異世界で京料理を食べよう！
※実在の地名、人物とは一切関係しません。
※あくまでも、創作の中の話であり、現実の話ではありません。
全てフィクションです。
(最後のお客さん 後編)
幽霊は、どうして危険な存在になり得るのだろうか？
彼らは時として、怪異や悪霊…生者に危険を及ぼすもの…となる。そうなってしまった者たち、あるいはそうなる可能性のあるものに対して、私たち鬼闘師が力を行使し、もしくは、危険となり得る前に祓う。それが、大衆の目に触れないまでも、多かれ少なかれ、どの国でも行われてきた。 暗闇に紛れて、はるか昔から。
ただ。
私は今でも考え続けている。 人は何故、死んでなおこの世に留まるのだろうか。強い未練や、やり残したこと、あるいは怨みが、亡者をこの世に繋ぎ止める。では、彼らは何故、悪霊になるのだろうか。人に…時として、それは自分とは関係のない、全く無関係な赤の他人にすら及ぶことがある…、死して尚、危害を加えるのだろうか。
頭の片隅で、私はそれについてずっと考えてきた。
最近になって、ようやくひとつの定性的な…抽象的と言ってもいいかもしれない考えが、私の頭を占めるようになってきた。
良い亡霊でも、悪い亡霊でも、…限りなく生きている人間に近くて、食事をして、酒を飲んで、洋楽に耳を傾けて、糺の森の中にカフェを開いてしまうような幽霊でも…決定的に、生きている人間と違う点がある。それは、彼らには、無限の時間が用意されているということだ。老いることも、病めることもない。死に向かって歩いてゆく生者とは違って、幽霊には、『限りある時間』というものが無いのだ。限りある時間の流れだけが、人間を猿から進化させた。いつか自分が消えて無くなると、誰もが心の底では気付いているから、生者は今日を生きようとするのだ。幽霊にはそれができない。
だから、私は思う。 幽霊が成仏するか、それとも危険な悪霊と化すか、その最後の一線は、彼らが、自分たちには無限の時間が広がっているということに、気付いてしまうか否かだと。その時間が永遠に続いて行くと知ってしまった幽霊は…悪霊と化すのかもしれない。自分たちが、もう、愛する人とは同じ時間を歩めないと、気付いてしまうだろうから。
三条烏丸から西へほど近く、町屋を改装した居酒屋で美味い日本酒を飲みながら、私はあのカフェについて想いを馳せる。あの若くして幽霊となった店主は、きっといつか、そのことに気づくだろう。おどけてはいても、その内側は聡明な、少女の幽霊だった。彼女の運営する『異世界京料理』カフェは、極めて興味深い…生者と死者が交差するというだけでなく、こことは違う、別の世界とすら繋がる場として…ものだった。そして、自分で足を運んだからこそ分かることだが、それは決して居心地の悪い場所ではなかった。ただ、それでもあの幽霊の店主は、いつか気づくだろう。幽霊としてこの世界に永遠に留まり続けるということが、無限の時を生き続けるという、呪いにも等しいことだということに。そうならないうちに、私は北神祈祷師に、彼女を祓うべきだと提案した。……それが遅きに失したとしたら、私が自ら………。
小さな切子の杯に透明な酒を注いで、私はふと、あの店で働いていた、異世界から来た王女様のことを思い出す。
『だから、貴方はやっぱり、優しい人です。』
…………
私は一息に杯を空けて、会計を済ませて店を出る。
私は自分でも、かなり捻くれていて、皮肉屋な方だとは思う。
………………だから、素直すぎる人間というものは、やりにくいものなのだ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
看護師さんが私に伝えてくれた話を要約すると、次の通り。
・数年前、緩和ケア病棟で、免疫系の病気で余命幾ばくかの高校生の担当になったことがある
・お見舞いの人は殆ど来なかったけど、その中で、お弁当と、ボウモアと、マールボロのカートンを持ってきた女の人がいる
