※この地球とは別の世界の完全な創作のお話です。
登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。 申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。
(第6部)
アニーが部屋を出ていった後、私はしばらく動けなかった。 喫いかけの煙草が燃えて、やがて根元に近いところまで灰となって机の上に落ちるまで、私はずっとジンを注いだグラスを眺めていた。 妹に叩かれた頬を少しさすってみた。微かに痺れるような感触がまだ残っていた。 私は煙草を灰皿に押し付けて消し、ジンを一息に飲んで、その後でもう一杯その芳しい液体をグラスに注いで、新しい氷を入れた。 どうして私はアニーの事をこんなに嫌うようになったのだろう？ 考えても分からなかった。 無知な所も、人に善意を押し付ける所も、押し売りも、何もかも嫌いだった。 お姉ちゃんは病気なんだから、今日は無理せず寝ておいて、あの子はよくそう言っていた。
貴方に何がわかるの、私はずっとそう考えていたし、今でもそう考えている。
どうして私は妹のことがこんなに嫌いになったのだろう？ 私はアニーの人生が暗いものであるようにと願っている、その失敗と敗北と失墜を心の底から願っている、それは何故だろう。 少し考えて、私はジンをもう一口だけ口に含んだ。 爽やかなハーブと胡瓜の香りが口から鼻孔に抜けた。 その胡瓜の香りは、妹がたまに作ってくれたサンドイッチを私に思い出させた。 その香りをしばらく味わって、唐突に私はアニーをこんなにも憎む理由がわかった。 私はきっと、アニーが堕ちて行くのを見て、自分の正しさを確かめたいのだ。 子供の頃に決別したはずの生き方と、今の自分の生き方を比較して、自分の方が確かに正しい道を歩んでいると、そう実感したいからアニー・マクラウドをこれほど憎んでいるのだ、憎まなければならないのだと。 私はもう、子供の頃のジェーン・マクラウドではないと思いたかった。 でもそうすることにどれだけ意味があるのか改めて考えようとしても、私にはよく分からなかった。 結局のところ、私は私の人生を選んで、妹は妹の人生を歩むしか無いのだから。
私は新しい煙草に火をつけて、2回だけ煙を深く吸い込んでから立ち上がった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕とスクルージ爺さんは、もう4杯目になるビールをお互いに注文して、待つ間に煙草を吸った。 僕のマールボロはもう残り13本まで減っていた。 やれやれ、本当に残りの煙草を吸い終わったら禁煙する必要があるのだろうか？ それはとてもシリアスな問題だった。 個人的に僕はアニーとの約束を守りたかったけど(あれだけ真剣な顔で約束されては誰だってそうなる)、禁煙というのは僕の生き方や、過去・現在・そして将来の深い部分に関わる問題だった。 ただ煙草を吸わないということにより起こる結果よりも、その過程が極めて大事な事だった。 もう少し端的に話すと、過去に僕は数十回か数百回以上禁煙に挑んでみたが、それは大抵僅か数時間に及ばずに終了していた。 僕は意志が弱いのだ。 僕は火をつけたマールボロを、根本まで大事に吸った。
爺さんと僕の話はもうほとんど終わっていた。 爺さんはこの村から出られなかった。 僕は残念ながら出て行く。 僕は市長には就任しない予定だったし、アニーはやがて僕が契約書に書いた名前が偽名だということに気づく、もしかしたらもう、うっすらとは気付いているのかもしれない。 アニーが僕の渡したアメリカン・エキスプレスをカード・ケースから一度でも取り出していれば、それは簡単にわかる話だった。
