※この地球とは別の世界の完全な創作のお話です。
登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。 申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。
(最終部)
スクルージ爺さんはもうすっかり酔っ払っていた。 でも僕の頭は妙に冷めており、時計をじっと見つめて、その針がかち、かち、かちと音を立てて、僕がニューラナーク村の住人になっていくまでの時間を刻むのをどうしようもなく眺めていた。 やれやれ、まさか再就職先がスコットランドの田舎の紡績工場からになるとは思わなかった。 まだ諦めたわけではなかったけど、時刻はもう11時28分を指していた。 アニーはどうしたのだろう。 無事クビになっても、嘘をついた僕を許してくれなかったのかもしれない。 それとも市長の家で何かが起こって、彼女はまだあの家に留まっているのかもしれない。 やれやれ、結局嘘つきは報われないのかもしれない、スクルージ爺さんがそうだったように。 アニーにはせめて幸せになってほしいと思った。
そういえば、日本での再就職先に書類をもう出してしまったけど、あれはどうしたらいいのだろう。 そもそも家族や友人にどう説明したらいいんだろう、日本で勤めるのはやっぱり辞めにしました、再就職先はニューラナークという村にある小さな紡績工場です、給料は安いけどビールと胡瓜だけはまあまあ美味しいです、今度遊びに来てください……。 それはずいぶん不自然な説明に思えた。 大体、僕はエジンバラのホテルにいろんなものを置いてきているのだ。 僕が今持っているものといえば、パスポート、ビザ・カード、少しばかりのポンド紙幣と日本円、あとは栓抜き。 これでずっとこの村で暮らせというには、いささか心許ない所持品だった。 僕は爺さんに、この村でクレジット・カードが使えるATMはあるかと聞いたが、そんなものは当然無かった。 やれやれ、何もこんな所に再就職させられなくてもいいのに。
「なあ若いの、物事は全て捉え方次第で変わるんだ。 あんたはここで永遠に生きることになる、それは確かにあんたのような若者にはとんでもない苦痛のように思えるかもしれない、だけどこの村には平穏と安寧が確かにある、変化する必要が無いんだ、何かから逃げる必要も無いんだ。 この村にはあんたの求めるものは何も無い、そして同時にあんたの心が求めている全てのものがある、そういうものなんだ。」
僕は少し考えてみた。 僕は確かに、受験からも、前にいた会社からも、全てから逃げ続けてきた。 逃げるというより、困難な道の先に大きな利益があると分かっていても、僕は絶対にそういうルートは選ばなかった、それだけのことだ。 それは人生における僕の方針やかんがえかたというよりも、僕という人間のもっと根本的な部分に深く根ざす、性質や本能と言ってもいいような考え方だった。 別に僕はそれを後悔したこともないし、これから日本に帰ってもずっとそうやって生きて行くだろう。
では僕は何故、ヘルシンキから関西国際空港に帰らず、今こうしてここにいるのだろう？ 何故あの時アニーをさっさと見捨てて、ニューラナーク村に来てしまったのだろう？ 彼女の事は確かに友達の1人だと思っていたが、出会って1週間に満たない、僕の人生には何も関わらない少女なのだ。 考えても結論は何も出なかった。それはあるいは一時の気の迷いや感情に任せて、取り返しのつかない失敗をしたというだけのことなのかもしれないし、あるいは僕の心の深い所が逃げることに疲れて、爺さんのいうところの安寧や平穏に満ちたこの村を選択したという事なのかも知れなかった。
いずれにせよ、僕はあと凡そ30分で僕に下されるであろう結論を、そのまま受け入れるしか残された手段は無いのだった。 僕は爺さんの言葉を考えながら、黒くて苦いビールを一口だけ飲んだ。 ニューラナーク村で飲むビールは、これまでに僕が飲んできたどの黒ビールとも違う味わいだった。 重くて、苦くて、全く甘みを感じられなくて、なんとなく涙を飲んでいるような感覚だった。 アニーはジェーンの真実を知ったのだろうか。 契約書を市長に渡して、僕の名前が本物では無かった事を知ったのだろうか。 考えてみれば、アニーの周りの大人は嘘つきだらけだったのかも知れない。 僕もジェーンも、心や感情の深い部分では同じものなのかも知れない。 勝手な要望だけど、僕はアニーにだけはそうなって欲しく無かった。
時刻はもう、11時35分を指していた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
アニーを村の境界で待たせて、私はニューラナーク村の広場まで戻ってきていた。 どうして、どうして私はあのままアニーと一緒に帰らなかったのだろう。 あの男の事は特に好きでも無かったし、あのまま帰っても私の人生において忘れ去られる筈の人間でしか無かった。 だけど、きっとアニーは、妹は、あの男を記憶の中から忘れ去ったとしても、いつかどこかで必ず、彼を連れて帰れなかった事を後悔するような気がした。 それは殆ど確信に近い感情だった。 一度くらいの嘘は、家族でも友達でも許してあげるものなの。 あの子はそう私に言った。 私がアニーに許してもらえる資格が無いことくらいは自分でも分かった。 きっとこれから私がどのように生きようとも、アニーを深く傷つけた事は無くならない事実だったし、それがあの子の心の深い所にどんな影響を与えて行くのか、私には分からなかった。
