※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
※未成年の飲酒・喫煙は、法律で固く禁じられています。
(第8話)
私は兵士たちからレイのちいさな体を受け取って、抱き抱える。 その冷たい体温とか細い呼吸は、彼女がとても...とても、危ない状態にあることを、私にすぐ教えてくれた。
レイ! ...レイ!!
その名を読んで、体を揺すっても、彼女は何も反応を返さなかった。 私はすぐにレイをベッドに寝かせて、アルルゥにほとんど叫ぶように呼びかける。
アルルゥ! 冷たい水と、それからタオルも! ...あと、洗面桶!!
ーは、はいなのです!!
レイは荒く小さな呼吸を何度か繰り返して、4回か5回おきに、体がびくっと大きく痙攣する。 そしてやがて、レイの体が小刻みに震え始めて、止まらなくなってくる。
レイ...しっかりして!!
私はアルルゥから水や洗面器を受け取って、レイの背中をゆすったり、水を飲ませたりしてみるが、彼女は飲ませるそばから吐き出すばかりで、体の震えも止まる気配を見せない。
そうしているうちに、私の背中の後ろから、空気を引き裂くような鋭い声と兵士の悲鳴が聞こえて、私は看病をアルルゥに任せて入り口の方に駆け寄った。
私の目に飛び込んできたのは、尻餅をついて震えながら上を見つめる兵士と、その首元に冷たいサーベルの刃を突きつける、フレイアの姿だった。 レイを連れてきた2人の兵士のうち1人は、床の上で綺麗に伸びている。
ー...あの子に、何をした。 答えろ。 ...無駄な言い訳は要らない、首が飛ぶぞ。
フレイア!! やめて!!
ーサーシャ。 ...黙ってろ。
体の芯まで凍りつくような彼女の殺気に、私は思わずその場に立ち竦んだ。
ーし、知らない...ダウンタウンの酒場で、昨日の夜からずっと飲んでたと聞いた.....
ー...もう一度だけ忠告してやる。 言い訳や嘘は要らない。 ...レイに何をしたか、答えろ。
兵士は震えながら、ほとんど叫ぶようにフレイアに言う。
ー違う、すまない、本当に私たちは何も知らないんだ!! ...昨日の夕方に、その魔導師の子供を保護して...ダウンタウンの市民に襲われそうになってたんだ...それから、地上で執政官殿とティア司令官殿にお会いした......それから、執政官殿の部屋に連れていくように命令されて....今晩には、もうその状態だった...知らないんだ...あの人の部屋で何があったかを、私たちは本当に知らないんだ.......
フレイアは少しだけ彼の言葉に耳を貸して、それから冷たく言い捨てた。
ーそうか。 ...なら、その執政官殿とやらに聞くとしよう。 今すぐ呼んでこい。
フレイア!!
私は恐怖に耐えて、彼女を静止する。
...執政官に手を出したら、貴方も...レイも、ただじゃ済まないわ。 ...何があったかは、レイが回復してから尋ねましょう。 お願いだから...その剣を退けて。
ー.....執政官を知ってるのか?
...ユーリィ・マクラウド。 ...私の兄よ。...今は、レイの看病の方が大事でしょう、お願いだから...フレイア......
私が慌ただしくレイの看病を続けるアルルゥを横目で見て、そしてようやくフレイアは、兵士の首筋から剣を退けた。
ー...行け。 ...あの子が回復して、何があったかを私たちが知った時に、お前らのことが出てきたら、その時は私がお前らを殺しに行ってやる。 ...執政官殿とやらにも、同じことを伝えておけ。 いいな。
兵士達が飛び去るように逃げていって、扉を閉めて鍵をかける。それでようやくフレイアは、私を連れてレイの方へ急いで向かった。彼女は慎重にレイの体調を調べて、私たちに教えてくれる。
ー...強い酒と、薬の匂いだ。 ...危険な状態だ。 サーシャ、医者を呼んできてくれ。明日の出発は遅らせる。 ...レイの治療を優先する。アルルゥ、レイの呼吸と心音を、注意して聴いていてくれ、少しでも弱まったら私に知らせろ。
......なんで......
ー...今は医者だ、サーシャ。
彼女の静かで、でも少し震えるような言葉を聞いて、私は部屋から飛び出して、夜の街を走って医者を探しに行った。
************************
...結局、レイが入院して、3日が経った。
私はその間、兄に何度も面会を申し入れたけど、それは受け入れられることなく、会う事すら出来ずに終わった。 ...本国からの指令で、兄は暫く執務から手が離せない。そんな理由だけが、私に伝えられた。私たち3人は、交代で病室のレイのそばに付き添って、不安な時間を過ごす。
4日目の夕方、アルルゥが私と交代でレイの病室に行って、私は宿の部屋でフレイアと2人、熱いお茶を淹れて飲みながら話す。
ー...執政官には、結局会えなかったか。
......ええ。 ...多分、意図して避けられてる気がする。
ー露骨だな。 ...何かあったと言ってるようなもんだ。
......兄さんは、優しい人よ。
ーそうだな。 あの子を酒と薬漬けにして、命の危機に晒すくらいにはな。
私は辛辣なフレイアの言葉を聞いて、黙って机の上に視線を落とした。
ー.......すまない。
....いいの。 ...兄さんの部屋で、何かがあった。 ...多分、それは確実な事。
ー......なあ、レイの友達に、聞くことはできないのか?
