※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第13話)
兄さんは、銀の刀身からゆっくりと流れ落ちる血の滴を、眺めている。
血の滴は、白い床に溢れて、小さな赤が、点々と広がった。
アルルゥ...アルルゥ!!!
私は、その小さな体を抱き抱えて、揺すって、撫でて、その長い耳元で、彼女の名前を叫び続ける。 ...でも、どれだけ呼んでも、アルルゥは、何も答えてくれなかった。
ーああ、サーシャ。 むりむり、そのウサギちゃん、もう死んでるから。
アルルゥ....!! やめてよ、お願いだから...!! みんなで一緒に帰るって、約束したじゃない!!
私は、ついさっきまで飛空挺の助手席で楽しそうに歌っていた、アルルゥの顔を見つめる。 その顔は、どこか...眠りにつくように、とても、安らかなものだった。
...レイの朝ごはんの匂いを嗅いだら、ピクっと跳ねて起きてきそうなくらいに....
...............とても..............
でも、アルルゥはもう、起きることはなかった。
息もしていない。 その長い自慢の耳が、動くこともない。
...アルルゥは、私の手の中で、静かに死んでいた。
ーフレイア。 サーシャ。 どう? アルルゥ君、死んじゃったけど。 ...えっと、なんで死んだんだっけ? 刀疵かな? 可哀想に...きっと、途中で刺されて、無理してここまで来たんだな。 健気な子だよ、みんなに心配をかけまいと、必死に....
ー....黙れ。
ーうん?
ー...黙れ、と、言ったんだ。 ...サーシャ。 ...アルルゥを頼む。
ふ、フレイア...でも、でも、アルルゥ、息....して......
ー....................それでも、そばにいてやってくれ。 ...........................頼む。
フレイアは、靄に囲まれながらも、サーベルの鞘を杖代わりにして、ゆっくりと立ち上がる。 一歩一歩、歯を食いしばるように、その足を兄さんの方へと、向けていく。
ー...ユーリィ。
ーお、喋る許可が出たかな?
ー......私とサーシャを、憎しみに走らせる気か。 お前のお得意の、悪趣味な言葉責めで。 ...悪いが、私もサーシャも、お前の掌で踊らされるわけにはいかないんだ。
ーほうほう...。 かわいいウサギちゃんが死んじゃっても、それには特に興味なしと。 泣かせるじゃないか。 麗しい親子愛だ。
兄さん...!! やめなさい!! よくも...よくも、こんな、こんなことを....!!!
私が叫ぶのを、兄さんはちらっと横目で見て、それからまたフレイアに向き直る。
ーほーーら、サーシャの方がよっぽど辛そうだ。 まあ、その、なんだ。 婚約者も仲間も喪ったネズミさんには、赤ん坊の頃から連れ添ったウサギちゃんの死じゃ、それほど動じるには値しないかな?
フレイアは、一歩一歩、確実に兄さんの方に近づいていく。
灰色の靄が、その体を包み込んで...霜を下ろしても、フレイアは、歩いていく。
ー...あの子は、覚悟してここまで来てる。 ...誰が死ぬとも、分からん道のりだ。 ...口には出さなかったが、みんな知ってるんだ。 知った上で、それでも、自分で選んで、ここに来てるんだ。 ....わかるか。ユーリィ。
ーいや、全然分かんない。 別に、アルルゥは戦争なんて止めたくないだろ? 君とサーシャに付き合って、ここまで来て、可哀想に。その幼い命を、散らすことになった。それだけじゃないか?
ー.......お前は、本当に、何も分かってないんだな。 .....哀れな奴だ。 それとも、分かった上で...全部、理解した上で....自分にできなかった生き方を、あの子の生き方を、羨んでいるだけじゃないのか。
フレイアのその言葉を聞いたときに、初めて、兄さんの笑顔が、ふっと消えて無くなった。
フレイアと兄さんはもう、互いの剣を伸ばせば、届く距離にまで来ている。
ー...生き方? 生き方、ねえ...。自分に関係ない戦争を止めるとかいう、理想と大義名分に付き合わされて、引っ張り回されて、それでなーーんにも出来ずに死んでいくような、かわいそうな生き方かな? ...少なくとも、共感は、出来ないねえ。
ー...図星か。 ...お前に、共感してもらおうとは、あの子も思わないさ。
フレイアは、ゆっくりと、氷りついた手を動かして、剣を兄さんに振るった。
それは、靄の壁に遮られて、兄さんにまでは届かない。
ー.....けどな....