アニーはどうするんだ、この村で一生を過ごすのか、爺さんは僕にそう聞いてきた。 僕は素直に、そうはならないはずだ、そう返した。 アニーが契約書を市長に渡した時に、アニーはニューラナーク村の労働者では無くなる筈だった。 市長は契約書が偽物で効力が無い事に気付いて激怒するだろうか。 それとも何事もなかったかのようにアニーを解雇して、次の犠牲者を探すのだろうか、市長を引き継ぐに相応しい人間を。 もちろん前者の可能性も十分にあり得た、市長が約束を保護する事も考えられた、僕にしたところで彼等を騙したのだから。 だけど変な話、僕は不思議な所であの市長は恐らくそうしないだろうと感じていた。 結局のところ、彼には市長を引き継ぐための無限に近い時間がある筈なのだ。 彼はまた次の候補を探し当てるだろう、そしてまた繰り返すのだろう、スクルージ爺さんから僕に候補役が受け継がれたように、誰かが呪いを引き継ぐまでその作業は終わらないのだ。 残念ながら、その呪いを断ち切るほど僕は賢く無いし、タフでも無い。 ただ自分とアニーが運良く解放されるよう、最大限祈る事しかできることはなかった。
アニーはニューラナーク村から解放されるかもしれないのか。 それは本当に、あの子の将来にとって良い事だ。 少なくとも、自分の生き方を自分で決める事ができるんだからな。 爺さんはそう言った。 あんたはやっぱり心の優しい人だ、 儂はずっとそう思っていた。
ーありがとう。 人からそこまで誉められることは恐らく人生で初めてだ。
あんたは、自分の人生を犠牲にしてでも、あの子を助けることを選んだんだな。 ありがとう、本当にありがとう、儂ができなかった事をあんたはやってくれた。
ー悪いけど、そんなに誉めてもらっても気分が悪い。 僕は僕なりに最善を尽くしたけど、まだ結果が出たわけじゃない。
いやあんたは自分の人生を犠牲にできる勇気がある。 ニューラナーク村で一生を労働者として終える覚悟がある男はそういない。
ー……それほどでも。
何かがおかしかった。 僕はビールを一口飲んで考えた。 少し酔いが回っていた。 何が変なのだろう？ さっきから僕と爺さんの話と認識が、少しずつ噛み合っていない気がした。 それは小さな違和感となってずっと僕の中に引っかかって、だんだん成長して大きくなってきた。 僕は短いペースでひっきりなしに煙草を吸った。 そしてもう一度爺さんにちゃんと説明した。 アニーはニューラナーク村から解放されるし、僕は市長にならない。 僕もこの村からは今日中に出て行く、それでニュージーランドに行ってから日本に戻って再就職先で真面目に働くつもりなんです、貴方とは個人的に仲良くしていたいから、数年後にまたこの食堂で飲めたらーー
いやそれは無理だよ。
爺さんは真顔になって僕に短く伝えた。 何故ですか、僕も短く聞いた。
アニーが解雇されるということは、あの子はこのニューラナーク村との関わりを絶つということだ。
ーそれは分かります、あの子は僕の本名を知る手段がある、もちろん彼女が怒っていなければ、僕をニューラナーク村の外の連れ出すことくらいはしてくれるような気もするけど。
あの子は村と関わりを断つ。 その時からあの子には、このニューラナーク村はもう見えなくなる、入れなくなるんだ。 あの子が解雇された後に目にするのは、世界遺産としての、観光地としてのニューラナーク村でしか無いのだから。
ーもう少し端的に言うと、どうなりますか？
あの子にはもう儂の姿も君の姿も見えなくなる。 そういうことだ。 そして今日の0時を超えると、君は完全にニューラナーク村の住人になる。
その後で、僕も爺さんも黙った。 僕はすっかり冷えたキャベツのスープを一口だけ飲んだ。 案の定それは良く無い代物だった。 どうしてこの村の住人たちは胡椒を使わないんだろう？ それに色々な物事やルールを説明するのが遅すぎる。