いずれにせよ私がアニーのために出来る事は、あの男をニューラナーク村から連れて出て行く事しか無かった。 アニーはきっと、自分では全てを思い出せないとしても、友達を置いて行った事を後悔するだろうから。 私はうっすら雨の降る広場に差し掛かった。 あの男がどこにいるのか私は知らなかったが、ことこの村においてそれを推測するのは特に難しいことでは無かった。 この村で夜遅くまでビールが飲める所なんて、中央食堂以外に存在しないのだ。 この広場の一角から続く道を真っ直ぐ進めば、数分で辿り着けるはずの場所だった。 もしそこに彼がいなければ、それこそ私にはどうしようもない事だった。私は早足で、雨の降る夜のニューラナーク村を横目に、中央食堂への道を急いだ。
ねえ、こんな夜遅くからどこに行くの。
私に誰か声を掛けてきたのはその時だった。 当然広場には私以外に歩いている人は誰もいなかった。 その声は気のせいだと思い過ごすには、あまりにもはっきりと、明確に私の方に向かって、ほとんど呟くような大きさではあったが、確かに語りかけていた。 私は少しだけ立ち止まって、周りに誰もいない事を確認してまた歩き出した。
ねえ、食堂に行ったって何の意味もないわよ。 それは正しい行動ではないの。 理性的な行いではないの。 貴方が一番よく分かっているでしょう。
それは私にもよく分かっていた。 アニーの心ををこれ以上傷つけるわけにはいかなかった、それだけのためなのだ。
アニーの心を傷つけない？ もう貴方の妹は十分傷ついたわ。 それは言葉や態度には現れないの、あの子が貴方を赦したって言っても、その通りだとあの子自身でも思おうとしていても、確実に貴方達はアニー・マクラウドの心の奥の深い深い部分を傷付けて、損なったの。 失われたものはもう決して戻ってこないの、貴方達がそうだったようにね。
私達がそうだったように？ 私達とは誰なのだろう？ 私と、あの男のことなの？
その声はまだ続いた。 それはどこから語りかけてきているわけでも無かった。 それは、このニューラナーク村そのものが私に話しかけているのかも知れなかったし、私の内側から、私自身に対して問いかけてくる声なのかも知れなかった。
貴方もあの男も、アニー・マクラウドを確実に損なったの。 貴方はこれで自分が許してもらえると心の奥底でそう思っているのでしょう、でもそんな事はあり得ないの、それは貴方自身が一番よく分かっている事でしょう。 あの子は心の深いところで、貴方に傷つけられた事を決して忘れない、あの男に嘘をつかれた事も決して忘れない、そういう事なの。 貴方が自分自身であの子を否定したの、あの子を侮辱してジン・ロックを頭から浴びせたの、あの子の無知さと無様さを嘲笑ったの、あの子の首を絞めて罵倒したの、そして貴方は今、自分自身の罪悪感を拭うための免罪符を得るために、こうしてニューラナーク村に戻ってきたの、それはアニー・マクラウドの為なんかでは決して無いの、貴方自身が自分を慰めるための自慰行為のようなものでしかないの。 ねえ、本当にあんな事を自分の妹にして、自分が許してもらえるとでも思ってるの、ロンドンで幸せな結婚式を挙げて職場の人や友人やアニーに祝福してもらって、幸せな暮らしを築ける権利があるの、そんなもの貴方には無いでしょう？ アニー・マクラウドは、貴方の事もあの男の事も、決して赦してはいないの。
やめてよ。 私は足を止めた。 動かなかった。 足がガクガク震えて、やがてその震えは全身に登ってきて、私の身体と心を覆った。 私はその場に膝を折って座り込んだ。 祈るように、誰かに赦しを乞おうとするように。
「貴方は決して変われないの。 自分ではどう思ってるの、スクルージ爺さんに裏切られて、父親の死に目にも立ち会えなくて、この世と自分自身への復讐心に溢れて道を間違ってしまった可哀想な女だと思っているのでしょう、違うわよ。 それは全く見当違いの思い込みなの。 貴方の本性は、心の優しすぎる正直な妹を嘲笑いながらお酒と煙草を楽しんで、あの子が誕生日に渡してくれた造花を燃やしてジンを振りかけて火を消すような人間なの、貴方もあの男も、それを償わなくてはならないの、この村で、この村でずっと懺悔して紡績工場で働きながら、永遠に生きなければならないの、それが貴方が取るべき唯一つの行動なの。」
ジェーンは蹲ったまま泣き出した。 それは妹の前で見せた涙でも、市長の前で見せた涙でも、何にも当てはまらない、自分がもう2度と赦して貰えないと知った時の子供のような、恐怖と、諦めと、絶望に満ちた涙だった。
ねえ、ここで一緒に暮らしましょう、それが貴方にできる唯一の事なの。
ニューラナーク村の夜の霧は、やがて雨や薄い街灯のオレンジ色の光と１つになって溶け込んで、うっすらと形を作った。 それは、アニー・マクラウドによく似ているようにも見えたが、ジェーンにはそれが誰なのかがよくわかった。 それはジェーン自身だった。 子供の頃のわたしと、それから成長し続けて今に至るまでの私が、逃げようとする事を赦さないで私を迎えに来たのだ。 私にはそれが分かっていたから、私自身が差し出したその手をゆっくり受け取って、のろのろと立ち上がった。