それでも、彼女の剣は...ゆっくりと、本当にゆっくりと、靄の内側へと、沈み込んでいった。 兄さんの笑顔はもはや完全に消えて、睨みつけるように、フレイアの剣と向き合っている。
ー.....お前が.....
兄さんは、自分の持っていた剣で、靄の中心まで...すなわち、自分に届くまでに沈み込んできたフレイアの剣を受け止めて、押し返そうと力を込める。
ーお前が、あの子の生き方を、........馬鹿にするな!!!!!
フレイアの剣が、兄さんの剣を押し返して、その体まで押し返す。 でも、その剣が、兄さんの体にまで届くことはなかった。 兄さんを囲んでいた灰色の冷たい靄が、全てフレイアの方に差し向けられて、その手の動きを完全に止めた。
...アルルゥ。 ...ごめん、借りるね。
私は、アルルゥの腰に括り付けられていた、銀の短刀を抜く。
そのまま私は駆け抜けて、靄が離れた兄さんの腹に...その短刀を、突き立てた。
ー.....がっ.....!!
兄さんが、その痛みに一瞬怯んで、剣を持つ手から力が離れてゆく。
その体を、斜め上から、フレイアの剣先が切り裂いた。
ーこの...!!
兄さんは、私たちから飛び退いて離れる。 靄が少しだけ集まって、兄さんの傷口にまとわりついて、それを凍らせてゆく。
...やっと、分かったことがある。
ーサーシャ...
貴方は...もう、兄さんじゃない。 ただの、狂った悪魔よ。
兄さんは、私の言葉を聞いて、少し自重気味に笑った。
ー...さっきから、それはもう認めてるんだよ。サーシャ。でも、可哀想なことに、ねずみさんももう限界みたいだねえ...さっきので。 なあ、フレイア...ウサギちゃんの死を乗せた割には、僕に、届ききることはなかったな。
ー....そうだな。あとは、お前の後ろに立ってる子が、ケリをつけてくれるさ。
ーあ?
兄さんが後ろを振り返るのと、扉を開けたレイの放った火球が、その体を祭壇まで吹き飛ばすのは、完全な同時だった。
兄さんの体は、激しい音と臭いを立てて、祭壇まで吹き飛ばされて、青い祭壇に当たって、地面に転がった。
...レイ。
ー......ごめんね、遅くなった。
私は、レイの酷い脚と手の火傷を見て、彼女に駆け寄って、その体を支える。
ー....アルルゥ....?
レイが、床に静かに横たわるアルルゥの体を見て、小さく呟いた。
ーサーシャ....フレイア....なあ、どうして....アルルゥは、あんなとこで横になってるんだ?
私は、口に出して伝えることさえ、出来なかった。
ただ...首を横に振ることしか、今は、出来ない。
ーなんだよ...ただ、気を失ってる、だけだろ?
ーレイ。 サーシャ。
フレイアが、静かに口を開いた。
ーあの子は、死んだんだ。 ...もう、息をすることもない。 喋ることも、歌うこともない。 ...もう、いないんだ。 .....私たちの、やることを思い出せ。 戦争を止めるんだ。 ...サーシャ。お前の士官としての立場がまだ有効なら、ユーリィとティアの代理で、停戦を呼びかけることはできるか?
ーなんだよ...フレイア!! なんで...なんで、そんなこと言うんだよ!!
...レイ!!
私は、涙ぐんでフレイアに食ってかかるレイを止めた。
ー...フレイア。 ...やってみるわ。 兄はもう動けない。 司令室に、行けば.....!?
