※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第4話)
僕たちは岩の影に固まって、小さな声で、できる限り急いで話し合う。
...アルルゥ、僕たちはどうすべきなんだろう。
ーもうすぐ吹雪が来るのです、アルルゥには分かるのです。 吹雪に乗じて、できるだけ急いで山頂を抜けて、降りるのです。
ー...引き返すって手段は無いの? 別のルートから...
ーさっきの魔法は、もうあいつらに気付かれてる。 集団でどこまでも追ってくるぞ、私とアルルゥより、隅々までこの山を知り尽くした奴らだ。
ー来た道を引き返すよりも、オルタマイア側に抜ける方が、まだ少しは安全なのです。 オルタマイアと不用意に揉めるのは、バナ族もあまり好まないところなのです。 彼らとしても、自分たちの被害を大きくしたく無いのです。
まあ、モスカの街側よりは、まだ希望があると。
ーいずれにせよ、ここに留まっていていいことはない。 急ぐぞ。 ...おい、犬っころ。
...僕のことかよ。 ネズミ。
ー足手まといからちょっとは昇格したんだ、感謝しろ。 お前のお得意の魔法は、もう出し惜しみせずにぶっ放せ。 良かったな、お預けをくらうことがなくなって。
......巻き添え食らわないように、注意しろよ。 ネズミは小さいから、間違って当てちゃうかもしれない。
ーもう...お願いだからこんな時にまで喧嘩しないでよ...。
ーそうなのです。 みんなで一致団結して、この困難を乗り切るのです！
僕たちはさっきよりは随分急いで、アルルゥを先頭に山頂へと向かう。 吹雪が随分と激しくなってきたので、僕はそっと全員の体を魔法で温める。まずアルルゥに、それから、一応は司令官殿にも、...ネズミに対してはかなり迷ったけど、まあ寒さで剣やら弓やらが握れなくなっても困るので、本当にかなりの妥協をして温めておいてやる。
ー...魔法って、便利なものなのね、
まあ、使い捨てのカイロがわりにはなれる。
ー足手まといから昇格して、随分得意げだな、犬っころ。
氷漬けにするぞ、ネズミ。
司令官殿は、小さなため息を一つだけついた。僕とネズミのささやかなじゃれ合いを止めるほど、みんな余裕は無かった。
ただ、予想に反して山頂まで、バナ族たちは姿を現さなかった。
山の頂も、予想に反して寂しいものだった。てっきり、偉大なるバナ族の偉大なる神殿か何かでも立ってると思ったんだけど、その雪に覆われた平らな空間には、幾つかの石の塔が何個か、寂しげに佇んでいるだけだった。
ー...ここが、山頂なの?
ーそうだ。 私たちも、足を踏み入れるのは初めてだ。
...意外と、「初めて」のことが多いんだな、ネズミ。
ー何も知らないうちに山を越えられるのが一番いいんだ。 何にでも首を突っ込みたがる犬は、すぐに身を滅ぼす。
ー2人とも、静かにするのです!
僕もフレイアも、アルルゥの緊張した声を聞いて黙る。 そのあとで、ちょっと気まずそうにお互いに目を合わせる。 意外とネズミの方も、気まずいと思うことがあるみたいだ。
ー...降り道に、何人もいるのです。何人かの集まりが、幾つも、幾つも、静かにアルルゥたちの方を伺っているのです。 ...元来た道から登ってくる奴もいるのです。
囲まれた?
ーまだなのです、でも、すぐに囲まれるのです。 早く、できるだけ早く、安全な方から降りるのです!
アルルゥはそう言うと、降る道を駆け出す。僕たちもその後に続く。
走りながら、僕は司令官殿に話しかける。
...司令官殿。 ...戦争を止める代償は、ずいぶん高くつくもんだね。
ー......ごめんなさい。 巻き込んで。
...僕は自分の意思で君に従ったんだ。 謝られる筋合いは、特に無..........
僕は自分で言った言葉を飲み込む。 一筋の矢が、吹雪の中を切り裂いて、僕のすぐ足元に突き刺さったからだ。
ー来るぞ、犬っころ!