ーなあ若いの、あんたにとってみれば、説明も足りて無いだろうし、いろいろと理不尽に感じるだろうよ。 でも世の中も会社も企業もそんなものじゃないか、若いの？ あんたは雇用主から、一度だって職場のルールをまともにしっかり説明してもらった事があるか？ せいぜい分厚いルールブックを渡されるだけだろう、一度だって熟読してまともに理解したのか？ そんなものさ。 そしてあんたも、アニーも、もっと大人になるにつれてそういう理不尽なことを忘れていく。 そういうものさ。
やれやれ。
僕は市長がアニーを解雇しないよう、真剣に祈る必要があった。
アニーには悪いけど。
僕のマールボロはあと10本まで減っていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
アニーは廊下の端で、木製の壁にもたれかかって泣いていた。 長く、長く泣いていた。 涙はやがて零れ落ちて、彼女の髪の毛から雫となって落ちて行くヘンドリックス・ジン・ロックと混ざり合って床に落ちた。 まだその雫からは、微かにアルコールとハーブとキュウリの香りがした。 どうしてわたしはキュウリを挟んで塩を振っただけのサンドイッチが美味しいなんて思っていたのだろう？ お姉ちゃんは美味しいと言って食べていた、でもそれも嘘だったのかもしれない、世の中にはもっとまともな食べものはいくらでもあるんだから。 アニーはヘルシンキで彼と訪れた中華料理屋を思い出していた。 彼の友人はその中華料理を食べたくて夢にまで見たと話していた。 お姉ちゃんはヘルシンキを訪れて、あの中華料理も食べたのだろうか。
アニーは服の袖で涙を拭った。 わたしにはまだ、やらなくてはいけないことが残っている。 どういう形であれ、市長は約束を守りはした。 お姉ちゃんとわたしは確かにもう一度会えたのだ。 わたしも、市長に対して約束を果たさなければならなかった。 契約書を渡さなければならなかった。 そして、彼は市長を引き継ぐ。 彼の渡してくれたこの契約書は、本当に有効なものなのだろうか。 わたしはバッグから契約書の紙切れを引っ張り出した。
Yuki Nagato
あまりきれいな字じゃないけど確かにそう書いてあった。
アニーは階段をゆっくり降りて、市長の部屋のドアを叩いた。
市長はアニーと最初に話した時と変わらない位置にいた。 そこから一歩でも動いたのか、アニーには分からなかった。 市長の前のサイドテーブルには、まだ飲みかけのロック・グラスと灰皿が乗っていた。 アニーは黙ったまま市長に近づいて、契約書をサイドテーブルの上に置いた。 市長はわずかに、ほんのわずかにその契約書を一瞥して、グラスにを伸ばした。 それは精巧にカットされたバカラ・グラスだったが、アニーにはその価値がよく分からなかった。 ただ、そのグラスの中に、透明な飲み物が注がれて、その上で大きな氷が泳いでいるのを、きれいだと思いながら眺めていた。 市長もアニーも、ずっと黙っていた。 扉がコン、コン、コン、と一定のリズムを取って軽やかにノックされても、ずっと黙っていた。 やがて扉が開かれて、ジェーンが部屋の中に入ってきた。 ジェーンも何も言わないで2人を見つめていた。
「アニー・マクラウド。」
長い沈黙の後で、市長はようやく口を開いた。 その声はアニーがこれまで聞いてきた、どんな種類の、どんな感情の声にも似ていなかった。 怒っているわけでも、失望しているわけでも、面白がっているわけでもなく、どんな想いもこもっていないような声の色だった。
「君はどんな形であれ約束を守った。 私もどんな結果であれ約束を守らなければならない。 君は解雇だ、君はたった今からニューラナーク村の住人では無い、労働者でも無い、ここに縛られることもない。」
市長に言われたことを頭で咀嚼して理解するまで、アニーはしばらく時間がかかった。 そして次に言葉を継いだのも市長の方だった。
「そして、彼と、ジェーンには、この村で留まって労働者として働いてもらわなくてはならない。」