......ダウンタウンが封鎖されてて、行けないわ。 ...フィアがいれば、何か分かるかもしれないんだけど。 ...今は、レイが起きるのを待つしか......
私がそう言いかけた時、扉が跳ね除けられるように開いて、アルルゥのちいさな体が部屋の中に飛び込んできた。 でも、様子がおかしい。 ...彼女はブルブル小刻みに震えて、耳も少し萎れている。何かに、怯えているみたいに。
ーた、大変なのです...フレイア、サーシャ。 レイが起きたのです。 ...目を覚まして、すぐに...早くミ族の里に連れて行けって、そう言って聞かないのです...。
起きた!? ...よかった。 ...でも、アルルゥ、貴方...
ーアルルゥ。 落ち着け。 ...何に、怯えている?
ー......レイを見たら分かるのです......何かに、何かに憑かれたみたいに....早く来てくださいなのです、早く、早く......
私はそっとアルルゥの柔らかい頭を撫でて、フレイアと一緒に、レイが入院している病院へと走って向かった。
************************
...頭がぐらぐら揺れてるのか、それともこの部屋の方が揺れて歪んでいるのか、僕にはよくわからない。喉がとても乾く、生まれた時から何年も、何も飲んでいないみたいに、僕の喉は激しく痛むように乾いた。 でも僕は、寝かされていた白いベッドから起き上がって、震える足で、時々躓きながらも歩く。歩かないといけなかった。僕のすぐ目の前にいる、フィアの後ろ姿を見失わないためにも。
フィア...待って...今行くから......待ってくれ......
彼女は、雪の降る山で僕の前に姿を現した時と同じように、ずっと後ろを向いていた。...振り向いて欲しかった。僕の方を、見て欲しかった...。
ー...レイ。 ...こっちに来て。
行くから...今、行くから.....置いてかないで......僕の方を、振り向いてくれ......
ーそれはできないの。 ...ひどい顔だから。
彼女はそう呟いて、そっと、音を立てずに歩き始める。 僕は震える手を伸ばして、フィアの後ろ姿を離さないように、捕まえようと思った。けど、彼女はどうしても、触れることができない。 掌から零れ落ちる水みたいに。
フィア....お願いだから......
ー...貴方は悪くないの。レイ。 悪いのは.....
.....帝国の、奴らだ.....
ー......そうね。それでいいの。 ...早く来て。 私の向かう方へ。 ...塔を、探しなさい。そこに眠る「杖」を...手に入れて。レイ。
わかった、行く、行くから...フィア......ちょっとだけでいいから、待ってくれ......。
そして彼女は、扉をそっと開けて、僕の前から消えてしまった...。
フィアの代わりに僕の目の前にいたのは、呆然と僕の方を見つめる、小さなふかふかの白い体だった。黒い二対の目が大きく見開かれている。
...アルルゥ。
ーレイ......起きたのです? ...だ、大丈夫なのです?
...ありがとう、大丈夫。 大丈夫だから.....早く、僕を案内してくれ。ミ族の里に。
ーだ、ダメなのです! レイは死にかけてたのです!! まだ、じっと休んでなきゃいけないのです!!
僕は短い手をぶんぶん振って力説する彼女に、申し訳なく思った。 でも、僕には休んでいる時間は無かった。 ...そんなことは、許されないのだ。
...アルルゥ。 ミ族の里は、「夜森」を抜けたところにあるんだな?
ーそ、そうなのですけど...1人で抜けられるような場所じゃないのです! ...アルルゥが、サーシャとフレイアを呼んでくるのです、それまで待ってるのです、レイ...