フレイアの鋭い声が響いて、彼女はすぐに弓を構える。 僕もフレイアの後ろの近寄って、アルルゥと司令官殿を僕とフレイアの背中で隠す。 フレイアは矢の飛んできた方向だけを頼りに、弓を横に構えて引き絞り、すぐに1射目を放つ。 さっきも聞いた、カエルの潰れるような小さな悲鳴が、吹雪に乗って聞こえたような気がした。
ー前の方に3人、左から4人、近寄ってるのです!
アルルゥの声を聞いて、僕は左の方に意識を集中する。 指を広げて、右手の掌を前に突き出す。小さな火球が僕の掌に包み込まれるように渦巻き始めると同時に、僕はそれを解放した。雪を溶かしながら、火の玉は吹雪の中を真っ直ぐに突き抜け、そして何かに当たって爆発した。 何かの肉と、雪を溶かす音と臭いが立ち込めて、僕は思わず顔を顰める。
ー犬っころ、前だ!
フレイアが僕に促して、僕が前を振り向くのと、飛んできた3本の矢が彼女のサーベルで弾き飛ばされるのは、ほとんど同時に起こった。
びっくりさせるなよ、ネズミ!
僕は悪態をつきながら、もう一度意識を前方に集中する。僕の放った火球と、フレイアの放った矢が真っ直ぐに飛んでいき、また何かの肉が爆ぜて、くぐもった悲鳴が聞こえた。
ー突っ切るぞ、急げ!
僕たちは固まって、その場を離れる。
ー前から、何人も来るのです! 横に逸れて、あの岩陰に隠れるのです!!
アルルゥの声に従って、僕たちは黒い岩陰の横に隠れる。
ー何人いる、アルルゥ!
ー...数え切れないくらい、いーーっぱい、いるのです。
詰んでないか、僕たち?
ーレイ、さっきの火の玉は...
あれでチマチマやっつけてても、どうこうできる数じゃ無いんだろ? ...ネズミ、2分くらい時間稼げるか?
ー...お前が頭下げるなら、なんとかしてやる。
ー私が下げますから、お願いします! フレイアさん!
司令官殿の切羽詰った声に、ネズミは苦々しげに答えた。
ー......冗談のつもりだ。
ー...笑えないのです。 フレイア。
彼女が地面にサーベルを刺して、弓を構えるのを見届けて、僕は雪の上に膝をついて、頭を下に向けて白い雪の粒を見る。 集中しろ、何も聞くな...ネズミに任せて......
僕は目を閉じて、吹雪の音に耳を澄ます。時折、ちょっとした悲鳴と、ネズミが矢を放つ乾いた音だけが混じるけど、僕の意識は、それでも静かに吹雪の中へと紛れていって、やがて、山を覆う吹雪そのものへと溶け込んでいった。 僕はそっと、足元の雪を指でなぞる。丸く弧を描きながら、その動作と、吹雪の音だけを感じるようにする。美しい弧を描くのだ。それだけに...それだけに、自分の全てを捧げるように、僕は魔法を唱えた。
やがて、吹雪に混じっていた悲鳴は聞こえなくなる。 弓の音も止んで、風の音だけがその場に残る頃になって、僕はようやく目を開いた。
ー.......みんな、眠ってる。
ー........すごいのです。
司令官殿とアルルゥは驚いて僕を見つめるけど、ネズミはふんっと小さく鼻を鳴らして、まあ、これくらいはできるだろう、そう小さく答えた。
僕はかなり疲れて、ゆっくりと何度か深呼吸する。
ー...レイ、大丈夫?
疲れた。...僕も眠りたい。
ー置いてくぞ。
...少しは労えよ、ネズミ。
ーでも、急がなくてはいけないのです。レイ、立てるのです? 肩を貸してあげるのです、立って、ここから離れるので.......
僕に差し伸べてくれたアルルゥのふかふかの腕に、一本の矢が突き刺さった。
僕は矢が飛んできた方を振り向いて、フレイアがすぐに矢を放って迎撃する。 でも僕は、とうとう死期が訪れたことを、流石に覚悟せざるを得なかった。
雪の上に転がっているバナ族たちは、確かに、眠りについている、深い、深い眠りに。
その腹が縦に裂けて、別の腕が姿を表す。 弓やナイフを持った緑色の手が腹の中から出てきて、すぐに顔も出てきて、不揃いな黄色い歯を剥き出しにして、歪んで僕たちの方を威嚇して、攻撃しようとしている。
ーアルルゥ!
