※実在の人物や地名とは全く関係がありません。
(天国への階段編)
時刻はちょうど深夜2時を回ったころだった。 サマルカンドの街は死んだように静まり返って、稀に車が走り抜ける以外、人の影は無かった。 街灯の数も、タシケントよりずっと少ない。 テンションが上がって勇ましく出てきたのはいいものの、正直なところ数分歩いただけで、怖すぎて帰りたくなった。 ニューラナークの深夜に比べればなんてことはないのかもしれないけれど、ここはあくまでも異国で、そして私はこの国に住む人ではないのだから。 ホテルに引き返して朝を待つのが懸命なのかもしれない。 だけど、何故だかはよくわからないけれども、夜明けを待つ余裕は無い気がした。 朝日が昇る頃には、もう全てが遅くなっているかもしれない。 選んだ道を引き返すことはできなくなっている、そんな気がした。
私は夜の街を走る、自分のできる限りはやく。 不当に得たものをあるべき場所に戻し、不当に失われたものを取り戻すために、私はそうしなければならなかった。 それが私の責任だった。
ー…………正しくないかもしれないことに、貴方は従うの。
貴婦人はそう言っていた。 確かにその通りかもしれなかった。 私は今、とんでもなく損をする間違った道を選んでいるのかもしれない。 ただ、目を背けてこの国から逃げたら、きっと私はこれから先、すべてのものから逃げ続けるようになる。 たとえ、あの貴婦人の言うように、私の目に映るもの全てが輝く黄金であっても、私はきっと、そこで本当に何かを得ることは、できなくなると思っただけだ。
分かってた話だけど、シャーヒズィンダ廟は走っても結構な距離だった。 着いたときには、もうとっくに3時半過ぎになっていた。 私は久々に、毎日ランニングを続けてきたことをありがたいと思った。 人生、どこで何が役に立つのかまでは、分からないものなのだ。 何も起こっていない。 少なくとも今は。 笛吹きの音も、風の囁きも聞こえてこない。 サマルカンドの少し欠けた月の下では、幸運も不幸も、富めるものも貧しいものも、すべてがただ平等なのかもしれない。
一応、ポケットに財布を入れてきたけど、結局タクシーは一台もつかまらなかった。
私は門をくぐって(警備員さんとか、夜はいないのだろうか。 よく分からないけど、少なくとも人の気配はしなかった。)、天国への階段の目の前に立つ。
1、2、3、4…１つずつ、慎重に数えながら階段を上る。
16、17……何も起こらない。 階段はあくまでただの階段だ…。
32、33……35………………36。
白い門が、私の目の前にある。
それは月の光と夜の空気に包まれて、本当に、天国…あるいは地獄への…門のように思えた。 私は少しだけ立ち止まって、何度か深く息を吸って、呼吸を整える。
貴婦人は、約束通りそこにいた。 静かに微笑んで。
ーアニー。 アニー・マクラウド、勇気ある子。 貴方はやっぱりここにきた、目を背けて、思い直してホテルに戻ることもできたのに。 貴方はそれをしなかった。 天国への階段をわたしから買って、もう一度ここまできたのは貴方が初めて。 それは愚直で、悲しいほどに無知な道なのです。
………ですがわたしは貴方を責めません。 貴方の目の前には、まだ２つの道があります。 まだ、別の道を選ぶことも、できるのです。 さあ、アニー、門をくぐって、階段に向かいなさい。 そこで貴方は、考える時間と、引き返す権利に気づくのです。
ー…せっかくの猶予をくれてありがたいけど。 別に必要ないわ。 さっさと降りちゃって、それでおしまい。 まさか、貴方が邪魔するとか、そういうのないわよね。
貴婦人は、楽しそうに小さく声を立てて笑う。
ーああ、アニー、可愛いアニー、何故わたしがそんなことをしなくてはならないのですか。 わたしはただ、貴方を見守っています。 ずっと。 貴方はただ、耳をすませればいいのです。 笛吹きの音と、風の囁きだけを、貴方は聞けばいいのです。
ほら………………。
ちょうどそのとき、iPhoneが軽やかな音を立てて、着信を知らせる。
私はびくっと少し震えて、携帯の画面を見る。 非通知………。
ー出なくて良いのですか。 出た方がよろしくてよ。 それは貴方にとって、とても大きな意味を持つかもしれませんから。