私達は、広場の方向へと、歩いていた道を逆へと歩き出した。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕はスクルージ爺さんが言った事をずっと考えていた。 僕はもう何からも逃げなくていいのだ。 この村に留まれば、平穏と、安寧と、そして僕がずっと求めていた何かを得られるかもしれない。 爺さんは煙草をうまそうに吸って、何本か残った箱とマッチを僕の方に差し出した。 遠慮なく吸ってくれよ、これからはお互い仲間同士なんだからな、爺さんは僕にそう行った。 僕は黙って頷いて、煙草と一本抜き出して加えて、マッチ箱からヨレヨレのマッチを一本手に取って、火をつけた。 煙草に火をつけようとした時に、僕はようやく気づいた。 僕がずっと求めていた何かは、他の人から裏切られないように願うことだったということに。 だから僕は友達には公平であろうとしていたし、面倒な事からは出来るだけ逃げようと心がけていた。 でも自分が人を傷つけるのは不思議と怖くなかった、それはあくまで他人が抱えるべき痛みであり、別に僕が感じるべきものではなかったからだ。 僕はアニーに嘘をついた。 嘘をついてなお、自分はちゃんと逃げられるようにアニーにアメリカン・エキスプレスを手渡していた。 そういう小細工や誤魔化しも、ニューラナーク村に住めば下らないことのように思えるのだろう、そんな事を考える必要も無くなるのだろう。 それは考えてみると、それほど悪くない選択肢のように聞こえた。
僕はマッチの火を、咥えた煙草の先端に近づけた。
その時、確かに彼女が僕に囁いた。
「………ねえ、お願い。 約束して、お願いだから。 貴方がこれから先どうなっても、市長になっても、もしいつか市長を辞められても、今持っている煙草が切れたら禁煙して。 約束して、今。」
そういえば僕は、アニーと約束したんだっけ。
やれやれ。 僕は首を少しだけ振った。 それは無駄な我慢なのかも知れなかった。 けれど僕は、少なくとも今この時は、あと数十分で日付が変わって僕がニューラナーク村の住人になるまでは、いや、ニューラナーク村の住人になっても、それでもずっと、これ以上アニーと交わした約束を破るわけにはいかなかった。
僕はマッチを振って火を消した。 咥えていた煙草をはなして、そのまま灰皿の上に置いた。 ありがとう、でも禁煙の約束があるからね、僕は爺さんにそう答えた。
あんたも変な人だなあ、爺さんはそう言って笑ってビールを飲んだ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
私は自分自身の亡霊に手を引かれて、広場の前まで戻ってきていた。
さあ、こっちの道を曲がったら、貴方の家があるわよ。 わたしもずっとそこにいるわ。 もうわたしを裏切らないでね、もう傷つけないでね、わたしに嘘を言って、どこかに言ったりしないでね。 一緒に暮らそう、ずっと一緒にいよう、お姉ちゃん。
私は泣いたまま頷いた。 雨が少しだけ強くなって、私の体を濡らした。 そういえば、アニーは傘を持ってなかった気がするけど、風邪をひかないだろうか。 寒さで少しだけ震えながら、それでも私を待っていてくれるのだろうか。 あの子は、本当は私を今でも恨んでいて、もう決して赦してくれないのだろうか。 今度、ロンドンでいい傘を買ってあげよう、そう思った。 スコットランドの海沿いの激しい風でも折れないような、かと言って嵩張らない、美しい作りの折り畳み傘を買ってあげよう。 それで少しでも、あの子に対する償いになればいいんだけど。
私がこのまま家に戻れば、あの子はどうなるのだろう？
いずれ私のことも忘れて、ウエストミンスター寺院あたりで造花を売りながら生きていくのだろうか。 せっかくニューラナーク村から解放されたのに。 可哀想なアニー・マクラウド、私の妹。 私は、11時55分に、あの男を連れて、必ず戻ると約束したんだっけ。 ごめんね、アニー。 2度も嘘をついて。 貴方との約束を破って。
一度くらいの嘘は赦してあげるものなの。
次は許さないけどね、本気で叩くから。
じゃあ、2度目はどうなるのだろう。 私はまた、アニーに平手で叩かれるのだろうか。 もう一度、あの子は泣くのだろうか。 私のせいで。
私は亡霊から手を離した。
どうしたの、早く家に帰ろうよ。 またわたしを1人にするの、わたしを傷つけるの、私の心を損なうの、お姉ちゃん………。
ごめんなさい。 私は答えた。 でも私は、村の入り口で待ってくれているアニーを、もう独りぼっちにするわけにはいかないから。 私の妹にこれ以上嘘をついたら、次は本気で叩かれるからね。 私の足にはようやく自分の意思が戻ってきた。 私は中央食堂への道に向き直った。 自分とアニーの亡霊がずっと私の背中を見つめているのが、私にはよくわかった。 だけど私はもう行かなくてはならなかった。 妹との約束をこれ以上破らないために。 アニーが示した行動が、正しかったのだと私自身が納得するためにも、私はあの男を連れて境界線に向かわなければならなかった。
ごめんなさい。 でも貴方も、ずっと私と一緒にいるの。 私がこれまで生きてきたことも、アニーに対して嘘をつき続けてきたことも、決して無くなりはしないから。
私は1人で呟いて、中央食堂への道を歩き出した。
