※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第2話)
僕は自分の座っていたベッドの脇にどいて、サーシャ・マクラウドに一応座るように勧めてみたけど、やっぱり彼女は座らなかった。まあ、帝国の司令官「殿」に敬意を評して、一応そうしてみただけだ。僕としても、隣に座られるのはいい気分じゃなかったし。
ちなみに、そのありがたいお話の前に、煙草あるかな?
僕はそう尋ねてみたけど、彼女はその質問には答えずに、淡々と話し始めた。若干イライラし始めてるような気がしたので、もう少し揶揄ってみたくなったけど、さすがにやめておく。
ー...話というのは、司法取引よ。 レイ・オーデル。 ...いま判明している罪状だけでも、窃盗、恐喝、魔法の不法使用とそれによる傷害、器物と家屋の破損、放火...重傷者も出たわ...ドラッグの売買、それから...未成年での喫煙も追加。
ありがたいことだね。僕1人じゃとても覚えきれないし、説明してくれて感謝する。
ー......裁判は今からの予定だけど、終身刑か死刑は確実ね。
なるほど。スピーディでいいと思う。 僕も特に異論は無いよ。これでも、自分のクズさには飽き飽きしてるし、反省もしてる。
ー.........でも、私が今から話す内容に同意すれば、ここから出ることもできるし、死刑になることもないわ。
努めて感情を抑えて話そうとする彼女は、正直に言って立派だと思った。その思惑はどうであれ、自分の役職と義務に忠実であろうとしているのだ。 帝国の、それもあのマクラウド家の奴じゃなかったら、僕も敬意を評して敬礼でもしたいところだった。 だけど、その2点だけで、僕としては今すぐにでもこいつを殺して、そのあとで死刑になりたかった。 この犬の首輪みたいなもので、僕の魔法が封じられていなかったら、の話だけど。
つまり、僕に、犬になれってこと?
僕がそう言うと、司令官殿は驚いたように眼を大きく見開いて、何か言おうとしていた言葉を飲み込む。単純な反応だった。
概ね合ってるみたいだから先に言うけど、答えはノーだ。 売国奴の妹にも、国を棄ててあんたらの国に尻尾を振れって? こっちはそれが嫌だから、未成年だけどタバコ吸ってるわけだ。わかりましたか? 司令官殿。
ー...........貴方の察する通り、司法取引の内容は、概ねその通りです。 ただ、帝国の犬じゃなくて、私直属の護衛になるということ。そこだけが違いです。
じゃあ、尚更嫌だね。
マクラウド家といえば、帝国の執政を代々取り仕切る一族だった。厳密には、マクラウド家だけが皇帝候補じゃなかったはずだけど、軍部と強力なつながりがある彼らは、当然だけど帝国の中で最も発言権があり、したがってその中枢に近い一族のはずだ。 まあ要するに、帝国のその代表とでも言ったところだろう。
話は終わり? もしこれで良ければ、もう帰ってくれないかな。 手間じゃなかったら、ティア・オーデル司令官殿にお会いした時にでもお伝えください、貴方の不出来な妹は最後まで不出来なままで、帝国のペットになることを拒否して、地獄から貴方の出世をお祈りしております、って。
僕は言いたいことだけ言って、マクラウド司令官殿から顔を背けてベッドに寝転んだ。ちなみに、硬すぎて寝心地も何もあったものじゃ無かった。でもまあ贅沢は言えない。
しばらく、おもーい沈黙だけが続いたけど、牢の扉が閉じる音は聞こえなかった。
ー.............貴方は、フィアさんのことを、なんとも思ってないの?
唐突にそう言われて、僕は少し驚いた。フィア? ...なんでこいつが、フィアのことを知ってるんだ?
ー...彼女、毎日ずっと貴方に面会を希望してるのよ。 認められないことだけど。 貴方の無事だけを、ずっと祈ってる。 ...それをなんとも思わないの?