私は、震える手で、通話アイコンをタップする。
ー………………アニーちゃん？
その静かな、綺麗な声を、私はよく知っていた。
カナコさん。
ー…カナコさん。 久しぶり。 元気にしてた……？
ーええ。 おかげさまでね。 とても。 ごめんなさいね、夜遅くに電話なんかしちゃって。 無理を言って、最後だから許してもらったの。
ー……………………最後って、え、最後って、言ったの………？
違う。 そんなこと、あるわけがない。
お姉ちゃんが嘘をつくはずがない。 確かにそういうこともあったかもしれないけど、今は違う、違う、違うんだ………………。
ーええ。 アニーちゃん。 ありがとう。 あの滝から、私を引き戻してくれて。
あの湖のことを覚えてる、田沢湖のことを。
ー……………ええ。 でも、また、いける………………
ー………………ええ。 貴方は、どこにだっていけるわ。 貴方のおかげで、私にもやり直せるかもしれないって希望が持てた。 だから私は、希望を持ったまま、行くことにしたの。 アニーちゃん。 ………またね。
ーカナコさん！
そこで、電話は切れた。
呆然と、iPhoneの黒い画面を見る。 それから、もう一度、貴婦人の方を見た。
貴婦人は自分のiPadを白い革の鞄の中から取り出して、それから何かを調べる。
ーごめんなさいね。 会話の途中で、無粋なものを取り出して調べ物なんかしたりして。 でも、貴方を助けてあげたいの。 かわいそうな御嬢さんを。
彼女は、私の方にiPadの画面を向けて、見せてくれる……。
『日本の大学教授殺人事件、被告の死刑が確定』
ー次に割を食うのは、誰なのかしら。
さあ、階段を、降りると良いわ。 もう夜が明けそうだから。
彼女はそう呟いて、それからまた、少しだけ嗤った。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
嘘だ、嘘だ、こんなこと、嘘だ………………
私は嘘だと叫ぼうとする、でも、言葉が出てこない、何も喋れない……。
これが今、どこかでほんとうにおこっていることだと、知っているから。
ーどうしたの。 さあ。 早く。 早く降りなさい。 アニー。
私は貴婦人の言葉に従うしかない、白い門をくぐる脚が、わたしのものじゃないみたいに、くずれていく、音を立てて…………そして、くずれて、溶けていきそうな…。
ー早く。 行くのです。 アニー。
カナコさん。
嘘だ、なんで…………お姉ちゃんは、私に………嘘を……………………？
私は門をくぐる。 天国への階段は、私の目の前にある。
ー嘘をつかれたのですか。 御姉様に。 アニー。
でもそんなことは、よくあることなのです。 御姉様は貴方を傷つけたくなかったのでしょう、傷ついていく貴方を、見たくなかったのでしょう……。 ………哀しいことです、辛いことです、でもこれは、今この世界のどこかで、起こっている真実なのです。 貴方のせいではありません。 貴方が気に病むことは、何もありません。
貴婦人は、まるで私を勇気付けるかのように、そう話してくれる………
そうだ………帰ったらお姉ちゃんをすぐに問いただせば良い………ニュースは本当かもしれないけど、お姉ちゃんはそれも踏まえた上で、裁判の差し戻しが決まったと言ってるだけかもしれない………………
私は階段を一段降りる。
1…2………………
ー御姉様は、どういう気持ちで、貴方に嘘をついたのでしょうか。
7、8、9…………………
ー可愛い妹の友人が、明日命が無くなることを知りながら。
ーうるさい、黙れ…………………………
集中しろ、集中しろ、集中しろ、階段だけに………………
11、12……………………
ー知らなかったのでしょうか。 いえ、そんなはずはありません。 知っていて、貴方に嘘をついたのです。 日本の死刑は、絞首刑でしょうか。 アニー、絞首刑を知っていますか。
ー黙れ、黙れ…………！！！
13………………
