※実在の人物や地名とは全く関係がありません。
(1000Som札編)
その日の夜、本当に久しぶりに、私は何も考えることなく眠りにつくことができた。 故郷の村に住んでいた時も、ロンドンに移ってからもずっと、私は寝る前に何かを考えていた。それは、答えの見えない漠然とした不安であることもあれば、もっと直接的に差し迫ったものごとに対してのこともあった。 だけど、姿の見えない何かに追われるように眠りにつくというのは、少なくともあまり心温まるものでないということだけは確かだった。 だから、やわらかい安心に包まれて、より良いものになるにちがいない明日を待ちながら眠りにつくというのは、とても穏やかで、凪いだ月夜の湖面のような静けさに包まれるような気がした。ちょうど今日は、サマルカンドの夜空も美しい満月だった。
朝早くに起きて、昨日と同じように朝食にメロンを食べる。 今のところ、この国で一番美味しいものかもしれない。 ウェイターがコーヒーを注ぐついでに話しかけてくれる。メロンがお気に召しましたか。 昨日から美味しそうに食べておられるものですから。 私は頷いて、サマルカンドのメロンはいつもこんなに美味しいものなの、そう聞き返す。 ウェイターは嬉しそうににっこり頷いて、ちょうどシーズンですからね、サマルカンドだけじゃなくて、この国のどこにいってもメロンは果物の王様なのです、濃厚でとてもジューシーで、お土産に買っていく人も多いのです、そう我が事のように誇らしげに教えてくれた。 私はメロンを2回おかわりして、それ以外には薄く切ったナンを2切れと、コーヒーだけで済ませる。 それから外に出る。 タクシーを呼んでもらおうかと思ったけど、特に行くあても無いし、少し歩いて朝の新鮮な空気を楽しみたかった。 平日の朝だったから、学校に行く子供たち、働きに出る大人たちが何人も歩いている。みんな忙しそうだけど、楽しそうに生きている。 向かいあった人たちと何度も挨拶を交わす、私も相手も丁寧に返して、それから握手までする。 何にもせき立てられる事のない、だけど充実した、幸せな朝だった。 あの貴婦人は本当に、天国への階段を売ってくれたのかもしれない。 ロンドンに帰った後のことを考えても、私はちっとも憂鬱にならなかった。 何も不安がることはないのだ。 きっとすべてが、うまくいくにちがいない。
暇だったから、もう一度レギスタン広場に行ってみようかと思って、一昨日と同じ道を歩く。 途中で、ルハバット廟近くの広場を通りかかる。 手を広げてmoney moneyを要求していた子供達は、今日もやっぱりそこにいて、兄弟並んで塀の上にちょこんと座っていた。 けれど彼らは、今日は何も喋ってなかった。 忙しく、半ば遊びのようにお金をせびることもしなければ、やかましく笑顔で喋ることもしていなかった。 その顔には私が見たような、ヴィヴッドな弾けるような生の実感はもう宿っていなかった。口を少しだけ開いて、眼はここではないどこかをずっと見つめていた。 彼らは何かを伝えたがっているように見えた。これからどうすればいいのか、何もわからないし、誰も教えてくれる人はいないのだと、彼らは言いたそうだった。 けれどそれを、言葉にして伝える術すら、彼らは持ってはいないのだ。
道行く人が、何かを話している。 私は歩くのをやめて、少しだけ耳をすませてみる。
ーあのガキたち、なんかあったのか？
ー母親が昨日、死んだらしい。 メロンを3球抱えて道を歩いている時に、そのまま口の端から泡吹いて、それでぽっくり。 あいつら、他に身寄りも無いだろうから、これからどうするんだろうな。
ー可哀想な話だな。 葬式の準備とかも、あるだろうに。