アニーはジェーンの方を振り返った。 ジェーンは大きく目を見開いたまま立ち竦んでいた。 何か言おうとして、口が開いて、何の言葉も出ずにまた閉じた。 はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、彼女の呼吸はどんどん大きく、荒く、アニーの耳にも聞こえるほどの音になって部屋に響いた。 彼女の顔は最初は紅潮して、そして段々とその色は薄れて、元の顔色に戻り、やがてゆっくりと青ざめていった。
「なぜですか」
ようやく、枯れるように小さな声で、ジェーンはそれだけを絞り出した。
「なぜわたしが、この村に、とどまらなければ、ならないのですか」
市長は契約書を摘み上げて、ゆっくりとジェーンの方に向かって歩いて行き、その紙切れをジェーンに見せた。 ジェーンは青ざめたままそれを見て、やがてポツリと静かに呟いた。
「……偽名………アニー、貴方…………あの人の本名を……………まさか………」
アニーは、ようやく自分が、彼の名前を本当は知らなかった事を知った。 アニーが何か言おうとする前に、ジェーンはアニーの方に早足で歩いて行って、その顔を思いっきり張り飛ばした。 このクズ、このクズ野郎め、貴方はどれだけ無能なの、どれだけ無知なの、どうしてあの男と1週間近くも一緒にいながら、こんなデタラメな名前に気付かなかったの、何を見ていたの貴方は、あの男の何を……… ジェーンはアニーの服の襟を掴み上げ、そのまま何度も揺さぶった。 その間ずっと、ジェーンの口から漏れていたのは、罵りと、呪詛と、怨みと、そして絶望だった。 なぜ、なぜこの馬鹿な妹が、何故こいつだけが解放されるの、どうして、どうして私じゃないの、私は今まで頑張ってきた、睡眠も食事も生活も遊びも犠牲にして勉強した、勉強して知識をつけた、誰にも負けないほどの知恵を、そして幸せになるはずだった、私は結婚するのよ、もう婚姻届も役所に提出した、なのになんで、なんで私は村にとどまらなければいけないの、なぜ私じゃなくて貴方が自由になるの！！ ジェーンはアニーから手を離して市長に向き直って懇願した。 市長、市長、お願いします、お願いです、この失敗で私を見放さないでください、私はもっと貴方のために尽くします、今より何倍も働きます、もうこんな失敗は2度としません、お願いです、お願いですから私を見放さないでください、このニューラナーク村から、せめて外に出て働く権利だけでも、私に残してください………。
「駄目だ。」
ジェーンは黙った。アニーは、床に投げ出されたまま、呆然として2人を眺めていた。
「アニー・マクラウドはどんな形であれ約束を守った。 約束を破ったのは君と、彼の方だ。 君たちはもうこの村から外に出ることはできない、それに、君はもう結婚したのだろう。 残念ながら、君の今の名前を知っている者は、この村には誰もいない。」
市長は次に、アニーの方に向き直って言った。
「アニー・マクラウド。 もう屋敷から出たまえ。 そしてニューラナーク村からも出たまえ。 君はもう自由なのだ。 この村では約束を守った者だけが最後まで報われる、君は約束を守った。 過程はともあれ、君が勝ち取った権利なのだ。 もうこのニューラナーク村は、君が住んでいたニューラナーク村ではない。 ただの世界遺産の、観光地のニューラナーク村だ。 君の将来の幸運を祈っている。」
アニーはそろそろと立ち上がった。 まだ、自分の身に何が起こっているのか、そしてこれから何が起ころうとしているのか、全く分からなかった。 ジェーンはずっと立ち竦んだままだった。 その表情を、アニーが伺い知ることは出来なかった。
あの人も、お姉ちゃんも、わたしに嘘をついていた。 それだけが確かな事実だった。
「さあ、もう行きたまえ。」
市長は自ら扉の前に歩いて行き、それを開いた。 アニーはその場を動かなかった。