僕は頷いて、彼女を安心させるために笑顔を作ってみる。 ...そのつもりだったけど、唇はちょっと引きつったくらいで、あまり上手に動かせなかった。 アルルゥは僕の様子を見て、待ってるのです、そう言い残して2人を呼びに行く。
......ごめん。 ......迷惑、かけたくないんだ。
僕はベッドの脇に寄せられていた、自分の荷物を調べる。 ...食糧はろくなものがなかったけど、ユーリィ執政官が約束してくれた通り、酒と...瓶に入った薬は、いっぱい入っていた。それに、決して少なくない額のお金も。
僕はそのウイスキーを口に含んで、ゆっくりと飲む。 ...手と足の震えが、少しだけおさまったような気もするけど、気のせいかもしれない。その代わり、僕の見る世界は、もう少し歪んで、やがて小刻みに震え始めた。
サーシャ達を待たずに、僕は病院を抜け出す。
幸い、天気は曇りだった。照りつくような太陽が出ていたら、今の僕の体力じゃ、すぐにへばっていたかもしれない。僕はほとんど這うように、南門の前まで歩いていって、そこで馬車を頼む。「夜森」の入り口まで、そう言ったところで御者が黙りこくったので、僕は荷物の中のお金を全部彼に渡して、無理やり無言の交渉に決着をつけた。 ...多分、彼が3年くらい働いても稼げないくらいの額なのだ。
ー...入り口の前までだ。 ...それ以上は、馬が嫌がって入ろうとしない。
ありがとう。 ...なるべく早く頼む。
馬車がゆっくりと出発して、僕は後ろ窓から離れていくベドウィン王都の風景を眺める。懐かしい、生まれ育った国。 ...でも、誰かが僕を指差している。指差して、蔑んでいる。1人だけじゃない、幾つもの声が、男の人も女の人も、老人も子供も、みんなが僕を指差して、蔑んでいるのだ、彼らは口々に僕の耳元で囁く、魔女め、売国奴め、人殺しめ、彼らはみんなして、僕のことをそう呼んで虐めてくる。
...やめてくれ。 悪いのは....
ー悪いのは?
ー悪いのは誰なの?
ー誰が、フィアを殺したの?
ーねずみさん?
ーいやいや、ダウンタウンの失業者かも。
ーほうほう。
悪いのは全部、帝国だろ!!!!!!
僕は彼らの声を振り払って、それから荷物の中を狂ったように漁って、お酒の瓶と、執政官がくれた薬を取り出す。指が絡まって、うまく開けられなくて何度か失敗したけど、それでも僕はやっとのことで薬と酒の蓋を開けて、そのまま薬の瓶に口をつける。ざーっと口の中に流し込む。粉っぽくて、すこし、甘ったるい気がする。それで、ますます喉が渇いてきて、僕はウイスキーを飲んだ。 燃えるようなアルコールが、僕の喉を焼いて、薬を流し込んでいく。少しむせてしまって、僕の頭はますます痛んで、歪んでいく。...でも、その歪みの苦痛の中で、僕はそっと自分を見つめ直せる、小さな、氷のように冷え切った空間を見つける。
そこで、ユーリィ執政官が、僕の耳元でそっと囁く。
ー...冷えた心で、冷静に、君がやるべきことだけを見続けるんだ。 .......わかったかい?
僕は彼の言葉に、頷いて肯定を返す。
ーいい子だ。 ...君のせいじゃない。 悪いのは、全部.....
...帝国の、奴らのせいだ。
彼の声はもう、聞こえなかった。 代わりに、僕の前には、またフィアの後ろ姿が立っている。...僕はもう、フィアに手を伸ばそうとはしなかった。
ー...レイ。 早く...。 早く、来て.......。
...うん。 わかってる。 ...ごめんね.....。
ーどうして、謝るの?
......サーシャに、ついていかなきゃよかったんだ。
ーどうして?
......僕は、サーシャと、フレイアと、アルルゥと一緒に旅して......楽しいと、思っていた。
ーそれは、いいことじゃないの?
僕は目から溢れ出す涙を左手で拭って、右手でお酒を何口か飲む。
君が、酷い目にあって、...辛いことをされて.....死んでしまって.....そんな時に、僕は、.....自分だけが、楽しいと..........そう思ってたんだ。
ー......レイ。 貴方のせいじゃないの。
分かってる.....それは、分かってる..........
ー....早く。 早く、来て。 レイ。 早く、帝国を皆殺しにして、私を、助けて...今でも、苦しいの。 今でも、私の体は食べられ続けてるの。 暗い下水の中を蠢く鼠が、私の体と、顔を、吸い続けているの。
フィア...ごめんね...フィア........
ー.................早く...............。
ー....お客さん。着きましたよ....。
御者に声をかけられて、僕は彼の方を見返す。 彼は何か、不気味なおぞましいものでも見てしまったかのように、僕からすぐに目を逸らす。
...ありがとう。 助かったよ。
ー......お、お客さん........
...君も、飲む?
僕は、さっきから飲んでたウイスキーを彼に勧める。 ...でも、自分で差し出してから気づいたけど、その瓶はもうほとんど空だった。おかしいな。 病院を出た時には、瓶の中にいっぱい入ってたはずなのに。 まあ、あと4本ほどあるから、別にいいか。
ーや、やめときます......飲酒運転になるもんで.......