ー金がなくて、それすらできないんだとよ。
私はじっと立ち尽くして、彼らの横顔をもう一度だけ見やった。 その顔は、朝日に照らされて、それでもそこが見えないくらい、深い絶望の淵に沈んでいた。
声をかけようかと思って、私は思いとどまってやめた。 『私は』今、幸せだけれど、世の中の全ての人がそうであるわけではないのだ。 それに、数日後にはロンドンに帰る私が、無責任なことを言うわけにもいかなかった。
天国への階段を買ってから、浮き立っていた私の心が初めて沈んだような気がして、なんとなく足が重くなった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
レギスタン広場を眺めてから、ビービー・ハーヌム・モスクの隣の通りに面した、昨日お昼を食べた店で、私は一休みする。 緑茶を頼んで(4000Som)、昨日と同じようにポット一杯分たっぷりと出てくる。 彫りの深い女の店員さんは、私の顔を覚えていてくれた。 私は和やかに挨拶をしてみる。 彼女も挨拶を返してくれたけど、なんとなく浮かない顔をしている。 それは、さっき広場で見た少年たちと、どこか通じるものがあった。
ーどうしたの？ 今日は弟さんは来てないの、学校？
私はそう聞いてみる。
ー………いえ。 昨日の夜から、熱が下がらないの。 ひどい熱。 昨日の深夜に、お医者様を呼んだわ。
ー…それは大変ね。 早く良くなりますように。
ーありがとう。 弟も喜ぶわ。
そんな会話をしていたとき、店長？らしきおじさんが、彼女を呼んだ。 ウズベク語だったので良くわからなかったけど、彼女は慌てて、それじゃあ、またね、そう私に言って、店の奥に駆けていった。 私がポットの緑茶を空にして、お会計をする時になっても、彼女はまだ戻ってこなかった。 仕方ないので、私は別の店員さんを呼び止めて、お金を払う。 席を立って、店から出ようと歩き出した時に、女の人が叫ぶように泣いている声が聞こえた。 激しい津波のような、全てを彼女の中から押し去ってしまうような、強い、悲痛な声だった。
ー可哀想になあ……。 突然の話だから。
店員さん達が、何か話しているのが聞こえる。
ーああ。 あいつの弟さん、亡くなったんだって？
私は思わず振り返って、それから、逃げ出すように、その店を後にした。
何かが、どこかで、おかしくなっている………。
私はホテルに戻りたかった。 偶然だと思う。 悲しいと思う。 あんなに純粋な、広い世界への憧れを語ってくれた男の子が、たった1日で、もうこの世界にはいないだなんて………。 私はモスクやお土産には目もくれず、とりあえず来た道を戻るように歩いていた。 だけど、店を出て、レギスタン広場まで戻る途中に、またiPhoneが鳴った。 私は通知を見る、お姉ちゃんからの電話だった。 私は少し手が震えて、それでもなんとか通話アイコンをタップして、電話に出る。
ー…ハロー、アニーよ。 お姉ちゃん？
ーああ、アニー。 …昨日はいきなり電話かけてごめんね。…今日もいきなりなんだけど、ちょっとだけ別の話なの。 貴方、いつロンドンに帰ってくるつもり？
ーえ、いや、4日後くらいに………。
ーそう。 別にそれ自体は全然構わないんだけどね、良いニュースと悪いニュース、両方あるの。 悪い方は、直接貴方に関係あるわけじゃないんだけど。 どっちから聞きたい？
ー…………悪い方から。
ー……………そういえば貴方、好きな食べ物は最後に残しておくタイプだったわね。 じゃあ悪い方から。 もう知ってるかもしれないけど、昨日の深夜に、ロンドンで結構ひどい暴動があった。
ー暴動？
