※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第1話)
僕はポケットに片手を突っ込んで、ちょっとくしゃっとなった煙草の箱の中を調べる。どうしようもないことに、あと4本しか残って無かった。お金もないことだし、そろそろ人生で初めての禁煙って行為を始めてみるべきかもしれないな、と思いつつ、僕はマッチを擦って4本のうちの1本に火をつける。煙を深く吸い込んで、細くて白い1本の筋にして口から出す。煙は上に立ち上って、やがて透き通るような青い空に吸い込まれて消えていった。僕は煙が登っていく、空への道筋を眺める。その先には、青空に浮かぶ帝国製の飛空艇が何機か見えて、僕は目を背けて路地裏に目を向けた。特に見慣れたくもないけど、見慣れたものになってしまった、有刺鉄線付きの高いフェンスが視界に入る。やれやれ。どこに目を向けても、自由なんて概念は、帝国「様」のスローガンやらご大層な演説の中でしか見られない、貴重な概念になっているみたいだった。
僕はささやかなバイトで得た、本当にささやかな稼ぎをポケットに仕舞って、久しぶりに地下街の方に何かまともなものを食べに行こうかと考える。地上の方は、このベドウィンに元から住んでいた人たちが大手を振って歩けるような状態じゃなかったし、酒場や料理屋にも、帝国兵が山ほどいた。露骨で直接的な暴力や差別があるわけではなかったけど、見ていて気持ちの良い光景じゃなかった。まるで、柔らかい綿で出来た縄で、ゆっくりと首元を締め付けられているかのようで。
僕は地下のダウンタウンへの階段を降りる。喧騒と、香辛料と、熱気に包まれた地下。僕は黒い布で出来たシャツと膝くらいまでのズボンを履いていたけど、もうここの匂いが洗っても取れないくらいに染み付いている。良いことなのか、悪いことなのかはわからない。 人混みの間を縫うように潜り抜けて、僕は路地の一角の、こじんまりとした、あまり綺麗じゃないいつもの酒場に入る。 僕は未成年だったけど、ここでそんなことを気にしたり、注意したりする余裕のある人は誰もいなかった。というより、そもそもそんな些細なことに、みんな興味がないだけなのかもしれない。
僕は黒ビールの瓶を一本と、パプリカと白身魚の切り身を酢につけた冷たい一皿を棚から選び取って、カウンターでお金を払う。やけに軋む椅子に座って。ちょっとベタっとしてるテーブルにビールと食べ物を並べて、僕は黒ビールをひと口飲んでから、煙草に火をつける。悪くない気分だった。煙草の火が指につきそうなくらい短くなるまで擦ってから、僕はビールをもう一口飲んで口の中を洗って、それから料理に手をつけようとしたところで、後ろから肩を叩かれた。
ー煙草。
ん?
聴き慣れた声だった。
ー煙草。 やめるって言ったわよね、レイ。
やれやれ。フィアは相変わらず、働いてる小料理屋のエプロンを着て、白い唾付きの帽子をかぶったままで、僕の横に腰を下ろして、灰皿がわりの缶の中に落ちていた小さな煙草を指さした。本当に、やれやれだ。
やめるとは言ったけど、それが今日、それも今この時ってことは、僕は明言してない。 君は吸わないから分からないだろうけど、仕事の後の一服って、ある意味人間としての存在の根底に関わるかもしれないくらいに大切なことなんだ。 いる?