…ありがとう。 私は出て行くわ、この村から。 あの人も、お姉ちゃんも、一緒に。
市長はじっとアニーを見つめていた。 ジェーンもアニーの方を振り返り、涙に濡れた目で、呆然とアニーを見つめていた。 誰も口を開かない時間が、しばらく続いた。
市長はやがて、ゆっくりとサイドテーブルに戻って、煙草に火をつけた。
「……君が彼と、彼女の、名前を本当に知っているなら、自由にしたまえ。」
アニーは黙ったまま、市長に頭を少しだけ下げた。 行きましょう、お姉ちゃん。 そう言って床にへたり込んだままのジェーンの手を取って立たせて、一緒に部屋を出て、廊下をまっすぐ進んで玄関口の扉を開けた。
市長の部屋の時計が、午後8時の鐘を打った。
ジェーンは妹に手を引かれて、市長の家を出た。 お互いに何も話さなかったし、市長の家を出てしばらく道路沿いを歩いていても、姉妹はずっと口をきかずに黙っていた。 日はもう落ちて、夜の闇がやがてニューラナーク村を覆おうとしていた。 ジェーンもアニーも、しばらく市長の家から続く田園地帯の道沿いを歩き続けた。 アニーの足取りは確かに力強く、ジェーンはとぼとぼと、靴音を微かに立てて歩いていた。
ようやく、市長の家からもう30分以上は歩いて、ようやくジェーンは妹に向かって声をかけた。
「………貴方に、私の名前が、どうして分かるの。 私はもうマクラウドじゃ無いのに、どうしてそんなに自信を持っているの。」
アニーはそれをしばらく考えて、やがてゆっくりと口を開いた。 別に自信はないんだけど、そう前置きして続けた。 今のお姉ちゃんは、ジェーン・∗∗∗∗∗∗∗…………違う？
ジェーンはそれを聞いて驚いた。
「なぜ、貴方が、言ってもいない私の、ファミリー・ネームを知ってるの」
ロンドンで、アニーはそう答えた、ロンドンで優しい人に会ったの。 その人は彼に電話を繋いでくれた、もうすぐ結婚するんだって。 その彼女さんの妹がわたしに似ていたんで、ほっとけなかったんだって。 彼もユートピア共産主義者だったけど……
「………偶然の一致。 そういうことね。 質問を変えるわ。 貴方はどうして、私を外に連れ出そうとしているの。 私はずっと貴方に嘘をついていたのよ、貴方のことが嫌いなの、失敗して欲しいと、破滅して欲しいと、ずっとずっとそう思ってた、憎んでた、何も知らないで呑気で馬鹿で無知な貴方が嫌いだった、優しさと善意だけで世の中がどうにかなると思ってる貴方の考え方が嫌で嫌でしょうがなかった、私が、子供の頃の私が、ずっと隣にいるみたいで嫌だったから、貴方と過ごす時間を減らした、貴方に嘘をついて外にも出た、勉強もこっそりした、市長の秘書になって働いた、なのにどうして、貴方は私を外に連れ出そうとしているの、今？」
アニーはジェーンの方を振り返って、その顔をじっと見つめた。 私は今どんな顔をしているんだろう、ジェーンはふと考えた。 惨めさ、悔しさ…………罪悪感…………
一度くらいの嘘は赦してあげるものなの。 家族も、友達も。
次は許さないけどね、本気で叩くから、そう言ってアニーは恥ずかしそうに微笑んだ。 振り返って、姉の手を取って、また歩き出した。
ジェーンは何も言わなかった。 言えなかった。 自分がどうしようもなくちっぽけで、弱々しく、何もできない存在のように思えて、自分の事が惨めになった。 惨めで、情けなくて、市長の家を出てから抑えていた涙が、こらえきれなくて彼女の頬を濡らした。 この前に泣いたのはいつのことだったか、ジェーンには思い出せなかった。 2人はずっと、そうやって手を繋いで歩いた。
ありがとう。 ごめんなさい。
それだけ言うのがやっとで、ジェーンは立ち止まって泣いた。