そういえば私は、アニーと中央食堂で一緒に食事をしたことがなかった。 アニーはいつも、黒いパンと、キャベツのスープと、ごく稀にチーズと、そして胡瓜をパンに挟んで私と一緒に食事をしていた。 私は今気分が少し良くないの、もう少しだけしたら食べられるから、そう言って部屋に入ってやり過ごすことがよくあった。 私はそんな時、決まってエジンバラやロンドンで美味しい食事やお酒を味わった後だった。 今でも覚えている。 ロンドンの小さな店で、美味しい中華料理を食べた後、飛行機でエジンバラまで戻って、アニーの作ってくれた食事を断って暫く部屋に篭って本を読んで、アニーがねえ、お姉ちゃん、わたしもう休むね、気分が良くなったらご飯を食べてね、そう言った後で暫くして、アニーが作ったスープと胡瓜のサンドイッチを全部家の近くの川に流して捨てた。 アニーはそんな事を知らないだろう。 知らないけど、アニーは私を赦す、そう言ってくれた。 そして私を外に連れ出してくれた。
私は、もうこれ以上、あの子を傷つけてはいけない。
それだけは確かなことだった。 亡霊だらけの、この不確かな村で。
雨が強くなってきた。 私は中央食堂への道を急いだ。 何度かつまづきそうになりながらも、ようやくその建物に辿り着いた。 相変わらず陰気で、こんな所で食事をしたらあっという間に息が詰まりそうだった。 あの男は本当にこんな所で酒を飲んでいるのだろうか、だとしたら相当に呑気でどうしようもない男だ。 私は彼のことが好きになれなかった。 でもそれは彼の方も同じだろう。 彼は私の事を、今まで見たことがないほどのクズ野郎だと言ったのだから。 それでもいいわ、珍しいクズ野郎同士、せめてアニーを泣かせないように、この村から出て行きましょう。
私は、中央食堂の玄関扉を開いた。 だだっ広い部屋の真ん中の席には、もちろんあの男と、そしてスクルージ爺さんが、赤い顔をしながらビールを飲んでいた。 2人は思いがけない来客の方を見て、そして爺さんも彼も、何か怪しい変人でも見るかのような怪訝な目で私の方を見つめていた。 全く、本当に失礼な男どもだ。
「………まさか君の方が来てくれるなんて、これは今日は雹か嵐だな、それとも両方かもしれないし、もっと酷いかもしれない。 ニューラナークでそんな天気になるかどうかはよくわからないけど、とにかくそれぐらいのショックだ。」
全く。 こいつを連れ出すのはやっぱり間違いかもしれない。 このままニューラナーク村で大人しくしていてくれたほうが世の中のためかもしれないわね、私はそう言った。 それは君の方も同じだと思うけど、まあ、もし僕を外に連れ出してくれるのなら、それはありがとう。 もしかして、アニーに渡したアメリカン・エキスプレスは、今君が持ってるのかな？
ーイエス。 けち臭い貧乏人の名前が書かれたグリーン・カードをね。
やれやれ。 君はあのアメリカン・エキスプレスのゴールド・カードを持ってるのかい？ しょぼい特典のために結構な会費を払うなんて、君は相当な金持ちなのか、それともけっこう頭が弱いのか、どっちかだな。 おい、まさか君、そのアメリカン・エキスプレスでポンドを引き出してないだろうね？ もしそんな事があったら訴訟ものだぞ、僕の友達の友達にはけっこう優秀な弁護士だっているんだけど………
ー…それ以上くだらない事を言ってたら、そこに置いてある黒ビールを貴方の頭からぶっかけるわよ。 ここから出るの、もう時間があまりないの。 貴方もまともな心を持っているなら、アニーをこれ以上悲しませたくないでしょう。 早く、早く村の境界線まで行かなくちゃならないの。 55分にアニーが私達を外に引き出してくれる、そういう約束なの。
やれやれ。 まともな心云々に関して君に講釈されるとは思わなかった。 でも後半は同意する、とりあえずここから出て村の入り口まで行こう。
私達は、並んで食堂を出ようとして、お互いに顔を見合わせ、その後でスクルージ爺さんの方を見た。 爺さんはこちらを見ずに、ずっと目の前のビールのグラスだけを眺めていた。 すまんな、すまんかったな、ジェーン。 お前は幸せになってくれ。 彼はそれだけ呟いて、それからもう動かなかった。 目も、口も、耳も、心すらも、彼をそこから動かすことは出来なかった。 ありがとう。 さようなら。 私も彼もそう呟いて、中央食堂を後にして、全力で広場までの道を走っていった。
時計は今、11時47分を指していた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
雨が、少しだけ強くなってきた。 アニーはジェーンと別れてからずっと、一定の間隔で腕時計を見つめて、お姉ちゃんの帰りを待っていた。 ねえお姉ちゃん、この村にそんなに逢いたい、連れてきたい人がいるの？ それはわたしの知らない人なの？ お姉ちゃんはわたしを1人にしないよね、1人で置いていかないよね。 アニーは心細かった。 お世辞にも華やかで賑やかとは言えないニューラナーク村の入り口で、雨が降る中独りぼっちでずっと待っていては、誰もがそうなるだろう。 別にアニーに限った話ではないのだ。 アニーはひっきりなしに腕時計を確認した。 11時36分、まだ大丈夫だ。 お姉ちゃんが約束した時間じゃない…。
お姉ちゃんは優しかった。 ずっと優しかった。 わたしをずっと守ってくれて、慰めてくれて、怖い夢を見た時には優しく抱きしめてくれた。 ロンドンに行きましょう、ジェーンが言った事が本当なのかどうか、アニーには分からなかった。 学校？ わたしも学校に通っていいのだろうか、わたしにも、お姉ちゃん以外の友達が出来るのだろうか。 こんなにみすぼらしい姿のわたしを見て、みんなは軽蔑しないだろうか。 アニーにはそれがたまらなく不安だった。 対等で、平等な関係の友達なんて、わたしにできるのだろうか、それとも、望んですらいけない事なのだろうか。
