※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第11話)
サーシャを連れて帰って、3日目の晩のことだった。僕は久々に夜になんの予定も入ってなくて、部屋に戻って、自分で簡単な料理を作った。ベドウィンの近くの湖で取れる、丸々と太ったライナンケを塩と胡椒、それにオリーブオイルで焼いて、白ワインを振りかけて、塩抜きしたあさりとトマトを入れて蒸しあげる。 簡単だけどヘルシーだし、魚介のこってりした出汁が出て、ジューシーでうまい。さっぱりした白ワインを飲みながら、美味しい魚とアサリを食べてしまって、僕は自分で皿を洗う。
昔はよくこうしてサーシャに料理を作ってやって、食事が終わったら、彼女が皿を洗ってくれた気がする。愛おしい、昔の光景。ただ、どうしてかよくわからないけど、僕の記憶の中の妹と、家族と、そして僕の姿は、霧の中に霞ゆく幻のように、不鮮明に揺らいで、そしていつも最後には、白い霧に全てが覆われるのだ。
僕はソファに腰掛けて、白ワインをソーダで割って舐めながら、彼に尋ねる。
ねえ、最近思うんだけどさ。 僕はやっぱり、健忘症なのかもしれないよ。
ーどうしてそう思うんだい?
昔のことを思い返そうとしても、ボヤッとして、全部が霞んでるんだ。
彼は少し黙って、考え込むように灰色の腕を組む。それから、真剣な声で僕に言った。
ー...あるいは、君がもう、過去に縋ることを必要としなくなった。そういうことなのかもしれない。人はそれを自立とも、解放とも言うかもしれない、忘れるということができるから、生きている人は幸せなんだ。
なるほど。それはそうかもしれない。
もう、何もかも、はっきりとは思い出せないんだ。 僕がなぜここにいるのかも、どうして戦争を起こそうとしてるのかも。 帝国で生きてる奴らを、皆殺しにしたいと思うのかも。 考えても、よくわからないんだ。 理屈としても、気持ちとしても、理解はできるんだ。
ーそれはどういうことなのかな?
...なんというのかな。 それが自分の感情だっていう実感が湧かないんだ。 誰か、他人の書いた僕の伝記を読んでるみたいな感じでさ。 過去の僕と、今の僕に対する、連続性が感じられないんだよ。
僕はこの際、正直に彼に語っておく。
ねえ。 君は僕についてきてくれてるけどさ。 ...あの塔で、君と逢ってから、それからずっとだ。僕には杖は手に入れられなかったけど、その代わり、君という理解者ができた。それには感謝してるよ。 ...でもさ、君が、僕の中にあったはずの、憎しみとかさ、復讐心に惹かれてここまでついてきてくれてるなら、もうそれは期待できないかもしれないな。
ー...というと?
もう、全部、どうでも良くなってるんだ。 だいぶ前からね。 ...だから、正直に言うと、今の僕を支えているのは、なるべく1人でも多く、世界中のみんなが平等に不幸せになって欲しいっていう、ただそれだけのちっぽけな感情なんだな。 理由なんて、とっくにもう失ったのさ。...家族のこととか、友達のこととか、祖国のこととか。最初は色々あった気がするんだけどね。 色々やりすぎてるうちに、なんだか全部、くだらなく思えてきてね。
まあ...だから、なんというかさ。 僕じゃなくて、レイ君の方について行った方が、これから先いいものが観れるかもしれないぜ。
彼は、僕の言葉を聞いて、静かに、何かを諦めたように、少し笑った。
ー...ユーリィ。 君の期待してた、あの子はな。 ...ケイリュオンを拒んだんだよ。
僕はそれを聞いて、少しだけ驚いた。
ー意外、かな? 君にとっては。
そうだね。かなり。 ...案外、まともな子だったんだな。 まあ、ティアの妹だから、本質的には結構似たもの同士なのかな。
口に出して言ってから、僕は、自分とサーシャでは、もう、その道が交わることは2度とないだろうということを思い出して、少しばかり寂しくなった。
ー...私は君の行く末を、見守るさ。 ...ユーリィ、確かに君はもう、私とは違う。 レイ・オーデルとも、君の妹とも違う。君が正直に話してくれたから、私も正直に言おう。気を悪くしないでくれよ。 私には、もう、君は狂っているように見えるんだ。
狂っている。
僕は、口に出して呟いてみた。
ーそうだ。 ただ、破滅の底を見たいと望んで、そこに向かって嬉々として歩き続ける、まるで狂った男だ。 ...復讐者とも、理想家とも違う。 君が何を見ているのか、君の頭と心の中に何が渦巻いているのか、私にもわからない。 .....だが、それでも、私は君についていこう。...私でも見たことのない景色を、君は見せてくれるのかもしれないからな。
...ありがたいことだよ。 少なくともまだ、1人ぼっちにはなってないみたいで。
僕は新しいワインを注いで、ふと窓の外を見る。
星も月も見えない、重く立ち込めた暗い夜空が見える。
...期待してたんだけどな。 レイ君。 ...君とは、本当に友達になれるかもしれないって。
僕は呟いて、ソーダで割った冷たい酒を一気に飲み干した。
************************
...兄がもう、私の知っている兄さんじゃないことに気づいたのは、いつからだっただろう。
故郷を、家族を、友人を、全部を失って、私と兄は帝国のマクラウド家に引き取られた。 そこでの暮らしは、決して楽しい思い出に包まれた安らかなものとはいかなかった。私も兄も、マクラウド家と古い古い血のつながりは微かにあるとは言っても、所詮は亡国の異分子でしかないのだから。私はいつも、兄の後ろを隠れるように歩いていたっけ。
ユーリィ兄さんは、いろいろなことに対して優秀だった。
魔法や武力の才は無かったけど、頭はとても良かったし、人付き合いもそつなくこなした。帝国の他の貴族の蔑みや中傷の視線や言葉を受けても、兄さんは静かにそっと笑って、黙って少し頭を下げてやり過ごす。...私はかつて、そんな兄さんを、泣いて罵ったものだ。お父さんとお母さんを殺して、私たちのシュラーフを滅ぼした奴らに、どうしてへらへら笑いながら頭を下げられるの、と。
兄さんは、私と2人きりになった時を見計らって、少し寂しそうに言った。