僕は彼女に煙草を1本差し出そうとしたけど、根本から折られそうだったのでやめておいた。
ー...仕事仕事って、要するに盗みでしょ。 ...いつか捕まってひどい目に遭うわよ。
でも、帝国の奴らからしか盗ってないつもりなんだけどな。
ーそういう問題じゃないの。 レイ。 犯罪よ、あなたのやってること。
僕は黙ってビールをもう一口飲む。黒くて、濃厚で、それに苦い。 もう何回も繰り返された会話だったし、フィアは毎回僕を咎めて、止めようとする。僕はそれに従わない。そういうささやかな食い違いのいたちごっこだった。
ねえ、フィア。
僕は魚のマリネの入った皿を彼女の方に勧めながら、勤めて冷静に話そうとする。
君の言ってることが基本的に正しいんだってことは、よくわかるよ。 僕のやってることは犯罪。オーケー、それは認めることにする。 でも、だからといって、それはあいつらから盗むことを止める理由にはならないな。...こっちは、何もかも、あいつらのせいで失ってるわけだから。 あいつらが多少失っても、釣り合いが取れてるとは思えないね。
ー...間違ってるとか、正しいとか、そういうことを言いたいんじゃないの。 危険だからやめてほしい、ってことを言いたいの。 ...レイ、あなたのお姉さんは、今のあなたを見て、どう思うかしら。
...どうとも思わないだろ。 仮になんかを思ってても、売国奴の気持ちなんてわかりたくもないね。 じゃあなんだ、国を棄てて帝国のお犬様になって、優しく飼ってもらえるほどの才覚も無し、君みたいに真面目に汗水垂らして働いて、ただひたすら搾取されて日銭を稼ぐのがやっとの暮らしに耐え忍ぶ根気も無し、ないない尽くしの僕はどうすれば良いんだ? 帝国兵相手に股でも開いといたら良い? 僕は確かに男みたいな体型と髪型だけど、それでも突っ込みたいって言う変態がいることを祈りながら?
自分でも、言ってて情けなくなる八つ当たりだった。フィアは悲しそうな目で、静かに僕の当たり散らしを聞いていたけど、やがてそっと目を伏せて、沈黙が訪れた。
......ごめん。 言い過ぎた。
僕は謝って、微かに泡の跡が残ったビール瓶の口に目を落とした。
ー......わたしは慣れてるけど、そういうこと、口に出したら悲しむ人もいると思うわ。...それにね、レイ。 ...貴方と私のお父さんも、お母さんも...戦争で死んだ人たちも...いなくなった人たちは、もう、戻ってこないのよ。
...そうだね。 ごめん。
フィアは黙って、今月の生活費よ、もう盗みは辞めて、ちゃんと生きて。そう言って、硬貨のつまった麻の袋を僕の膝に置いて、それから店を出て行った。
膝に乗せられたお金の袋は、ずっしりと重くて、僕はそれだけで潰れちゃいそうだった。
************************
僕はフィアから貰ったお金を家の戸棚に隠して、それから鍵をかける。
それから僕は、またさっきの店に戻って、盗んだ金でありったけのお酒と、ナンと、それから黄色い人参を混ぜたピラフを買った。食べ物をお腹の中に入れてから、とにかくひたすら僕はお酒を飲んだ。ビールの空き瓶が目の前に8本くらい転がっていて、それから安くてやたらと強いウォッカを3本買う。氷を口の中に入れて、グラスに注がないで、瓶から直にウォッカを飲んだ。 酔って、気分が悪くなって、僕は店を出て浮浪者が集まる路地裏で吐いた。吐いてからまた店に戻って、ウォッカの続きを飲んだ。 それはどうしようもない自傷行為のようなものだったし、人間のクズのやることだった。...つまり、僕にお似合いの行為だった。
やがて酒場は夜の賑わいを見せてきて、訳の分からない粗雑な帝国風の紋章を模擬した派手な飾りをつけた服で着飾った女たちが、誰彼構わず男と踊る。彼らは踊り狂って、キスをして、そしてやがて店から出て行って、代わりの人間がすぐに追加される。みんなどうして、帝国の服なんかに憧れるんだろう。みんな、同じベドウィンに住んでいる国民のはずなのに。僕にはそれが理解できない。