やれやれ。 僕はあのお節介のことを思い出す。 そう言えば、フィアは僕が連行される時にも、必死になって止めてたっけ。 ...正直に言って、あまり賢い生き方だとは言えないと思う。彼女は真っ当に生きてるのだから、そのまま真っ当に生き続ければいいのだ。 ...何も、僕みたいなクズを更生させようとして、自分の身と立場まで危うくすることはないのに。
そう言えば、フィアにもらった1ヶ月分の生活費、ちょっと悲しくなるくらいには少なかったっけ。 あれじゃ、2回くらい帝国の奴から盗んだり脅したりして頂くだけで、十分稼げるのに。僕はそれを、家の棚の中に仕舞った気がする。 あの狭っ苦しい家も、フィアの渡してくれたお金も、もう燃えたのかもしれない。 ......フィアも、どうせロクに食べてないくせに、働いて稼いだお金のきっかり半分を僕に渡すなんて、全く理解に苦しむ。幼馴染みってだけで。どうして他人のために、そこまで必死になれるんだろう。
............理解、できない...................
僕は自分が泣いていることを、司令官殿に知られたくなかった。だから、できるだけ時間を置いて、心が落ち着くのを待って、こう答えた。
.......一応、詳しい内容だけは知りたい。
ー.........書類と、ペンを置いていくわ。 読み終わって、同意するならサインしておいて。 ...もし貴方が、私の部下になると言うのなら。 1時間後にまた来るわ、その時までに、決めておきなさい。
司令官殿はそう僕に伝えて、そのあとで扉を閉じた。
足跡が遠ざかるのを待って、僕はまた少しだけ泣いた。
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泣いていると、どうしても、幼い頃の僕が、僕をどこかで見つめているような気がする。
それから眼を逸らすために、僕はマクラウド司令官殿の置いて行った書類に眼を通す。できれば、蝋燭でも置いて行ってくれたら、明るくなってもっと良かったんだけど。
内容は概ね、予想していた通りのことだった。僕はサーシャ・マクラウド司令官殿直属の魔導兵という立場になるけど、魔法の行使は司令官殿が許可した時に限定される。 司令官殿の命令に背いた際には、僕は囚人としての立場に戻る。 一応、少なくない給料も出る。 僕の帝国に対する想いを除くと、それは破格の条件のように思える。...けど、良く見える申し出の裏には、必ず良くないことが隠れているものだ。 それが何かまでは分からなかったけど、少なくとも、多分、「帝国」にとって好ましい話ではないみたいだった。
僕はしばらく迷って、結局、その書類にサインした。
僕には僕なりの思考がないわけじゃない。 ...フィアのことを除いても、帝国のマクラウド家の直近に立てるということは、いずれあいつらを嵌めてやる機会が無いとも言い切れない。 どうせ、このままだったら死刑かなんかになるわけだし、飼い犬のフリをして喉元に噛み付いてやるのも悪くない。 ...でも、多分、フィアは悲しむと思う。 その矛盾をどう処理してくべきなのか、何を優先すべきなのか...僕には決められなかった。
一応、時間をそらで数えてみたんだけど、だいたい1時間きっかりくらいで、サーシャ・マクラウド司令官殿はもう一度やってきた。僕は彼女に書類を差し出して、新しく僕の飼い主となる司令官殿の姿を改めて眺めてみる。 軍服じゃなくて、動きやすそうな灰色の長ズボンと薄青い生地の襟付きの上着に身を包んでいたけど、それでも気品が感じられた。それはきっと、生まれつきじゃなくて、育っていく中で自然と身につけたものなのだろう。つまり、野良犬の僕とは厳然たる差があるわけだ。
司令官殿は、いちいち細かく僕のサインをチェックして、それから僕についてくるように言った。廊下を歩きながら、僕は試しに尋ねてみる。
さて、これから僕はマクラウド司令官殿の犬になるわけだけど、どんな後ろめたい行為に加担すればいいのか、できれば教えて欲しいんだけどな。
司令官殿は僕の言葉を背中で聞いて、ピタッと立ち止まって、振り返って僕を見つめる。正直な奴だと思う。だから僕も、正直に解説してみる。
...犯罪者の僕と取引してまで、司令官殿は人手が欲しい。帝国の正規の魔導師たちに命令するには、何か不都合でもあるのかな? 公にしたくない何かが? あるいは僕の疑いすぎかもしれないけど、犬は犬で自意識はあるわけだから、一応自分がどんな犯罪の片棒を担ぐのか、知っておきたいところだけど。
司令官殿は、黙ったまま前に向き直って、歩き出しながら小さく言った。