・見舞い客がどこから来たのか、どこの出身なのかも分からないし、自分は今、緩和ケアの担当から外れている。だからこうして、未成年の二日酔い(の、酷いバージョン)と、その保護者らしき人の搬送に来ている。
・ただ、お見舞いの人は、確か電気系を専攻している大学生だけど、今は休学…というより、不登校だと言っていた。
それは一部の隙もない、端的で、要点を捉えていて、無駄のない説明だった。彼女はあくまで、感情を込めずに、淡々と話していた。それは、彼女が冷たい人間だとか、そういうことじゃない。私は彼女を、とても、とても立派な人だと思う。
…多くの人の死を看取る仕事というのは、悲しくて、辛くて。
それでも歯を食いしばって、前を向いて仕事をする人は、とても偉大で優しいのだと、私はそう思う。
………私も、それを見倣って、小説を書いていたい。
ー………どうして、そんなことを知りたがるのですか？
…こっちだけ話さないのはフェアじゃないわね。私たちは京都からここまで来たの。カフェの幽霊の店主さんの、大切な人を探すために。……本当の事なの。嘘は言ってない。そこに繋がる手がかりは、どんな些細なことでも、知っておきたいの。
ー…………万が一、いえ、億が一、それが真実だとしても、私の話したことと、貴方のお話の中の『店主さん』と、私の患者さんが一緒だという保証も無い。
………だけど、いまのところ、貴方の話してくれた患者さんが、最も条件に当てはまる人なの。虱潰しにあたるしか、手段が無い。………ごめんなさい。無責任で、ダメな大人なのは分かってるわ。けど、お願いしたいことが………
ー降ろしてくださいって言うんでしょう。ここで。
……その通りです。
ー急性アルコール中毒の『王女様』は放っておいて？
私は寝台の上に横たわっているノアちゃんをちらっと見る。呼吸は多少なりとも落ち着いたみたいだけど、確かにこのまま放っておくのは気が引けた。というより、人間としてそれはどうなのだろうと思う。みんながみんな、ウイスキーを2瓶飲み干して平然としていられるわけではないのだ。確かにそれは私の落ち度。だけど…
………ノアちゃんをお願いするわ。私は行かなきゃいけない。
ー……………そこまで、幽霊の店主さんが大事な人なのですか？
私は少し考えた。それから、私を見つめる看護師さんに伝える。
…………分からないわ。自分でも、どうしてここまで入れ込むのか。たぶん、なんとなく放って置けないだけなの。
ー放って置けない？
そう。……寂しい話じゃない。幽霊になってまで待ち続ける誰かに逢えずに、ただいなくなるなんて。希望が無さすぎるわ。
私は普通に思ったことを言っただけだったんだけど、看護師さんは私を静かに見つめて、それからほんの少しだけ笑った。彼女は運転席に向かって、車を停めてくれるように伝える。
救急車が止まって、ドアが開く。
ーこの子はまあ、とりあえずただの酷い二日酔いみたいですから。…終わったら、お見舞いに来てあげてくださいね。
ありがとう。感謝するわ。………信じてくれたの？ 私の話を。
ーさっきも言ったとおり、98パーセント信じてません。
やっぱり？
ーただ………残りの2パーセントを信じて、そのわずかな可能性を手繰り寄せるのが、私たち看護師の仕事ですから。
………………
ーさあ。早く。
私は頷いて、ノアちゃんの手を軽く握った。
…ごめんね。店主さんの大切な人を見つけたら、必ず戻ってくるから。
ノアちゃんが軽く私の手を握り返してくれたのを確認して、私は頷いて救急車を後にした。
京都までの移動時間まで考えると、残りは今日と、明日の午前中。
私が持っている手掛かりは、看護師さんの話と、それから…………
私はスマホの画面に目を落として、咲良ちゃんから届いていたLINEを読んだ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
