※この話の中で書かれる設定は、創作の中の架空の設定です。
キャラクターも設定も全て架空のもので、実在の場所・人物とは関係ありません。
(エピローグ)
僕は相変わらず…というか、前よりちょっと早めに、朝の6時半きっかりにベッドから起きて、朝ごはんも食べずに栗を拾いに行く。…ちなみに、12月のこの時期、栗はもうほとんど終わりかけと言ってもいいくらいに落ちてないので、ヴァンセンヌの森に行った後で、僕は市場を回ることにする。収穫はそれほど多いとは言えないけど、例えば、傷んだリンゴとか、Courge butternut(かぼちゃみたいなやつ)が手に入ることもある。りんごは焼いてシナモンを振りかけたら、香ばしくて甘くて、匂いも良い感じに流れてくれて売れやすいし、Courgeはポタージュにして鍋から紙コップによそって売る。真冬だけど、いろいろやることはあるわけだ。それに現実問題として、僕も栗ばかり食べてたら栄養不足なわけだし、リンゴはビタミン補給のためにもなんとしても手に入れなければいけなかった。
まあ、今日はまずまずの収穫といったところで、僕は家に帰る。これからまた、鉄板を引きずって、リシュリューの前で焼かなきゃいけない。結局のところ、生き抜くということは、かくも大変なことなのだ。ただ、最近僕の家には、2点の大きな変化があった。1つは……ルルは、戻ってこなかった。寂しかった。僕は最初の頃は僅かな希望を抱いて、彼がいつでも帰ってこれるように、窓の鍵をわざと閉めておかなかったりした。まあ、こんなボロ家に泥棒に入る物好きなんていないだろうし。…ただ、ルルは、パリの街が12月を迎えて、本格的な冬に入っても、とうとう帰ってこなかった。……彼はきっと、戻るべきところに、戻っていったのかもしれない。ルルはいつも、僕のそばにいてくれた。……………だから、それを理解していても、僕にはそれがどうしても辛かった。彼のいない暮らしが。……時間が経てば、いつか慣れるのかもしれない。だけど、そのためには、時間がかかりそうだった。少しだけなのか、あるいは、永遠にそんな時は来ないのか………僕にはまだ、分からなかった。
2つ目。
我が屋には、ルルと入れ替わりに、新たな同居人が増えた。
僕は市場から帰って、ただいま、そう言って家のドアを開ける。机の上に、クロワッサンとカフェ・クレームの温かな朝食が並べられていた。
ーおかえり。ネージュ。
クロエは温まったヤカンから、慎重にミルクをカップの中に注ぎ入れる。分量をちゃんと分かった注ぎ方だ。僕のカップには、ミルクを多めに、3/4くらい。自分の方には、ほとんど一瞬と言ってもいいくらいの注ぎ方で、ほぼほぼブラックに近い感じで。お互いの好みの濃さを巡っては、ささやかな言い争いが初日から勃発したけれど、まあなんとか歩み寄れた。…というより、お互いの好きにやるという方式で、妥協した。
ただいま。
僕は机に座って、凍える手を温めるためにカフェ・ボウルを手に取る。クロエの木の義足もだいぶ馴染んできたみたいだ。それは、彼女の実家から送られてきた、ちょっとした贈り物だった。彼女のことを心配してくれる人が、彼女の実家の中にもちゃんといてくれて、僕は少しほっとした。…クロエはまだ、家に帰るつもりはないと言っていた。しばらくはこのままで、そう言って、僕も同意した。…最も、2人暮らしには、多少、というよりかなり、狭い家であることは認めざるを得なかったけど。ルルは基本、ずっと床で寝ていたから……。
クロエが僕と一緒に暮らすようになってから。
いろいろなことが変わった。まず第一に、部屋が圧倒的に綺麗になった。インテリアが、とかいうことじゃなくて、単純に掃除が行き届いているという意味で。僕的には、自分が暮らす寝床さえある程度の掃除ができていればいいわけで、シンクとか、洗面所とか、部屋の隅とかは褒められたものじゃなかったんだけど、クロエ的にはそれは我慢がならないようだった。まるで僕が何か重大な罪を犯したかのように、クロエは僕を睨みながら徹底して水回りをゴシゴシ擦って苔を取って、部屋の隅の埃を綺麗に拭った。やれやれ。…それから、クロエは毎日、僕に読み書きを教えてくれた。僕の仕事が終わった後で、晩ご飯を食べた後の30分くらいで。彼女自身は、午前中のうちに勉強して、昼からはマクドナルドにバイトに行ってる。たまに、売れ残りのハンバーガーやポテトを持ち帰ってくれるので、僕としてはかなりありがたい。
ーいつか、貴方と一緒に学校に行けたらいいわね。
