！ そんなもんでこの差が覆せるんやったらなぁ！！ やってみいや！ どうせ無理やけどなぁ！！！！」
私の耳に北神宗次の嘲笑が入ってくる。
人の神経を逆撫でし、人の心を嘲笑う声が。
でも、今の私はもう屈しない。
私は私の恐怖の根源を、希望の本質を理解したのだから――――っ！
「私の希望も恐怖も。もとを質して行けば……全て繋がっているのだとしたら、その先にはいつだって一哉兄ぃがいる。私は出来ればずっと彼の傍に居たい。だから、あの人を喪うのが何より恐ろしい。心の底ではずっと信じられなかった。私に向けられる好意を。私は私だけの力で彼を繋ぎ止めておかなきゃいけない、強くならなきゃいけないって、そう思ってた」
「咲良…………」
後ろの西薗彩乃が心配そうな声で私の名を呼ぶ。
でもそれは杞憂だ。
今の私はそうは思ってない。みんなのお陰で。
そしてそれにはこの女だって含まれている。
「でもそうじゃない。私のこんな勝手な願いでも、誰かに頼っても良かったのよ。私に向けられる好意を信じても良かったのよ」
そう。
私はもう信じられる。頼ってもいい、誰かに弱音を吐いてもいいんだって。私が希望を捨てない限り。
「だから私は負けない……！ 誰も信じられないアンタには負けない！ 私には、力を貸してくれる人がいるから！ 私はもう一人じゃないから！ そしていつだって、彼の事を想っているからッ！！ アンタだけには負けるわけにいかないのよ！！」
私は心の中で彼の事を強く想う。
天才のクセに鈍感で、しっかりしてる様でいつもその心がフラフラしている、愛しい彼の事を。
「起動――――！！『滅魔の陣』！」
術の起動後、霊術の影響から解放された私の脳裏から、走り続ける悪夢が消え去る。
『滅魔の陣』は効果範囲内の霊的現象を無効化する結界術。
効果が似ている『除魔の舞』に比べて起動条件が緩い代わりに、位置を動かせないなど制約も多い術。しかも、効果範囲内に自分が居るのだから、続けて霊術を放つには、結界を解除しなくてはならない。
でも、私が動けないと嘗めきっているあの変態を出し抜くには、この瞬間だけが有れば良い――――！
「なんやて？！ あの状態で『滅魔の陣』やと…………ッ？！」
「さっさとくたばりなさい、この変態！ 遅延起動『風槍閃』――――っ！」
私は北神宗次目掛けて、鬼闘師の霊術を放った。
真空の槍で命中箇所を抉る霊術を。
「…………ッ！」
まさか私が鬼闘師の霊術を遣うなんて思いもしなかったのだろう。全く無反応のまま、北神宗次は動く事すら出来なかった。
結果、私の霊術『風槍閃』は北神宗次の錫杖に見事命中。
その先端部分を粉々に砕き散らせた。
「やりましたわ、咲良！」
結果、北神宗次がかけていた精神干渉系の霊術の影響が消滅。
身体が軽くなるのを感じた。
法具を失った以上、この男に出来ることは無い。
後は店主さんの探し人の、アイリという人の到着まで、この男を拘束しておけば良い。
その後NOIRの処遇は、神童特級が対策院と再交渉してくれる事になっている。彼曰く、危険性が無くなった事を証明すれば、対策院も要観察処分で留めるだろうとの事だ。
こうしてNOIRを巡る一件は静かに幕を閉じようとしている。
筈だった。
「へぇ…………やるやんか。この短期間でボクの『侵慮の音』に対応してくるなんて」
北神宗次は自分の法具が破壊されたというのに、全く気にする素振りも見せずにいる。それどころか、たった今破壊された錫杖の残骸を投げ捨て、丸腰になったのだ。
「何のつもりですの？」
私の後ろで静観していた西薗彩乃が私の隣に立って問う。
私も私で気になってはいたけど。でも、精神干渉を防ぐためには、動揺している場合じゃない。
一方、北神宗次は自らの着物の懐に手を入れ、一枚の板を取り出した。それは鈍い黄土色に輝く掌サイズの金属の板で、禍々しい陰の気を放っていた。
「アイツには感謝やなぁ。コイツのお陰で、ボクは祈祷師としてまた一段、高い位置に昇ることができた。ただ――――」
北神宗次の眼が危険な光を灯している。
愉悦と快楽に歪みきった顔を私達二人に向けている。
直感的に感じる。
もはや伊達や酔狂ではない。この男は危険だ！
「コイツ見たからには、タダで帰れると思いなやぉ？」
北神宗次は金属板を高く掲げた。
刹那、金属板が禍々しい光を放ち、周囲に立ち込める陰の気が膨れ上がり、一帯を包み込む。
これは――――
「来いぃっ！！ 【三頭餓鬼狼(ケルベロス)】っ！！」
突如、暗闇から三つ首の獣が四方八方から姿を表す。
私は見覚えのあるその化け物――――怪魔を見て、思わず叫んでいた。それは1ヶ月前、私を襲った誰かが造り出した怪魔で。
「なんでアンタが人造怪魔を――――っ？！」
「咲良、さがりなさい！！」
気がついたときには、もう私の目の前まで怪魔の醜悪な口が迫っていて――――
『ギヤアアアアアアアァァァァッッッッッッ――ッ！！！！』
「――――っ？！」
「な、何や？！」
私の目前で、怪魔はおぞましい絶叫を上げながら火だるまになって吹き飛んだ。
何が起こったのか。この場にいる3人全員が混乱している中、唐突にその声は響いた。
「いや〜、言われてしゃあないから来てみたら、とんでもない事なっとるやん。これは見逃せんなぁ。なぁ？ 北神はん」
参道をゆっくりと歩く、黒いTシャツにジーパンの男。
加島特級がいつの間にか現れていた。