お酒を飲み過ぎて吐くまでは経験があるのだけど、その先のステージ…要するに、病院に担ぎ込まれるというところまでは、さすがに経験した事がなかった。それは至って正常なことで、まあ、つまるところ今回は、羽目を外しすぎたというだけの話だ。伊吹さんがてっかまき？について熱く語っていたところまでは覚えてるんだけど、その後にふわふわした天国がやって来て、世界が回って、暗転して、何も覚えていなくて、朝起きたら、そこは地獄だった。お酒というものは、まったく、これだから。
今、わたしは病院の、白いベッドの上に寝かされている。透明なチューブが腕に通されて、点滴がうたれている。それのせいか、それとも安静にしていたせいかよく分からないけど、とりあえず気分はまだ少しマシになっていた。
顔を横に向けて、窓の外を眺める。だんだんと火が傾いて、綺麗な美しい夕暮れが、わたしの暮らしていた世界とは随分違う街並みを照らしていた。ただ、どんな世界に来ても、夕暮れは夕暮れだったし、綺麗なものは綺麗だった。きっと、ヘリオたちも、今頃こんな綺麗な夕日を眺めているのかもしれない。…心配されてると思うけど、たぶん、帰ったら相当怒られて…それから、泣かれると思う。
わたしがこの世界に迷い込んだのは、何か意味があってのことなのだろうか。
それは、考えても答えの出ることのない疑問だった。
ー………とりあえず、体調は良くなったみたいですね。
女性の看護師さんが、ベッドの脇の机に食事を運んでくれる。お椀に入った柔らかそうな白いライスと、野菜の入ったスープ、煮込んだ魚、バナナが3切れ。幽霊の店主さんの作る料理よりは簡素で、お皿もシンプルで安そうなものだった。けど、食べてみるとなかなか美味しくいただけた。
ありがとうございます。……その、ご迷惑をおかけしました。
ーあぁ………迷惑だという自覚があれば何より。いいですか、あなたは、未成なんなんです。み、せ、い、ね、ん。あなたのお国ではどうなのか知りませんが、日本では未成年の飲酒は固く禁じられています。このような事態を避けるために。
…………ごめんなさい。
ーちなみに、お名前はノアで合ってますか？ 一緒にいた女の人は、保護者さんですか、それとも知り合い？
友達です。
ー………悪い人じゃないと思いますが、未成年にお酒を飲ませるのは、ほめられた行為じゃありませんね。ノアさん、何か身元を確認するものは？
………無いです。今は別の国に亡命してるんですけど、もともとは王女でした。シュラーフの。でも、革命みたいなもので、国が潰れちゃって……
ー…………まあ、血液検査の結果、あっち系のお薬は検出されませんでしたから、たぶん本気で言ってるんだと思いますが。でもね、その、未成年で、お酒の飲み過ぎで病院に運び込まれて、しかも身元不明って、正直なところ病院としてもかなり困るんですよね。……お金ともろもろの説明は、後で伊吹さんに請求しますけど。
伊吹さんは悪い人じゃ無いです。その、まあ、わたしが倒れたことについては、事後責任ということでなんとかならないでしょうか。
ーあなたは未成年。伊吹さんは成人。そういうことなんです。大人になるというのは、責任も負うということなのです。自分で望んで大人になったかは、ともかくとして、ね。
………わたしもいつか、大人になるんでしょうか。
ーそのまま時間が経てば、いずれそうなるでしょう。時間の流れには、生きている人は誰も逆らえませんから。
生きている人は。
なぜだか、その一言は、不思議な響きをもって、わたしの頭の中にずっと残った。
看護師さんは、わたしの体調をチェックして、それからおやすみなさいと声をかけてくれて、部屋を後にしようとした。ただ、彼女は部屋を出る前に少し躊躇って、それから呟くように話した。
ー………あの人は、店主さんの大切な人を、見つけることができるでしょうか？
きっと、できますよ。