司令官殿が彼女の方に駆け寄って、抱き抱えるように庇っている。 僕はちょっとクラクラする体を無理に起こして、目の前で起こっている出産にも似た悍しい光景を前にして、もう一度魔法を使おうと試みる。 それよりも早く、フレイアの方が動いていた。彼女はバナ族たちが眠れる同胞の腹から完全に生まれるより早く、雪面を駆けてその首をサーベルで掻き切っていく。 僕は僕で、弓を射ようとする赤ん坊のような緑の太った巨体に、さっきより小さな火球を放って焦がすのでいっぱいいっぱいだった。...その時は、本当に、後ろに気を回している余裕が無かったのだ。
数十秒で、新たに産まれたバナ族は、すぐに動かない存在となった。
......ほんっとに、知らないことばっかりだな。......ネズミ。
ー......私としても、特に知りたくも無かったし、見たくも無かった...。
僕とフレイアは、岩陰に腰を下ろして、お互いに荒い息を整える。僕はローブの内ポケットから小さな銀の容器に移し替えていたウイスキーを取り出して、少しだけ飲んだ。強いアルコールが体を駆け巡って、僕はちょっとだけマシな気分になる。
...飲むか、ネズミ。
ー...もらおう。
僕は彼女に酒を渡して、それから司令官殿とアルルゥの方を見た。...と言うより、さっきまで後ろにいたはずの、彼女たちの方を見た。そこでようやく僕は、2人がどこにもいないことに気付いた。
......おい。
ー......アルルゥと、サーシャ・マクラウドはどこに行った?
......知らない。
僕はそう呟いて、そのすぐあとで、フレイアに首元を掴み上げられて、岩に背中から叩きつけられた。乱暴な奴だ。
ー...私は、どこに行ったかと聞いてるんだ。
だから、知らないって言ってるだろ!
ー.......連れて行かれたか。 ....おい、犬っころ。よく聞け。二つのことを言うぞ。まず一つ、アルルゥが無事に戻らなかったら、お前もこの山を生きて出られないと思え。もう一つ、こっちは質問だ。....なぜ、あいつらを一息に焼き払わないで、眠らせる魔法を選んだんだ。お前なら、前者の選択肢を取ることもできたはずだ。
お前に...答える必要、あるのかよ。
ー...確かに無いな。 犬っころの判断ミスをあれこれ言っても、起こったことは変えられないからな。 ...行くぞ。
彼女はようやく僕の首から手を離して、背を向ける。 僕は雪の上に蹲ってしばらく咳き込んで、忌々しいネズミの後ろ姿を睨みつける。
...行くって、行くあてがあるのかよ。
ー...今日はどこかで休む。 アルルゥたちを助けに行くのは、明日の日が昇る前だ。逃げたかったら、尻尾巻いて今すぐに逃げてもいいんだぞ、臆病な犬っころ。
僕は黙って、荷物をまとめてネズミについていく。 彼女はバナ族の死体の脇に転がっていた矢を何本か回収して、自分の矢筒に納めていく。
ー......少し降りた所に、岩肌に面した小さな洞窟がある。私も疲れてるし、あいつらはすぐには生贄を殺さない。一晩かけて、祈りを捧げるんだ。
祈り?
ー...食物を恵んでくださった、神に対してだ。
聞いていて、あまり気持ちの良い話では無かった。...でもそれは、ある意味では、とても自然なことのように思えた。
************************
フレイアの言った洞窟とやらは、ありがたいことにそれほど離れていなかった。 道というより、尖った岩だらけの急な斜面をなんとか降って、岩肌の表面にひっそりと空いた洞窟...というより、ちょっとした岩陰の窪みのような狭い場所に入る。人1人がやっと通り抜けられそうな、狭くて小さな入り口だったけど、中には雪が積もっていなくて、ひんやりしていたけど乾いていた。フレイアはついて早々に、雪やら小さな石やらをかき集めて、入り口に積み重ねていく。疲れてはいたけど、僕も一応手伝う。魔法を使ったら、また感知される可能性が高まるので、基本的に手作業だ。
空気の流れを妨げない程度に入り口を隠して、僕たちはようやく洞窟の隅に座って落ち着き、ガス缶で作った小さな火を囲んだ。僕もヘトヘトに疲れていたし、ネズミと2人きりでも、言い争いをする気も起きなかった。僕たちは細々と、ビスケットを少しと、それから湯を沸かして温めたほうれん草の缶詰に胡椒を振って食べる。食糧の大部分は司令官殿とアルルゥが持っていたから、随分と寂しい食事だった。ネズミと無言で食べる食事は、楽しいとはとても言えなかった。...けど、つまり、僕は今までの食事を、楽しいと思っていたのだろうか。それに気付いて、僕はアルルゥと司令官殿のことを思う。
...2人は、今どうしてるんだろう。
ネズミに尋ねようと思ったわけでは無かったけど、僕はふと口に出してみる。
ー......「食材」に、そこまで手荒なこともしないだろう。 かと言って、歓待も、特にされてないだろうな。...おい。
...何? また首を絞められるのかな?