アニーも振り返って、ジェーンを見つめて、少しだけ泣いた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕はスクルージ爺さんと、もう7杯目になるビールに口をつけていた。 爺さんも僕もだいぶ酔いが回って、爺さんは自分の若い頃の話を僕にずっと話していた。 儂が若いころは、爺さんは続けた、儂が若い頃は、若いの、それはあんたも知らない苦労がたくさんあった、この村に来るずっとずっと前の話だ、儂がまだただの人だった時の話だ、わしはその時ルーマニアに住んでいた、ルーマニアで家を建てる大工だった、儂らはがむしゃらに家を建てた、焼け野原に基礎を構えてそこに石を積んだ、煉瓦も積んだ、積み終わって日がくれたら爪が剥げた手でビールを飲んだ、ビールの瓶もじっとりと儂らの血で湿ったんだ、それが儂らの誇りにもなった……
やれやれ、爺さんの話は確かに面白いけど、正直なところ僕はそれどころではなかった。 アニーが解雇されたらこの村の事を忘れる？ 冗談じゃない。 僕にアメリカン・エキスプレスはまだアニーが持っている、彼女がもしそれを覚えていてくれれば僕の本名を知ることができる。 でも、彼女が、僕のことをそもそも忘れてしまったらどうなるのだろう？ 僕は一生この村の労働者として余生を過ごさなきゃいけないのだろうか。 全く冗談じゃない。 とは言っても、現時点で僕の方からできることは何一つとしてなかった。 アニーの状況も僕は分からないのだ。 村の入り口まで行くことも考えはしたけど、もしアニーが解雇されてなくて、僕の事をこの村で探し回ってたらただのすれ違いになって、一生巡り合わないかもしれない。 この村で夜遅くまで人を待てる所なんて、どうせこの食堂しかないのだ。 アニーがここに来て、僕をうまく見つけてくれたらそれで終わり、もし彼女が僕を忘れるか、見えないかーないしは嘘をついていた僕を恨んで、もう2度と探してくれなかったら、僕は労働者としてニューラナークで人形を作って一生を終える。 やれやれ。
僕は念のため、爺さんにこの村で夜遅くまで開いてるバーが無いか聞いてみた。
バー？ ここがそのバーだ、最もマティーニもバラライカも飲めないけどな、そうだ、あんたがここでシェイカーを振ってカクテルを色々と作ったら結構いけるんじゃないのか、あんたそういうのも得意そうだからな………
僕は溜息をついて、最後になった煙草に火をつけた。 やれやれ、確かに僕はアニーを最後まで騙していた。 これで万事うまく行くと思っていた。 世の中そんなに甘くなかった、要するにそういうことだ。 僕はマールボロを大事に、本当に大事に、根元の根元になるまで吸った。 全ての煙を肺までしっかり吸い込んで、その旨さを堪能した。 そして吸殻で埋め尽くされた灰皿でそれを潰した。 僕のマールボロは、それで全て終わりになった。 あっけないもんだ。
ー煙草が切れたのか、なら儂のを吸ってもいいぞ、若いの。
すっかり紅潮した爺さんに、彼の吸っていた見るからに不味そうな煙草を勧められた。 ニューラナーク産、埃を被ったマールボロ、信じられない代物だったけど、たまらなく美味そうだった。 あのヘルシンキのカレリア・パイに匹敵する代物のようにも僕には思えた。 神の恵みとしか言いようがない。 僕はそれをありがたく断った。
ありがとう。 でも、約束があるから。
ー何の？
アニーとね。 禁煙するって言ってしまったから。
ー……あんた、嘘吐きの割には律儀なんだな。
いろいろ譲れないラインもあるんだ。 僕なりに。
僕は腕時計を見た。 時刻は午後の、9時になろうとしていた。
アニーはまだ来なかった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
私はアニーに手を引かれて、ようやく、ニューラナークの広場まで戻ってきた。