そう。 ...真面目だね。 御者さんは。
僕は最後にもう一度、彼にお礼を言って、「夜森」の入り口に立った。
それは、深くて黒い森だった。 背の高くて、濃い色の木々が鬱蒼と茂って、その中がどうなってるのか、外からじゃ全然わからない。...ベドウィンに住む人は、子供の頃からずっと教えられて過ごすのだ。夜の森に、入ってはいけないと。でも、それがただの怖い御伽噺や迷信じゃないってことも、みんな知っていた。 ...現に、この森に入って、一晩たって帰ってこなかった人は、後を立たないのだ。僕はそっと首輪に手を触れて、そういえば、司令官殿にまだ魔法を使う許可を得ていなかったことを思い出して、少し心細くなる。
でも、僕は足を止めるわけにはいかなかった。
ー...早く。 早く、来て。 レイ。 ....早く、帝国を皆殺しにして、私を、助けて...
フィアは今でもずっと、僕のすぐそばで、小さく囁いている。
......うん.......
僕は小さく彼女の声に頷いて、森の中へと足を踏み入れる。
************************
私たちが病院に着いた時、もうそこに、レイはいなかった。
がらんとした病室を見渡して、アルルゥが小さく、呻くように泣きながら、その場に崩れ落ちる。
ー....あの、アホ.......!!
ーアルルゥの...アルルゥのせいなのです......アルルゥが、レイをもっとしっかり止めておけば......
私はしゃくりあげる彼女の震える背中に手を置いて、励ましながら答える。
...アルルゥ。 貴方のせいじゃない。 ....教えて、レイは.....どんな様子だったの?
ーレイは...レイは.....最初のうちは、アルルゥに気付いてなかったのです....熱にうなされたみたいに、誰かと喋ってたのです.....。
誰か?
ー... レイは、「フィア」って呼んでたのです......。 でも、アルルゥには、レイが話してる人の姿なんて、どこにも見えなかったのです....。
ー......アルルゥ。 ....あのアホは、ミ族の里に向かってるんだな?
ー....多分、そうなのです...アルルゥに気付いてから、レイは、そこに案内するように、アルルゥに言ったのです....でも.....でも.......
私はさらに大きく震え出すアルルゥを、ほとんど抱きかかえるように両手で抱えながら、彼女をなんとか不安から救おうとする。
アルルゥ.....大丈夫.....大丈夫だから......
ーれ、レイは.....アルルゥに、笑いかけようとしたのです.......でも、その顔が、とっても辛そうで.....消えてしまいそうなくらいに、透き通って見えたのです......アルルゥは怖いのです、レイが、どこかにいってしまって.....もう、帰ってこないことが.......
....アルルゥ。 大丈夫。 レイは、いなくなったりしないわ。
ー....あのアホ。 連れ戻したら、十発くらいは殴ってやる。 ...私たちも追うぞ。 すぐに夜森の方へ向かう。 ...入り口までに、レイに追いつけたら、連れ戻して殴る。 ...追いつけなかったら.......私だけでも、森の中まで入って、アホを殴るまで探す。
フレイア。 ...1人で行こうとしないで。 夜森の中まで入る時には、私たちも一緒。
ー......夜が訪れても、私は行くぞ。
私もよ。 ...殴らないけど、レイをきつーく怒らないと、気が済まない。
ーアルルゥもいくのです。 ...レイが、いなくなるのは、いやなのです......
フレイアは私たちの言葉に肩を竦めて、それから小さく、悪いな、そう言った。
...行きましょう。 それにどうせ、最初から、そうするつもりだったのよ。
私たちは一旦宿に戻って、すぐに準備を整える。 その間に、フレイアが私に尋ねる。
ー...サーシャ。
どうしたの、フレイア。
ー......フィアというのは、あいつの友達のことか。
...そうよ。 ......フィアが訪ねてきて、それで、私はレイを自分の護衛にした。
ー......そうか。
その短い会話だけで、お互い、考えていることは分かった。
...多分、フィアは.........
...行きましょう。 レイが心配だわ。 あの子、魔法も使えないのに...
ーだから、アホなんだ。 ...何かに、追い詰められている。 ...それを、自分1人だけで、抱え込もうとする。 ......一番、危険なことだ。
私たちは宿を後にして、南門のすぐ近くで、馬車を捕まえ、お金を払って「夜森」の入り口に向かう。 私も、フレイアも、アルルゥも、馬車の中では何も話さなかった。 ...オラリアから馬車で港に向かう途中のことを、私は思い出す。...私とフレイアで、レイの読んでた本を借りて、その中身のことを話して、ちょっと揶揄ったっけ。 アルルゥは、それを聞いて純粋に笑ってた。 ...ちょっと前のはずなのに、もう随分前のことみたいだ。
森に向かう途中で、私たちは一台の別の馬車とすれ違う。 御者同士で挨拶をしてる間に、私たちはその会話に耳をそばだてる。
ー...おい、お前も「夜森」の入り口かよ。 ...偶然なこったな。
ーお前もか?