ー......すまなかった。 さっきお前に当たったのは、私の八つ当たりだ。 カッとなって、つまらないことをした。
思いがけず、フレイアは僕に謝罪して、帽子を脱いで頭を下げた。僕は彼女が帽子を脱ぐ姿を初めて見たけど、銀色のサラサラした髪の毛が、火の光に当たって少しきらめいた。
......別に良いよ。僕にも責任はある。
僕はウイスキーの小瓶を取り出して、食べ終わったほうれん草の缶に注いで、それからネズミに瓶を放って寄越した。 彼女も自分の小さな銅のマグに酒を注いで、一口飲む。
...アルルゥとは、長く一緒に旅してるのか?
ーああ。 もう10年以上の付き合いだ。 ...ファ族と、ミ族は、お互い長く殺し合ってきた仲でな。 ...私はそれに嫌気が差して、里を後にした。 アルルゥは、親の顔を見たことがない。
......戦争か。
ーそうだ。 ...どうしようもない話だ。亜人は人間から差別されるが、その亜人同士でさえ、争いが絶えないんだからな。
...僕も、親を戦争で亡くしたよ。 ...司令官殿の国に降伏して、それで、終わった。
ー......そうか。
......だから、あいつのことは、憎い。 ...あいつ個人は悪いやつじゃないかもしれないけど、それでも........僕は許せそうにない。許しちゃいけないって思う。
僕はウイスキーを注いだ空き缶に目を落とす。琥珀色の湖面がほんのわずかに揺らいで、その中に僕は、山を登るときに見た白い女の人の後ろ姿を、一瞬だけ見た気がした。
ー...でも、お前は1人で逃げずに、ここにいる。
.....司令官殿のことは憎いし、報いを受けさせてやりたいと思ってる。でも、アルルゥは無関係だし、...2人とも、食べられちゃうほど悪い奴とも思ってない。それに...
ーそれに?
...帰り道が、わからないからな。
僕がそう言うと、フレイアはほんの少しだけ微笑んだような気がした。
ー......意外と、素直な奴だな。
...うるさい。
この晩は交代で眠って、起きている方が見張りに立つことに決める。 フレイアは紅茶をたくさん沸かして、長い夜に備える。 僕はふと、彼女からの質問に答えてなかったことに気付いて、言おうかどうか少し迷う。
...なあ。
ーなんだ?
.......僕たちが殺したバナ族の奴らにも、...家族とか、友達とか、いるんだよな。
ー...そうだな、いるかもしれないな。
...そうだよな。やっぱり......。
ー.......眠らせたのは、それが理由か。
.......結果として、みんなを危険な目に合わせた。
ー...そうだな。 正しいとも、間違ってるとも、私には言えない。できるだけ殺したくない気持ちは分かる。 悪いのは、彼らの故郷を踏み荒らしてる私たちだからな。 ...ただ、そうしなければ、私たちは生きられない。 ...大なり小なり、殺し合いは理不尽なものだ。
...僕にも、故郷に友達がいる。...家族みたいな、お節介焼きだ。
フィアは、僕が本当に誰かを殺めたと知ったら、どんな顔をするだろう。...僕はどんな顔で、彼女に向き合えば良いのだろう。 ...考えても、わからない問いだった。
ーお前の飼い主殿は、起こりうる寸前の戦争を、止めたがっているそうだな。
...そう聞いた。 ...理想論だ。その理想の下で、僕たちは誰かを殺してる。
ー......どう判断するかはお前に任せる。私は...生きていく金が貰えれば、それで良い。それにな...犬っころ。
...なんだ?