ー...それしか、できないからだよ。
その言葉は、私にとって到底納得できる理由では無かった。 ...けど、その時の兄さんの、消え入るように透き通った透明な顔のことを、私は今でも覚えている。
...やがて私たちは成長して、兄さんは帝国の軍学校を卒業し、いくつかの戦争で従軍経験を重ねた。私も、いつか兄さんの隣に立って、彼を助けたかった。たった2人の家族なのだから。いつしか兄さんは、軍の参謀総長にまで登り詰めていた。でも、私は信じていた。兄さんが本心から、争いを望むはずはないと。...私たちと同じような思いをする人達を、自らの手で増やしていることを、兄さんは本心では止めたいはずだと。
そう、信じていた。
...兄さんが、自ら軍の方針決定に携わり、ベドウィンという国への戦略的侵攻を決定するまで、私はそう思っていた。
その知らせを聞いて、ようやく私は、兄さんが、どこか狂っていることに気付いたのだ。
...結局、帝国に捕縛されてから、私は一旦ベドウィンの城塞に連行された。私とレイが、最初に出会った場所。一応、私の士官席はまだ剥奪されてはいなかったので、とりあえず罪人用の監獄じゃなくて、兵士用の営倉に入れられて、それで5日ほど経った。
6日目の昼に、幾人かの帝国兵が訪ねて来て、私は別の部屋へ案内される。
...本国への送還は、いつになるのかしら。
ー答える義務は、ありません。サーシャ・マクラウド殿。
まあ、一応聞いてみただけだったけど、やっぱりそういう答えだった。
私が通された部屋は、城塞の中の、士官用の一室だった。座って待つようにと、兵士の1人が私に促し、それに従う。
少しの間待っていると、部屋の扉が開いて、1人の女の人が机を挟んで私の前に座った。彼女はお茶のカップを2つ、机の上に置いて、片方を私に勧める。
...ティア司令官。
ー貴方とこうやって、向かい合って話をするのは、これが初めてかしら。サーシャさん。
彼女は私の後ろに立つ兵士達に合図して、下がっているようにと促す。彼らがその場から退席して、私は初めてレイのお姉さんと向き合った。 ...なんというか、血は争えないものだ。顔立ちが似ているとか、髪の色が同じとか、そういう意味じゃなくて、些細な仕草とか、視線の振り方とか、そういう自然と纏った空気感がレイとよく似ているのだ。
...どうして、私とお会いに? ご存知の通り、私は、嫌疑をかけられている身です。
ーそれは、真実なのかしら。
私は少し躊躇ってから、はい、そう答えて頷いた。
ー...素直なのね。 ...レイと一緒に行動していたのでしょう。 あの子が、迷惑をかけなかったかしら。...幾つになっても、心配をかける妹で、ごめんなさいね。
レイは...素直な子です。
私がそう返すと、ティア司令官は少し笑って、そうね、だから心配なの、そう言った。
彼女と何を話したものか、私にはよくわからなかった。 ティア司令官は、私とこうやって面会している目的を話さなかったし、私の方も、レイとの繋がり以外に、彼女と特にこれといった接点も無かったから。だから私は、迷いながらも、言葉を選んで切り出した。
...ティア司令官。...私の兄が、レイに、その...酷いことをしたみたいです。 申し訳、ありませんでした。
ー......ユーリィ執政官のことね。 ...あの人が、妹に何を話したのか、何を持ちかけたのか、それは私も知らないこと。 ...レイにとっては、もしかすると、辛いことかも...あるいは、悪魔が囁くみたいなものかもしれない。
...ごめんなさい。 でも、レイはきっと乗り越えます。
ー.....できれば、貴方にはずっと、レイの側にいて欲しかった。 でも、それはもうできない。 ...貴方は近いうちに本国に送還されて、終身刑か、ないしは死刑が下されるでしょう。 残念なことだけど、貴方には、口を噤んでもらわなくてはいけないから。
私は彼女の言葉を聞いて、ようやく司令官の気持ちを掴み始める。
...貴方も、戦争を望むのですか。 ...戦火と、人の死と、...その先にある、帝国の破滅を。
ー......そうね。 .....だから私は、今こうして、ここにいるの。
...意図して、オルタマイアと開戦に持ち込んで、その間に、帝国の占領下にある各国での反乱を煽る。 ...機が熟した頃に、貴方と兄も、帝国に反旗を翻すつもりなのですか。
私達の視線が、互いに交差して、お互いを捉える。
私はティア司令官の眼の光と色から、私が指摘した内容が間違っていないことを察した。
ー...賢いのね。 ユーリィ執政官と、よく似てるわ。 ...ということは、私が今どうして貴方と会っているかも、わかるのかしら。
...貴方と兄の思想に従えと、そう仰るのですか。
ー.....協力は、別にしてもらわなくてもいいわ。 ...これは、私たちだけの、個人的な復讐よ。貴方やレイを巻き込むつもりは、少なくとも私には無い。 ...ただ、貴方には、妹の側にいて、あの子が要らないことをしないように、止めておいて欲しいだけ。
私はしばらく彼女を無言で見つめて、それから、首を横に振った。
...お断りします。
ーどうしてかしら。 ...話を飲んでくれたら、少なくとも貴方が普通に生活できるように減刑されるようには、ユーリィ執政官が掛け合ってくれる。
...レイの進む道は、レイ自身が決めることです。 ...それは、私も同じです。
私の答えを聞いて、ティア司令官は黙って、お茶を一口だけ飲んだ。それから彼女は、窓の外に広がる青空を見つめて、ふと何かの思いに浸るような、遠い目で空を飛ぶ白い鳥達を目で追っていた。
小さな沈黙が、部屋の中に流れる。
その静寂を破るように、礼儀正しくドアが2回ノックされた。
ー入るよ。 ティア司令官。
...兄さん。
私は、扉を開けて部屋の中に入ってきた兄の姿を、首を横に向けて見つめる。
ーふられた? その様子だと。
ー...ええ。
兄さんは少し肩を竦めて、それから私とティア司令官が座る机から少し離れた場所の椅子に腰掛けて、私を見つめて言う。
ー...妹の成長は、歳の離れたきょうだいとしては嬉しいけどな。...そうじゃないか、ティア司令官?