ー絞首刑にかけられた女の人がどうなるか知っていますか。 首に固いザラザラした縄がかかって、床が開きます、下には黒い黒い空間だけがあります、首の骨が先に折れるのでしょうか、あるいは折れないかもしれませんね、折れなかったら苦しいでしょうね、息がつまるのです、息が詰まってしばらくしたら顔が紫色になります、筋肉がだんだん弛緩して、それから小水を撒き散らします、黒い黒い穴の底に向かって、それからやがて静かになります、でもそれだけでは終わりません、狂乱はその後になってようやくやってくるのです、筋肉が張り裂けそうなくらいにびく、びく、びくと何度も震えて、縄に吊るされて踊るのです、数分おきに止まったり、踊ったり、止まったり、また踊ったりを繰り返すのです、そうやって最後にようやく、静けさが訪れるのです。
ー……………………いやだ……………………カナコさん…………………………………
14……………15………………………………
ーお友達は、首の骨が最初に折れるのでしょうか。 きっと、そうだと良いですね。
あら。
また、お電話………。
iPhoneが震える。 私はそれを取り上げる、また、非通知…………………
ー出た方がいいかもしれませんよ。 少しだけ、歩みを止めて。
私はしばらくためらって、それから、耐えきれずに、電話に出た。
ー……ハロー。 ハロー。 ………アニー・マクラウドさん？
ー……………はい…………私ですが………………………
ーウエストミンスター病院です。 突然のことで、大変申し上げにくいことなのですが………。 貴方が唯一の肉親だと、警察の方に伺ったもので……………。
病院………………？
ー貴方のお姉さまが…ジェーン・マクラウドさんが、深夜直ぐに…息を、引き取られました。
は？
………………………えっ？
ー………ああ、申し訳ございません、突然のことで…警察から連絡がまだ行っていなかったのですね……………。 落ち着いて、聞いてください。 貴方のお姉さまと、それから…その……そのお友達の男性が………昨日夜10時半に、パブから出たところを、歩道に乗り上げてきたダンプカーに…………事故がありました。 お二人はすぐ病院に運ばれましたが………手の打ちようは……………………………。
それより先の言葉を、私は聞いていなかった。
iPhoneが私の手から、滑り落ちて、音を立てて転がっていく。
ー…………ほら。 また…………誰かが、割を食ったようですね。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
私がそのとき考えたのは、これから誰が、私の学費とか、あと食費を出してくれるんだろうということだった。
どうしようかな。
ラナークに、また戻るしかないのかな…………。
今度は立派なユートピア共産主義者として、ちゃんと心を入れ替えて働くから、どうか許してください。 可哀想な女の子みたいに泣きじゃくりながら、市長にそう訴えたら、もしかしたら許してくれるかもしれない。
あるいはもう一度、造花を作るのも、まあアリかもしれない。 今度は前より上手くやれる気がする。 なんてったって、あの口先の詐欺っぷりにかけては他に追随するもののないナガトユキのお墨付きだもの。 簡単な話でしょ、可哀想な女の子を演じるだけ演じて、暗い顔をしながら1本10ポンドくらいでカーネーションを売りつけてやればいいだけなんだ………。
あるいは別の選択肢もあった。 このサマルカンドに留まって、お茶を売りながら過ごすのも、悪くないかもしれない。 この街はこの街でいいところがいっぱいあるから。 夏の気だるい午後に、私は綺麗なザクロ柄の民族衣装を着て、小さな四角い帽子をかぶる。 それで、旅行に来たたくさんの人たちに、笑顔でお茶を淹れてあげるのだ。
20、21、22…………
そうだ。それが一番良いと思う。
ー良い考えですね。 アニー。 貴方は聡い子です。
ーそう思ってくれる？ ありがとう。 きっと、お姉ちゃんも、ナガトユキも、なんだかんだ同意してくれると思う。 お姉ちゃんの方は、だいぶ渋々って感じかもしれないけどね…………。
23、24……………考えるうちに、だんだん楽しくなってきた。
ーお茶のポットとか、カップはどうしよう。
ーええ。 それはとても大事なことです。 ワイルド・ストロベリーがいいでしょう。 暑い夏のサマルカンドに、ウエッジウッドはアンバランスに見えるかもしれませんが、きっとみんな、驚いて、それから喜んでくれますよ。