ーまだ知らないのね。 排他主義的な極右集団と、警官との間で。 最終的に武力衝突にまで発展して、残念なことだけれど、巻き込まれる形で死者が出た。 何人かの浮浪者と、それからたまたま、お誕生日会で夜まで遊んでた、ハイ・スクールの女の子が1人。 貧乏な子で、その極右は低所得者層の排他を訴える奴らだった。 …とても酷いことが、この国で起こってしまった。
ー……………………
ーだから、帰って来る時も十分気をつけなさい。 街はかなりピリピリしたムードだから。 まったく……あいつがロンドンに来た途端にこれよ。 これから先大丈夫なのかしら。 思いやられるわ。
ー……まあ、それは多分関係ないと思う。
ー…そうね。 とにかく、帰って来る時は気をつけなさい。 もう１つ、良いニュースの方だけど、カナコ………貴方と東北で一緒にいた人ね………裁判、やり直しになったみたいよ。
ーやりなおし？
ー情状酌量の余地があるとかなんとか。 正直よくわかんないんだけどね、私。 多分、刑期短くなる方向に行くんじゃない？ 貴方宛に、手紙きてるわよ…読もうか？
いいわ、帰ってからのお楽しみにするから。 私はそう言って、知らせてくれてありがとうね、そう続けて、お姉ちゃんと少し喋ってから電話を切った。
カナコさんからの手紙。
きっと、悪い話じゃないだろう。 なんだかうきうきする。
………でも、もう１つの話も、気になる。 極右？ 衝突？ …死者？
私は適当なベンチに座って、iPhoneを弄ってwifi(モバイルのやつを空港で借りてきていた。 昨日まで全く繋がらなかったのに、今日は一瞬で快調に繋がった。 かなり早い。)に接続して、ニュースを適当にスクロールしてみる。 ロンドン、デモ、衝突、死傷者、…他の国でもデモ、収束の兆しが見られず…世界を覆う、排他主義の影……
少なくとも、心が弾むような話ではなかった。
その一方で、幸せになるニュースもたくさんあった。 難病の少女(有名な映画俳優の娘さんだった)、無事心臓移植に成功、費用1000万$…アメリカの富豪が難民救済基金に資産を寄付(とんでもない数字だった)……。
私はそっと、iPhoneをスリープさせようとした。
その時、ふと気づいた。 WhatsApp(※ラインみたいなもの)のクラスルームの通知が、何故か今日になって大量についてる。 正直見たくもないし、基本的に無視してた(みんなも、基本的に私を無視してた)けれど、なんとなく気になって、久々に開いてみる。 悲しみの声。 驚きの声。 …そんな文字が、たくさん……………
その原因を私が知るのには、少し上にスクロールする必要があった。
クラスメイトの1人が、昨日の夕方、殺されていた。 実の父親に。
呼吸が荒くなる。 iPhoneの画面以外、何も目に映らない。 私は大量の文字の流れを読み込んで、原因を見つける、その女の子の家は、かなりの資産家だったけど、最近の貿易戦争のあおりをモロに受けて、かなりの負債を抱えていたらしい、そして昨日の夕方、その女の子は、父親に鳥撃ち用のライフルで頭を撃ち抜かれて、帰らぬ人となった……。 画像も、アップされていたようだけど、すぐに削除されていた。
その女の子は、私へのいじめの、中心にいた子だった。
私はベンチから立ち上がって、走り出した。 ホテルへ、荷物をまとめて、早くサマルカンドから出たい…早く、早く、はやく…ロンドンに…
ホテルまでの道の途中で、色んな話が聞こえてくる、私は自分のできる限り走っているのに、全部しっかりと聞こえてくる……言葉の方から、私を追ってくるみたいに…頭の中から、笛吹きの音と、風の囁きで、がーん、がーんって、頭蓋骨を鐘をつくみたいに揺らされるみたいに…………
ーねえ知ってる、あの家の娘さん、昨日結婚式だったのよ。