ー......いなくなった奴らは、もう、戻ってこないんだ。 ...理想論だと誰かが言おうが、殺したことをお前が悔いようが...な。
フレイアはそう言って、もう休め、私が最初に見張りに立つ、そう言った。僕は自分の寝袋にくるまって、洞窟の入り口近くの壁に立つフレイアの姿を見る。雪と石で作った壁の合間から、微かに月の光が差し込んでいる。
ー...友達は、大事にしろよ。
微睡む僕の耳に、フレイアが小さく、そんなことをささやいたような気がした。
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怪我をしたアルルゥを庇って、レイとフレイアがバナ族たちと戦ってる最中で、私は何か、頭に重くて熱いものが当たったような気がした。目の前が真っ暗になって、...気がついたときには、私とアルルゥはここにいた。傷んで軋む体をなんとか起こして、周囲を見渡す。そこは、所々が崩れかけている、古い石壁で覆われた部屋だった。私は隣で倒れていたアルルゥを見つけて、彼女の小さな体をそっと揺すぶって起こす。彼女の受けた矢傷は、私が巻いた清潔な布で血は止められていたけど、それでも赤くねっとりと染まっていた。
アルルゥは何度か目を瞬いて、それから痛みが戻ってきたのかもしれない、顔を顰めて傷口を抑える。
...ここは、どこなのかしら。
ー...多分なのですけど、バナ族の砦なのです。...アルルゥも、入ったことはありませんけど、山の天辺付近にあるのです。
...端的に言うと、捕まった私たちは、これからどうなるのかしら。
ー...端的に言うと、食べられるのです。 バナ族は、山に入った人を生捕りにして、それから清めて、神に祈りを捧げるのです。...敬虔な一族なのです。アルルゥたちは、多分滅多にないご馳走なのです。
私は周囲を見渡して逃げ道を探ってみるけど、硬く閉ざされた重い鉄の扉以外に、外に出れそうな道は何一つとして無い。ただ、小さな2本の蝋燭の光だけが、周囲を照らしていた。私は軽く絶望して、ふらつく足取りで壁際にもたれかかり、背中を預けて座り込む。
...ごめんなさい、貴方まで巻き込んで。...基本的に打つ手は無い。
ー謝る必要はないのです。...アルルゥたちも、よくないことを知りながら、危ないことをやってお金を稼いでいたのです。...それにアルルゥは、まだ諦めてはいないのです。
この状況でも?
ーフレイアと、レイが生き延びていれば、助けに来てくれるかもしれないのです。
...レイは、来るかどうか分かんないわ。 ...私を、帝国を、憎んでる。
ーでも、きっと来るのです。アルルゥは握手したから分かるのです、レイは、本当は優しくて、繊細なのです。
...それは、私もそう思うわ。 握手で分かるの?
ー分かると言うか、アルルゥの勘なのです。
...よく当たりそうね。
明日自分たちが食べられる状況だというのに、アルルゥと話していると、どうしてだか、私もなんとかなるような気がしてくる。...彼女がそれを悟った上であえてそう振る舞っているのか、それとも素でこうなのかは、よくわからない。
彼女がふと思い出したかのように、私に尋ねる。
ーサーシャは、どうしてここまで1人で来たのです? レイはいますけど、家族は心配してるんじゃないかと、アルルゥは思うのです。
...家族は......