ー初期投資は高そうだけど、悪くないかもね。 付加価値をつけることが大事なんだって、ナガトユキさんが言ってたから。 そういえば、音楽とかも、やっぱ店の中に流したほうがいいのかな？
25、26、27…………………
ーええ。 それがいいでしょう。 クラッシックは如何？ あるいは、少し思い切って、ブリティッシュ・ロックは？ 貴方だけで選べなかったら、お友達にも手伝ってもらってみては？ きっと、喜んで力を貸してくれるでしょう。
ーそうね。 それに関しては心強い人がいるの。 カナコさんがとっても詳しいから。
……まあ、たまにわけわかんない曲選ぶかもしれないけど…。 雰囲気とマッチしてたら、許されるかもしれない。
28、29、30、31…………あ、もう出口の門がすぐそこに見える。
こんな楽しい会話を切り上げなきゃいけないのが、なんとなく心苦しい。
ー頼もしいお友達を持ちましたね。 アニー。
ーありがとう。 軌道に乗れたら、みんな読んでくるわ。 貴方も一緒に、みんなでお茶を飲みましょう。 ひねくれ者しかいないんだけど…きっとみんな、祝福してくれると思うから。
32、33、34、35……………
ーそれは楽しそうですね。 アニー。 とてもとても、楽しみなことですね。
そういえば、ところで、聞くのを忘れてました。
そのお友達の皆さんは、今、どこにいるのでしょうか？
ー決まってるじゃない。 カナコさんは日本の刑務所…あ、出てきてからだけど…お姉ちゃんと、ナガトユキはロンドンに…………………………………………………………
ーもういませんよ。 誰も。 死んじゃったもの。
私は後ろを振り返って、声のしたほうを見る。
そこに、貴婦人はもういなかった。
かわりに、青い人たちが立っている。
わたしはみんなをしっている。
カナコさんが口を開く。
ー…アニーちゃん。 ねえ、絞首刑って、どんなのか知ってる？
……………………………
ーあれ、けっこう痛いの。 首の骨、やっぱり折れなかったんだ。
………………………………違う………
ー……アニーちゃん。 どうして私を、あのまま、死なせてくれなかったの。
お姉ちゃんが口を開く。
ーねえ。 アニー。
……………………………お姉ちゃん…………………
ー私、とても心配したの。 貴方が学校で、酷い目にあってるんじゃないかって、とてもとても心配したの。 でも貴方は、何も打ち明けてくれなかった。 元夫にもたくさん詰られたわ、お前の優しさが足りないから、妹も何も話してくれないんじゃないかって。
…………………………………それは……………………………
ーええ、離婚したわ。 とても……辛かった。 ねえ。 アニー。 ……私と夫の仲が、険悪になってるの、気づいてたでしょう。 ……どうしてあなたは、そのままにしておいたの。
ナガトユキが、口を開く。
ーやあ。 アニー。 あー、その、急でなんなんだけどね、やっぱり僕は、結局のところ、こういう道しか選べなかったよ。
…………………………いや………………やめて………………
ーまあ、別に君が気にすることじゃない。 結局のところ、こうなる運命だったのかもしれない。 この2人みたいに恨み言とか言うつもりはないから…。 でも年金とか貰えないのはけっこう損した気分だな、あれで手取り1/4以上減ってる気がするんだけど…。 世の中って案外うまくいかない。 そういう風にできてる。
……………………違う………………ちがうの…………………
逝かないで……………。
私を…………………………………
ひとりにしないで………………………………
私は泣いていた。
霞む目の前に、もうみんなはいなかった。
貴婦人が、私に語りかける。
さあ。 アニー。 アニー・マクラウド。
天国への階段を、おひとついかが？
私は、そっと、ポケットの中に手を突っ込んだ。
そこに財布が入っている。
確か、1000Som札も、たくさんはいっていたはずだ。
私は財布を取り出して、1000Som札を一枚抜き取った。
これでいいんだ。 私は幸せになれる。 割を食うのは、他の人でいいんだ。 私と関係のない、どこか遠くの、他の人が……………。
ふと、階段に、さっき落としたiPhoneが転がっているのに気づいた。 壊れてない。 これでけっこう、丈夫なものなのだ。 壁紙が写ってる。
湖の写真。