そのとき、私は見た。
兄さんが、焼け爛れた腹を抱えながら、笑っているのを。
低い、とても低い、それで、静かな笑い声だった。
偽りの狂人が起こす発作的な笑みでも、病気のような笑みでも、兄さんの笑い方は、そのどれとも違った。 ...ただ、冷静に、理性的に、そして、何かがただ、面白くておかしくて仕方がないというふうな。 目の前で起こっている全てのことを、喜劇の中の一幕として見定めているような、そんな、諦観さえ感じさせる、笑い声だった。
笑い声は、礼拝堂の中に響き渡る。 それに呼応するように、灰色の靄が、兄さんの体に集まっていく。 礼拝堂の壁を、柱を、抉り取るように壊しながら、その靄が兄さんの体を覆って、そして、包み込んでいく。
ー...本当に、大した奴らだよ。心から尊敬できる。嘘じゃないし、皮肉でもない。...いい仲間に恵まれたな。 サーシャ。 ...追ってこいよ。 こんな狭いところじゃなくてさ。 もっと広い、見渡しのいい、青い空の下で...一緒に、これから起こることを、眺めよう。 ...お茶でも、飲みながらな。
礼拝堂の中に、冷たい風が吹き荒んだ。
その風は、兄さんの体を押し流して、扉を開いて、冷気ごと外へ連れ去っていく。
兄さん!!
私は手を伸ばす。 でも、彼は、振り返ることなく、礼拝堂から去った。
そして、礼拝堂の中には、私たちだけが、残された。
************************
...サーシャが支えてくれて、僕を、アルルゥの側まで連れて行ってくれた。
歌が好きで陽気な、小さな白いふわふわの体は、礼拝堂の白い床の上に小さな赤黒い水溜りをつくって、その液体に包まれるように、静かに眠っていた。...僕はそのとき初めて、血の色は、真っ赤じゃなくて、少し黒く濁っているんだってことを知った。
......アルルゥ......
僕は床に膝をついて、彼女の、柔らかい顔を少しだけ撫でた。 ...まだ、ほんのりと温かいけど、微かに、ほんの微かにだけど、冷たさも伝わってきた。 ...その冷たさは、僕に、アルルゥがもうこの世界にはいないんだということを、静かに語っていた。
..........ごめんね。 守って、あげられなくて。
僕は、アルルゥの頭を、もう一度だけ、優しく撫でてあげた。
.......すぐに、戻ってくる。 君を、独りぼっちのままにはしない。
立ち上がって、僕はフレイアの方を振り向いた。 ...フレイアは、特にいつもと変わらないように見えた。冷静で、やるべきことを見失わない。 現実を受け入れて、その上で、先へ進もうと言っているのだ。
...ごめんな、さっきは怒ったりして。
ー...別に、気にしてない。 ...今は、前に進むぞ。 私たちが立ち止まったら...
ー...全部、無駄になる。 そうね、フレイア。
ーああ。 ...行くぞ。 サーシャ、レイに手を貸してやってくれ。 ...レイ、その怪我で、まだやれそうか?
...少なくとも、アルルゥに怒られないようには、頑張るよ。
フレイアは、僕がそう言うのを聞いて、小さな微笑みを浮かべた。
...今にも消えていきそうなくらい、寂しい微笑みを。
ー私は自分で歩けないほどじゃないから、1人でついていくさ。 ...ただ、ほんの少しだけ、遅れて行く。 あの奇妙な靄のせいでな、足が、まだうまく動かないんだ。
...分かったよ。 ...先に行って待ってるから.....後から、ついてきてくれ。
ー......すまんな。
彼女は、そう言って、僕とサーシャに頭を下げた。
サーシャも、アルルゥの頭を優しく撫でて、それから立ち上がって、僕に肩を貸して支えてくれる。 僕たちは、2人で礼拝堂の外に、歩いて行った。
サーシャが礼拝堂の扉を閉めてくれて、僕たちは、寄り添いながら、ユーリィが消えた後の、微かな冷気の気配を辿って歩く。 ...まだ、微かな灰色の靄の残滓が、白い廊下に漂い続けていた。
やがて、少し歩いた後で、礼拝堂の方から、微かな声が聞こえた。
...それは、アルルゥの歌っていた、子守唄だった。
とても低くて、優しくて......とても、哀しい声のように、僕には聞こえた。
************************
「彼」の冷たい靄と風に包まれるように、僕はフロート・デッキへと出る。
その風は、いつもならとても冷たく感じられるはずだった。けど、今は、何も感じない。 冷たさも、熱さも、ありとあらゆる温度が、僕の体から消えているようだった。
「彼」は、そっと優しく、僕の体をデッキへと下ろしてくれる。自分の足で立つと、全然力が入らなくて、自分でもそれにびっくりした。びっくりして、慌てて、手すりに寄りかかるようにして体を支える。
そこから見下ろす空の下では、帝国の飛空艇と、オラリアの魔導師どもが、銃と爆弾と、それから魔法を交わし合っていた。 その激しい光と音を聞いているだけで、彼らが本気なのだということが分かって、僕はそれをとても愛おしく思った。 ...彼らは、何も知らずに、死に向かって歩いているのだ。 それが、最初から僕とアロハルト爺さんの間で仕組まれた、全く意味も、大儀すらも、無いものだとも知らずに。 ...けど、それは幸せなことなのだ。 知らないままでいいことだって、世界には山ほど溢れているのだから。
僕は、凍り付いた自分の腹の傷を、少しだけ撫でる。
ねえ。 僕は、もうすぐ死ぬのかな?