ー......私の部屋の中で話すわ。 賢い貴方の察する通り、あまり公にはしたくないことよ。
やれやれ。
結局のところ、犬に主導権は無いわけだ。
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司令官殿の部屋は、思いの外質素なものだった。 木製の執務机と、資料や地図が納められた棚がいくつも。窓は広くて日当たりはいいけど、たいした装飾も無かった。
司令官殿は、僕と2人きりになって、自分の手で2つのカップにお茶を注いでくれる。ベドウィンなら、どこの料理屋でも安く飲める普通のお茶だった。
ー大したおもてなしじゃなくて、ごめんなさいね。 ...レイ。
お茶を淹れてくれるだけでも光栄の至りですよ、マクラウド司令官殿。
僕は司令官殿に淹れて頂いたお茶を一口飲む。あたたかくて、丁寧に注がれている。カップもわざわざ事前に温められている。液体じゃなかったら、そのまま額に入れて飾っておきたいくらいに、ありがたいお茶。
ー......貴方は、私よりずっと賢いだろうから、何もかもお見通しってわけね。
後ろめたいことをやりたいのは分かるけど。内容までは知らない。別に犬に教えてくれる必要はないけど、できれば理由は知っておきたい、くらいの気持ちでいる。
マクラウド司令官殿は、机の向かいの椅子に座って、お茶の入ったカップにそっと口をつけた。とても上品で、唇がつくかつかないかくらいに繊細な飲み方だった。
ー...私はこれから、帝国の意思に背いた行動をしようとしている。南のオルタマイア国の国境付近まで、私と、貴方だけで向かいます。 ...そこで、ある人と落ち合う。貴方に頼みたいことは、道中の私の護衛です。
はあ。なるほど、実によくわかる。 帝国と戦争目前のオルタマイアまで行くと。
ー......そのとおりよ。 起こりうる戦争を未然に止めるために、行かなくてはならない。
やれやれ。 ちょっと触りを聞いただけなのに、もう随分とよろしくない話だ。
......司令官殿の帝国は、オルタマイアと戦争をやりたがってるとばかり思ってたけど。
ーみんながみんなそうじゃないわ。 ...私は反対。 でも、皇帝と軍部の意向を覆すだけの発言権は、私には無いの。だから、出向いて直接、オルタマイアの非戦派に情報を流して、事前に戦争回避に向けた根回しを進めてもらう。
はあ...ご大層な夢ですね。
ーからかうのは、やめてくれるかしら。 私は真剣なの。
確かに、真剣そのものの目だった。
じゃあお伺いしますが...司令官殿、発言を許可頂けますか?
ー.......別に、質問は禁止してないわ。
僕は貴方のお犬様ですから。
ー..........許可するわ。
司令官殿が、帝国の思惑に背いて非戦派だということは、まあ五億歩くらい譲って信じるとして。 どんなメリットがあって、危ない橋渡ってまで、マクラウド家の人間がそんなことをするんだ? マクラウド家といえば、帝国軍部とズブズブの好戦派だろ? 基本的に彼らにとっては、戦争おっぱじめた方がいいわけだ、金も稼げるし、支持もされやすいし、何より、帝国様の方が優位だと思ってるわけだ。 そりゃ、オルタマイアが南の大国でも、帝国とマトモにやりあって勝ち目があるとは思えない。 ...その時点で、司令官殿には、戦争を止めたがるメリットなんて何一つないように思えますが。
彼女は僕が一息にいったことについて、答えるべきか、答えないべきか、あるいは、自分でもどう捉えていいのか測りかねているかのような、微妙で複雑な思考が入り混じったような顔をしていた。
ー.......今すぐ答える必要があるかしら。 ...意地悪のつもりで言ってるんじゃなくて、それは本当に微妙な回答になるの。 ...申し訳ないけど、その.....
僕にそこまで個人的な事情を話す気にはならないと。別にそれでいいよ。 僕も、君のプライベートな事情に深入りしたくて聞いてるんじゃ無い。ただの知的好奇心だよ。
ー........好奇心はいいことだけど、時には.....
猫をも殺す。
特にそれ以上深入りする気は本当に無かったので、僕は青い陶器のカップに入った、ありがたくて涙が出るお茶をゆっくり飲み干した。 飲みながら、そういえば出発する日を聞いてなかったことに気付く。そう司令官殿...あるいは飼い主殿...に尋ねてみると、今夜1時よ、そう答えてくれた。やれやれ。そんなに急いでやるものなら、もし僕が同意しなかったら童するつもりだったんだろう。
ー......その時は、1人でやるまでよ。
頭お花畑かな?