ーどうして、言い切れるんですか？ …私の話と、訪ね人が一緒だという保証も無いのに。それに、その人が何処に住んでるかさえ、分からないんですよ。
でも、きっと伊吹さんは見つけますよ。…どうしてか分かりませんけど、多分、きっと、あの人は見つけます。そんな気がします。
ー……………底抜けの善人ね。あなたって。
人を信じてみるのも、悪く無いことだと思いますよ。
わたしがそう返すと、看護師さんは少し黙って、それから頷いた。
ー………………あなた、医者に向いてるかもね。
え？ なんでですか？
ーさあね。ふと、そう思っただけよ。
………変なの。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
伊吹さんと王女様が旅立って、それから2日がたった、その日の夜。
それはつまり、今晩が、僕がこの世に留まれる最後の夜であるということを意味していた。やれやれ。世の中って、そう上手くは出来てないものだ。結局…伊吹さん、ノアちゃん、咲良さんにはとても迷惑をかけてしまった。それは僕にとってとても嬉しいことだったけど、あまりにも難しすぎることだったのだ。
僕はいつも通りに、バータイムの準備をしていく。ロック・アイスを割って、新鮮なレモンとライムを絞って、ウォッカとジンを冷凍庫で冷やしておく。まあ最後の日だからといって、店が急に混むわけでも無い。というより、いつもどおりガラガラだった。僕は自分用にジンの割合が99パーセント以上のドライ・マティーニを作って、それを飲みながら店に流す音楽について考えていた。なんとなくだけど、レッド・ツェッペリンも、ACDCも、ディランも、ピンク・フロイドも、エルトンも、ビートルズも、アヴリルも、カーリー・レイ・ジェプセンも、欅坂も、今のこの最後の時間には相応しく無いような気がした。結局、大きめのグラスに注いだマティーニが空になるまで、店の中に流したい曲は思いつかなかった。僕は諦めて、静まりかえった店内を見渡す。それほど強い思い入れがあるわけでも無かったけど、かといって、寂しさがないわけでも無かった。
お祓いされるって、される側はどんな感じなんだろう？
僕は錫製のタンブラーにビールを注いで、薄い泡を少しずつ舐めながら考えてみる。生から死の境界を踏み越える時に、僕は何を思って、何を考えていたんだろうか。お祓いされるってことは、それと同じような事なんだろうか。…どうして僕は、幽霊になって、店を開いてまでささやかな生活費を稼いで、この世界に留まっているのだろうか。それは、僕一人で考え込むには、少し難しすぎる話のようだった。
店の時計が10時をまわっても、誰も来なかった。
まあこんなものかなと諦めて、僕は大人しくお祓いされる準備を整えようとする。誰かがこの店を受け継いでくれるのか、それとも人知れず処分されるのかまでは、よくわからないけど。そんなことを考えていた時に、店のドアが静かに開いた。
あ、いらっしゃいませ。おひとりですか？
僕はお客さんに声をかける。知らない女の人だった。少し長めの黒髪を無造作になびかせて、黒縁の眼鏡をかけている。服装もこれといって飾り気のない、さっぱりしたものだった。なんとなく、理系っぽい雰囲気を感じないでもない。
ー……ええ。私一人だけ。構わないかしら？
どうぞどうぞ。何か飲みます？
お客さんは椅子に腰を下ろして、ボウモアを。ストレートで。そう静かに注文した。
僕はボウモアのストレートをカガミクリスタルのグラスに注いで、チョコレートを盛った小皿を添えてお出しする。お客さんはボウモアを一口飲んで、ゆっくりと風味を愉しんでから、煙草、吸えますか？ と僕に尋ねた。僕が伊万里焼の小皿を灰皿がわりに差し出すと、彼女はマールボロの箱を取り出して、慣れた手つきで火をつけて、煙を吸い込んだ。彼女の吸ったマールボロの煙は、細い一筋の白い線となって、天井に向かって昇っていく。魂が空の上に旅立つみたいに。