ー...ああ。 間も無くな。
彼は、隠さずに答えてくれる。 その正直さが、僕には嬉しかった。
いいねえ。 やりたいことやって、空の上で綺麗さっぱり終わる人生って、なんだか映画みたいで、素敵じゃないか。
ー...君は、その結果に、満足しているのだろう。
でも、君はまだ満足してない。 ...そういうことだろ? 歴史の遥か彼方の、古い王様。
ーそうだな。 ...君は、相変わらず、聡いな。
...レイ君に、ケイリュオンを拒まれたことが、そんなに腹に据えかねる出来事だったかい?
ー.........また待つさ。 次の、そのさらに次の機会をな。 幾千年の時を彷徨い続けて、私は今こうしてここにいるのだから。
...君の方が、僕よりよっぽど人間らしいよ。 ...自分より遥かに幼い、何も知らない無知な女の子に、自分のやってきたこと全てを否定されたのが、悔しくて悔しくて...憎くて、しょうがないんだろ。 ...いいねえ。 皮肉じゃなくて、本心からそう思うよ。 暗い感情への執着だけが、人を、人たらしめるんだからな。
ー...そうだな。 ...そうだよな。 数千年を彷徨い続けて、私の真の理解者は、ただ1人、君だけだったよ。
風がやがて強くなって、空が灰色に曇り始める。
僕の心を写す感傷的な言い方じゃなくて、本当に、現実のものとして、そうなっている。
嬉しいねえ。 そこまで言ってくれると。 ...じゃあ、最後に、僕からのささやかな御礼として、君の復讐に力を貸すのも、悪く無いかな。
その強い風は、やがて大きな円を描いて、回りながら強さを増していく。 風が徐々に、集まってきて、[ノア]の甲板を、タイルを、翼を...だんだんと、削り取るように巻き上げながら、僕の立っているフロート・デッキへと集まってきた。
ー...一緒に、行こうか。 私の復讐に手を貸してくれるついでに、君の、夢の果てを、私に見せてくれ。
風と、船の破片が、僕の身体へと集まって、歪に繋がってゆく。 繋がったそばから、それは僕の体の一部となって、同化して、凍り付いていく。 それはいくつかの、歪んだ巨大な翼となって、私の背中に象られる。 腕も、足も、胴体も、わたしのすべてが、金属と氷で覆われて、ひとつの灰色の生命となった。
.....レイ......オーデル.......
翼を軋めかせて、船を離れて灰色の空へと飛びながら、私はあの憎い...私の全てを否定した、あの醜い小娘の名を口遊んだ。
.....来い。 わからせてやる。 .....理想に走り、何も出来ない無力を抱えたまま、大切なものたちの死を見続ける地獄を、お前に、理解させてやる。
私は船の上を彷徨いながら、灰色の空の下を、静かに飛び続ける。
************************
灰色の冷たい靄の残滓は、上へ、上へと続いている。 僕たちはいくつかの階段を登って、ますます強く、冷たくなる風を、体の正面へと受けながら進む。
ー...誰も、追ってこない。
...そうだね。 ...とても、静かだ。
それは本当に、船の中の喧騒が嘘みたいな、凍り付いたような静寂だった。 ...僕は、その冷気を、前にも感じたことがある気がする。 あの、夜の森の中で。
だいぶ、長く歩いた気がする。
ー...レイ。
どうしたの?