兄さん...
私は兄を見つめて、震える声を押し隠して、なるべくはっきりとした口調を装う。
...もう、やめてください。
ー...何が? サーシャ。
兄さんは、何もかもを巻き込んで...罪のない人も、関わりのない国も、全部、全部巻き込んで、それでも、帝国を滅ぼしたいの?
兄は、少し考えるように私と、ティア司令官を交互に見つめた。
それから、彼は静かに口を開く。 ...幼い頃の私を宥めた時と、同じような、透明な少し寂しい笑みを浮かべて。
ー......どうなんだろうな。 昔は、きっとそうだったと思う。 まだ小さかった君を、背中に庇って帝国の糞どもにヘラヘラ媚び諂ってた時から、そうしたかった。いつか、こいつらと、その家族から子供に至るまで全員、焼けた杭の上で踊らせて烏と鼠にその肉を漁らせてやるってな、心の中ではそう思ってたさ。...そう思ってる時だけ、僕の目に映る空は、間違いなく青く輝いて見えたんだよ、サーシャ。 ......でも今は、どうなんだろうな。青い空を見上げても、灰色のどんよりとした曇り空にしか見えないんだよ。
...どういう、ことですか?
ー何もかも、どうでもいいのさ。 ...いつ頃からだろうな、自分の中で、整合が付かなくなってね。 帝国はそりゃもう憎かったさ。 でも、それに服従して、迎合することでしか、僕と君は生きられなかったんだ。 それで、多分な、2回目くらいに戦争に一兵卒として参加した時だっけな。 帝国に従わない国...まあ、国家の体裁も為してないような、小さな里だったんだけどな、そことドンパチやりに行ったのさ。 簡単な作戦でさ、飛空艇でビューッと焼き払って、後はしこしこ生き残った国民の残党狩さ。 僕は地上部隊の方でな、真っ赤に焼けた村の焼け跡から、生き残ってる奴探しては、かたっぱしから殺していく役目だったんだな。 弾がもったいないから、銃さえもほとんど使わなくてさ、ナイフやらなんやらで、片っ端から首切っていくのさ。 亜人もいたし、人間もいたっけ。 子供連れもな。 もちろん気持ちの良いもんじゃなかったし、僕も、仲間の兵士たちも、辟易して参っちゃって。 毎晩野営で語り合ったよ、僕たちはこれでもまだ人のつもりなのかってな。
私は、昔を思い浮かべるように、少し物悲しげに...でも、明るい光を湛えて話す、兄さんの姿を、食い入るように見つめる。
...そうじゃない。
.....見つめていたいんじゃなくて、...私は、兄の...いや、それはもはや、兄さんじゃない、何か別の、得体の知れない、何かドロドロした感情の塊のようなものが、噴き出すように話し続けているのだ....その光景から、目が離せなかった。 凍りついたように、体も、視線も、動かせない。
兄はまだ、話し続けている。
私に対しても、ティア司令官に対してでも、...あるいは、自分に対してですらなく、彼はただ淡々と、所々で爛々と輝く鈍くて青い光をその眼に湛えて、話し続けるのだ。
ーで、さ。 そんなことを3日ばかりやった後だったな。 みんなもう人殺しには飽き飽きして...そりゃ、胸躍る楽しい作業とは言い難いからな...示し合わせて、作戦に背いて、もう何もかも放り出して帰ろうよって言い出した同期のやつがいたんだな。 そいつは結婚したばっかりでさ、しきりに言ってたよ。 こんな汚れた手で、俺は自分の子供を抱くことが許されるのかってな。 でも、そいつの提案は、結局黙殺された。 それは綺麗事だったし、命令は、その隠れ里の存在をきれいさっぱり無くすことだったからな。 1人でも取り逃したら、それだけでやってきたことの全てが無駄になるんだよ。 ...その里は、実のところさ、裏ではいろいろやってたんだよ。 ミ族やらが反乱を企てた時も、アロハルトの爺さんの武器横流しの仲介に入ったりして、その利鞘を得てた。 で、結局、僕たちはその同期を無視して、虐殺を続けたわけだ。 そしたらな、そいつが急に、訳わかんないこと叫びながら、僕たちに銃を向けて、撃ち始めたんだ。 確かな、お前らは悪魔の手先だとかなんとか、そんなこと言ってた気がする。 それで僕は、結局、そいつの胸を撃った。 即死じゃなくてな、そいつ、死にかけて血を吐きながらも、何かぶつぶつ言い続けてるんだよ。 僕のことを、紛れもない憎しみを込めた目で見ながらな。 その時に、僕はやっと理解できた気がしたのさ。 ...僕が、君と自分を守るために迎合し続けて、服従し続けて、それで心底では、帝国の奴らを殺してやりたいって思い続けた果てにな、僕はただの、ちっぽけな、一匹の悪魔に成り下がってたんだ。
なあ。サーシャ。
僕はそいつを殺してさ。 しばらくして、休憩の時に、煙草を吸いながら空を見上げたんだ。 そしたらさ、その時は、びっくりするくらい透き通った、きれいな青空だったんだ。後で、仲間たちに聞いても、みんなその時は暗い、今にも雨が降りそうな湿気った空だったって口を揃えて言うんだ。 ...でも、僕にとっては、後にも先にもその時見た青空は、復讐だのなんだの考えてる時よりも、ずっと澄み渡って見えたんだよ。
......それから思ったんだ。 こういうことが起こり続けたら、僕はこれから先もずっと青い空を見続けられるんじゃないかって、ふと、そう考えたんだ。
兄さんは、最後にはほとんど呟くように、話を終えた。
...その時、私は、兄さんの後ろが、淡い青色の霧が立ち込めたように、歪んだような気がして、思わず目を擦った。
ー... 後ろの彼は、その時、僕が「塔」を登ってからの相棒でね。
......兄、さん.............