ー何か言った?
煙草あるかなって訊いたんだ。
ー........未成年よ。 貴方は。
お固いことで。
************************
牢の中ではよく分からなかったけど、今の時間は昼だった。 僕は一応司令官殿のお許しを得て、簡単な準備を整えるために軍の兵士用の売店を訪れて、同じく司令官殿に貸してもらったお金を全部煙草とマッチ、それから何本かの強いウイスキーに変えた。 帝国製の見たことのない銘柄だったけど、吸ってみると意外と味は悪く無かった。頭の芯までくらっとするほど強くて濃い煙草の味の中に、甘い紅茶の匂いが漂っている。ベドウィンの煙草の2倍くらいの値段がしたけど、1本で2本分以上は満足できた。僕は少し茶色い煙草の煙を見つめながら、フィアのことを思い出す。彼女も、僕にやたらと禁煙を勧めてきたっけ。僕はその度にはぐらかしたし、万一更生できても、煙草だけは多分吸い続けたと思う。
...少なくとも、しばらくは、あるいは一生、僕に禁煙を忠告してくれる人は現れないかもしれない。 そう思うと、僕はせめてフィロの前だけでも、煙草は吸わないべきだったかなと思って、ちょっと後悔した。
司令官殿から、出発の間まで休むための部屋を案内されていたけど、僕は結局そこには戻らないで、元いた牢の中で横になった。それから、ウイスキーを少しだけ舐めた。 とても甘くて柔らかい、バニラみたいな匂いのする琥珀色のお酒を舐めているうちに、僕は浅い眠りに落ちて、夢を見た。 久しぶりに見る夢だったと思うけど、僕が覚えていないだけかもしれない。
夢の中で、僕はずっと、姉さんの後ろ姿を見続けていた気がする。
僕の隣には、フィアが立っていた。 彼女は僕の方を見て、何かを伝えたそうに口を動かす。でも、言葉は何も出てこない。僕はフィアに、言葉が出てこないの、そう尋ねてみるけど、彼女は悲しそうに首を振るだけで、何も答えてはくれなかった。 彼女は僕を見て、安心したように微笑みながら...でも、とても悲しそうだった。 しばらくして、彼女は姉さんの後ろ姿を追いかけて、ゆっくりと歩き出す。僕はフィアを呼び止めて、ついていこうとする。...でも、僕がどれだけ急いで追いかけても、2人に追いつくことは出来ない、僕は必死にフィアを呼び止めようとする、フィアだけじゃない、姉さんも...どうして......
.......どうして、わたしを置いて行っちゃうの......?
誰かにそっと体を揺すられて、僕はようやく夢の中から目覚める。
ー......よく寝てるとこ悪いけど、もうそろそろ行くわよ。
目を擦って見上げると、司令官殿が僕の粗末なベッドのそばに立っていた。
...お手数おかけしました。
僕は一応謝っておく。 さっき見た夢は、起きた今でも鮮明に僕の目蓋の裏に残っている。 僕から離れていく2人の後ろ姿は、目を閉じるとまだそこにいるけど、だんだん、だんだん遠くなって、そして薄れてゆく。
僕たちは牢を出て、並んで歩き出す。
ー......あまり、いい夢は見なかったの?
...犬の見てる夢が、人間にわかるのかい?