ー......兄さんは、どうして、ああなっちゃったのかな。
サーシャの唐突な言葉に、僕は答えに詰まった。
ー....優しい、自慢の、兄さんだったの。 ....大好きだった。
...僕は、今でも、姉さんの事が好きだよ。 ...ただ、進む道が、今は違うだけで。
ー..........
もし、生きてればさ...。 ...いつか、分かり合える時が来るよ。 ...アルルゥを殺したあいつを、僕と君が、許せるかどうかはともかくとしてね。
ー....そうね。 ...お互い、生きてれば、ね。
サーシャは、呟くようにそう言って、少しの間、白い床を見つめていた。
微かな、外の空気の流れが隙間から漂う分厚い扉が見える頃になって、後ろからフレイアが僕たちに声をかけてきた。
ー悪い。 遅くなったな。
...フレイア。
ー...心配、したわよ。
ー......この年になると、どうもな。 体が、思うように動かなくてな。 元々、寒さには弱いんだ。 ねずみだからな。
...この扉の先に、あいつがいると思う。 サーシャ、フレイア、まだいけるか?
ーまあ少なくとも、大怪我してる誰かさんよりはな。
ー...レイ。 貴方こそ、よく動けてるわね。
.....あいつを止めるまでは、休まないさ。
ー散々寝てたからな。 まあ、体力も持つだろ。 ....まだ、若いんだからな。
フレイアが、サーシャの肩に寄りかかる僕の背中を、軽く、優しく叩いた。
...行こう。
僕は、まだ動く手で、外へと続く硬い扉を、押して開けた。
扉の外は、[ノア]の甲板だった。 相も変わらず、一面が白いつやつやした石で覆われていて、半円形の空に面した広場の至る所に、冷たい氷が広がっている。
ー...空が....
サーシャが呟いて、僕も、フレイアも、空を見上げる。
暗くて、冷たくて、分厚い雲が、見渡す視界全てに立ち込めていた。
ー...おい。 あれ見ろ。 ...随分と、洒落た姿になったもんだな。
フレイアが空の彼方を指差して、僕たちに伝える。
そこに飛んでいたのは、翼を持った、天使だった。
でも、お世辞にも綺麗な天使じゃない。 ...機械と、瓦礫と、そして氷に包まれた13枚の翼と、歪な灰色の金属の鎧のような破片に包まれた、ユーリィの姿が、僕の目に映った。
彼は、もう、人間ではなかった。 亜人でも無い。 ...生きてもいないし、かと言って、死人でもなかった。 ただの、歪んだ...ひとつの大きな、悪意の塊が、空に浮かんでいる。
ー...来るぞ!!
フレイアが鋭く叫んで、ユーリィの歪な体が、真っ直ぐに僕たちの方に向かってくるのが目に入った。吹き荒ぶ冷たい風が、立っていられないほどに強くなって、僕はますますサーシャに寄りかかる。 サーシャも、剣を支えにして、その場から離れないので精一杯だ。風の次に、白い甲板をすぐに埋め尽くすくらいの、激しい雪と、霰が灰色の空から降ってくる。僕の握り拳より大きなその霰に頭を砕かれないように、僕は魔法で周りに熱気を張って、それを溶かして小さく砕く。 ...でも、それが手一杯で、とてもじゃ無いけど向かってくるユーリィに魔法を放つ余裕が出来ない。
ーレイ!! そのまま魔法で身を守れ!!
フレイアが飛び出して、剣を抜く。 その刃は、真っ直ぐに空中から降りかかってくるユーリィの氷の刃と交差して、甲高い音を響かせる。
ー...フレイアか。 死に損ないの鼠が。 ...尊敬はするが、空しい人生だな。
ー...お前に、理解してもらうつもりは、生憎ながら無いんでな。
ーそうだな。 理解できないな。 無力なままに全てを喪って、失意の中で死に向かう、哀れな亜人の人生観などな。 ...理解するに足らんわ。
歪んだ天使とフレイアは、幾度か、激しく剣を振って、重ね合わせる。 僕は微かな雹の切れ間を伺って、小さな火球を指先に集めて、ユーリィの体を目掛けて放つ。
ー...レイ...オーデル.....