ーちなみに、アルルゥには父も母もいないのです。フレイアだけが家族なのです。
......私には、1人だけ兄がいるわ。...シュラーフが滅んでから、一緒にマクラウド家に行った兄が。... 兄はとても優秀で、きっと、私のことも...心配してくれている。
ーお兄様がいるのですか。 じゃあ、なおのこと、サーシャは生きて山を降りなければいけないのです。...ひとりぼっちで残されるのは、誰にとっても、辛いことなのです。
私は兄のことを考える。...歳は少し離れてはいたけど、兄は優しく、非の付け所がないくらいに優秀で、シュラーフの生まれでありながら、帝国の軍部参謀にまで就任した。...その兄が今、私から遠く離れたところで、ベドウィンに攻め入り、そして次は...オルタマイアとの開戦を望んでいる。
...兄は優しいわ。私を常に背中に庇いながら、前に立っていてくれた。...でも、今、あの人の考えていることは、私にはわからないの。...私が止めようとしている戦争を、強く望んで推進しようとしているのは、私の兄よ。
ー...人の考えていることは、家族にもなかなか分からないものなのです。 でも、サーシャは生き残らなければいけないのです。やるべきことのためにも、家族のためにも。今考えるべきことは、それだけなのです。
...ありがとう。
ーどういたしましてなのです。
何時間が経ったのかよくわからなかったけれど、私はうとうとして、多分ちょっと眠りについていたと思う。鉄の扉が軋んだ音を立てて開いて、ようやく私はハッとして、横でグーグー気持ちよさそうに寝ていたアルルゥを背中に庇いながら立ち上がって、部屋の中に入ってきた何人かのバナ族を睨んだ。
彼らは何かよくわからない言語をお互いに喋りながら、まず私の腕をとって、次に寝ていたアルルゥを乱暴に起こして、部屋の外に連れ出す。廊下も、部屋と同じ石造りだったけど、所々柱が崩れたり、道が完全に落石で塞がったりしている。昔は立派なものだったのだろうが、今ではその優美さのかけらを微かに漂わせるだけになった神殿の中を、私とアルルゥと、数人のバナ族が歩いていく。
何度か道を曲がり、階段をいくつか登った先にある扉の前で、彼らは立ち止まる。その扉は、さっきみたいな錆かけた鉄製じゃなくて、マーブル模様の美しい大理石で出来ていた。大きさも、私の背の高さの3倍くらいはあるし、綺麗に磨き上げられている。
ー...多分、バナ族たちの祭祀場なのです。
アルルゥが小さな声で私に囁くと同時に、2人がかりでその扉は開けられた。
円形の広間を取り囲むように、幾つもの蝋燭が煌めいている。天井には、少し曇った白い石で出来たシャンデリアのような照明があり、そこにも蝋燭が立てかけられ、白い石を通して不思議な揺らめきを部屋の中に作り出していた。 シャンデリアのすぐ下に、それと同じ素材で作られたらしい、白い四角い祭壇のようなものが置かれていた。バナ族の1人に背中を小突かれて、私とアルルゥはその近くに歩いてゆく。
私たちが祭壇のすぐそばまで歩いていくと、私たちを取り囲んでいたバナ族が足を止め、彼らは何かに恭順の意を捧げるようにその場に跪く。後ろから小さな足音を聞いて、私はようやく後ろから距離を置いて、誰かがついてきていたことを理解した。その足音はやがて近づいて、私たちの前に回り込む。とても、背が高い人だった。多分、バナ族だと思うけれど、小太りでずんぐりした体型の他のバナ族とは随分違う。彼...彼女?...は、男とも、女とも見分けがつかなかった。 とても長くて黒い、足まで覆い隠すような緑のローブを羽織っていて、そのフードの奥に見える顔は、バナ族みんながつけているような黒いマスクと、それから目元も、濃い緑色の、丸い剥き出しの眼鏡のレンズのようなもので隠されている。その人はしばらく黙って私たちを眺めて、それから口を開いた。私たちのも理解できる形の言葉だけど、全く音が異なる。弦楽器の一番低い音の線を、そっと撫でるような、寂しくて、悲しい調べを含んだ音。でも、女性の声みたいだった。
ー...ナゼ、我々ノ山ヲ越エヨウトスル。
私は、震える声をできるだけ抑えて、彼女の質問に答える。
...貴方達の山を踏み荒らして、越えようとしたことは謝ります。...貴方たちの同胞を殺害したことも。...その上で、私は起こりうる戦争を止めたい。そのために、オルタマイアに向かわなくてはなりませんでした。
ーオルタマイアト、帝国ノ争イか。
...そうです。
ー我々バナノ民ニハ、関係ノナイコトダ。関係ノナイコトノタメニ、戦士タチハ死ニ、聖ナル山ハ踏ミ荒サレタ。
...帝国とオルタマイアが戦争を始めれば、ここもそのうち無事ではいられなくなります。
ー交渉カ。
...そうです。私たちを生かして山を降させてくれれば、必ず戦争は止めてみせます。...戦争が起こらなくなった世界で、貴方達に償います。
ー償イトハ、金カ。
十分なお金と、食料...そして、祈りです。
ー...祈リ。 ...我々バナノ民ノ魂ニ、人間ガ祈ルノカ。...面白ク、興味深ク、子供ノヨウナ、幼イ理想ニ満チタ提案ダ。ソノ祈リ、バナ最強ノ戦士ヲ前ニ届クカドウカ、オマエタチノ身ト心ヲモッテ確カメルガヨイ。
私たちの一番後ろで身を屈めて、彼女に敬意を評していたバナ族が1人、そっと立ち上がって私たちと彼女の間に進み出る。その両手には、鈍く輝く1対の短い斧が握られていた。
ー...アルルゥたちは、基本的に非戦闘員なのです...。
......ただ祈るだけじゃ、潜り抜けられないってことね。
私は1人のバナ族が差し出した細身の剣を握って、その中で最強の戦士という男と対峙する。
************************
翌朝...というより、日が昇るより早い暗闇の中で、僕とフレイアは荷物を纏めて、洞窟を後にする。
...ちなみに聞くけど、2人がいるとこ、知ってるんだろうな?