ー何か言ってたわよ。 ......聞き取れなかったけど。
やれやれ。聞こえてなくてよかった。よりによって、一番聞かれたくない奴に聞かれるところだったから。 僕は何も答えずに、淡々と司令官殿の後についていく。
建物を出て、月明かりの下を少し歩いて、僕たちは飛空挺用のドックに入る。
帝国の飛空艇はどれもこれも綺麗に整備されている。 ベドウィンで生きていると、機械なんてものに接するチャンスはとても少ないし、そういう技術も発達してない。ほとんどの国民が魔力を持っている分、帝国のような機械技術の発達が進まなかったのだ。
...そりゃ、負けるよな。
僕は小さく、司令官殿に聞こえないように呟く。人間の力は、所詮は人間の力なのだ。機械は、人ができる以上のことを軽々と可能にする。...例えば、大勢の人が空を飛ぶようなことが、簡単にできるようになる。移動が容易になれば、世界のあり方も変わっていく。
ーこれでいくわよ。
司令官殿が指差したのは、あまり軍用機っぽくない、地味な小さな機体だった。
ー軍用機じゃない。 民間の旅客用飛空艇よ。 それで、オルタマイア国境付近の、モスカの街まで行くわ。
...モスカから国境を越えるには、紛争地帯の山岳を超えて行かなきゃいけないはずだけど。
ーだから、貴方がいるのよ。
...気が重いな。
僕は飛空艇に乗り込んで、座席に座ってベルトを締めながら、確かに若干安請け合いが過ぎたかなと後悔する。そんなに上手い話は世の中にはないものなのだ。モスカはベドウィンと細々とした国交もあったし、そこまでは別にいい。でも、オルタマイアとの国境付近は、民族的な問題から非常に不安定な地域で、現在でも継戦状態にある地域のはずだ。その中での山岳越えとなると、いろいろと面倒なことになりかねない。
そんなことを考えていたせいか、僕は離陸した直後にようやく、自分が空の上を飛んでいることに気付いた。 僕は窓の外のベドウィンの街の灯を見て、ふと怖くなって体が震える。全くどうでもいい話なんだけど、僕は飛空艇に乗るのが初めてだった。 外の景色は確かに美しいけど、落ちられたらたまったもんじゃない。
尋ねるのは物凄く気が進まなかったけど、僕は一応、心の安定のために訊いとく。
.......これ、落ちないよね?
僕から1つ席を離れたところに座っていた司令官殿は、不思議そうに僕を見て、それから小さく笑った。
ー...意外と、可愛いところあるのね。 レイ。
やれやれ。だから嫌だったんだ。しかも、答えになってない。
僕は後悔して顔を背けて、窓の方を見る。 王都の橙色の灯は、どんどん小さくなっていく。フィアは、今僕が見えるところにはいないと思う。この時間は、きっとダウンタウンの自分の家の中で、ささやかな夕食をとっているはずだから。...いつも僕のために余分に作って、分けてくれたっけ。 僕は自分では料理を作らないし、夜はお酒ばっかり飲むことが多かったから、フィアの作ってくれた食事を温めて、朝によく食べた。...たまに、酔っ払いすぎた僕が気持ち悪そうにしていると、フィアは黙って温かいお茶を淹れてくれた。
...司令官殿の護衛が終わったら、僕は国に帰れるのかな?
僕はそう尋ねてみる。尋ねてみてから、それはとても自分に都合が良くて、虫の良い話であることに気づいた。
ー...そうね。 その時までに禁煙して、お酒も辞めてたらね。 あるいは、そうなるかもね。
......難しい要求だ。
司令官殿は、僕の犯した罪のことについて、何も触れなかった。
************************
僕は飛空艇の中でもう一度眠ったけど、もう一度あの夢を見ることはなかった。飛空艇は7時間ちょっとをかけて、モスカの町にたどり着く。僕は今度は、自分で起きることができた。
...司令官殿。よく眠っていらっしゃるところ悪いんですけど、もう行きますよ。
着陸してから、僕は若干の皮肉を込めて、司令官殿に声をかけて起こそうとして、立ち上がって彼女の寝顔を見る。静かに眠りにつく綺麗な顔に、微かな涙の跡があることに気づいて、僕は彼女に手を触れるのを少し躊躇った。
彼女は結局、僕の手を借りることなく、少し経ってから目を覚ました。
ー.......ごめんなさい。 もう着いたのね。
僕は頷いて、涙の跡のことを訊こうかどうか少し迷ったけど、結局何も言わずにおいた。彼女はあくまで、帝国のマクラウド家の司令官なのだ。...僕としても、個人的な事情は知らずにいた方が、もし何かあった時にも、遠慮なく見捨てられる。
飛空艇から降りる前に、司令官殿が僕に、黒くて柔らかいローブを渡してくれる。
ー...一応私の部下なんだから、これ着ときなさい。 それに、この辺は標高も高いから、少し冷えるわよ。
僕はその黒いローブを眺めてみる。軽い生地だったけど、流れるように温かい素材でできていた。帝国の紋章は描いてなかったけど、微かな銀の刺繍が、袖口の近くに織り込まれている。蔦と蛇が絡んだような、不思議な形の紋章。
この模様は?