わたしはまた時計を見た。 11時43分。 まだ大丈夫。
わたしは、学校に行った自分を想像してみた。 同級生が当たり前にできるはずの、簡単な計算がわたしにはできない。 簡単な単語がわたしには読めない、簡単なはずの全てのことがわたしには難しい、そしていじめられる、服のことで、家庭のことで、生活のことで、お前はどうやって生きているの、そう言われて、わたしは造花をパブで売っているの、そう答える、普段何を食べて生きているの、キャベツのスープ、そうわたしは答える、彼等はわたしを罵る、無能、低脳、死んでしまえ、そしてわたしに自分たちの飲み物を浴びせかける、わたしは………
だんだん息が荒くなってきた。 苦しくなって、わたしは時計を見た。 11時43分、まだ大丈夫、きっと来てくれる、きっと、きっと来てくれるはず、迎えにきてくれるはず、きっと………………… 誰が？
わたしはやっと、誰も、わたしのことを迎えにきてくれないのだと気付いた。 わたしは生まれてから捨てられて、ずっと独りぼっちだった。 誰もわたしの近くにいなかった。 友達も、家族も、誰も。 わたしはこんなところで、誰を、何を待っているのだろう。 誰も、わたしのことを待ってる人なんていないのに。 もう一度だけ、わたしは時計を見た。 11時43分。 もうそろそろ日が変わる。 早くエジンバラに帰らないと、明日にひびくかもしれない。 まだ明日売る分の造花を作り切れていないのだ。
わたしは雨に濡れながら、坂道を上に向かって歩き出した。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕とジェーンは、中央食堂を抜けて、もう広場のすぐ近くまで来ていた。 アニーと55分に待ち合わせてるの。 それまでに境界に行かなきゃいけない。 彼女はそう言って焦っていた。 僕は彼女の後に続いて小走りで、ほとんど走っていると言ってしまってもいいくらいだったけど、ありがとう、そう声をかけた。
「………本当にどういう風の吹き回しなの。 朝方にかけて嵐でも来るのかしら。」
ー正直なところ君にだけは言われたくないけど。 とにかくありがとう。 君が来てくれなかったら、僕はこのニューラナークで一生を過ごす事がほとんど確定していたからね。 なんだかんだ言っても、やっぱりそれは困るから。
「私は別に貴方がこの村の紡績工場に一生勤めていても構わないけど。 もしかしたら、アニーはちょっとだけ悲しむかもしれないから。」
ー日本には、今の君みたいな人を形容するのにちょうどいい言葉がある。 Tun Dereって形容詞なんだけど、今の君によく似合ってるよ。 この前君をクズ野郎とか言ったのはとりあえず訂正する。
「……ちなみに私は日本語もある程度わかるのよ、ジャップ。」
ー………それはいいことだ、ツンデレお姉様。
口は災いの元なのだ。
本当にこのジャップはこの村で更生させた方が良いんじゃないだろうか。 この口の減らなさは、なかなか他人に真似できるものじゃないだろう。 おまけに酒も煙草も山ほどやる、どうしようもない奴だ。 そういえばこの男、煙草はどうしたのだろう？
ー禁煙したのさ。 アニーと約束したから。
「それはよかった。 ちなみに何日目なの？」
ー今でもう2時間ちょっとになる。 けっこう大したものじゃないか？
こいつは本当にどうしようもない奴だった。 アニーはどうしてこんな男を友達だと言っているのだろう。 …けれど、本当にどうしようもないクズは、どう考えても私の方だった。 結局私達は、ある意味同じようなものなのかもしれないわね。 私がそう言うと、彼は何か抗議したようだったが、私はそれを聞かなかったことにして広場に出て、境界までの道を進んでいった。
11時53分。 よかった。 間に合った。
私達は、あの薄い膜の前に、背中をつけるようにして立った。 アニーが私達を引き戻してくれれば、私達はこのニューラナーク村から、お互いに出ることができる。 この男の特徴的な顔を見れば、さすがのアニーも思い出すだろう。 それはきっとアニーにとって良いことなのだと、私はそう信じたかった。 私も彼も、妙に緊張してお互いに何も話さなかった。 11時54分。 あと1分、それがとても長かった。
ねえ、とりあえずここから無事に出られて、エジンバラまで帰れたら、とりあえず晩飯でも食べに行こうか。 この男はそんな事を言い出した。 どうしようもなく食い意地と酒に対する執着心だけは発達した男だ。
「……まあ良いわ。 何かいい店でも知ってるの。」
ーとりあえず中華料理屋を探そう。 それも、中国人がコックを勤めてる、生粋のやつだ。 中国人が作る中華料理だけは、この国で食っても一流だから。
「…………とても残念だけど、同意するわ。」
あと20秒、15秒、10秒………55分になった………私達は待ち続けた………
そして、時計が57分を指しても、アニーが私達を引き戻してくれることは無かった。
ーちょっと話が違うみたいだけど、本当に大丈夫なのかな。
僕は試しにあの薄い膜を触ってみた。 それはブヨブヨと僕の指にまとわりついて、軽く押しても破れそうになかった。 試しに栓抜きの先で少しつついてみたけど、破るのは無理そうだった。 君は、抜けられるんじゃないのか、ジェーンにそう聞いてみたけど、彼女は黙って首を振るだけだった。 やれやれ、じゃあアニー頼みってわけだ。 そして彼女は約束の時間が過ぎても我々を外に出してくれていない。