妹は、一度くらいの嘘は許すの、そう言った。 でも私のついていた嘘が、たった一度で済んでいるとはとても思えなかった。 私は広場までの道程で、彼の名前を貴方は知らないんじゃないの、そう聞いてみたけど、妹は黙って、金属製のカード・ケースから、衛兵の顔が描かれた緑色のアメリカン・エキスプレスを出して、私に見せただけだった。 これはお守りなの、妹はそう言った。 本当に困った時に見なきゃいけないって、そう言われてた。 今がその、本当に困った時なの。
私の知らないところで、この子も確実に成長しているのだ。
私達はそれから何も話さなかった。 ただ、手だけは、ずっと繋いでいた。 この子とこうして手を繋いで歩いたのは、どれくらい前の事だっただろう。 その頃、この子はまだ小さかった気がする、背もずいぶん小さかった気がする。 背は今でも私の方が高かった。 それでも、今、前に立って私の手を引いているのは、私の婚約者でも、市長でも、私自身でもなくて、私の小さな妹だった。 1週間に足らない時間で、何がこの子を変えたのだろうか。 それとも、この子は何も変わってないのだろうか。 それも私には分からなかった。 確かなのは、今私の手を引いて、そしてあの男も助け出そうとしている少女は、ついこの前までエジンバラのしけたパブでくだらない造花を売っていた、私の妹だった。 そもそも、エジンバラで妹が売っていた造花と、私がこれまで市長のためにこなしてきた仕事の間に、どんな違いがあるのだろう。 私は自分を守るために仕事をこなした。妹は自分と私を助けるために、自分のできることをがむしゃらに続けた。 その本質的な行動の意味が、どれだけ違うのだろうか。 今の私には、何一つ分からなかった。 ニューラナーク村の広場は相変わらず寂れており、灰色の石造りの家が何軒かぽつ、ぽつと点在しているほかは、薄暗い街灯が殆ど消えそうな光を夜の闇の中に灯していた。 私はよく身体の治療とアニーに説明して市長の家に行った。 そこでどんな用事でもこなした。 彼は身体こそ求めてくることはなかったが、それ以外のどんなことでも私はやった。 そうして大人になった。 けれど大人になった今、私の手を引いているのは私の妹であり、私はただ求められるがままに広場を横切った。 あるいは私は、結局のところ大人になるには幼過ぎたのかもしれない。
あの男はどこにいるの、貴方にはそれがわかるの、私は聞いてみた。
「あの男？ ねえお姉ちゃん、変な事を言わないで、もう夜になったのよ、早くエジンバラまで戻りましょう。」
アニーは迷いなく、ジェーンの手を握り締めて出口に向けて進んでいった。
ねえ貴方、私は別にどっちでも構わないんだけど、貴方、あの男のことも許してあげたんじゃなかったの。 連れて行くんじゃなかったの。 私は早足で進んでいく妹に向けて問いかけた。 アニーは立ち止まって私の方を振り返った。
「ねえお姉ちゃん、ラナーク州に知り合いでもいるの？ そんな事来る前は一言も言ってなかったけど。 でも少なくともこの村にはいないでしょう、ここはただの観光地なのよ。 わたしたちも早く帰らなきゃ、もう観光客なんて1人もいないじゃない。」
私はやっと気付いた。 妹が見ているニューラナーク村は、今私が見ているニューラナーク村ではないのだ。 妹にとってのニューラナーク村は、ただの観光地であり、世界遺産であり、そして歴史を今に伝える過去の遺跡でしかないということに。
君にとってのニューラナーク村は、もう君が住んでいたニューラナーク村ではない。
アニーはこの村の全てを忘れていくのだ。 ここに今でも大勢の人が住んでいる事を。 彼らがユートピア共産主義者と呼ばれ、世界のあらゆる所に、あなたや私の隣にもいるということも。 私とアニーはもう広場を抜けて、ニューラナーク村の入り口にあたる坂道の手前に辿り着いていた。 坂道に続く、道が狭くなって石畳から土へと変わる境界に、薄く透明な膜のようなものが貼られている。 この膜が、ニューラナーク村の境界線だった。 私はここからは、おそらくもう、アニーと一緒でないと出ることができないはずだった。 私はアニーと一緒に薄い膜をくぐった。 その膜は水に近い感触で、体こそ濡らさないけど、すーっと体温が低くなるような妙な感触が私の全身を覆った。 私達はニューラナーク村から出ることができた。 そして彼はニューラナーク村に留まったままだった。