彼は小さく呟いて、フレイアから距離を取って宙に浮かぶ。 僕の放った火の玉は、彼の肩をかすめて、その火ごと冷たい氷に覆われて、ゴロリと甲板の上に転がった。
ユーリィの体の周囲に、無数の冷たい氷の破片が凝縮する。 それは冷たく研ぎ澄まされた弓矢のように形取られて、引き絞られて、僕たちの方へと降り注いだ。氷の矢は、僕の真帆王の熱すら意にも介さない冷気と速度をもって、僕とサーシャを目掛けて飛んでくる。
ーレイ!! サーシャ!!
フレイアが飛ぶように走ってきて、僕たちを体ごと突き飛ばして、僕たちは背中から甲板に転がった。
サーシャ...立てる?
僕は吹き荒ぶ雪から口元を覆いながら、それでもなんとか彼女に聞いた。
サーシャは、僕の問いに、何も答えなかった。
彼女は、上半身だけ起こして、前を向いてる。 ...前を向いて、何かを、凝視している。
ーフレ....イ....ア.......
僕も、蹲ったまま、顔だけ起こして、サーシャの視線の先を見つめた。
フレイアが、僕たちの方を振り向いて、立っている。
とても、安らかで、優しい顔だった。
その背中から、腹を貫いて、幾つもの氷の矢が、その身体を刺し貫いていた。
ー...なんて、顔してる。 ...バカ。
おい.....
ー...まだ、終わってない...。 あいつが、来るぞ。 ...逃げろ。 もう、敵......
フレイアの言おうとした言葉は、彼女の吐いた血に埋もれて、甲板にべしゃっと落ちた。
やめろよ、この....!! バカ!!
僕とサーシャは、2人同時に駆け寄って、雪の中で崩れるように倒れた、フレイアの体を受け止めた。 彼女は、最初にサーシャを見つめて、それから、僕と目が合った。
ー......サー......しゃ........レイを......頼んだ。
ーやめて、フレイア...!! やめて!! 貴方も、一緒に来るのよ!!
サーシャが、叫びながらフレイアの頭を揺する。 ...フレイアの眼は、その呼びかけにも動かずに、真っ直ぐに、僕を見つめた。
ーレイ...。
おい........なんだよ........
ー......おまえは.........やさしい、まっすぐな....子だ。 ......会えて、よかった。
やめろ.......なんで、もう、終わりみたいなこと、言うんだよ!!!
ー......生きろ。 サーシャ。 ....レイ。 .....生き.........
フレイアは、最後まで、言う事ができなかった。
ずん、と、重い音が響いて、僕はその衝撃で顔を覆う。
...腕の隙間から、フレイアの姿を見つめる。
その身体は、ちょうど胸のあたりで、真っ二つに割れていた。
氷の、冷たい刃が、彼女の体を、ふたつに分けていた。
ー長いんだよ。 話が。 ...ネズミ。
.....ぇ........
ー...君の妹も、手にかけることになって、悪いな。 ...ユーリィ。
天使の冷たい、金属に覆われた腕が、サーシャの首元を掴んで、宙へと持ち上げる。
.......やめろ......
僕は、呟いて、起き上がろうとする。 足にうまく力が入らなくて、転ぶ。
ー鬱陶しいから、しばらく黙ってろ。お前。...まあ、魔法なんぞ、もうロクに使う体力も、魔力も、残っちゃいないだろうがな。
ユーリィの囁くような声が、僕の耳に届く。 雪が、氷が、僕の体と口元を覆って、体の中にまで入ってくる。 僕は咽せて、咳き込んで雪を吐き出そうとするけど、唇が凍りいて、それさえも許してもらえない。
ーレイ・オーデル。 ...見てろ。 こういうことなんだよ。 お前が、選んだ未来はな。今起こっていることは、夢の中でも、私が見せた幻でも、なんでも無い。 ...現実なんだよ。 今、確かにこの場で起こってる、現実だ。
サーシャが、金属の冷たい腕に捕まえられたまま、何かを空で叫んでる。
ーレイ!! 逃げて!! 早く!!