「……アニーは、やっぱり私達を、赦してくれていないのよ。」
君の方はともかく、僕もやっぱりそうなのかな？ もう少し真面目に謝るべきだったかもしれない。 まあたまたま時計が壊れて時間がわからなくなってるだけなのかもしれないしねーー
「……そんな都合良く壊れるわけないでしょう。」
結局、私はこの男と一緒に、このニューラナーク村に留まる運命なのかもしれない。 虫の良い、都合の良い話だったのだ。 私はあの亡霊が言ったことを思い出していた。 確実に貴方達はアニー・マクラウドの心の奥の深い深い部分を傷付けて、損なったの。 失われたものはもう決して戻ってこないの。 それが正しかったのだ。あるいはアニーはもう、私のことも忘れ去ったのかもしれない。
ーまあ出られなかったら、その時はその時で真剣に、この村でカフェでも経営することを考えなきゃいけない。 よかったら君も産業革命期のメイド服でも着て、接客してもいいかもしれない。 君がその無愛想な顔つきでビールを一杯10ポンドくらいで売りさばいたら、意外とよく売れるかも……
「本当にぶっ殺すわよ、ジャップ。」
ー僕がとりあえず言いたいのは、我々は少なくともまだアニーを信じるべきだってことだけだ。 もしかしたら時計が壊れただけかもしれないし、その辺で寝過ごしてるだけかもしれないしね。 だけどとりあえず、今日が終わって明日になるまでは、僕も君も、アニーを信じ続ける義務がある、そうしなければいけない、そうじゃないか？ 君とアニーが市長の家で何を話したかまでは知らないけど。
「………あと2分と少ししかないのよ。」
ーあと2分と少し、この変な壁に背中をつけて待ってるだけだろ。 それくらいしてみてもいいんじゃないか？
私は黙って立ち上がって、この男と隣り合わせになり、境界線の壁に背中を預けた。 あんたに諭されるなんて本当に嫌なんだけど。
ーこっちも出来れば願い下げたい。 けどまあしょうがない。
我々はアニーを待った。 ほとんど祈りながら。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
わたしは坂道を重い足取りで登りきった。 どうしてこんな村に観光に来たのだろう。 どうしてわたしはこんな夜中まで、雨に打たれて彷徨っているのだろう。 何も分からなかった、何も思い出せなかった。 ただひとつだけ確実なのは、わたしはこれからも1人で、造花を売り続けなければいけない。 生きるために。 結局私にできることはそれだけしか無いし、身寄りもない、友人もいないわたしには、それ以外にこの世界でお金を稼ぐ方法を知らなかった。 わたしは坂を登りきって、ニューラナーク村を見下ろした。 町はただ暗く、それはあくまでただの過去の財産でしかなかった。
わたしは駅までの道を歩き出した。 雨がますます強くなってきた。 暗い夜の道を1人で歩いていると、わたしがこの世界でたった1人ぼっちだということがよくわかった。 時計を軽く見た。 まだ11時43分。 なんとか帰りの列車に間に合うだろうか。 少なくとも、日付が変わるまでにエジンバラに着くことは諦めなければいけなかった。
エジンバラ？ どうしてわたしはエジンバラに帰ろうとしているのだろう？
わたしが帰る家なんて、エジンバラにも、この世界中を探しても無いのに。
わたしはどこから来たのだろう。 そしてどこに、どうやって帰るのだろう。 考えるとますます混乱して訳がわからなくなってきた。 ウエストミンスター寺院で、物乞いをしながら造花を売るべきかもしれない、身寄りのない可哀想な10歳の少女が、ウエストミンスター寺院聖歌(そんなものがあるかどうかは知らなかったけど)を歌いながら造花のブーケを売ることは、何らかの付加価値となってみんなに映るのだろうか。
雨が酷く冷たかった。 わたしはそういえば傘を持っていたことに気づいて、その折り畳みの青い傘の柄についたボタンを押して、傘を開いた。 そういえばこの傘はずいぶん造りが良いものだった。 これなら、スコットランドの海岸の強い風にももしかしたら負けないかもしれない。 今度お金が少し溜まったら、フォース鉄道橋でも渡ってみようかしら。 この傘を持って……。 そういえば、この傘はどうやって手に入れたんだっけ。 わたしが自分で買うには、この傘はずいぶんと良いものな気がする。 誰かに譲ってもらったんだっけ。 ニューラナーク村流のレディ・ファーストだからね、そういえば、彼はそんな事を言って、わたしにこの傘を渡してくれた気がする。 サンマリノで買って、スコットランドの強風にも耐えるとかいう自慢の傘を………。
傘を…………………………
わたしはサンマリノ産の傘を折り畳んで、元来た道を全速力で走り出した。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
我々は境界線の変な壁にお互いに背中を預けて、黙って雨に打たれていた。 僕は時計を見てみた、時刻はもう59分を指していた。 雨がけっこう冷たかったけど、そういえば僕は自分の傘をアニーに渡していた。 まあしょうがない。 ニューラナーク村流のレディ・ファーストの流儀に従ったまでのことだ。 しかし、あの傘は結構いいやつだったと記憶してる。 サンマリノでたまたま雨が降って、しょうがなく近くの土産物屋か何かで買った気がするけど、あれはずいぶん良いものだった。