何人かの男が僕が酒を飲んでいる隅のテーブルに近づいてきて、ざらざらした紙で巻かれた手巻きの煙草のようなものを勧める。 クスリだった。 僕は帝国のやつから盗んだ金で、そいつらの薬を全部買ってやる。そいつらは何かよく分からない歓声のような声を上げて、ひとしきり僕を褒め称えて、指さして、そして店から出て行った。僕は残った金全部をビールとウォッカに変えて、席に戻って続きのウォッカを飲み続ける。魔法を使うのは嫌だったし、散々に酔っ払ってたから暴発したら何が起こるか分からなかったけど、それでも僕は火の魔法を唱えて、買ったクスリを全部燃やした。わざわざマッチを使う気がしなかったからだ。久しぶりの魔法でつくった火は、木のテーブルの上で静かに踊るように小さく揺らめきながら、18本のクスリの紙巻だけを綺麗に燃やして、灰にしていった。 その香を嗅いでいるうちに、僕はどうしてだか、涙を流していた。
ウォッカの酔いと、クスリの少し青臭い香りが混じって、僕の視界が歪む。
僕は歪みを消すために、ウォッカをやめて冷えたビールを飲む。でも、どれだけ飲んでも、何もかもがぐにゃぐにゃに歪んでいって、そして溶けて行った。僕にはそれを止めることができなかった。 溶けた世界の中で、誰かが僕を見つめている。肩まで届くぐらいに長い髪の毛で、白いワンピースを着た、どことなく気の弱そうな女の子。彼女は何かから隠れるように、あるいは、誰かに縋って守ってもらおうとするかのように、もう1人の女の人の足元に隠れている。隠れながら、僕を静かに見つめている。それは子供の頃の僕だった。魔法を学んで、強くなる前の、弱かった頃の僕。僕は椅子に座ったままで、彼女がすがりついている、もう1人の女の人の顔を見上げる。綺麗な長い髪の、すらっとした女の人だった。
......姉さん。
僕は静かに呟いて、ウォッカを多めに口に含む。 僕の視界の歪みはますますひどくなるばかりだったけど、僕の目の前の姉さんと、小さな僕の姿だけは、少し薄いけどはっきりした姿のまま、僕を見続けていた。
...何だよ。 何が言いたいんだよ。
2人は、何も言わなかった。 僕はウォッカをもっと飲んで、椅子から立ち上がろうとして、そして足が絡まって倒れた。 倒れて床を見る僕の視界の端に、そっと細い手が差し出される。姉さんの、白い手だった。
やめてくれ、僕は1人で立てる、あんたの助けなんて...
僕は足に力を入れて、テーブルに寄りかかるようにして立ち上がって、それからバランスを崩してテーブルごとまた倒れた。 ビールの空き瓶と、さっきまで飲んでいたウォッカが瓶から流れ出て、僕の髪の毛を濡らした。
...あんたの.....国を売ったあんたの助けなんて......僕は.............
ーでも、あなたはわかっているの。
それは、姉さんの声じゃなかった。
幼い頃の、僕自身の声だった。
ー本当は、わかっているの。
......何がだよ。 何が、分かってるって言うんだよ。
ーお姉ちゃんが、帝国軍の魔導隊の部隊長になった、理由。
わかる訳ないだろ、あいつは国を売ったんだ!!
目の前の僕を、今すぐに黙らせたかった。僕はやたら滅多に魔法を唱え続けて、ふらつく足で幼い僕の方に歩いていこうとする。 僕の唱えた魔法は、自分でもびっくりするくらいに正確で、炎も、激しい紫色の雷も、雹の塊も、何も彼もがごっちゃになって、それでも正確に幼い僕と姉さんの体を射抜いた。でも、2人は消えようとしない。 僕は飛びかかって、幼い僕を押さえつけようとしたけど、僕が床に倒れただけだった。
ー分かっているの。 全部、理解しているの。 降伏を拒んで、帝国に降ることを拒否して戦い続けても、見えるのは暗い闇だけだったの。明かりのない夜みたいに、長くて、暗い闇。 姉さんは、わたしたちを守るために、自分の何もかもを喪って、それでも降伏に従ったの。あなたはそれを分かっている、わたしもそれを分かっている。
......ふざけるな.........ふざけるな..................