ー店主さん。貴方も、一杯どうかしら。
そう勧められて、自分でもどうしてなのか分からないけど、僕は何も言わずにそのお誘いを受けた。自分用のグラスを出して、カウンターの向こうでお客さんと向かい合うと、彼女はそっと僕のグラスにボウモアを注いだ。
ーはい。これもどうぞ。
彼女はウイスキーだけじゃなくて、自分のマールボロの箱を僕に勧める。僕はそれも断らずに、彼女と向かい合って、マールボロに火をつけた。しばらくの間、僕とお客さんがウイスキーを飲んで、煙草の煙を出す音だけが、店の中に流れた。
僕が煙草を吸っても、驚かないんですか。
マールボロを2本吸い終わってから、僕はそう聞いてみる。大抵の人は、僕みたいな未成年の幽霊が煙草を吸ってたら、面食らうか注意するものなんだけど。…まあ、最近出会ったお客さんたちは、(咲良さんを除いて)みんなどこかフワフワした感じだったから、特に何事もなかったけど。
ー……そうね。驚かないわ。不思議なことだけどね。………ねえ。何か、お料理を作ってもらえるかしら。京料理カフェって、なんだか不思議な響き。
まあ、京料理っぽい何か…というより、京都で買った食材を生かして作った何か、という意味ですね。
ー広義に見れば、それも京料理と言えなくもないわ。
…僕が言うのも何なんですけど、お客さん、寛大ですね……。
僕は何を作ろうかしばらく迷う。これも、僕の生涯(幽霊になってからという意味)で初めてのことなんだけど、僕はその時、何を作ってあげればいいのか、全く思いつかなかった。いつもは、京料理だと言い張って、なんだかんだと料理できるんだけど。
僕の迷いが顔に出ていたのか、彼女は少しだけ微笑んで、じゃあ、私が作りましょうか。そう僕に伝えた。
あ、えっ、でも…………
ーいいの。…今日で、閉店なんでしょう。最初で最後の出逢いを祈念して、ね。
はあ………じゃあ、お願いします。
お客さんをカウンターの中に通しながら、僕はふと思う。彼女はどうして、今日でここが閉店になることを知っているのだろうか。
彼女の手つきは、僕が見てもびっくりするくらいに手慣れたものだった。まず彼女はまず、醤油と、ポン酢と、胡麻油と、少しだけの豆板醤を混ぜてドレッシングを用意する。それから、白菜の柔らかいところを洗ってザクザク一口大に切り揃えて、その後で水菜も短く切る。冷蔵庫から鰯を取り出して、内臓と鱗を取って水洗いしてから、キッチン・ペーパーで水気を切る。 その鰯に塩と小麦粉を塗して、フライパンで熱した少量の油で揚げ焼きにして、ドレッシングで和えた白菜と水菜のサラダの上に鰯を盛り付けた。出来上がったサラダを、アカシアの木で出来たサラダボウルからお皿に取り分けて、彼女は僕の目の前にサービスしてくれた。
ーはい。どうぞ。お口に合うといいんだけど。
僕はサラダと鰯をお箸で摘んで、一口食べてみる。シンプルでヘルシーだけど、さっぱりして悪くない、美味しいものだった。
美味しいです。とても。
ー良かったわ。私、京都に近い学校で中高生を過ごしたから、その私がつくるサラダも、広義に見れば京料理と言えなくもない。
……さすがに広義に見過ぎなのでは？
ーまあ、そうとも言うわね…。 ねえ、乾杯しない？ …この出逢いを祝福して。
それは悪くないですね。僕たちの出逢いを祝して。それから、…………
ーそれから？
それから、お客さんのこれからの健康を祈って。
ー………ありがとう。明るくて好きよ。そういうの。
グラスにもう一杯ずつボウモアを注いで、僕たちはグラスを軽く重ね合わせた。
サラダを食べ終わって、僕とお客さんはハーゲンダッツ・アイスクリームを幅の広いグラスに盛り付けて、アードベックを少しだけアイスクリームに垂らして、柔らかくしてスプーンで掬った。アイスクリームを舐めながら、僕たちはマールボロをもう一本ずつ咥えて火をつけた。
ーねえ。………店主さん。