ー知らない。
はぁ...やっぱりダメかもしれない、このネズミ。 彼女の頭の中ではもしかしたら、ジャングルみたいな猛々しい植物の中に、黄色いパンジーの花畑でも生い茂ってるのかもしれない。
ー...何か言ったか?
言ってないけど、じゃあ、どうするんだよ。
ー捕まりに行くんだよ。 私も、お前もな。
......なるほど。僕たちが丸腰になるってところを度外視すれば、いい案だ。
ーだから、魔導師様がいるんだろうが。昨日散々グースカ寝て、さぞかし頭も冴えてるだろ。...結局、私が1人で見張ってたわけだ。
......疲れてたんだ。悪かったよ。
ー素直でよろしい。
まあ案の定というか、賢くて賢くて涙が出そうになるネズミ殿の名案のおかげで、僕たちは割とすぐにバナ族の集団に囲まれた。彼女はサーベルと弓を雪の上に置いて、降伏の意思を示す。僕たちは無数の矢と、それから手斧のような武器を持った無数のバナ族に取り囲まれ、腕を後ろ手に荒い縄で縛られて、ついでに僕は猿轡までかまされる。
(...ネズミ、話が違うぞ。口動かせなかったら、魔法も使えないだろ。)
心の中でそう思ったけど、フレイアの方はどこ吹く風で、淡々とバナ族からの拘束を受け入れ、荷物まで明け渡して彼らに従った。
雪の上を、たまにバナ族に小突かれて転びそうになりながら、僕とフレイアは歩かされる。というより、僕は何回か転んでその度に雪に頭を埋める羽目になった。ネズミの方は器用にバランスをとって歩いていくけど、こっちは両手を後ろで縛られてたら、歩きにくくてしょうがない。おまけに、周囲はまだ暗かった。僕はふと、フレイアはこの事態を想定してたから、僕を起こさずに眠らせておいてくれたのかもしれないと思った。まあ、千億歩くらい肯定的に見ると、そういう見方もできなくはない。多分、後で散々僕に嫌味を言うために起こさなかった方に一票を投じる。
それでもなんとか時間をかけて、朝日が登り始める頃になって、僕たちは山肌に聳え立つように立てられた、バナ族たちの神殿らしき石造りの建物の前にたどり着く。それほど大きな建物ではなかったけど、崖にへばりつくように立てられたその姿は圧巻で、僕は思わずそれに見惚れた。深い深い吹雪の谷の中で、その神殿の姿は、どこか寂しげなようにも思える。
かろうじて崩れてない門から、僕たちはその中に入れられて、しばらく寒々しい廊下を歩かされる。何度か長い階段を登らされて、僕たちは小さな扉の前にたどり着いた。
(おいおい...食材に祈りを捧げるとかなんとか聞いてるけど、まさかそんなの抜きで食われるってことはないよな?)