ーああ。...森の中までは入ってないのによ、生きた心地がしなかったぜ。 ...いや、森のことじゃないんだ。 乗ってきた客のことでな。
ー客?
ーああ、まだ子供だったんだがな、そいつがもう...なんというか、やばい奴だったんだ。 ...ずーっと酒を飲んでてな、ついでに変な薬みたいなのもバカバカ飲んで...それで、前の方を見ながら、俺じゃない誰かに...ずっと話してるんだ。 泣きながらな。 ...そのくせ、酔っ払った感じが全く死ないんだ。 正常なんだよ。 正常に、見えない何かと話し続けて...それで、泣いているんだ。 ...あんな恐ろしい光景、もう金を積まれてもごめん被るな。
私はアルルゥとフレイアの方を見る。
...レイのことね。多分。
ー...多分じゃなくて、絶対にそうなのです...アルルゥが見たレイの様子と、よく似てるのです...。
ー......とりあえず、ひとつ言えることがある。
...そうね。 レイと合流したら....
ーあいつが、泣くまで怒る。
ーそれに、レイはもう禁酒なのです...。
アルルゥがそう言って、やっと私たちは、少しだけ笑うことができた。
結局、ほとんど日が沈む頃になって、私たちは夜森の入り口に到着する。
ー...御者の話からして、レイはもう森の中に入ってるな。
......仕方ないわね。 これ以上待ったら、レイとますます離れるかもしれない。
ー行くしかないのです...。 夜の森の中に。
ー...本気で手のかかるアホだ。 ...そもそも、夜じゃなくても、酒と薬に浸って抜けられるような森じゃない。 ...ほっといたら、魔法も使えないアイツは、確実に死ぬぞ。
私たちは、フレイアのその言葉で、決意を固めて森の中へと進んだ。
森の中は、意外と空気が澄んでいて、爽やかなものだった。 森の木々が高くて、葉も生い茂ってるせいであまり光は届かなかったけど、少なくとも今のところは、それほど邪悪な感じはしない。 雪山の中を凍えながら進んでいるより、ずっといいと思った。けど、私の前を歩くフレイアとアルルゥが、緊張し切っていることからも、この森が異常な場所であることは明らかだった。
進んでいくうちに、私はある異常に気づく。
生き物の姿が、全く見えないのだ。
小動物も、オオカミも、虫も鳥も...生きているものは何もいなくて、沈黙に包まれているのだ。私たちが歩く音さえも、足元の深く生い茂った草に埋もれて、ほとんど聞こえなくなる。 気付いてしまうと、私は不安でしょうがなくなる。
...アルルゥ、何か歌ってくれない?
ー...ダメなのです、サーシャ。 ...思い浮かばないし、歌う気分でもないのです...。それに、アルルゥは、レイの足音に耳をすましているのです。 ...どこかで聞こえたら、すぐに行ってあげるつもりなのです。
...ごめんね。 優しいのね、アルルゥ。
ーできるだけ、早く進むぞ。 ...夜になると、火を焚かなきゃいけなくなる。 火はいろんなものを呼び寄せる。 ...好ましくないものもな。
でも、1時間半ほど歩いたところで、あたりはほとんど暗闇に包まれて、これ以上明かりなしで進むことは難しくなる。
...フレイア。 仕方ないわ、火を焚いて、松明を作りましょう。
私はそう提案して、フレイアも同意して頷く。 夜営を張るという考えも、もちろんないではなかったし、その方がおそらくここにいる全員にとって安全なのだ。...レイが、今でも1人でこのくらい森の中を彷徨っているかもしれないという一点を除けば。
ーサーシャ。 松明はお前が持ってくれ。 できるだけ3人で固まって、離れないようにするぞ。アルルゥ、すまないが、もう少し頑張ってくれ。 集中して、レイの微かな音を捉えるんだ。
ーまかせるのです。
フレイアが手頃な太さの木の枝を折って、私は松脂に浸した布を荷物の中から取り出して、マッチを擦って火をつける。 火は明るく燃えて、私たちの周囲を照らす。でもそれは、私たちの周囲の夜の闇を、より一層強く引き立ててもいるようだった。お腹も空いていたし、ほとんどここまで休んでなかったのでヘトヘトだったけど、それでも私たちはレイを見つけるために歩き続ける。
そこから、少し進んだところでのことだった。
ー...2人とも、止まるのです!!