どうしました？……なんか、僕の方がお客さんみたいで、申し訳ないんですけど。
ーいいの。…こういうの、慣れてるから。でも、ひとつだけ、店主さんらしいことをして欲しいの。
どうぞどうぞ。なんでもどうぞ。
ーじゃあ、お悩み相談、受けてもらえるかしら。
ええ。なんでも言ってください。プライバシーと個人情報厳守ですから。
ーありがとう。…………………
彼女は少しだけ黙って、半分くらい吸ったマールボロの先端を灰皿で潰した。
ー………私ね。好きな人がいたの。………変わったいきさつで、その子…年下だったんだけどね…少しの間、私の狭い下宿で、2人で暮らしていたことがあった。とても、ささやかな暮らしだったけど、優しい時間だった。
彼氏さんです？
ー彼女よ。
ああ、そういうのも全然アリだと思いますね。僕は。
ーありがとう。 毎朝6時に起きて、私たち2人で河原をランニングするの。その子、陸上部だったから、走るのが好きだった。私も嫌いじゃない。それから、熱いシャワーを浴びて、朝ごはんを食べるの。昼過ぎまで、小説を読んだり音楽を聴いたりして、お互いの時間を過ごす。午後からは、市民プールに泳ぎに行って、1kmくらい泳いでから、のんびり過ごすの。水中ウォーキングしたりね。それで夜は、さっきみたいなご飯を作って、お酒を飲んでお話しするの。そうしているうちに1日が終わる。
夢みたいな暮らしですね。僕は幽霊だから、やろうと思えばそういうのもできるんですけど。ほら、生きてるうちは、学校とか仕事とか、そういうしがらみがあるじゃないですか。
ーたまたまだけど、私もその子も、不登校だったのよ。その時。
ああ………まあ、学校なんて無理に行って楽しい場所でもないですからね。
ーそうね。私も、そう思うわ。でも、その子の余生は、とても辛いことだけど…長くないことが分かっていたの。病気だった。とても重い、治る見込みが限りなく薄い、そんな病気。
…………お気の毒に。
ー……………明るくて、口が軽くて、飄々として、それでも不安を滅多に口に出さない、強くて優しい子だったわ。……今でも私は、その子のことを思い出す。不登校じゃなくなって、大学院まで進学して、次の春からは助教授として研究室で働くわ。……それでも、その子のことを、今でも思い出すの。
…………でも、不登校じゃなくなったんですね。
ーそうね。学校には通うことにしたわ。あの子がいなくなっても、それでも、私の旅は続いていくの。今でも、ね。………それが、あの子が病院のベッドで伝えてくれた、最後のお願いだった。
………………
ー……時間が戻らないのって、とても辛いことなの。……でも、前を向いて歩いていくことしか、私には出来ない。…………生きている人と、死んでしまった人では、きっと、時間の在り方も、感じ方も、違うかも知れない。………けど…………………
…………………けど？
お客さんは、僕の問いかけに、何も答えなかった。
答えずに、静かに彼女の頬を流れた涙を、長袖の裾でそっと拭った。
ー…………もし、願いが叶うなら、同じ時間を一緒に歩いていきたいと、今でもそう思ってる。生と死の隔たりが、私とあの子の間にあったとしても………。我儘で、叶わない願いなのかしら。………ねえ、店主さん。
僕は、彼女の言ったことを、頭の中で考える。
………生きている人と、死んでいる人の間の隔たり。
それはとても深くて、底のない、暗い谷のようなものなのかもしれない。
だから、その境界を明確にするために……咲良さんたちがいるのだろう。
…………そうですね。貴方の言う通りです。それはきっと、我儘で、叶わない願いなのかもしれません。僕も、そう思います。…………だけど………………
ー…………けど？
……………僕は、そう願って、ここに、この店を開いています。生きている人も、死んでいる人も、別の世界から来た人だって……楽しくお酒を飲めてご飯を食べられる店であってほしいと、そう思ってます。