ー彼は、古い昔の王様なんだ。 ただ、僕は魔力も無かったし、それに、どうやら、復讐者としては純粋じゃ無かったみたいでね。当初の目的だった、ケイリュオンの杖は僕には手に入れられなかった。 ただ、彼の魂は、僕についてきてくれてな。 それからずっと、僕の後ろで見守ってくれてるんだ。 ...サーシャ。 君は国に送還される。 死刑にはならないように僕が掛け合うから、そこは安心して良いさ。 ただ、これから起こることは、もう君は関わらないほうがいいと思う。 ......僕がまだ、妹を愛せる心が残っているうちにさ。 家に帰って、おとなしくしておいて欲しいんだ。
兄さんはそう呟いて、部屋を出ていった。
ティア司令官は、静かに彼の去った後の扉を見つめながら、私に話す。
ー...サーシャさん。 貴方にも、ようやく分かったでしょう。 ...あの人は、貴方のお兄様は...もうすでに、どこか、心の中の大事な部分が、壊れています。 均衡を失って、ただ、破滅を求め続ける、ひとりの悪魔。 ...歪みの中でそれは生まれて、肥大化して、やがて、彼自身にも歯止めが効かなくなった。
兄は....ちがう、兄さんは........そんな.........
ー......もう、どこにもいないんですよ。 貴方の記憶の中の、お兄様は。 ...帝国を滅ぼすという私自身の目的が達せられれば、私が彼を止めます。 いいですね。 これから、血生臭い、戦火の波が起こります。 ...貴方とレイは、それに関わるべきじゃない。
私を牢に戻すように、ティア司令官はそう兵士に命令して、部屋を後にした。
************************
僕たちは遺跡を後にしてから、結局里には戻らずに、夜森を抜けてベドウィンへと急ぐ。...僕は結局、あの奴隷の子のお母さんに、会う事はなかった。事態は一刻を争っていたし、僕ひとりのエゴでみんなを待たせることはできなかったからだ。 全部終わらせてから、きっともう一度、戻ってくることになると思う。
鬱蒼と茂っていたはずの草木がほとんど燃え落ちた森を夜まで歩いて、後半日あれば森を抜けてベドウィン領内に入りそうというところで、その日は休む。旅の中での僕の役割は、ほぼ完全に料理係で定着していた。僕はオレンジ色のピーマンと乾燥した牛肉を細かく切って炒めて、それから細長いお米を入れて、スープを加えて煮込む。水分があらかた無くなって、米が程よく柔らかくなってから、胡椒とその辺で摘んだハーブの細切りを加えて、最後にもう一度さっと加熱する。
アルルゥがフライパンの中を覗き込みながら、面白そうに少しはしゃいで僕に言う。
ーレイが料理が得意なのが、アルルゥにはちょっと意外なのです。
そう? 一人暮らしが長かったから、それなりに昔は作ってたんだけど。
ーなんというか、レイはもっと、誰かに頼りっきりで生活力皆無なイメージが強かったのです! アルルゥは最近、レイのことを見直してるのです!!
...褒められてるのか、貶されてるのか、わからないよ。
ーまあ、神様は魔法以外にも、少なくとも一つくらいは特技を恵んでくださったということだ。 良かったな、ダメ人間をなんとか脱却できて。
...お前のは、特別に辛子を入れといてやる。
フレイアに睨まれて、僕は結局辛子を入れるのはやめておいた。
そういえば、フレイア。
ーん?
アルルゥが小さかった頃は、お前が料理してたんだろ? ...なんか意外だな。
ー...まあ、お前よりは上手に作れるが、私が作ったらお前がヒマになるだろ。 仕事が無さすぎて、拗ねられても敵わんからな。
ーフレイアは本当に、料理が上手いのです。 レイといい勝負してるのです。
...ほーう。 じゃあ、お言葉に甘えてこれからも僕が作りますよ。 ...それとも、もしかして、僕に負けるのが怖いのかな?
ーは? お前今なんて言った?
いや、なんにも。
ー私がお前に、ま・け・る、だと? ...いい度胸してるよな、お前。 ついこの前まで飲んだくれだったお子様が、まさか私に勝てる気でいるとはな。
ーフレイアは意外と挑発に乗りやすいのです...。 でも、アルルゥもどっちが勝つのか興味あるのです。 アルルゥはフレイアの料理をよく知ってるので、審判するには主観が入りすぎるのです。
じゃあ、公平な審判をひとり、連れ戻さないとな。 ...フレイア、サーシャが戻ってきたら、どっちが上か教えてやるよ。
ー...いいだろう。 せいぜい、煙草を控えて、舌をまともに戻しておくことだな。
で...まあ、僕が勝つことは分かってる面白くない勝負の行方は置いといて、明日どうやってサーシャを助け出すんだよ。
ーまあ、私が勝つことが分かり切ってる面白みの無い勝負は置いといて、とりあえず夜の間に監獄に潜入する。 ...帝国兵がわんさか集まってるところだし、オラリアでお前を助け出した時のようにはいかないだろう。アルルゥの耳を借りて、手早く情報を集めて、なるべく大事にならないうちにサーシャを助け出す。
...つまり、行き当たりばったりってことだな。
ー...そういうことだが、それ以外どうしようもないんでな。 言っておくが、うまくいくにせよ、行かないにせよ、サーシャを助けたら、間違いなく帝国に喧嘩をふっかけることになる。 ...追われる身になるんだ。 それは分かるな?
うん。
ーそれでもやるのか?
...うん。 ...できることを。
フレイアは、僕の言葉に小さく頷き返して、それ以降は、それについては尋ねなかった。
皿を洗って、食後のお茶を飲みながら、少し寒さを覚えて僕はローブをきつく体に巻きつける。 ...今になっては、この黒いローブだけが、僕とサーシャを結びつけるただひとつの証だった。僕はふと、袖口に小さく微かに刺繍された、蔦と蛇が絡まった銀の紋章を眺める。フレイアとアルルゥも、それを見つめていた。
ー...シュラーフの国章だな。
...サーシャの故郷の?