アルルゥが鋭くそう言って、私たちは立ち止まる。 足元の草木が擦れる微かな音さえも消えてなくなって、アルルゥは静寂の中で耳を澄ませる。
ー......少し離れてるのですけど、足音がするのです。 ...不規則で、よろめくような音なのです。 アルルゥが先頭で案内するのです!!
彼女はそう言って先頭に立ち、これまでより少し早足で、彼女だけが捉えた微かな足音の方へと向かう。 ...多分、アルルゥは、責任を感じているのだと思う。 私はそれが申し訳なくて、なんの役にも立てない自分を、少しだけ呪った。
ー...お前も、気にしすぎるなよ。
そんな私の肩を、フレイアがそっと叩いてくれる。
...ありがとう。
私が彼女の励ましに、そう返した時のことだった。
私の耳に、囁くような微かな歌が、聞こえてきたのは。
...アルルゥ? ...歌ってる?
反射的にそう聞くが、それが彼女のものでないことは、聞いた私がよく分かっていた。
歌は、最初は囁くように静かで、それから、だんだんと旋律が分かるようになっていく。
ー...なんだ? これは....?
ーわからないのです、アルルゥの耳にも、よく聞こえるのです......
歌は、私たちの知らない言葉で唱えられている。...多分、とても古い言葉だ。 昔、歴史の授業で、ほんの少しだけその断片を習った...気がする。
女性のものなのか、男性のものなのか、それさえもわからない。 ...だけど、その歌に込められた気持ちだけは、私にもよく分かるのだ。
...それは、哀しみと、恨みの歌だった。
寝ても、覚めても、...死んで尚、決して消えることのない恨みのような...心の底から、冷えていくような、そんな旋律。
そして、私の目の前に、「彼」は急に現れた。
私はその姿を見て、何も声を出すことができなかった。
「彼」は、頭から上が無かった。
多分、男の人だと思うような、がっしりとしていたであろう体つき。 その身体に肉体は無くて、ただの白い骨と、それを覆うような古びた鎧だけを身につけている。その身体に纏わり付くように、青白く光る、氷のような冷たい滴がいくつも、幾つも、宙を漂って舞っているのだ。濃い密度の光る霧を、凝縮して集めたかのような...。
ーサーシャ!! 離れろ!!!
フレイアの鋭い声が響き渡るまで、私はずっと、その姿から目が離せなかった。 ようやく我に帰った私は、慌ててほとんど転ぶように尻餅をついて後ろに倒れる。その私の頭の上を、フレイアの放った矢が飛んでいって、目の前の「彼」の身体を正確に射ち拔いた。それは彼の鎧のすぐ下をかすめて、その骨の一部を正確に砕き取る。だけど、彼はただそこに立ったままで、倒れることも、わずかな動きさえも、することはなかった。フレイアが次の矢を番えるよりも早く、彼の身体にまとわりついていた霧のようなものが、蠢くように振動して、彼女の手をそっと包み込む。 ...まるで、握手するみたいに。フレイアが、小さく叫んで弓を取り落とす。
ーフレイア!! だ、ダメなのです、囲まれるのです...!!!
アルルゥの怯えた悲鳴を聞いて、私は息を飲む。 「彼」と同じ姿をした存在が、たくさん...たくさん、あたりの木々の影に見える。 私はフレイアの右手を握りしめる。その手には、小さな霜にびっしりと覆われていた。
ーサーシャ...! 火を掲げて、アルルゥを連れて駆け抜けろ!!
で、でも...!!!
ー私は自分でなんとかする!! レイを、早く連れ戻せ! ...こいつらには、多分、あいつの魔法の力しか通じない!
彼女は無事な方の手でサーベルを抜いて、私とアルルゥにもう一度鋭く言った、
ー早く!!
私は意を決して、駆け出して「彼」の横を通り抜けて、アルルゥの手を引いて走り出す。 いくつかの冷たい手が、私たちに伸ばされようとする、私はそれを、松明を振り回すことで払い除ける。 手の動きが少し鈍ったような気がしたけど、それでも彼らは止まることはなかった。
ーアルルゥ!! 早く、レイのところへ!!!
ーは、はいなのです!!
私たちは、フレイアの身に何が起こるのか、それを...考えたくなかった。
************************
歩き始めて、もう何日が、何時間が経ったのか...それとも、まだ1時間も経ってないのか、それすらも、僕にはわからなかった。...分からなかったし、それを知ったところで、僕にはもう、どうでもいいことだった...。僕は前の方を歩く、フィアの後ろ姿に追いつこうとして、なるべく早く足を動かそうとする。でも、どれだけ急いでも、転びそうになるくらいに走っても、彼女は僕より前を歩き続ける。
待って...フィア...早いよ.......