(やめろ....)
ー.....ありがとう。 一緒に、ついてきてくれて。
(やめ............)
天使の手が、サーシャの体を離した。
その体は、下へ、下へと、風に吹かれながら、落ちていく。
(サーシャ.....待って......僕は........ぼくは........)
僕は、落ちていく彼女の体を掴もうと、手すりの隙間から、手を伸ばした。
ーいい加減、諦めろよ。
僕の伸ばした手は、冷たい言葉と共に、肘の先から、切り落とされて、サーシャと一緒に、落ちていった。
ーなあ。 レイ。 ...喋れるようにしてやるよ。
雪の中で、彼の言葉だけが、僕の耳に届く。
..............ぁ....................
ー...お前1人になったな、これで。 ...なあ、ようやく、理解できたか?
..........ぁ................ぁ..............ぁ.................
ー...無力な、力を放棄したお前には...何一つ、誰1人、守れないって事がな。
............やめて........お願いだから..........みんなを、かえして................
ー誰もいないんだよ。 もう、な。 なあ、お前、言ってたよな。 あの塔の上で。
...............みんな、を............
ーもう、帰ってこないんだよ。 お前の大切な仲間たちは、もう、いないんだ。
...お前のせいでな。
..........ぁ............ぁぁぁああああああああああああああああああっっ..................
************************
その日、オラリアの少し北西の空から生まれた分厚い雲は、やがて広がってゆき、世界の全ての空を覆った。
南のよく晴れ渡る熱帯の国も、1年のうち2/3を雨と雪に覆われる国にも、滅多に雨の降らない乾燥し切った砂漠にも、その雲と雪は、等しく齎された。
ー...なんだ?
ー空、が....雪?
ーなんで、こんな季節に、この場所で、雪?
そんな呟きが、世界のあちこちで交わされた。
雪は瞬く間に降り積り、家も、木も、土も水も、全てを白く覆い尽くす。
流れる川や滝はやがて凍りつき、海は冷え、魚は深くに潜り、寒さに弱い家畜は震えて死んでいった。 雪に混じって、大粒の霰も降る。霰は家の屋根を、ガス灯を、道路を砕き、人の頭までも、いくつか砕いて落ちて割れた。
数年に一度しか雪の降らないべドゥインの郊外でも、雪は等しく降り積もる。
王都から、程遠く離れた、広く寂しい灰色の墓石が立ち並ぶ共同墓地にも、雪は積もる。
積もって、墓石を、雪の中へと埋めていった。
その共同墓地は、身寄りのない孤児や戦死者が、何人も葬られていた。
土の下に眠っていても、土の上を歩いていても、雪は等しく、世界中の皆の頭上に降った。
************************
...私は、帝国の兵士たちに支えられて、司令室に戻る。
レイの眠りの魔法は、それほど強いものではなかったけど、魔法を封じられた私の意識を奪い去るには、十分なものだった。
...レイ。
私は、椅子に座りながら、妹の言った言葉を思い返す。
『.....もう、復讐は、やめようよ。 .....誰も、帰ってこないんだ。』
.....誰も...........
...父さんと母さんが死んでから、私はずっと、レイを背中に守って生きてきた。
学校を主席で卒業してすぐに、私は軍に志願した。 ...やがて降りかかる戦火から、国を、妹を、守りたかったからだ。
けど、結局、戦争は祖国の惨めな敗北で終わった。
自分のせいだと、思い上がる余裕さえも無かった。 それほどに、帝国と祖国との戦力差は、誰の目にも見てわかるほどに、大人と子供のように隔たれたものだったからだ。
...どうして、そんな愚かな戦に、祖国が挑んだのかは、わからない。
祖国が降伏して、捕虜として収監されていた私は、そこで、あの男と出会った。
.....彼は、『復讐』を、私に持ちかけた。
私がその誘いに乗ったのは.....