ーええ、綺麗だったわねえ。 夫の家も裕福みたいだし、ねえ。
ーそういえば、昨日工事現場でまた事故あったらしいわよ。
ーああ、あれ、物乞いしてた親子の頭の上にダクトが落ちてきたやつ。
ーいいな、私も、大学入ったら留学とかいっぱいしたいんだけど。
ーアイは優秀だから、たぶん先生に推薦してもらえるんじゃない？
ーなあ、おい、また裏通りに小汚いガキどもたむろしてるぜ。
ーああ、あれな、見た、ストレスだし、ちょっと掃除してこようぜ。
何、これは、何、なんなの…………幸せ…不幸…幸せ……不幸…………………………
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
汗びっしょりになって、私はホテルに転がり込む、鍵を受け取って部屋まで駆け上がって、服を脱ぎ散らかして、冷たい水のシャワーを全開にして浴びる。
おかしい、何かが違う…。 私は幸せになった、なにもかもから解き放たれた…もう学校なんて行く必要ない、きっと、ナガトユキがお姉ちゃんを説得してくれる…カナコさんも思ってたより早く出て来れそう…わたしをレスビアンの殺人鬼だと書き込んだクラスメイトは、もうこの世にいない…幸せ…幸せ……私にとって、幸せなことしかないんだ…………………。
冷たいシャワーは、少しだけ私を落ち着かせてくれる。 分厚くて柔らかな白いバスタオルを掴み取って、ごしごし身体を雑に拭いて、下着とキャミソールとジーンズを履いて、私はベッドに仰向けに寝転がる。 たまたまなんだ。 別に、おかしいことじゃない、幸せなことが続きすぎて、よくある暗い話に、私はちょっとだけ過敏に反応しちゃってるだけなんだ……。 何度か深呼吸して、心を落ち着かせる。 そうだ。別に、私が何か、悪いことをしたわけじゃないんだ、私はただ楽しかった思い出と、これから先起こる綺麗な未来だけを考えて、ロンドンに帰ればいいだけなんだ…。 そう考えて、私は上半身をベッドから起こす、荷造りをしなきゃ、だいぶ散らかってる……。
そこで気づいた。 私の目の前に、何人もの青い人たちがいることに。
男の子がいる。 昨日、お店で写真を見せて目を輝かせていた、あの男の子だ。
女の人がいる。 広場で、物乞いをする少年たちを叱りつけていた、お母さん。
ボロ布に身を包んだ親子がいる。 頭に、太いダクトをめり込ませて、眼球が片方だけ垂れ下がって、床にこぼれ落ちている。
ハイ・スクールの制服に身を包んだ学生がいる、服はところどころ破れて、革靴の跡を身体中につけて、筋肉が引きつった顔で、助けをも求めている。
クラスメイトの女の子がいる。 頭の半分が、無くなっていた。とろとろ、少しだけ茶色い液体が、とろとろ、とろとろ、その子の空いた頭から流れ出ている。
彼ら、彼女らは、私に語りかけてくる。
ーお姉ちゃん。 世界を回って、僕の分まで幸せになってね。 僕の分まで。お金がなくて、僕に出来なかった分まで、幸せになってね。
ーお嬢さん。 うちの子供が迷惑をかけてごめんなさい。 お金がなくて、私が子供たちにしてやれなかった分まで、あなたは幸せになってくださいね。
やめて…違う……私はそこまでして…………
ーああ、きみ、サマルはどうだい、果物が美味いだろう、お金がなくて、俺たち親子は結局ほとんど何も食えなかったけど、君はなんでも味わって、幸せになれよ。
違う、違う、あなたに食べさせてあげるから…………
ーアニー。 …ごめんなさい。 本当に、貴方には悪いことをしたわ。 …わたしの家からはお金がなくなった、だから報いを受けたの、貧乏なのにあなたをいじめた報いを、貴方はもう、何にも縛られないの、もうわたしはいないのだから。 その分まで、幸せになってね。 アニー。 アニー・マクラウド……。