僕は声を振り絞って、彼女に少し待ってくれるように頼む。それが彼女に届いているのか、届いていないのか...もしかすると、聞こえているけど、フィアは僕を赦してくれないだけかもしれない。そう考えると、それはとても自然なことのように思えた。自分でも聞こえるくらいに僕の息は荒くなって、そして掠れている。声を少し立てるだけでも、喉が罅割れて、引き裂かれるように痛む。あまりにも痛みが酷かったので、僕は背中に下げたリュックの中からもうひと瓶お酒を取り出して、瓶の口にカサカサに乾いた唇をつけて、流し込む。
うっ...ゴホッ...
...飲んでも飲んでも、喉の渇きが全く癒えることがない。ただ、世界が醜く歪んで、溶けていって...その渦の中に、僕とフィアだけが取り残されていくのだ。
それからしばらくして、僕はとうとう一歩も動けなくなって、太い木の根本に背中を預けて、フィアの背中に向かって赦しを乞う。
ごめん...フィア.....少しだけ、休ませて.......
ー......私の魂を、救ってくれないの? ...レイ。
そう返す彼女の声は、少し震えて、とても...悲しそうだった。僕の胸が張り裂けそうになるくらいに...。
ごめん.....ごめん.....
ー...どうしたの? レイ? どうして、謝るの?
ぇ、....だって.....
ーあなたは、なにも悪くないのに。悪いのは、貴方から全てを奪った帝国と、貴方のことを分かってくれない、すべての人なのに。
....そう.....だよね............ ..........きっと、そうなんだよね........
ーそうに違いないわ。 だから、少し休んだら、貴方はまた歩き続けてくれる。
うん.......
ーだって、みんな同意してくれてるもの。
そこで僕はようやく、その場で話しているのが、僕とフィアだけじゃないことに気づいた。
たくさんの人たちが、僕を囲んでいる。 僕がもたれかかった太い木の近くは、柔らかくて短い草が生い茂る、ちょっとした空き地だった。...太陽も、月も、光という光は木々の葉や枝に遮られて、全く差し込まない場所だ。なのに僕は、僕を取り囲む人たちの、少し透き通った姿を、はっきりと理解することができた。人間も、亜人もいる。大人も子供も、男の人も女の人も。みんな、少し古びた、なんだか昔っぽいデザインの質素な服に身を包んで、誰も口を開かずに、僕をじっと見つめている。
...どうして、暗闇の中でそれが分かるのか、僕は不思議に思った。僕も彼らをじっと見つめ返して、やっと理解できる。彼らは、体の周りに、きらきら光る濃い霧のようなものを纏っているのだ。それは、霧のようにも、氷の粒のようにも見えた。それが、青白い、とても静かで悲しい光を、うっすらと放っているのだ。
彼らの中心に立っていた1人の男が、口を開く。...ファ族の男だった。少し年老いてるみたいだったけど、その毛並みは綺麗に整っていた。僕は彼の姿と、少し低くて、憂いの色を帯びた声を聞いて、ふとフレイアのことを思い出した。
ー......ここに、なぜ、いるのか。
彼の話す言葉を、僕は知らない。僕たちが話してる言葉とは違う。...もっと、古代魔法史の授業でたまに教わるような、古い言葉だった。でも、僕にはどうしてだか、彼の言っていることがはっきりと分かる。それは、僕の耳や頭にでは無く、心にすっと染み渡るような、そんな感覚を僕の中に残した。
......友達を......助けなきゃいけない。
ー友達。
そうだ.....。
ーどんな、子かね?
......僕みたいなクズにでも、いつでも優しくて...側でそっと寄り添ってくれるような、綺麗で、優しい子だ。 ......でも、彼女は殺された。
ー誰、に?
.........殺したのは........僕の故郷の、街の奴らだ。 .....でも、彼らのせいじゃない。 本当に悪いのは.......悪いのは...........
悪いのは....................
ー......わたしたちは、君のことを知らない。 君も、わたしたちのことを知らない。 わたしたちは、もう、ずいぶんと昔に、この世界からいなくなったのだから。
........死んだってこと?
ーそうだ。 もう、ずっと遠い、遠い時代の話だ。 ...孤独を抱える、かわいそうな子。 わたしたちと話そう。
そう言って、彼はそっと、僕に手を差し伸べてくれる。 僕も震える手で、彼の手を握り返す。それはとても冷たくて、...体温が無かった。 それだけじゃない。 彼に握られた僕の手も、だんだん、だんだん冷えていく。 冷たさは、はじめは僕の手に、それから、身体をそっと上ってきて、肩のほうにまで及んでくる。
ー冷たくないのかい?
彼は僕を気遣うように、聞いてくれる。僕はただ、否定するように首を振った。 ...冷たかったけど、それはなんだか...とても心地良いもののように思えた。さっきまで歪んでいた頭の中も、くっきりと冷え渡って冴えていく。
ー...かつて、ここにはひとつの国があった。
.....国?