彼女と僕の間に、少しの沈黙が流れた。
やがて、お客さんは溶けかけたハーゲンダッツを口に運んで、それから、何本目か分からないマールボロに火をつけた。
ー…………ねえ。 少しだけ、音楽を流してもいいかしら。
どうぞ。……お客さんの、お好きな曲がいいです。
ーありがとう。こういう時にぴったりの曲かどうかは、分からないけど。
彼女はそう言って、自分のiphoneを店のスピーカーに接続して、少しだけ考えてから、音楽を選んで流した。……まるで、天国の上にいるような、そんな美しくて、偉大で、それでいて、少し寂しい音色。
………いい曲ですね。どんなバンドですか？
ーこの世界で、一番のバンドよ。たくさんの音楽を世に送り届けた彼等が、オリジナル・メンバーで、最後に出したアルバム。シャッフルで適当に流れてるからね。しばらくのあいだ、一緒に聴きましょう。
ええ。……よろこんで。御一緒に。
僕たちは、ボウモアをゆっくり飲みながら、その音色に耳を澄ませ続けた。
それは、懐かしい…………本当に、とても懐かしい、僕が大好きな音楽だった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
3時間ほどアルバムを何枚か聴き終えて、時間は夜の2時を回っていた。
ー………そろそろ、帰るわ。店主さん。
…………
ー本当に、とてもいいお店。私、大好きよ。こんな空間。
……………
ー逢えてよかったわ。……貴方が、お祓いされる前に。
………………貴方のせいです。
ー…………どうしたの？
どうして、ここに来たんですか。それも、最後の日になって…。僕は………ずっと、ずっと待ってました。でも、受け入れる気になってたんです。お祓いを。まあ、いなくなるなら、それはそれでいいかって、そう思って…。覚悟して……。だけど………
ー……………………
…………………………貴方と、逢えたせいで……………………思い出して……………
…………………………僕は、まだ、この世界から、消えたくない………………
ー……………………
幽霊と生きてる人の線引きなんて知らない、祈祷師なんて知らない。
お祓いなんて、されたくない。
僕は…………貴方と一緒にいたい。
子供みたいに、我儘で…………………
でも…………………
アイリさんは、泣きじゃくる僕を、そっと抱きしめた。
とても暖かくて………
僕は、幽霊になってから初めて、生きている人の体温が、こんなにもあたたかいものだって、そう思うことができた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
(何週間か、あとのこと……………)
やれやれ。
あれから……警察に何十枚もの書類を提出して、身元不明の扱いのノアちゃんを病院から引き取って、治療費を出して(30万5600円)、溜まってた大量の原稿を爆速で書いて、校正に出して、村本君に告白されて(悪い気はしなかったけど)、それから……
私は今、河原町駅の近くのスター・バックスで、咲良ちゃんを前にして座っていた。今日はゴスロリ姫様じゃなくて普通の服だったけど、どうやら、私は彼女に敵視されているようだ。なんとなく目が険しい。
あの時は一緒に戦った仲だというのに、なんとつれない。
ー別に戦いじゃないし、『たまたま』同じ目的に向かって協力しただけよ。
ああ。そーーですか。あの時、LINEで店主さんの方言を『たまたま』伝えてくれて、『たまたま』店主さんが三重県の出身だってわかって、それで『たまたま』私が三重大学まで辿り着けて、店主さんの大切な人を無事探し当てられたのも、ぜーんぶ偶然のなせる技と。なんと恐るべき神の思し召し。
ー………口だけは達者ね。ええ、全部、『たまたま』よ。全くの偶然。三重県では、しあさっての事を「ささって」って言うのよ。ケンミンショーで見たから知ってただけ。別に、貴方にヒントをあげるつもりで伝えたんじゃない。ただの雑学自慢。