ーそうだ。 シュラーフでは、黒は尊い色として扱われているんだ。 ...あの国は、ずっと昔は、中央集権体制が腐敗しすぎていて、一度は崩壊しかかったんだがな。 ひとりの聡明？な王女が、滅びかかった国を建て直したのだと、古い歴史では語り継がれている。 それ以来、あの国では、その王女が国の再度の独立を宣言した日を記念日として、銀の国章を編み込んだ黒いローブを着て1日を過ごすんだ。
.....でも、その国も、もう今は無いんだな。
ー...アルルゥが、生まれて間もない頃の話なのです。
ー...今でも、国を失った、多くの難民が帝国の支配のもとで過ごしている。 ...何らかの反乱の火種が燻っていても、不思議ではないな。
......そんなことが各地で起こったら、帝国はおろか、世界中大変なことになるだろうな。
ー...あるいは、ユーリィは、それを望んでいるのかもしれん。 ...あいつと少しだけ逢って話したが、....何か、得体の知れない、歪んだものを感じた。 ...復讐者でもないし、現実を見定めて生きる男の目でもない。 遠くの、ずっと遠い、見えない虚空を覗き込もうとしているような、そんな目だ。
ーレイも、ユーリィと話したのです?
僕は頷いて、その時にあったことを、思い返そうとしてみる。
彼はしきりに言っていた気がする。 「僕のせいじゃない、悪いのは帝国だ」と。
...僕は、それに縋りついた。 ...あの時は、その言葉が、地獄の中で上から垂らされた、ほんの微かな希望のように思えたのだ。
...もう、騙されない。 あいつは、息を吐くように偽りを騙って、ゆっくりと、ゆっくりと人を暗いところに引き摺り込もうとする。 ...みんなも、あいつの言うことに耳を貸すなよ。
ー...お前もな。 ...サーシャがまた心配するぞ。
ーサーシャは、レイのことを本当に心配してたのです。 レイ、この森で、レイが倒れてた時のことを覚えてるです?
......ほんのちょっとね。
嘘だった。 ...僕は、凍りついた体を温めてくれたサーシャが、僕が目覚めて今にも泣きそうになっていたことを、よく覚えていた。
...サーシャ。 待ってろよ。
僕は寝る前に、夜の空を見上げて、小さく呟いた。
************************
翌日、僕たちはフレイアの言うことに従って、日が沈むまで待って、それから帝国の城砦へと辿り着く。...まあ、僕もこの前ここに入れられてたわけだけど、外から見るのは初めてだった。ベドウィンの郊外にある、元は王都の軍が使用していた城砦は、今は帝国の進駐軍で溢れてて、物々しい雰囲気だった。
ー...アルルゥ。 いつものやり方だが、頼む。
ー任せるのです。 サーシャのいるところを、ビシッとアルルゥの耳で探り当てるのです。
僕はアルルゥが慎重に耳をそば立てて、僕たちには聞こえない僅かな音を聞き取るのを、感心して眺める。 変な話だけど、アルルゥがこの力を悪いこと...泥棒とかに役立てようと思ったら、とても怖いことのような気がした。 ...そう考えると、人間が亜人を恐れる理由が何となく分かったような気がして、僕はそれが少し嫌だった。
しばらくして、アルルゥは少し焦ったような顔で、僕たちを見て言う。
ー...サーシャは、今夜中に帝国に連れてかれるのです。 今、多分帝国の兵士たちが、それで慌てて飛空艇の準備をしてるのです。
......飛空艇ドックは、城砦の西側の端っこの方だな。
ー何で知ってるんだ?
...君たちには話してなかったけど、僕は一度、ここから飛空艇に乗ったことがあるんだ。サーシャと一緒に。 ...まあ、その、酔っ払って色々やって、ここの牢屋に入れられてた。
ー...お前、立派な前科持ちだな。 アルルゥ、...ユーリィと、レイの姉は、ここにいるのか? 執政官の方はともかく、レイの姉に出てこられたら、私たちでは、とてもじゃないが、どうにもならん。
ー多分なのですけど、もうここにはいないのです。 ...ユーリィ執政官と、ティア司令官は、今朝オラリア方面に向けて、軍を指揮するために出発したようなのです。
...準備万端ってわけだ。 色々と。
ーそういうことだな。 ...お前の姉がここにいないのは、好都合だ。 サーシャが連れ去られる前に、飛空艇ドックまで先回りするぞ。 ...おそらく戦闘になる。 帝国兵は銃を持ってる。レイ、魔法で援護しろ。 ...殺しが必要なら、私がやる。
.....僕だって、その覚悟くらい....
ー...やめておけ。 私だけで構わん。 できることならな、そんなことやらない方がいいんだ。
僕はフレイアの静かな、でも強い力を込めた言葉に少し怯んで、黙って頷いた。
ー...行くぞ。 レイ、正門の警備兵どもを眠らせろ。
フレイアの言葉を受けて、僕は目を閉じて、体の中を駆け巡る魔力の流れに集中する。 頭の中で何度か魔の言葉を唱えて、僕は掌を開いて、正門を守る兵士たちの方に魔力を向けた。
......んっ?
僕は微かな違和感と、若干の嫌な予感を感じて、眠気で膝を折る兵士たちの姿を見る。 ...魔法の効きが弱い。 彼らは、突如襲ってくる眠気に、抵抗しようとしているように見える。
...フレイア!!
彼女に警告するよりも早く、フレイアは弓を構えて、ほとんど音を立てずに立て続けに矢を放つ、音もなく暗闇の中から放たれた矢は、全て的確に兵士たちの喉元を捉えて、彼らを永遠の眠りの中に沈めた。 ...わかってはいたけど、その光景を見て、僕の胸の中で何かがギュッと締め付けられるような気がする。
それとほとんど同時に、甲高いサイレンの音が城砦の中に鳴り響いて、暗闇に包まれていた敷地がライトで明るく照らされていく。
...魔法を、検知された!?