彼はこれから先どうなっていくのだろう。 彼ならおそらく、ニューラナーク村の外で働ける頭脳的労働者として生きていけるかもしれない。ユートピア共産主義者なって、それでも煙草を吸って下らない悪口や冗談をぶちまけながら酒を飲むのだろう。 彼がどうなろうと別に私には興味のない話だったし、別にそれでもよかった。 軽く雨が降り出したようだ。 私とアニーの顔を、微かに水の感触が伝った。
お姉ちゃん、早く駅まで行っちゃおう。 アニーは私の腕を引いて急かした。 エジンバラまで帰って、温かいスープとサンドイッチを食べよう、今日は胡椒も使ってるのよ、昨日は造花がよく売れたの、付加価値をつけるためにちょっとだけ色を変えて、ブーケみたいにまとめてみたの。 けっこうよく売れたわ、次からはこのやり方でいけると思うの。
私も軽く微笑み返した。 今日はもうちょっといいレストランに連れて行ってあげるわ。 もう造花も売らなくていいのよ。 明日、ロンドンまで行きましょう。 貴方はロンドンで学校に通ったほうがいいわ。 アニーはそれを聞いて、目を丸くして驚いていた。 私が冗談を言っていると思ったのかもしれない。 私達はゆっくり時間をかけて坂道を歩いた。 雨が微かに強くなったような気がする。 私達はまだ家族としてやり直せるのだ、それが今の私には少し嬉しかった。
坂道を登りきったところで、私達はニューラナーク村を見下ろした。 アニーはもうここに帰ってくることはないだろう。 私はどうなるか分からない、婚約者も残念ながらユートピア共産主義者だった。 私には時間が必要だった。 自分のこれまでと、これからのことを考え、見つめる時間が。
「さあ、家に帰ろうよ。 お姉ちゃん。」
アニーはそう言って私の手を引いた。
私は歩き出さなかった。
ねえ、貴方は、本当にこの村の事も、あの男の事も、忘れたの。
私はアニーに問いかけた。 お姉ちゃん、だからあの男って誰なの？ 私はアニーに、ポケットの中を探ってみるように促した。 アニーは黙ってそれに従って、やがて、金属製のカード・ケースを取り出した。 アニーは変なものでもみるような怪訝な目つきでそれを暫く見つめていた。 これはなんなの、わたし、こんなの持ってなかった。
私に貸しなさい。アニーは黙って従った。
別にあの男がニューラナーク村から出られないのは正直なところ私にはどうでもいいんだけど。 貴方が私に言った事は、間違いじゃないって、私もそう思いたいから。
アニーと私は、もう一度坂道を降りた。
ここで待ってなさい、私は村の入り口で、あの境界線の前でアニーに伝えた。 私がこの村から出て行くには、貴方に手を引いてもらわなきゃいけない。 この村に次に貴方が入ると、もう何が起こるか分からない、貴方はここで待ってて。 私はアニーの腕を取り上げ、ボロボロの古い腕時計を示した。 時刻はもう午後10時半を指していた。 この時計が、11時55分になったら、貴方は腕を出して。 私たちもその時間までにここにいるわ。 いい、貴方には私達の姿はもう見えなくなるかもしれないけど、11時55分になったら必ず腕を出して私達を引っ張って。 約束よ。
アニーは訳がわからないと言いたそうな目で私を見つめていたが、私の言葉に冗談や嘘といった類のものが含まれておらず、真剣そのものと言った顔だったので、何も言わずに頷いてくれた。
約束よ、アニー。 必ず、11時55分に、私達を連れ出して。
アニーはもう一度頷いた。
私も頷いて、膜を潜り抜けてニューラナーク村に入った。
(第6部終わり)