…………まあ、助かったのは事実だから、素直にありがとうと言うわ。
ー………………奇跡が起こって何より。
期待してたくせに。
ーはぁ？ 祓うわよ？ 本気で。
一般人のか弱い小説家にできるのなら、ぜひどーぞ。はい、咲良ちゃんのゴスロリお祓いのコーナー、行ってみよう！！
ーグーで殴っていい？
それはやめて。
私たちが些細な？戯れの会話の応酬をやっているところに、若干呆れ顔のノアちゃんがコーヒーを片手にやってきて、少しだけ肩を竦めた。
ー2人とも、仲が良さそうで何よりです。
よくない。
ーよくない。
…………やれやれ。タイミングだけは合ってるかもしれない。
はぁ。とりあえずお腹空いたし、お酒飲みに行きましょうか。
ー………なんでお腹空いたからお酒になるの。貴方、頭おかしいんじゃない？
ビールって、古代エジプトではパンの代わりだったのよ。ご存知？
ーじゃあ一生ビールだけ飲んどけば。
ー………2人とも、ほんっとうに仲がいいんですね。
よくない。
ーよくない。
私はそう言いながら、スマホで神童君に連絡を取る。………誘うのは極めて遺憾の極みだったけど、まあ、なんだかんだで、感謝はしている。……彼がよくわからない祈祷師集団を止めてくれなければ、きっと、私と咲良ちゃんの間の、こういう明るい？会話も、たぶん成立してなかっただろうから。それはおそらく、もっと、本当の敵意に満ちたものになる可能性もあったのだ。
咲良ちゃんが、コーヒーを一口だけ飲んで私に話しかける。
ー………ねえ。
ん、なに？ ゴスロリちゃん。
ー本気で殴るわよ。…貴方の書いてる小説、ほんのちょっとだけ、ごく僅かだけだけど、読んであげたわ。
それはどうも。感謝の極み。
ー………500000000歩くらい譲って、まあ内容は悪くないとするわ。でも、びっくりするくらい暗くて、鬱々として、どこにも行かない繰り返しが続いてる雰囲気ね。女の子はいっつもいじめられるし。そういう性癖なの？
ぜんっっっっぜん違うわ。私の心はいつもハッピーよ。
ーあんたの心の話とか、まったくしてないんですけど。
でもね………
ーうん？
…………たまには現実も、全部うまく行ったらいいのにって、そう思うけどね。
私がそう言うと、ノアちゃんと咲良ちゃんは顔を見合わせて、それから、2人揃って肩を竦めた。やれやれ。
それから、ノアちゃんが口を開いた。
ーまあ確かに、現実って、小説みたいにうまくいかないですけど。
大体はそうね。
ー………でも、みんな、そうなることを願っているんですよ。伊吹さんも、咲良さんも、………たぶん、あの男の人も。だから、今回は、うまくいったんですよ。
……そうかもしれないね。
たまには、そういうことがあってもいいのだ。
私はスマホで、結局移転した(糺の森は聖なる気が強すぎて、ちょっと居づらくなってきたらしい)あのお店の場所を調べる。
やれやれ。それで、今日のランチだけど………京料理でいいかしら？
ーいいですよ。
ー………従うのはシャクだけど、まあ、悪くないわ。
よかった。神童のバカも、まあたぶん来ると思うから………。
京都、異世界、ランチ、バー………検索っと…………。
『異世界京料理カフェ&バー NOIR
ランチ(京風)…11:00〜14:00
バー(京風)…19:00〜23:00
おひとりさま限定、1日1組…気分次第でおふたりさまもok、カップルはNG
ごく稀に、4?5名なら、店主のキャパ次第でok
定休日…気分次第
住所…京都市伏見区深草薮之内町68番
伏見稲荷の千本鳥居を越えたすぐ先を左折、しばらく道無き道を進んだとこです。
おなやみごと相談乗ります(解決できるかは分かりません)。
お祓いはこれからずっと、お受けする予定はございません。
追記……最近、店員が1人増えました。
幽霊じゃなくて、普通に生きている人です。
2人そろって、お客さんをおもてなしします。』
(おわり)