ーそれだけじゃない、どう言う絡繰かよくわからんが、奴らは魔法に抵抗できるらしい。 ...急ぐぞ、もう穏やかな進入は望めない...!
フレイアが戦闘に立って、門を超えて敷地の中へと駆け出す。僕はアルルゥを背中に庇いながら、彼女の後を追って城砦の敷地へと入る。円形の灯がいくつも地面を照らし、それが前後左右に動きながら、走り抜ける僕たちの後をついて照らして回る。
フレイア! アルルゥ! お前ら、暗闇の中でも眼効くよな!?
ーだったら何だ!
フレイアが、走りざまに弓の弦を引き絞りながら答える。
灯を全部消すから、あと任せたぞ!!
僕は集中して、空を見上げる。 ...思い出すんだ。 ...僕が、夜森の中でやった時のことを。 あんな魔法が自分に使えるなんて知らなかったし、その事実は、僕を不安にもさせた。
(...力に...飲まれるな...)
僕は心の中で、サーシャとの約束を思い返す。フレイアの弓の音も、あたりを駆け巡る銃声も、足音も、やがて何も聞こえなくなった。...ただ、サーシャが静かに繰り返す、あの約束の声だけに、僕は耳を済ませる。 僕の体の中で、爆ぜるように熱い魔力が血に乗って駆け巡った時に、僕はそれを外に向けて解き放った。
星のような煌めきが、夜空の中で白く煌めいて、やがて地上に向けて降り注ぐ。僕はそのひとつひとつに神経を集中して、僕たちを照らす照明を狙って落下させていく。 ひとつ、またひとつと照明が砕き破れて、やがてあたりすべてが元どおりの暗い夜の闇に包み込まれる。
ー...上出来だ。 暗闇の中なら、私の方に分がある。
フレイアが、僕の側で小さく囁く。
空気が微かに揺れ動くような感触が僕の頬を掠めると同時に、暗闇の中で、フレイアが静かに、的確に剣を振るう微かな金属音だけが、ようやく聞き取れた。
ーレイ、フレイア、兵士たちの囲みが解けてるのです! 混乱しているのです、今のうちに、飛空艇ドックの方まで走るのです!!
僕はフレイアに手を引かれて、夜の闇に目が慣れない中で、彼女の的確な先導に従って、その闇の中を駆け抜けた。
************************
私は、罪人のように手に枷を嵌められて、城砦の廊下を兵士に囲まれて歩かされる。 ...今夜、私は帝国に戻る。 ...そこでどんな判決が下されるのか、私にはわからない。
だけど、私の脳裏を掠めるのは...自分の未来のことじゃなくて、あの部屋で、兄さんが語った話と、その寂しそうな...けど、どこか暗い、青い空を見上げるような光を湛えた、その目立った。
兄は狂っていると、ティア司令官は言った。
そのことは、もしかすると、私が一番よく知っていたのかもしれない。 兄さんは、だんだん、だんだんと、静かに、おかしくなっていったのだ。 ...それは、戦争の中で決定づけられたものかもしれないけど、私にはそうは思えなかった。
...兄さんは、私を庇って、笑って帝国の奴らに頭を下げていた、その時から...多分、徐々に、少しずつだけど、自己を歪ませていたのかもしれない。
もしかすると、私も...それを心の底では理解していながら、目を背けた。
......それが今、取り返しのつかない形になって、世界に降り掛かろうとしている。
城砦を出て、飛空艇ドックの中まで、私は兵士たちに連行されて歩いていく。
飛空艇の前には、すでに兵士たちの一団と、それに...私もよく知っている、1人の男の姿があった。 彼と目が合って、その蛙のような黄色く淀んだ目の中を見るだけで、吐き気がこみ上げる。
...オクタヴィア司令官。
ーおお〜っと、サーシャ「司令官殿」...いえ、今は、帝国への反逆を企てた、サーシャ被告殿でしたか...。 相変わらず、見目麗しく。
...貴方も、健康そうで何よりです。
多分120kgくらいはありそうな、醜くでっぷりと不健康に膨れて、鎧じゃなくて濃い紫色の薄いセーターをはちきれそうに膨らませた彼の姿を見て、私は顔を背けて言った。 ...オクタヴィアは、私に何度も何度も、ことあるたびに突っかかっては難癖をつけてきて、結局、それが原因で私はべドゥインの進駐軍の一司令官として赴任させられた。 ...要するに、それは軍の中では、左遷に近いものだった。軍の中で出世する気がさらさらなかった私としては、別に構わないことではあったけど。
彼は重い体を揺すって、私の方に歩いてくる。
ーサーシャ・マクラウドぉ...。 惨めなものですね。
...何が、でしょうか?
ー自分が一番よくお分かりでしょうに。 ...亡国シュラーフの出身ながら、名家マクラウドの末席として受け入れられたその貴方が、今や帝国に弓引く罪人殿なのです。 ...ユーリィ様は、さぞお悲しみになることでしょうに。
...こいつは、私たち兄弟が移民の出であることに目をつけて、私にも、兄さんにも、散々嫌がらせをしてきた。そのくせ、兄さんが軍の中で上り詰める気配をいち早く察知するや否や、媚び諂ってここまで来たのだから、全く、ある意味では大したものだと思う。
......私を逮捕したのは、他ならぬ兄です。
ーさぞかしぃぃ、ユーリィ様の他ならぬ愛情故でしょうよ。ええ。そうですとも...。 身内であっても、罪には罰を持って処せられるお方です、ユーリィ様は...。 ...それで、サーシャ・マクラウドぉ...。私は、ティア司令官がオルタマイアとの開戦を控えて進軍された今、このベドウィン進駐軍の司令代理なのですよ。この意味がお分かりですか?
いえ、全く。
ー...つまり、貴方の身柄に関する全てのことは、今この私が握っていると、そういうことを言いたいのですよ、私はぁ。 気高いサーシャ・マクラウド様。
私に、何かを要求しているのですか?