ジェーンの方を少しみてみたが、彼女はうなだれて壁に背中を預けていた。 その表情までは僕には読み取れなかった。 泣いているのかもしれないけど、この雨の中では洗い流されて何も分からなかった。 そういえばジェーンは結婚を控えていたはずだった。 僕はほんの少しだけジェーンに同情した。
……ねえ、さっきの話だけど。 彼女の方から口を開いた。
ーさっきの話？
貴方のあの下らないカフェの話よ。
そういえばそんなものもあったな。 数分前のことだけど忘れてた。
………もしこの村に残ることになったら、考えてあげなくもないわ。 一応。
ーそれはどうも。 紡績工場よりはマシな職場環境かもしれないから、お互い頑張ろう。 なんとか繁盛させたいものだけど、売りになるメニューが無い。
……キャベツの芯を煮込んだ塩味のスープで良ければ作ってあげるわよ。
ーもしかして君、あんまり料理が上手くないのか？
…………うるさいわね。
僕もジェーンも、何か喋ってないと、どうしようもない不安で押しつぶされそうだった。 希望は薄いかもしれないけど。 59分40秒、もうすぐ日付が変わる。
ー料理はとりあえず僕が作るよ。 スープに胡椒くらいは振るセンスがある。
……あまり期待しないでおくわ。
59分48秒。 僕は目を閉じて、1秒ずつ時間を数えた。
49、50、51、52、53、54、55、56……………
57を数えたところで、僕の体が後ろに引っ張られた。
僕はそろそろと目を開けて、ジェーンが横にいる事を確認した。 僕の目の前にはあの薄い膜が張られていた。 それは雨の中でも、全く濡れずにその存在を主張していた。 僕たちとニューラナーク村を隔てる境界。 僕たちはその外側にいた。
僕は後ろを振り向いた。 今にも泣き出しそうな顔のアニーがそこにいた。
やれやれ。 危ないところだった、僕はアニーに話しかけた。 君が来てくれなかったら、僕はジェーンとカフェ経営をしなくちゃいけない羽目になってたから……。
「…………そうならなくて何より。」
ジェーンも同意してくれた。 残念ながら、彼女とは妙な部分で意見が一致するようだった。 結局のところ似たような部分を持っているのかもしれない。
アニーは何か言いたそうに、でも言葉が何も出てこないようで、ほとんど潤んだ目で僕たちの方を見ていた。 ありがとう。 僕は簡潔に伝えた。
彼女は泣き出した。 ジェーンは黙って妹を抱きしめた。
我々は坂を登って、ニューラナーク村を後にした。
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我々はタクシーを拾って、エジンバラまで帰った。 タクシー代を僕とジェーンのどちらが払うかに関して、僕と彼女の間ではかなりの意見の相違があった。 僕はとりあえずニューラナーク村の流儀に従って、レディ・ファーストで君が全額どうぞと言ってみたのだが、ジェーンに物凄い顔で睨みつけられたのでやめにしておいた。 結局僕とジェーンで半分ずつ出すことにした。
「……ずいぶん仲が良いみたいで良かった。」
アニーはそう言って、やっと少しだけ笑った。 当然僕もジェーンも否定した。 貴方、今のやりとりで私とこの男が友達だと思えるなら、ちょっとズレてるわよ、やっぱり。 ジェーンはそう言った。 やれやれ、一時はニューラナークでカフェを経営することに関して真剣に話したというのに、随分とつれない話だ。 我々はエジンバラで僕がとっていたホテルについて、部屋が他に空いているか聞いてみた。 もちろん満室だった。 このホテルに好き好んで泊まるやつがいるとは、世の中はやっぱり不思議に満ちている。 ニューラナーク村より不思議かもしれない。
仕方がなく我々は追加でお金を払って、3人で僕の部屋に入った。 今日はあまりに多くの事があった。 僕たちは疲れていたし、腹も減っていたが、何よりもまずシャワーを浴びて寝なければならなかった。 ジェーンは自分とアニーのスペースをベッドの上にあっさり確保して、貴方は床で寝なさい、無情にもそう言い放った。
おい、それはあんまりだ。 大体ここは僕が予約していたホテルだし、アニーはともかく、君がベッドで寝るのはどういう事だ、男性軽視も甚だしい……僕は敢然と抗議したが、当然聞き入れられなかった。 今は2対1なのだ。 僕に勝ち目はなかった。
我々は順番にシャワーを浴びて(もちろん僕が最後だった)、僕が浴び終わった頃には姉妹は抱き合いながら眠りについていた。 僕は惨めに床にシーツを引いて横たわり、ミニバーの中からビールとナッツを出して、それを齧りながら、ヒースロー空港からから関西国際空港まで帰る明日の夜行便を予約した。アニーとはまだ少し話したかったけど、まずは僕も日本に帰りたかった。 愛しき我が母国。 僕は君が代を口ずさみながら、眠りについた。
翌朝すぐに僕は荷物をまとめた。 とにかく一刻も早くエジンバラから遠ざかりたかったし、姉妹もそれは同意見のようだった。 我々はエジンバラ駅からロンドンに向かう列車に乗り込み、夕方頃にはロンドンに着く予定だった。 僕はとりあえず日本に帰ることにしたんだけど、君たちはこれからどうするんだ？
「ロンドンに戻って、とりあえず私の彼の家でしばらくお邪魔するわ。 アニーが通う学校も見つけなきゃいけないし、私は結婚式を挙げて再就職先を見つけなくてはいけないから。」