僕は内心かなり不安に覚えながらも、彼らがとりあえずはお腹が膨れていて、朝ごはん前のお祈りを捧げずに僕らを美味しく調理するってことは無いと言う方に、すがりつくようなか細い希望を抱かずにはいられなかった。幸いにして、予感はいい方向に転んでくれたみたいで、僕たちはすぐにハーブと一緒に焼き上げられってことは無かった。
扉の先は、丸い円形の広間を見下ろせる、ちょっとしたオペラの観覧席みたいになっている。僕たちも手すりの上から、その広間の中で起こっていることを見ることを許された。
僕はそこで繰り広げられていた光景を見て、思わず口に咬まされていた猿轡を噛み締める。
広間には、何人かのバナ族と、それから背の高い黒いローブを着た奴、それに、アルルゥと、我らが司令官殿がいた。司令官殿は自ら手に細い剣を持って、手斧を持った図体のでかいバナ族と戦っているらしい、その服は破れて、所々から生々しい切り傷や血の跡がベットリとこびりついている。司令官殿はなんとか激しい攻撃を捌くのにいっぱいいっぱいで、バナ族に囲まれながらすっかり怯えているアルルゥの方に気を回す余裕は無いみたいだった。どう見ても、斧を手に司令官殿を襲っているバナ族とは、その経験に天と地ほどの差があるし、彼はどちらかと言うと、ゆっくりといたぶっているようにも見える。それを見て、僕はどうしてだか、自分でも堪えようの無い激しい怒りに襲われた。
(ネズミ...!! お前、さっさとなんとかしろよ!!)
僕は横目でフレイアを睨みつけるように見て、そしてそこに、彼女の姿が無いことに気づく。
僕のそばに佇んでいたのは、あの、山の途中で見た、白いローブを着た女の人だった。彼女は相変わらず僕に背を向けているけど、前よりはっきりと僕の視界に映って、その距離も近い。
ー...レイ。
(.......えっ.....?)
僕はその声を、確かに聞いたことがあるような気がする。声は...フィアのものだ。彼女はずっと僕に背を向けていて、振り向こうとしてくれない。
ー......恨むことを、忘れないで。 怒りに任せて、憎むことを、忘れないで。
心を、冷えたままにしておくの。 この山に降り積もる雪みたいに。....忘れないで。
(フィア......?)
ー忘れないで。.....これからあなたに何が起こっても、何を知っても、何を見ても、憎しみを忘れないで。帝国への復讐を果たすために、あなたはここにいるの。
(おい、フィア...待てよ......待って......)
彼女の後ろ姿は、揺らめく蝋燭の光に溶け込んで、ぼんやりと薄れていって.......
ー....おい。犬っころ。....何ボーッとしてる。
小声でフレイアに注意されて、僕はようやく我に帰る。フィアの声をした白い女はもうそこにはいなくて、フレイアがそこに立っていた。僕はあたりを見渡して、司令官殿がまだ戦い続けていることに気づく。バナ族たちが囃し立て、観覧席の上からも身を乗り出して、この悪趣味な見世物を見物している。
ー...やるぞ。 何か、うまい魔法を考えておけ。
(はっ?)
僕がそれについて問いただす間もなく(まあ喋れないんだけど)、フレイアはすっと身を低く屈めて、観覧席の上から身を乗り出して、斧をぶんぶん振り回して騒ぎ立てているバナ族の手首を、鋭く鮮やかに蹴り飛ばした。彼も僕も、そこで何が起こったかをうまく把握できなかった。彼女は斧が床に落ちる前に、片足を使ってうまく方向を整えて、後ろを向いて自分を戒めていた手首の縄目に落ちてくる斧を誘導した。
ー飛ぶぞ、犬っころ!!
彼女は僕に鋭く告げて、呆気にとられたバナ族も...まあ僕もだけど...が反応する前に、僕を抱えて舞台の上から飛び降りる。
(このネズミ...どんだけ無茶苦茶なんだよ!)
僕は心の中で毒づくけど、フレイアは落下しながらも僕の猿轡を解いてくれたので、僕はなんとか臭い布から解き放たれる。
ー魔法を唱えろ!
彼女にそう言われるより先に、僕たちが広間に降り立つより先に、僕は魔法の言葉を口遊む。フレイアに抱き抱えられて広場に降り立つ寸前に、僕の放った紫の稲妻は、バナ族の戦士の手を直撃して、今まさに司令官殿に向かって振り落とされようとしていた片方の斧を取り落とさせた。
ー...まあ、上出来な方だな。犬っころにしては。
...次は、その花畑な頭で、もうちょっとマシな方法を考えてくれ。
フレイアが斧で僕の手の縄を切ってくれて、ようやく僕も自由の身になる。
......とりあえず、まだ食べられてなくて何よりだよ。司令官殿。
ー..........レイ。...来てくれないかと、思ってた。
ーイチャイチャするのは後でやってくれ。前がつかえてるもんでな。
駆け寄って、フレイアの後ろに飛びつくように抱きついたアルルゥを含めて、僕たちはバナ族の戦士の方へと向き直った。
(第4話終わり)