ー今も酷い暮らしだけど、それさえも、姉さん達の屈辱と犠牲のもとに成り立ってるの。
.......違う........姉さん達が、最後まで、帝国と、戦ってたら..........
ーこの国も、そこに住む人も、あなたも、フィアも、全部が無くなってたね。
...........勝てた、かも、しれない..........
ーそんなことは起こり得なかったの。 あなたは.......
ー私を憎んで、憎んで。
姉さんが、言葉を引き継ぐ。
ー幼なじみに、当たり散らして。 盗んで、酒とクスリに溺れて。
姉さんの姿は、いつの間にかフィアの悲しそうな、怒っているような顔に変わっている。
ーそうすることでしか、自分を慰められないの。
やめろ.....やめて........やめて..........
ーそうすることでしか、自分が自分であることを、保てないの。
みんなが、僕を取り囲んでいる。
でも、誰も僕を責めたりしない。 事実だけを、話している。
怒って欲しかった。 頬を叩かれて、詰って、僕のやってることを否定して欲しかった。
でも、誰もそうしてくれなかった。
みんなは、静かに僕を見下ろしているだけだった。
************************
僕は魔法学校に入ってから、ずっとずっと勉強して、早く姉さんの隣に立てるようになりたかった。 姉さんは、僕の1番の憧れだったし、大切な人だった。 父も母も、その昔に、帝国との小さな戦争で早くに死んで、親戚もいなかった僕を、姉さんは大事に育ててくれた。自分の、遊びたい年齢だっただろうに。...そんなことしてるから、お見合いがあるまでロクに恋愛もできなかったんだ。 僕はそれを、半ば揶揄いながら、本心では感謝を込めて、よく姉さんに話した。
姉さんは、ベドウィン国軍の中でも、飛び抜けて優秀な魔導師だった。
帝国との間で戦争が起こったときも、姉さんは前線で戦っていた。 僕はそれが誇らしかったし、でも、とても心配だった。 いつ誰がいなくなっても、おかしくないような時が何年も続いた。僕は夕方まで学校で魔法の腕を磨いて、夜にはフィアの家で、姉さんの無事を祈った。よく手紙を書いて、姉さんに届けてもらうように軍の郵送窓口にお願いした。それが届いたか、それとも届かなかったかは、今でもよく分からない。
やがて、暗い戦争は終わった。 ベドウィンは、帝国にほぼ無条件に近い形で降伏して、王都に帝国兵が駐在するようになった、そんな時だった。
姉さんが、帝国の魔導隊の、その分隊司令官の1人として、この王都に姿を見せたのは。
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僕の視界の端で、たくさんの人が大騒ぎしてる。 何か、鎧のような硬いもので身を包んだような手が、後ろから僕を羽交い締めにしている。 まだまだ僕の頭はグラグラしたけど、いくつかの細い黒い筒のようなものの先端が、僕に向けられているのがわかる。
強い煙の匂いを感じて、僕はぎしぎし痛む首を何とか傾けて、その出所を見てみる。 僕がお酒を飲んでいたはずの店が火で包まれて、そこから立ち上った煙と火の手が、ダウンタウンの中に広がっていた。 何人かの魔導師が、水を呼び出して火を沈めようと頑張っているけど、結構厳しそうだった。 ...つまりそれが、僕のやったことみたいだった。
ーやめてください!! お願いです、お願いですから...レイは、私がちゃんとさせますから...
誰かが、僕のことを話している。 叫ぶような、必死に何かを訴えるような、そんな悲痛な声だった。 .......僕のために、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
ーお願いです.......レイは、ちょっと今おかしくなってただけで、本当は、優しくて頭のいい子なんです、ダウンタウンが燃えたぶんのお金は、必ず、何年かかっても私が働いて返しますから、レイを、連れて行かないでください......
フィアは、少し色あせたブロンドの髪の毛が、ほとんど地面につきそうになるくらいに深く頭を下げている。 フィアに頭を下げられている帝国兵は、彼女の訴えを聞いているのか、聞いていないのか、よく分からなかった。 でも、彼が左手をそっと上げると、僕の両腕を羽交い締めにしていた帝国兵が歩いて行って、僕をダウンタウンから連れ出そうとした。
ーやめて、お願いします、何でもしますから....お願いですから...レイを........