ー当然結婚式には呼んでくれるの？ ウエストミンスター寺院聖歌を歌って祝福する。
「来たら殺すわ。」
やれやれ、ニューラナーク村で一時は心が通じ合ったかと思ったんだけど、どうやら完全に僕の思い違いだったようだ。 僕が適当にツンデレとからかったのをまだ根に持ってるんだろうか。 口は災いの元なのだ。
「……メールアドレス。」
ーん？
「…………全然認めたくないけど、アニーがお世話になったのは事実だから。 写真くらいはまあ送ってあげなくもないわ。 全然認めたくないけど。」
ー2回も言わなくても分かるよ。
僕は自分のメールアドレスを手帳をちぎって書いて、ジェーンと、それからアニーにも渡しておいた。 ねえ。 ようやくそこでアニーが口を開いた。
「わたし、勉強するわ。 勉強して、大人になって、貴方に傘を返しに行くわ。」
ーそれは期待してる。 日本の名物をご馳走するよ。 生のままの魚の切り身、腐った豆のケーキ、米、そんなところだけどいいかな？
「……刺身と豆腐くらい知ってるわよ、流石に。」
それは申し訳ないことを言った。
フライトまでまだ時間があったので、ロンドンで我々は中華料理を食べた。 僕とジェーンは青島ビールを、アニーはコーラをそれぞれ頼んで、蒸した米、春巻き、水餃子、熱い油をかけた魚の醤油煮込みをそれぞれシェアして食べた。この中華悪くないだろう、僕はそう言って、珍しくジェーンも同意を示した。 青島ビールもまあこういう料理には悪くないわね、ジェーンはそう言った。 アニーは我々の顔を交互に眺めて、やっぱり仲がいいんじゃない、そう呟いた。 僕もジェーンも否定した。
アニーはこれからどんな人生を送り、どんな大人になるのだろう。
それを見届けるのは、僕の役割ではなく、ジェーンの家族としての義務だった。
アニーをよろしく頼むよ、僕はそう言った。 貴方、この子の親か何かなの。 ジェーンはそう言って呆れたような顔をして、僕もアニーも、そしてジェーンも遅れて笑い合った。 僕はあの忌々しいヒースローに向かう電車に乗り込んで、姉妹と別れた。
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もうあのイギリス旅行から、早いもので8年の月日が流れた。 あれから、ニューラナーク村の住人たちとは会う事がなかった。 ジェーンはたまに僕にメールを送ってくる。 そのほとんどが昔と変わらない悪口だったが、節目節目ではたまに自分やアニーの写真を送ってきてくれたりもした。 本当にたまにだけど。
僕は大阪にあるウイグル料理を出す店で、ひさびさに友人の1人と飲んでいた。 白濁したラクで脂っこい羊の肉や胃の炒め物を流し込みながら、僕はあの村の事を考えた。 本当にニューラナーク村は存在したのだろうか。 観光地としてではなく、今もそこにあり活動を続けている村として。 僕は何人かの友人にはニューラナーク村には行かないほうがいいと忠告しておいたが、彼等はもちろん冗談だと思って取り合わなかった。 僕の信頼度も地に落ちたものだ。 やれやれ。 僕たちはウイグル風のサラダと、羊の肉の串焼きを追加で頼んで、僕はラクをもう一杯追加で頼んだ。
僕たちはウイグル料理の店を出て、しばらく夜の賑やかな通りを歩いて別れた。
アニーはそういえばこの前メールを送ってきてくれていた。 わたし小説家を目指そうと思うの、文学部に入ることになったわ、そんなことを書いていた。 ちなみにどんな小説を書くのか一応聞いてみたけど、エジンバラ城に眠っている伝説の剣を引き抜いて、悪の市長を倒しに行くファンタジーものだと冗談で返された。 このネタは貴方が使ってもいいわよ、そう最後に書き添えられていたが、僕は丁重に断った。 アニーも冗談が上手くなった。
駅まではけっこうな距離があったが、良くないことに雨が降ってきた。 やれやれ。 僕は傘を持ってなかった。 近くにコンビニが無いか探してみたけど、残念ながらろくでもない飲み屋しかなかった。 僕は諦めて雨に濡れながら駅まで戻ることにした。 やれやれ、今日はもう1人会う予定があるのだ。 エジンバラじゃないんだから、こんなにすぐ天気が崩れなくてもいいのに。
「……傘、返しにきたわよ。 結構遅くなったけど。」
後ろから声をかけられて、僕は振り向いた。
(おわり)
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(あとがき)
お読みいただいて有難うございました。
今回は実に10年以上ぶりに小説を書くことになったのですが、ことの発端は武神さんと貴さんが酔っ払って僕に「小説を書こう!!!」と、ありがたい？お言葉をかけてくれたのが機でした。 そしてラナークファンタジー の原案は、かつて貴さんと旅行に行った時に我々が適当に妄想で話していたのがきっかけで生まれてます。
最も、その時の話は確か「アニーちゃんがエジンバラ城で伝説の剣を手に入れて、悪しき市長の支配からニューラナークを解き放つ…」とかいう話でしたが、書き始めるとすぐ今みたいなエセ村上春樹風みたいな感じになってしまいました。 すみません。
ちなみに最初の方で、「本泥棒」という映画が出てきますが、あの映画の主人公があまりにアニーちゃんのイメージに似すぎてたもので、完全にそのイメージで書いてました。
まだ海外旅行妄想系で形にしてないのはフエのボスラッシュだけなので、まあそのうちかければと思っています。