やめて！ あなたと会いたくない、お願い、やめて、そんなこと言うのは！
アニー。 幸せになってね。 アニー。 幸せになれよ。 アニー。 幸せになりなさい。 アニー。 お幸せに。 アニー。 あなたは幸せなの。 アニー。 アニー。 アニー。 アニー。 アニー。 アニー。 アニー。 アニー………………………。
……………気がつくと、青い人たちはいなくなっていた。
もう、夜だった。 少しだけ欠けた満月が、空に昇っている。
今、何時なんだろう。 私はiPhoneの画面をつけてみる。 深夜1時過ぎ。
私は水を飲もうとして、ふらふらして少しよろけて、壁に体を這わせてペットボトルの蓋を開けて、中身をほとんど一気に飲み干す。 飲み終わって、椅子に倒れこむ。汗びっしょりで、キャミソールがべっとり湿ってる。 気持ち悪いけど、着替える気にもなれない。 果物の乗ったお皿と、飲み干したペットボトルが乗った机がある。 その机を挟んで、向かい側の椅子に、貴婦人が座っていた。
彼女は、最初にあった時と同じように、優しく上品に微笑んでいた。
ーアニー。 スコットランド産まれの可愛いお嬢さん。 幸福の香りはどうかしら。 きっと満足しているでしょう。 すべてのものが黄金のように輝くのだもの。 世界のすべてが、きらめく黄金なの。 美しい世界へようこそ、アニー。
私は何も言えなかった。 というより、喋れなかった。
貴婦人は続ける。
ー笛吹きの音に耳を澄ませなさい。 幸せな音色だけに耳を傾けなさい。 それ以外はすべて、ただの風の囁きにすぎないのだから。 あなたはただの岩。 押しても叩いても転がらない、ただのひとつの黄金の塊なの。 そして、あなたの目に映るものすべてが、あなたと同じ黄金でできているの。
私は貴婦人の前に置かれていた果物の皿から、イチジクを１つだけ取る。 別に果物が食べたかったわけじゃない。 ただ、あまりにお腹が空きすぎて、喋る気も起こらなかった。 イチジクを一口齧る。 甘くて、それから、少し青い。
ー……………つまり、ろくでもない世界ってことね。 私以外は。
ようやく、私は吐き棄てるようにそれだけ呟いた。
貴婦人は小さく笑って、それから口を開く。
ーアニー、可愛くて無知なアニー、それは違うわ、大いなる間違いよ。 貴方は間違いなく幸せになった、1000Somの、天国への階段で。 ただ、貴方だけが幸せになるだけじゃ、釣り合わないもの。 割りを食うものがいなければ。 そして、その人たちは必ず、貴方の幸せを願っているの、貴方はその人たちが割りを食ったことによって、黄金の煌めきを自分が享受していることに気づくの。 ねえ、スコットランドのお嬢さん、黄金は、まわりが黄金だけでは、煌めきに気づけないものなの。 輝かないただに石がなくては、その石が、簡単に割れて散って砂になるものでなくては、黄金というものは意味を成さないの。 端正こめて調理されたオルトランのソテーを骨ごと味わう貴人が座る椅子の裏側で、硬いパンにすらありつけずに飢えて死んでいく子供がいなければ…お酒を頼みながら、暖かい部屋で未来について語り合う若者たちの椅子の裏側で、過去を憎みながら冷えた拳銃の柄を握りしめる老人がいなければ…。 それと同じように、貴方は幸福を手に入れたの。
私はもう一口だけ、イチジクの実を齧る。
ー………それが、私の買った階段ってことかしら。 誰かの犠牲を踏み台にして、自分が幸せになる、そんな階段を、貴方は私に売ったってことかしら。