フィアの叫ぶような涙まじりの声だけが、僕の後ろから響いた。
......お願いだから、僕のために、そこまでしないで欲しい。 僕はただのクズで、君は、ちゃんと立派に生きてるんだ。 ...いつまでもズルズルと落ちていくばっかりの僕を、もう、見ないで欲しい。
そう言いたかったけど、アルコールで焼けつくようにヒリヒリする僕の喉は、あまりうまく言葉を発してくれなかった。
ダウンタウンから連れ出された僕を出迎えたのは、たくさんの人の罵声の嵐と、それから石とか、果物とか、いろんなものが僕に向かって飛んできた。僕にあたるものもあったし、当たらないものもある。 帝国兵が「銃」と呼ばれる武器を何度か空に向けて撃って、それで群衆を黙らせる。彼らはベドウィンの市民だった。みんなが、僕に怒りを向けている。
ー悪魔め。
ー悪魔め！
ー国を売った女の妹だ。
ー売国奴の血だ！
ーお前達は、まだ俺たちを苦しめるつもりなのか！
ーそうよ、どこまでやったら気が済むの、この悪魔！
ー売国奴の妹め！
ーお前も売国奴だ！
ー裏切り者！裏切り者！！
ー殺せ、そいつを殺してくれ、帝国の兵隊さん！！
ーこれ以上...私達の済む国を、そいつが傷つける前に！
ーその悪魔を、殺してくれ！！！
........
彼らの怒りは、僕だけに向けられていた。
....どうしてだよ。
僕は小さく呟く。 みんなには聞こえないように、小さく、とても小さく。
.......悪いのは、全部、こいつらなんだ.....
そうだ。 悪いのは、帝国の奴らなんだ。 こいつらが国を侵略して、ぜんぶを...父さんも、母さんも、......姉さんも、奪って行ったのに........
....どうして、僕だけが責められるんだよ!!!!!
気がついた時には、僕は叫んでいた。
叫んで、暴れようとした。 でも、それはできなかった。 僕はそのまま、小さな乗り物の荷台に乗せられて、頭にずしんとした衝撃が走って、僕の意識は暗い闇の中に落ちて行った。
************************
レイ・オーデルというベドウィン人の少女が、このアルジーン収容所に連行されてから、もう2週間以上が経つ。...元・ベドウィン魔法学校の主席。 16歳。 学科の成績はほとんど全部トップでパスだけど、怪我の回復とか、病気の治療とかの魔法は苦手で、ギリギリ合格点が取れるか取れないかのレベル。 ムラっ気はあるけど、間違いなく頭の良さも、魔法使いとしても最高の評価。 ...そして、あのティア・オーデル司令官の、実の妹。
...そんな子がグレて荒んで、盗みと恐喝を繰り返して、挙げ句の果てにダウンタウンの放火。死者は何とか出なかったけど、重傷者14名、軽傷者38名。 ...どうしようもないわね。
私は書類の束を見るのを諦めて、兵士さんが注いでくれた紅茶を一口飲む。 帝国産の上等な茶葉を断って、私はベドウィンで採れた紅茶ばかり飲んでいた。紛いなりにも進駐軍司令官の1人として派遣されてきたからには、その国になじむ努力をしなければならない。...ご飯は結構脂っぽくて、香辛料の強い匂いはどちらかというと苦手だったけど、それも自分に課せられた任務の一環なのだ。
ーレイ・オーデルとの面会を申し入れているベドウィン人が今日も来てますが、どうなさいますか。 サーシャ殿下。
兵士の1人が、ノックの後に私の部屋に入ってきて、ささやかな報告をしてくれる。
...「殿下」はやめて。 ねえ、選挙で勝たないと、我が国ではあくまで「候補」の1人でしかないのよ。わかるでしょ?