ー例えばですねぇ...本国で判決が下されて、檻の中に入ってからでは、もう何もできないですからねぇ...今ここでしかできないようなことを、私は貴方にやってもらいたいのですよ。 昔からありまして、シンプルで芸のないことなんですけどですねぇ、例えばですよ、シュラーフの薄汚い敗北者の血が混じったその高貴な舌で、私の軍靴を綺麗に拭き取ってもらう、とか、まずはそこから始めましょうか。
......お断りします。 そうする理由もない。
私は、胸に込み上げる吐き気を抑えて、なるべく嫌悪を滲ませて、はっきりと言い切る。 ...こういう下劣なことを、平気で言ってのける感性の人間なのだ。 ...帝国の兵士皆がそうであるとは到底言えない。ただ、この男が、特別なだけだ。
ーおお〜〜〜ッとぉ...罪人の返事は、特に聞いていないのですよ。 いいですか、サーシャ・マクラウド様...ふたつばかり、大事な事実があります。ひとつは、今、私が上に立っていて、貴方はその下に立っているということ。物理的な位置が、じゃありませんよ、もちろんね。 そしてもう一つは、つい先ほどから、この城砦の中が、少しばかり騒がしいという事実です。 どう騒がしいかというと、誰かが魔法を使ってあたりを混乱させて、それから、正門の兵士達が弓で射殺されたというくらいには、騒がしいのですよ...。
私は、それを聞いて、自分の顔から血の気が引けていくのを感じた。
........レイ。 ....フレイア......
ーつまり、そういうことなのですよ。 ...いや、勇敢なことだとは思いますよ。忠義に厚い。私はそんな人間が嫌いじゃない。 いい部下を、お持ちになりましたねぇ、サーシャ様? ...でもねえ、蛮勇は常に、身を滅ぼすのですよ。 自分の力量を正確に把握し、歯向かう相手を見誤らないことが、長生きするコツなのです。 兵士達が、鎧の力で魔力に抵抗できることは、よく御存知でしょうに、サーシャ軍司令官殿? しかも弓...弓ですって...くくっ...弓! 銃と飛空艇のご時世に、弓とは!
....オクタヴィア。その2人...いえ、3人は、もう私とは無関係なの。
ーかといって、侵入者を見過ごすことはできません、ね。
...お願いです。 みんなを、殺さないで。
ーお願いというものにはねぇ、やり方があるでしょうに、礼儀正しい、シュラーフの貴族たるサーシャ殿なら、御存知でしょう。 ...敗戦国の敗北者が、帝国の勝者にお願いするときの、正しいやり方を。
私は...歯が砕け落ちそうなくらいに奥歯を食いしばって、ゆっくりと、地面に膝をついた。そのまま背中を曲げると、地面に落とした私の視線の先に、オクタヴィアの軍靴の先が映った。
私は、舌先を伸ばして、ゆっくりとその靴の先を舐めとった。少し苦い、土の味が、私の口の中に広がる。
...お願いします。
ー...敗北者の血筋には、よく似合ってますよォ、サーシャ殿。
髪の毛が掴まれて、強く引っ張り上げられる痛みに、私は思わず悲鳴をあげそうになるのを押し殺す。 私の目と鼻の先で、醜く太った豚の顔が、目を細めて私を見つめていた。
ー...靴先を舐めてまで命乞いとは、マクラウド家の名が泣きますよォ、サーシャ様...。 心配しなくても、サーシャ様の懇願通り、命は助けますとも、ええ、もちろん。 ...貴方のね。
はっ?
ーユーリィ様から、貴方は決して傷つけるなときつく言われてますからねーーぇぇぇ。 ...でも、部下のことは、特に何とも言われてませんで。 ...侵入者どもを全員殺せ、殺して、サーシャ殿が旅立つ前に、その鼻先に並べて差し上げろ。
貴様っ...!! やめ...っ......!!!!
食ってかかって静止しようとする私の顔の前に、オクタヴィアの後ろに控えていた兵士達が銃を突きつける。それと同時に、オクタヴィアのブヨブヨした脂肪と皮に包まれた掌が、私の右頬を打ち据えて、私は床に倒れた。
ーお、い、た、は、いけませんよォ、サーシャ様...。 お前は黙って、指を咥えてそこで眺めてればいいんです。 そう...そうやって、亡国の敗残者らしく這いつくばって、勝者であるこの私を眺めなが、ら...............らっ...............?
オクタヴィアの体が、ふわふわと風船みたいに宙に浮いて、彼は短く太い手足をパタパタさせながら、汗をだらだら垂らして周囲をキョロキョロ見渡す。それだけじゃなくて、兵士達が構えていた銃も、一緒に宙を漂って、やがて銃口が全て綺麗に揃って、オクタヴィアの体をとらえた。
ーはっ....はっ.......えっっ???
ー......豚。 しばらく浮いてろ。 あんまりバタバタすると、本気で撃ち殺すぞ。
ー周りの奴らも、動くな。 ...今、この子がかなり怒ってるから、刺激しないほうがいいぞ。
ーサーシャ!! 無事で嬉しいのです!!
聴き慣れた、...本当に懐かしく感じる3人の声が聞こえて、私は後ろを振り返る。
...レイ....フレイア...アルルゥ.....
ー...サーシャ。 迎えに来たよ。
レイが私を見つめながら、少し恥ずかしがるような声で、私に小さく微笑んで答えた。
アルルゥが私を助け起こしてくれてる後ろで、フレイアが冷たい調子で、その場にいる全員に聞こえるように言う。
ー...銃にも、魔法が効かないようにしておくべきだったな。 ...司令官殿が焼き豚になるのを見たくなければ、大人しく私たちの言うことに従え。 私たちは、サーシャを助け出せればそれで十分だ。お前らと揉め事を起こす気はない。
ーこ、このネズミ...汚いネズミの亜人と、魔道士のガキを殺せ...命令です、これは命令なのです!! 司令官の命令なので....