この世のものとは思えないくらいに、美しくて……………………
『お姉ちゃん、凄いんだね、僕もそんな風になりたい。』
あの店を出る時になって、男の子はそう言ってくれた。
ーありがとう。 きっと、そうなれるよ。
貴方も私も、まだまだ知らないことが、この世界にはたくさんあるから。
私は、取り出したお札を引っ込めて、それから、真ん中から真っ二つに、引き裂いた。
ー………………………貴方………………………………？
ー……………いらない。 天国への階段なんて、私には要らない。
カナコさんも、お姉ちゃんも、ナガトユキも、きっと、私がそんなことをしたなんて知ったら、絶対に、今よりずっと悲しむ。 あの人たちは逃げなかった。 いろいろあったかもしれないけど、最後の最後には、逃げずに向き合った。 私はそれをずっと見てきた。 私よりずっと賢くて思慮深い人たちが、苦しんで、それでも最後に選んだことを知っている。 私はそれを見て育った。 …私も、そうなりたいと思ってる。
ー…それは、貴方のエゴではなくて。
ーええ。 ………自分勝手な、子供の思い込み。 ………けど私は、あの人達が正しかったんだって、信じてる。
裏切るわけにはいかない。
貴婦人は、私を見つめていた。
彼女は、笑っていなかった。
ただ、その美しい金色の眼で、私をそっと見つめていた。
私は彼女から目を背けて、階段に向き直る。
36。 最後の一段。
…ごめんなさい。 カナコさん。 お姉ちゃん。 ナガトユキさん。
私は、門をくぐり抜けて、それから、膝から崩れ落ちて……………
それから……………………………………
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
ホテルの天井が、私を見下ろしている。
私はゆっくりと目を開けて、上半身だけ起こす。 それから時計を見る。
……………朝の8時過ぎ。…………………………
久々に、遅い時間に起きてしまったものだ。
やたらと喉が渇いているのに気づいて、枕元のサイドテーブルに置いてあった水をがぶがぶ飲む。 おいしい。 やっぱり、ガス抜きを買っておいて正解だった。 スリッパを履いて、それから朝のビュッフェが残ってるか若干心配しながら下に降りる。
よかった。 とりあえず、メロンはまだ無事だ。
今日も、すがすがしいほどに気持ちのいい、澄み切った朝だった。
結局昨日行ってないビービー・ハーヌム・モスクを見て(案外中はしょぼいものだった。 我が国の愛しきウエストミンスター寺院と、どっこいどっこいかもしれない。)、それからモスクに面した店に入る。 野外に木の柱とテント、それから淡いピンク色の短い幕が張られた、気持ちの良い日陰の席に案内されて、私はスニーカーを脱いで暫く涼んだ。 それから、相変わらずの緑茶と、ウズベク風のスープを頼む。 しばらくして、びっくりするくらい彫りの深い綺麗なお姉さん(変な話だけど、トム・クルーズに似てる気がする)がスープを、それから私より小さい男の子がお茶のポットとカップを運んできた。
私はその男の子と、しばらくいろんな国の話をした。
男の子は、目を輝かせて、私の話に聞き入っていた。
それからいろいろ見て、もう日が落ちて帰る途中に、お姉ちゃんから電話があった。
ーアニー。 アニー。 こんばんわ。 元気にやってる？
ーうん。 今日はかなり楽しかった。 こんなことって、なかなかないかもしれない。
月明かりの下で、私はそう答えた。
ーよかったわ。 本当に楽しそうだもの、貴方の声が。 明日も明後日も、ゆっくり楽しんでくればいいのよ。 貴方は何も気にする必要はないもの。
…………
しばらく躊躇って、私は決心した。
ー…………お姉ちゃん。 学校、行かなくて、ごめんなさい。
小さく、だけどはっきりと、私はそう口にした。
ー……………別に、気にする必要なんてないのよ。 いじめられてるんでしょう。
ー………うん。
iPhone越しに伝わるお姉ちゃんの声は、どこまでも優しくて、そして、私を心から思いやってくれていた。
ー貴方のしたことは正しい。
私も彼も………それから、カナコも、それを信じてるわ。
私は涙を拭いて、夜空を見上げる。
月は少しだけ欠けている。
明日になると、きっと、満月になるだろう。
(おわり)