ーああ、アニー、可愛いアニー、そんなに怖い顔をしないで。 元に戻りたい？ クラスメイトが貴方を蔑み、御姉様は貴方から顔を背け、信頼できる友達は誰も彼もが離れていく、そんな世界に、貴方は戻りたいの？ 今に目を向けなさい、アニー。 貴方の目の前には、輝く黄金があるのよ、目に映るものすべてが黄金に輝く、ただの石ころは排他されて、黄金の輝きを引き立たせて、そして砂になるの、そんな世界が待っているのよ、アニー。 素晴らしいことじゃない。 お金があれば、なんでも手に入るのよ、すべてが叶う。 貴方はお金の力で、全てを手に入れたのよ…………。
私は思い返す。 今までのことを。 いじめられた。 殺人鬼だと言われて、机に落書きをされて、靴を隠されて、放課後には上級生とクラスメイトに呼び出される。 お姉ちゃんは離婚した。 それはあるいは、私のせいかもしれない。 カナコさんは自殺しなかった。 でも、今は刑務所。 ナガトユキは…まあ、彼はいつでも、自分の好きなようにやるだけかもしれない。 けどどこかで、彼にも迷惑をかけているのかもしれない。
このままのほうが、きっと………みんな、私も含めて、幸せなんだろう。
ごめんなさい。
一呼吸置いて、私は立ち上がって、鞄を持ってくる。
貴婦人はまだ静かに笑っている。
私は鞄の中から財布を取り出して、よれよれの1000Som札を2枚取り出した。
それを、貴婦人の目の前に差し出した。
ーこれはなにかしら。 アニー。 天国への階段を、また買いたいの？
私は首を振る。
ー…逆よ。 天国への階段とやらは、貴方に返すわ。 そのかわり、残りの1000Somで、私のせいで割りを食った人たちを、返しなさい。
その時、初めて、貴婦人の口元から、笑顔が消えた。
ー…あら。 どうしてかしら。 御嬢さん。
ー……お金で、全てが買えるんでしょう。 私の得た幸せと、割りを食った人たちが同じ価値だというのなら、これで足りるはずよ。 階段の返却代で1000Som、元に戻してもらう代金で1000Som。 どう、ちゃんと合ってるでしょう。
ーなぜ、そうるすのかということを、聞いているのよ、アニー。
ー……私の周りには、ろくな大人はいないわ。 みんなどこかで間違っている。 悪口と皮肉ばっかりの日本人、自慢じゃないけどひねくれ者の姉、あと、夫を殺した人もいる。 彼らはみんな、何らかの形で、私をいいように使おうとしていたわ。 自分の幸せのために。 でも、最後にはみんな、そうじゃない道を選んだ。 私が可哀想だからとか、そんな理由じゃない。
みんなは、心の深いところで、誰かを階段の踏み台にして自分が幸せになることを、最後の最後で拒んだのよ。 正しいかどうかはともかく、みんなそうしたの。
ー…………正しくないかもしれないことに、貴方は従うの。
ーええ。 私もけっこうこれで、頑固な方なの。
貴婦人は、私の差し出した2枚の1000Som札を受け取った。
ーああ。 アニー。 可哀想なアニー・マクラウド。 勇気あるアニー・マクラウド。 貴方の言うことは、確かに正しいわ。 階段の返却代と、それから、割りを食った貧乏人どもを返す分の代金。 ええ。 ええ。 確かに受け取りました。
………アニー。 それで、貴方の階段の数は、行きも帰りも、同じかしら？
ー…回りくどいこと言うわね。 確かめに来なさいってことでしょ。
ー聡い子。 その通りよ。 今から来るのです、登りなさい、そして降りなさい、天国への階段を。 私はそこにいます。 私は貴方を拒みません。
貴方はもう一度、天国への階段を、私から買うことでしょう。
そして、彼女は部屋を出て行った。
さて。
できれば明日の朝過ぎまでに、済ませてしまいたかった。
美味しいメロンが、朝食のビュッフェから無くなってしまう前に。
満月から少しだけ欠けて、それでも月はわたしを照らしてくれている。
(天国への階段編につづく)