宙にジタバタ浮いて叫び散らしているオクタヴィアの口の中に、金属の銃口がすっと差し込まれて、彼の声を奪う。
ー...それ以上喋ると、撃つぞ。 ...いいか、僕は今、本気で不愉快なんだ。
ーぶたさんの言うことは無視して、飛空艇に乗るのです!
フレイアが弓で兵士たちを威嚇して、レイがオクタヴィアの体に狙いをつけている間に、私たちは飛空艇の中に乗り込む。 レイがオクタヴィアを殺さないかと本気で心配したけど、彼女は黙って、ぷよぷよ太ったハムみたいな身体をゆっくりと移動させて、銃口を咥えさせたまま飛空艇の中まで運んだ。
ー...お前はしばらく人質だ。いいな。
オクタヴィアは青ざめて白くなったかおで、銃を咥えたままガクガクと頷く。
ーサーシャ。 ...一応聞くが、飛空艇の操縦はできるか?
ええ、まあ、一応は。 ...軍時代にちょっと習ったっきりだけど。
ーいざとなったら、レイが魔法で何とかするのです!!
ー...あんまり当てにするなよ。 豚を撃ち殺さないように加減するので、結構疲れてるんだ。
私は操縦席に座って、何故かアルルゥが助手席の方に進んで座るのを見て、操作を思い出しながら、飛空艇を夜空に向けて発進させた。
城砦が、やがて遠くなってゆく。
ー...まあ当然だがな、追ってくるな。 レイ、何とかできるか?
ーほんの一時的にしかできないけど、深い霧を作る。サーシャ、その間に振り切ってくれ。
ーはいなのです!! 任せるのです!!
アルルゥ...はしゃがないで、じっとしてて。
私はそんなやりとりをしていて、突然、涙がこみ上げて来そうになった。
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私たちは、夜通し飛空艇を飛ばして、朝焼けが見えてくる頃に、モスカの街から少し離れた草原に着陸する。 フレイアが冷たく、縛り上げたオクタヴィアを足で蹴って、タラップの上から転がり落とした。
ふ、フレイア...その、殺さないでね...
ー殺さないさ。あの豚に、やってほしいことがあるからな。 レイ、あの豚、しばらく眠らせておいてくれ。 ...加減を間違って、永遠に眠らせるなよ。
ーミスって、やっちゃったらごめんね。
ーまあ、許すけどな。
レイが魔法を唱えている傍で、フレイアとアルルゥが手早くキャンプの準備を整える。やがて、オクタヴィアの寝息が聞こえてきて、レイが煩そうに魔法を唱えて、その口を塞ぐ頃になって、私たちは暖かい火を囲んで、久々に4人揃って座った。
...みんな......ありがとう。
ー......まあ、僕は君に助けてもらった借りがあるからな。
ーレイは素直じゃないのです。 サーシャのことを心配してたのです!!
ーアルルゥ...黙っててくれ。
そんなやりとりが、今の私にはとても懐かしいもののように思えた。
ーさて...と、私たちも交代で休むぞ。 帝国の飛空艇は振り切ったと思うが、どこで追っ手が来るかよくわからん。 まず、私とアルルゥが休んで、そのあとでレイとサーシャが休む。その順番でいいか?
私とレイが頷いて、それから、フレイアとアルルゥはテントの中で身を休めた。
私とレイは、焚き火を囲んで、くっきりと冷えた朝の空気で冷たくなった体を温める。私はレイの横に座って、2人でじっと身を寄せ合って、焚き火を見つめた。
...レイ。 ...ありがとう。 助けに来てくれて。
ー......あのあと、いろいろあったんだよ。
......杖は、手に入れたの?
ー...ううん。 ...もう、いらないんだ。
私は少し躊躇ったけど、それでも、レイに尋ねる。
レイ....。 ...フィアさんのことは.......
ー.....僕がやったことで逆恨みされて、フィアは殺されたんだ。 .....帝国のせいじゃない。 僕自身がやったことの、その結果なんだ。
......レイ。
私は、小さく小刻みに震えるレイの体を片手で自分の方に寄せて、そっと抱きしめた。
........強く、なったんだね。
ー......違うよ。サーシャ。 ...弱かったことに、気付いたんだ。 ...強い力を手に入れて、それで埋まるものじゃない。 ...僕が、そのことに、もっと早く気付いていたら...フィアは、死なずに済んだんだ。
レイは、口を噤んで、私の胸に顔を埋めて、静かに泣いていた。
私はその頭を優しく撫でて、空を見上げて思う。
レイは、本当に強くなったんだ。自分と向き合って、弱さを認めて。
....私も、目を背けるのは、もう終わりにしなきゃいけない。
レイ。
ー...ん?
.....あと少しだけ、私に力を貸してくれる。 ...兄さんを、止めなきゃいけない。 ...兄さんは、暗い、戦火と禍いを望んでる。
ー...あいつも、帝国に、復讐したいのかな。
.....それだけじゃない。 ....あの人が復讐したいのは...きっと、この世界全てと、それに、自分自身によ。 ...希望や平和から目を背けて、ずっと、暗いところだけを見つめている。 ...自分からそれを望んで、自分を罰するように、見続けているの。
ー......僕には、何となくわかるよ。
え？
ー...僕も、今でも自分のことが、許せそうにないから。
...レイ。
ーでも、それでやけになって、自分を傷つけるのも、もうやめる。 ...そんなことをしても、何も変わらないんだ。フィアが死んだことも...これから先のことも。 だから、サーシャ、君を手伝うよ。 ...前とは違って、今は、僕自身の意思でそうしたいんだ。
私は、感謝を込めて、レイの髪の毛をくしゃくしゃっと撫でた。
ー....サーシャ、子供扱いしないでよ。
してないわよ。 ...嬉しいの。 レイが協力してくれることと、それから....
ーそれから?
......名前で、呼んでくれたことが。
少し照れて、横を向いてしまったレイの頭をもう一度撫でた頃に、フレイアとアルルゥがテントから起き出してきて、私たちは交代で、安らかな深い眠りについた。
(第11話終わり)