ー......帝国に関係のあるものじゃないわ。
まあ、仮想敵国に帝国の紋章つけて乗り込むほど、こいつがお花畑じゃなくて何よりだ。帝国のものじゃなかったら別になんでも良いかと思って、僕はその黒いローブに腕を通す。
ーまあまあ、似合ってるわよ。
...はあ。それは光栄なことで。
僕はそう返して、飛空艇を降りて、ドックの外へと向かった。
モスカの街は、こじんまりとして、灰色と白の石で出来た石畳と家が続いている。雪でも降り出しそうな曇り空と相まって、どことなく辛気臭いイメージがあるけど、僕は嫌いじゃなかった。高い建物はほとんどないけど、すぐそばには上に雲がかかって見えないほどの高い山が聳え立っている。ここは山のすぐ麓なのだ。
ー今日はここに泊まるわ。 合わなきゃいけない人がいるの。
...あんなに急いで出発した割には、今日は観光かい?
ー貴方がしたいのならそうしても良いけど。 この山を越えるには、道案内が必要なの。 その人とは、今夜ここで落ち合うことになってる。
やれやれ。 つまり昼間は何しても良いってことだ。 適当に酒場にでも行って飲むか...こいつのつけで。
ー...私と一緒に行動するのよ。 まさかとは思うけど、昼から飲みにいくつもりじゃないでしょうね。
禁酒を誓ったんだ。 .......明日から。
最後の言葉は、聞こえないように小さく呟いた。
僕たちは小さな宿について、そこで部屋を取る。 部屋はこじんまりとしていたけど、ちゃんとした暖炉があったし、ベッドのシーツはふかふかしていた。窓からはきれいな山も見えるし、ちょっとした観葉植物も飾ってある。ベドウィンでは見ないような植物だ。ただ、なぜかベッドは1つしかなかった。
ベッドが、ひとつだけのように見えるけど。
ー今夜は、ここしか空いてないの。
...つまり何か? 僕は犬だから床か椅子で寝ろと。
やれやれ。 結構な待遇だ。 泣けてくる。
僕がそう言うと、彼女は不思議そうに僕を見返す。
ー...別に、大きなベッドなんだし、2人で使えば良いじゃない。
......ああ、そういう......。 僕は謹んで床で寝かせていただきます。
こいつと一緒に寝るなんて、とてもじゃないけど耐えられそうにない。 大体、2人一部屋でも虫唾が走るくらいには嫌なんだけど、まあ5億歩くらい譲ってそれは認めることにしよう。金はこいつが払ってるんだから。 でも、ベッドまで一緒は流石に耐えられない。
ー...好きにしたら良いけど、風邪引くわよ。
司令官殿はそう言って、少し街を見て回って、昼ごはんを食べにいきましょう、そう言った。
街を少し歩くと、すぐに家はまばらになって、馬や山羊が柵の中で放し飼いにされている草原が広がる。それはベドウィンを出たことのない僕にとっては、初めて見る珍しい、山あいの光景だった。空気もきれいだし、司令官殿と一緒じゃなかったら、まあまあ感動できる風景なんだと思う。 そういえば、帝国もこんなのなのかなと思って、僕は柵に腰掛けて司令官殿に聞いてみた。
ー......あの国には、こんなに自然に溶け込んだ光景は、あまり残ってないわ。 ...本当に、久しぶりに吸う空気よ。
僕は嫌いじゃないけど、帝国育ちの司令官殿には、あまり気持ちの良いものじゃないと思ったんだけど。 空気はきれいだけど、動物の匂いがする。
ー......どちらかというと、こういう空気の方が慣れてるわ。私は元は、帝国の生まれじゃないから。
...マクラウド家の人間が?