ーしかし......
五百歩譲って「司令官」、別に呼び捨てでもいいわ。 ...で、囚人068番の面会に来てる人、ですって。もう10日連続よ、いい加減、はっきり分からせないといけないわ。...規則は規則なのよ。魔法を使える重犯罪者に、それも、精神状態が不安定な囚人に、面会を許可するわけにはいかないの。 もう...。
ー...申し訳ございません。
...別に、責めてるわけじゃないわ。 納得できないことって、誰にもあることよ。私が行って、直接話をするわ。
私は兵士の制止を片手で止めて、部屋を後にする。 ...全く。本当に、どうしようもないことだ。 ......まだ未来のある若い子を、こんな非行と犯罪に走らせてしまうくらいに、祖国の統治が杜撰で、不満のたまるものだということだ。 ...ティア・オーデルを魔導隊の司令官に任命させ、これ見よがしにベドウィン王都に進駐させたのも、あまりに残酷に過ぎることだ。
...今の帝国は、何かがおかしくなっている。
無闇にも見える、侵略による領土の拡大。過剰な軍備の増強。 ...このままじゃ、南のオルタマイアと戦争に突入するのも、時間の問題のように思える。
考えは巡れど、そのモヤモヤを解消する手段は、私にはまだ分からなかった。
とにかく今は、自分にできることを地道に、確実にやるしかなかった。
068番...レイ・オーデルの面会に来ているという人と、私は面談室の一つで会った。驚いたことに...いや、よく考えると、それは自然なことであるのかもしれない...面会人は、私とそれほど特に歳の離れていない少女だった。 レイ・オーデルとも、多分同い年か、1つ2つ上なだけだと思う。 私は陶器のポットから、熱いお茶を注いで、彼女に手渡した。
ー......ありがとうございます。
そう固くならないで。 レイ・オーデルの面会に来たんでしょう。 ...10日間も、門前払いばっかりしてごめんなさいね。 話を聞くべきだった。
ー...あの、レイとの面会は......
私は熱くてスッキリしたお茶を一口飲んで、彼女の問いに答える。残念だけど、いい返答はできなかったけど。
あなたがレイ・オーデルと面会することは、本当に残念だけど、できないわ。 ...彼女は紛れもない犯罪者だし、これから裁判が予定されてる。
ー......裁判なんて......お願いです、レイは確かに、間違ったことをしました...わたしが、ちゃんとレイと真剣に向き合って話さなかったせいです、あの子は.....
まず、あなたのことを教えて。 ...知り合いなの?
私は彼女の話を遮って、傍の青い陶器の皿に盛られていた、乾燥果物を勧める。メロンとか、ザクロを干したもので、この国ではお茶の合間によくつまむらしい。
彼女は干しメロンを一口齧ってくれて、自分はフィアという名前だと言った。
ー...レイは、幼馴染みなんです。レイも、ティアさんも、生まれた時から親のいない私を、本当の家族みたいに接してくれました。 ...レイは頑張り屋で、とてもよく勉強して、入ることさえ滅多にできない魔法学校でも、とっても優秀だったんです。 ...でも、ティアさんが...その、貴国の司令官に就任して、王都に戻ってきて以来、あの子は...だんだん荒んでいくようになりました。 ...きっと、耐えられなかったんだと思います。 ティアさんは、あの子の一番尊敬する、憧れの人でしたから...。 それで、私にもあんまり話してくれなくなって、家にも帰ってこなくなって...1年以上、そんな感じになっちゃって.......