クロエはそう言って努力している。彼女は結局、家にも学校にも戻らなかった。通信制の学校やらなんやらを、パンフレットを取り寄せて探している。…学校。僕には想像もつかなかったし、どこからそのお金が湧いてくるのか、そのプランもまだ不明だったけど、まあとりあえず、今はそれを新しい目標に日々を過ごしている。
ある日のこと、僕とクロエは久々に、彼女のリハビリも兼ねて、冬の朝のパリの街を歩いていた。朝の7時35分、白い雪がうっすらと石畳の上に降り積り、眩しい青空に輝く清冽な光を受けてきらきら輝いている。街行く人はみんな忙しそうで、でも心なしか、いつもより笑顔な気がする。
…なんかみんないつもより幸せそうな気がする。
クロエは僕のささやかな疑問を受けて、当然じゃない、そんなふうに肯いて返す。
ー今日はクリスマスイブよ。
そうなの？
ー……貴方、基本的に世の中のイベントに無関心よね。
そう言われても、僕みたいな生き方だと、曜日とか時間には敏感になるんだけど、カレンダー上の日付にはどうしても無関心になってしまう。だいたいの季節感が肌で分かってればそれでいいのだ。
まあ、確かにそう言われて街を見渡してみると、どことなくクリスマスムードなのは分かる気がする。モールとか、電飾とか、そういうのが街灯に吊り下げられている。
ーお祝いしないの？ 毎年。
いや別に…ルルとは特別そういうのはなかったな。
日々を生き抜くので精一杯だったわけだ。別にそれは、今でも特に変わらないけど。
僕たちはゆっくり歩きながら、セーヌ川のほとりにたどり着く。川を挟んで、ノートルダムのある(あった)シテ島が見える。あの大聖堂が無事復旧するのは、いつごろになるんだろう。僕が無事生きてるうちであればいいんだけど。
ー………ねえ。クリスマスのお祝い、ってわけじゃないんだけど。
どうしたの？
ーちょっとだけ、後ろ向いててよ。
僕は言われた通りにする。セーヌ川の流れはどこまでも穏やかで、ゆっくりとしていた。ただ、それでも川は流れ続ける。ゆっくりとした、歩くような速さで、それでも前に流れ続けている。
僕はふと、首元に何か、あたたかいものが巻かれるのを感じる。僕はそっと目を落とす。それは白いマフラーだった。ただ、前に貰った…結局、あれは外しちゃって、その後行方不明になってた…ものとは、ちょっとだけ柄が違う。白がベースなんだけど、真ん中のラインにうっすらと、小さな青い線が入れられている。それは、まっすぐに連なった、小さな雪の結晶みたいだった。
ーあなたにあげるわ。
………これは…………
ーマフラーよ。相変わらず首元寒そうだし。また風邪ひくわよ、そのままじゃ。…でもまあ、真っ白なやつも、それはそれで気にするかと思って。
…………わざわざ仕立て直してくれたの？
ー……大した手間じゃないわよ。別に。おめでとう。
え、何が？
ー誕生日、おめでとう。ネージュ。
………………………
そういえば、そうだった。
ずいぶんと長く、忘れてた気がする。
もしかしたら、知らなかったのかもしれない。
僕がこの世界に生まれたことを、誰かが祝福してくれるんだってことを。
……ありがとう。 お姉ちゃん。
***********************
僕たちは、2人並んでゆっくりと歩き出す。
これからどこにいこうか、特にまだ決めてない。
……そういえば、クロエは将来何になりたいとか、そういうのあるの？
ーまた唐突ね。
少なくとも僕には無いんだ。学校って言っても、あんまりイメージ湧かないし、学校卒業して何になるのか、何ができるのかも、よく分かってないし。
ー…本質的な疑問ね。けどまあ、それはそのうち見つかるかもしれない。今すぐには見つからなくても、そのうち、ね。私の将来の夢？ 一応あるわよ。
ちなみに、どんな？
ー資格を取って、ルーブルで働けるようになりたいの。学芸員。
僕は頷いて返す。
それは、たぶんいいことだと思う。きっとなれるさ。
ーまあ、案外いろいろと勉強しなきゃいけないみたいだけどね。
そういうものなのか。絵とか彫刻とかって、感性がほとんどだと僕は思うんだけど、世の中そんなに甘くないみたいだ。
そう考えて、僕はこれからどこに行くかを提案してみる。
じゃあ、勉強しなきゃね。今から。
ー………今から？
とりあえず、美術館に行こうか。
ー…貴方って本当に、即断即決よね。
褒められてると思っていいのかな？
ゆっくりと、迷いながら。
それでも確かに前に進みながら、僕たちは2人で歩き続ける。
(終わり)