僕は多少の驚きを込めて尋ねる。 司令官殿は、頷いたっきりで、何も喋らなかった。
僕たちは近くの売店で、山羊のチーズと、果物が入ったパン、それに、素焼きのポットに入った熱いミルクとコーヒーを買う。いつもの癖でビールもしれっと注文してみたんだけど、司令官殿に睨まれたのでやめておいた。
僕たちは、草原が見える道端のベンチに腰掛けて、食べ物と飲み物を間に置いて、静かにそれらを食べた。僕はバレないようにこっそりと、コーヒーにウイスキーを注いで飲む。チーズもパンも質素だったけど、自然で素朴な味がした。 風は冷たかったけど気持ちが良かったし、僕は司令官殿にもらったローブに無言で感謝した。
3枚目のパンの上にチーズを乗せて食べている途中で、司令官殿が口を開いた。
ー......戦争が始まったら、ここも戦火に飲まれるわ。
僕は草原の方を見る。 兄妹か幼なじみらしい、仲の良さそうな小さな男の子と女の子が、山羊の群れの世話をしている。
そうだね。 多分、そうなる。 僕の国がそうなったみたいに。
ー........ごめんなさい。
...別に、謝って欲しいわけじゃない。
ー...........これ以上は、止めなければいけないの。
ベドウィンがそうなる前に、君が決意してくれれば尚良かったんだけどな。
ー................
流石に嫌味を言い過ぎたかと思って、僕はちょっと反省して、コーヒーのカップを8割ほどウイスキーで満たして、残り2割に熱くて濃いコーヒーを注いだ。
************************
昼食が終わって、僕と司令官殿はまたのんびりと歩き始める。 隣にいるのがこいつじゃなくて、フィアだったらもう少し良い気分になるんだろうなとは思ってはいるけど、それでも山あいの石造りの街を歩くのは、決して嫌なことじゃなかった。山肌は歩くたびに、見る角度によって景色を変える。うっすらと雪が積ったり、雲がかかったり、あるいは小さな緑が顔を覗かせたり。アルコールで体が温まっていたせいもあって、少し落ち着いた心で景色を眺められた。今でもあの山のどこかで、人と人との殺し合いが起こってるということは、遠巻きに眺めるだけじゃ分かりようがなかった。
何度か休みながら、街を隅々まで見て歩いて、山越えに必要なものを買い揃える。司令官殿に貸してもらったお金で煙草と酒を買ったことは流石に内緒にしておいて、彼女が必要なものを選んでる間に、僕は店の外で待ってこっそりと一服した。澄んだ青い空には帝国の飛空艇も浮かんでいないし、所々に見える塀も無い。そんなのどかな、今にも落ちてきそうな青空の下で、僕は帝国製の濃い煙草を吸った。
保存の効く食料や水、防寒着や簡易的なテントを買っていくと、流石に司令官殿1人で持つには重すぎる量だった。僕は一応、半分くらいは持ってあげることにする。ありがとう、司令官殿は小さく微笑んで、僕にお礼を言ってくれる。不思議な感覚だった。僕はこいつのことを憎んでいるし、好きになりたいとも思わない。 けど彼女には、僕を...なんというか、部下や使いっ走りのように接したり、偉そうに気取ったりするところはないみたいだった。 憎しみという感情は、必ずしも双方向に行き来する感情では無いのだということを、僕はなんとなく分かったような気がした。
...でも、だからといって、僕が彼女に心を許せる訳では無いのだけれども。
買い物が終わって、僕たちは宿に帰って、しばらく荷造りや整理に勤しむ。といっても、僕は全くと言っていいほど旅慣れてなかったので、それは主に司令官殿の仕事になった。僕はなんとなく感心して、彼女が手際良く必要なものを分けて、細かく纏めていく作業を眺めて、たまに気が向いたらできそうなことを手伝う。僕は興味から尋ねてみる。
...司令官殿は、意外なことに旅慣れていらっしゃりますね。
ー変な敬語はよして。 皮肉に聞こえるわよ。 ...そうね、旅は嫌いじゃ無いし、それほど苦手でも無いわ。 準備を人に任せっきりにしておくのは、あまり好きじゃ無いの。
なるほど。 まあ、帝国のマクラウド家の中にも、とんだ変わり種がいるものだと思ったけど、司令官殿は自分のことを帝国の生まれじゃ無いと言っていた。 だから、そういうこともあるのかもしれない。
深入りはしたくないと思っているけど、なんとなく、ちょっとは司令官殿に興味が湧いた.......気がする。