多分、何か、生きている目的を、見つけたかっただけなんだと思う。
....そうすることでしか、罪悪感から逃げる術を、私は知らなかった。
....誰も、もう、帰ってこないのね。
私は、司令室の前面の、大きな分厚い硝子張りの窓の外を見ながら、呟いた。
父さんも、母さんも、死んでいった仲間たちも...
...帝国を滅ぼしても、きっと、死んでいったその時の顔で、私の前に現れるのだ。現れて、手を伸ばしてもすり抜けて、やがて消えていく夢のように、みんなはそっと、私の前に、現れては消えていくのだろう。
...死者の顔は、もう、変わることはないのだから。
窓の外は、やがて曇っていき、分厚い灰色の雲に覆われてゆく。
....?
ーて、ティア司令官!!
何かに慌てている兵士が、私のもとに報告に来る。
ー外が、外に雪と霰と、風が....交戦中の飛空挺師団にも、多大な被害が!!...ユーリィ様も、未だお戻りになられません!!
...何が、起こってるの?
ーわかりません、ただ....
ただ?
ー...その、前方の、空に.....天使が.....
私は意味のわからない、けど、嘘をついているとも思えない兵士からの報告を聞いて、椅子から立ち上がって、窓の側へ歩いていく。そこからは、雪が降り積もった甲板が、よく見下ろせた。
...私の首輪を、外しなさい。
ーえ? ですが、鍵は...
銃を貸しなさい!! 早く!!
私は、兵士から銃を受け取って、その口を自分の首輪へと向けた。
************************
......すべてが、白い雪に、覆われていく。
...切り落とされた僕の腕も、やがて、その切り口から、凍りついていく。
さー....しゃ......
呟きながら、甲板の下を見る。
その下では、幾つもの飛空艇が、凍りついて、霰に襲われて、落ちていった。
遥か下の地面では、墜落した飛空艇が赤く燃え盛って、黒い粒にしか見えない、オラリアの兵士たちが逃げ惑っている。
....ぜんぶが、凍って、燃えて....やがて、亡くなっていく。
ふれ...いあ......なに、ねてんだよ......
僕は手すりに背中を預けて、フレイアの方を見て、話しかける。
さーしゃが.......落ちた.........はやく、助けて......あげなきゃ.........
フレイアなら、なんとかしてくれる。
...いつだって、僕たちを見守ってくれて、厳しくて皮肉屋だけど....優しい、人だ。
でも、僕の願いにも、彼女は何も答えてくれなかった。
半分に割れた、フレイアの体は、白い雪に覆われて、もうほとんど見えなかった。
僕は、足を引きずりながら、フレイアの側まで歩いていく。
かぜ....ひくぞ.....寒いんだから........
寒かった。
体が凍えて、うまく歯が噛み合わない。
フレイア.........
彼女の側までなんとか歩いて、僕は、膝をついて側に座る。
なにしてんだよ.......なんで、起きないんだよ..........
僕は、フレイアの被っていた帽子を、少しだけ上にずらす。
よく整った、綺麗な顔だった。
........フレイア.........
...彼女は、何も答えてくれなかった。
.....アルルゥと、同じところに.....逝ってしまった。
ー....レイ。
誰かが、僕の前で、小さく呼びかけている。
ー......私を見て。 .....はやく、私のところに来て。
僕は、その声を、何度も何度も、聞いた事があった。
......フィア......
フィアは、甲板に降り積もる雪の上で、小さく微笑みながら、僕を見ていた。
ー...私の、言った通りになった。 ...でも、あなたのせいじゃない。
僕の....
ーまだ、やり直せるわ。 あなたは、まだ生きてるもの。 ....レイ。
フィアは、雪の上を歩いて、僕の側に近づいてきた。
ーサーシャも、アルルゥも、フレイアも....みんな、いなくなった。 ...みんな、望んでる。 貴方が、ユーリィと、狂った古代の王を滅ぼして、みんなの無念を晴らすのを。 レイ。
.......あなたの復讐を、果たすのよ。
フィアは、真っ白な杖を、僕に差し出した。
...ケイリュオン.....
ー受け取って。 レイ。 ...あなたのための力を。
その白い杖は、一面の雪景色の中でも、白く美しく、光って見えた。
(第13話終わり)