......ティア司令官の件は、帝国の失政よ。 私から謝るわ。 これ見よがしの、長期的に誰の得にもならない、醜悪なパフォーマンス。 レイ・オーデルがティア司令官の妹だということは知ってるわ。 ...彼女が今こうしてここに繋がれているのも、あるいは私たちのせいなのかもしれない...多分、きっとそうね。 でも、面会は認められません。 ...伝言なら、私から伝える。
私がキッパリそう言うと、フィアさんは打ちひしがれたような顔で、小さな掠れる声で私に訪ねてきた。その涙で濡れた疲れ切った眼を見て、私はいたたまれなくなった。
ー.......レイは、裁判で、どうなるんでしょうか。
..........良くて無期懲役。 死刑も有り得るでしょうね。犯罪は犯罪だし、彼女がそれを犯したという明確な事実もある、本人の意識がお酒とドラッグで混濁していたとしても、怒ってしまった事実は変わらない。 ...償いが必要よ。
目の前の彼女の顔がますます曇っていき、やがて曇り空から微かな雨が降るように、小さな涙がその頬を濡らす光景を見ていると、自分の言っていることが本当に正しいことなのか、自信が持てなくなる。 けれど、私の言ったことはどこまでも正しい事実なのだ。 自分で自信が持てなくとも、それを否定した時から、人は人として生きる統制と規範を失うことになるのだから。
...自由という概念は、義務という礎の上にしか成り立たないことなのだ。
私は顔を両手に埋めて静かに泣くフィアの肩に、そっと手を置いた。
...ごめんなさい。 彼女がこんなことになっている原因の一端が、私たち帝国の統治にあるということは理解するわ。
何とかしてあげたいと、私は心からそう思う。...そして一応、「提案」だけはしてみることに心の中で決める。 多分きっとそれは、レイ・オーデルには受け入れがたいことだろうし、フィアにまやかしの希望を持たせるのも良くないと思った。だから私は、その提案のことは口に出さずに、フィアの肩に手を置いたまま、もう1杯熱いお茶を飲むように勧めた。
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...新しい家という意味では全然良くなかったけど、自分が何をしたかを思い返して、自省を試みるという意味では、多分ここはこれ以上ないくらい極上の住処だった。 僕が5人くらい仰向けになって寝転んだらぎゅうぎゅう詰めになるくらいには狭い独房だったし、端っこに据え付けられたトイレと簡易的なベッド以外に、これと言って心の慰めになるものもなかった。僕はただ、ベッドに腰掛けるか、寝転ぶかして、あの時何が起こったのか、自分が何をやったのか、...フィアは今どうしているのか。 僕自身の未来のことはわからなかったし、考えてもしょうがないことだった。 ...一生ここでこのままか、多分死刑だと思う。
僕はそっと、首に嵌められた硬い首輪を指の先でなぞりながら、僕のことを悪魔だと言った人たちのことを考えてみる。彼らはこうも言った。国を売った女の妹だと。
...売国奴は、姉さんのことだ。 ...僕のことじゃない。
口に出してそう言ってみたけど、僕の言葉は誰にも聞き届けてもらえることはなかった。もう何度も、指差されて言われ続けたことだ。今に始まったことじゃない。
......ほっといてくれよ。
クスリもウォッカも体の中から抜けきっているはずだけど、それでも、小さな頃の僕が、今もどこかで僕を見つめているような気がして、僕はそう呟いて床に顔を落とした。
窓がなかったので、朝も夜もわからないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
だから、何日が経ったのか、それともまだ1時間も経ってないのか、僕にはよくわからない。
でも、独房のドアは確かに開いたし、そこに経っていたのは、帝国兵でもなければ、死刑執行人でもなかった。そこにいたのは、多分僕とあまり歳の変わらない女の子だった。とてもきれいな銀色の長い髪の毛の、透き通るように白い顔立ちの子だった。やれやれ。死刑を経ることなく、天使から直接お迎えが来るとは思ってなかった。地獄じゃないのがびっくりだけど。
ー...何、ぽかんとしてるの。
いや別に。 全然思ってなかった形でお迎えが来たから、ちょっとびっくりしてて。
ー...お迎えといえば、お迎えよ。 私はサーシャ・マクラウド。 ベドウィン西部進駐軍の司令官で、貴方に話があって来ました。 ...レイ・オーデル。
その話を聞く前から、どうせ録でもないことだろうとは思った。
もちろんその内容は、やっぱり、ろくでもないことだった。
(第1話終わり)