少し時間が余ったから、僕たちは3杯ほど熱いお茶を飲んで時間をつぶす。ようやく陽が傾いて、濃い夕闇が街の石畳を照らすようになってようやく、僕たちは「道案内」に会うために、待ち合わせをしているらしい小さな酒場に向かう。 陽が沈んでしまうと、街の空気は一気に冷えてきたけど、そのこじんまりとした酒場の中は、暖炉に赤々と火が灯っている。上品で、やたら滅多に騒ぐ客もいない。みんなほどよく満足そうに、ささやかな幸せを噛みしめるように、料理やお酒を食べたり飲んだりしながらお喋りに興じている。僕はそれを少し羨ましく思った。 1人で飲むお酒は、美味しくはあるかもしれないけど、楽しいかどうかはよくわからなかったから。
司令官殿は酒場の中を少し見回して、お目当ての人物を見つけたようで、隅っこの少し暗がりになっているテーブルへと歩いていく。 僕も後ろからついていって、その「道案内」とやらの姿を覗き見る。背は僕たちより高いけど、とてもほっそりとした体つきで、鼠色の目立たないコートを羽織っていた。 黒い鍔付きの帽子を深々と被っているので、顔がよくわからない。
ー...サーシャです。 貴方に依頼をした。
司令官殿が小さく囁くように話しかけると、その人は何も言わずに、そっと手袋をはめた手で椅子を指し示す。座れということなのだろう。司令官殿は軽く会釈してそれを受け入れて、僕にもそうするように身振りで示す。 僕も椅子に座ろうとして、ようやくその「案内人」と目が合って、顔を窺い知ることができた。
彼...彼女...? は、少なくとも人間ではなかった。
灰色の短い毛に包まれた顔。すらりと高く伸びた鼻も、その短い毛に包まれている。目は少し細く、薄い金色に染まって、その2つの目が僕の顔を捉えて、離さなかった。 亜人だった。 授業の中くらいでしか習ったことがないけど、ファ族と呼ばれる、人間と鼠の中間的な生物達。 そういうものたちのことを、人間は亜人という分類で一括りにしていた。授業で聞いてて、とてもエゴイスティックな呼び方だと思ったことを覚えている。
ファ族の案内人はそっと口を開いて、僕はその少し低いけどよく通る弦楽器のような声を聞いて、案内人が女性であることを知った。
ー......君以外に、もう1人いる。
それは僕のことを言っているようだった。 自己紹介しようかちょっと迷ったけど、なんて言うのが適切なのか、自分でもよくわからなかった。正直に言うと、自国で犯罪まみれの堕落しきった生活を送っていたけど、ある日クスリと酒で放火して捕まって、終身刑か死刑になるとこだったけど司令官殿に拾っていただいて、今は寝首を掻いてやろうかと伺いながら便宜上ついてきてると言うことになるのだが、我ながら最低すぎて情けなくなった。それと同時に、自分で自分のことをクズだと思える自覚がまだ心のどこかにあったのだと分かって、僕は少なからず驚いた。...考えてみれば、フィアか司令官殿以外の人と対面するのは、随分久しぶりな気がしなくもない。
司令官殿はちょっと僕を見て、僕の代わりに口を開いてくれた。
ー...レイよ。 とても優秀な魔導師で、私の護衛についてもらってる。 ...信頼できる。
ファ族の女は、また僕を少し見て、それから小さく頷いた。 随分と簡単な会話だった。
ー...「信頼できる」。 そう言うのなら、別にそれでいい。
よろしく。
ーよろしく。
僕は便宜上そう言って、彼女も便宜上そう返した。 まあ当然だけど、彼女は僕を信頼していなかったし、僕も彼女を信頼していなかった。 けど別に、深追いして時間を潰すような話でもないのだ。多分、お互いに深いところまでは立ち入らないし、余計なことをしなければそれでいい。 僕たちは、...司令官殿も含めて、そういう関係なのだと思う。
ー...フレイアだ。
彼女はそうとだけ僕に伝えて、司令官殿がテーブルの上にそっと置いた重そうな皮の袋を受け取って、何度か重さを測った。 やがて彼女は小さく頷いて、明日もう1人、私の相棒が合流する、朝7時にこの街を出る。 そうとだけ言って席を立った。
僕はなんとなくほっとして、とりあえず何か料理...あと、お酒でも頼もうかと思って(許してくれるかどうかはともかくとして)、机の端に立てかけられていたメニューに手を伸ばす。
ー......酒臭いな。
フレイアが立ち去る際に、小さく鼻を動かしてそう呟いて、僕は結局お酒を頼むことを断念した。
やれやれ。やっぱり、信用が無いのだ。
(第2話終わり)