ー今はどこにもない。 ...ただ、暗い森に覆われているだけだ。 本当に、遠い遠い昔の話なのだから。 ...わたしたちはその国に、住んでいた。 ...国は、優しく、聡い、ひとりの王によって治められていた。
王様.....?
冷気はもう、僕の体全身を包み込んでいる。 ...寒くて、少し辛かったけど、僕はふと自分が安らかな気分になっていることに気づく。 ...たぶん、こうしていると...少しでも、フィアに、近づけるような気がしたからだ。...冷たい暗闇の中を、彷徨い続けているあの子の魂のきもちが、ほんの少しでも、分かるようになる。 そんな気がした。
ー民に寄り添う、それでいて、賢明な王だった。 戦火を悼み、無闇な領土の拡大を良しとしない...名君だった。 だが、彼が力を持たなかったわけでは、決して無い。 彼には、強大な魔法と、それをもってのみ扱える、「杖」があった。
.....なのに、どうして、国は滅んだの?
ー........ある時、彼の大切な人が、いなくなった。それが、すべての終わりの始まりだった。 それは彼の愛する妻であり、子だった。 彼らは殺されたのだ。 ......なぜ、王に似て誰にも優しかった彼らが、殺されなければならなかったのか...。
.....どうしてなの?
ー殺したのは、他国の民だった。 羊の角をもつ民だ。 ...戦火の中で故郷を失い、難民として王国に逃れてきた彼らを、王は受け入れた。受け入れて、仕事と家を与えた。...だが、彼らは、王国に真に馴染むことはできなかった。彼らの故郷は喪わていたし、自分たちとは姿形の違う王国の人々との、軋轢もあった。 ...そして、彼らは、王の愛する、妻と子を殺した。ちょっとしたかけ違いと、小さな間違いだった。 ...彼らはただ、要求したかったのだ。
....何、を?
ー.......姿かたちの違う自分たちを、差別するものたちを、止めてくれと。
...........
ー彼らはただ、王の妻と子を、人質にとっただけのはずだった。そこでどんな会話と、諍いが生まれたのか、わたしたちは知らない。だが結果として、王の大切なものたちは殺された。王は、激しく怒り、恨み...憎んだ。大切なものたちを奪ったものたちだけを、ではない。 ...彼は、それを産み出した、戦火を憎んだ。差別を憎み...自身の国の民すらも、等しく憎んだ。 ...そして彼は、「杖」を使った。
「杖」.........
ー......そのようにして、国は滅んだのだ。 .....次は、君の話を聞かせてくれ。 なぜここにいるのか。 ......なぜ、君が「杖」を、求めようとするのか。
僕......僕は................
僕は、彼と、その周りの青白い人たちに向かって話し続ける。
泣きながら、彼らに話し続ける僕の身体を、濃くて冷たい霧がゆっくりと覆って....
やがて、冷たさだけが、僕の体に残った。
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私は、足元の深い草や木の根に足を取られながらも、必死にアルルゥを追い続ける。それほどに彼女は必死だったし、焦りの色がはっきりと見て取れた。...私やレイが彼女について行けるのは、それはあくまで、彼女が私たちに合わせてくれているからなのだ。本気で森をかける彼女は、とても速かった。
アルルゥ! ...レイに追いつくまで、あとどのくらい?
私は離れないように大声で彼女に呼びかけると、彼女も切羽詰まった声で走りながら返してくる。
ーもう少しなのです!! ...もう少し、あとちょっとなのです.....!!
私は、取り残されたフレイアの無事を願う。 ...私たちを取り囲んだ「彼ら」は、人間とも、亜人とも違う。 ...それはただ、肉体が滅びようとも、心だけで動き続ける一つの意思の結晶だった。 彼らが何を思って、私たちの前に立って...そしてこれから何をするつもりなのか、私には分からなかった。
ー...サーシャ、こっちなのです!! レイ! レーーイっ!!!
アルルゥの呼びかけで私は思い巡らすのを中断して、彼女が立ち止まった方へと向かう。
...立ち止まる?
アルルゥは、木立の影に立ち竦んで、木々の間に囲まれた小さな広場のような空間を見つめていた。私もようやく追いついて、アルルゥの後ろからその場所を見る。
...深い木々の根に囲まれるように、小さな体の少女が眠るように崩れ落ちている。
それは、木にもたれて休んでいるだけのようには、とてもじゃないけど見えなかった。
...レ....イ....?
私は震えて、崩れ落ちそうになる足を叱咤して、彼女のそばに駆け寄って、しゃがんで彼女の身体を見つめる。その小さな体は、びっしりと冷たい霜のようなもので覆われていた。頬に手を触れてみても、レイはなんの反応も示さずに...眠りにつくように、静かに目を閉じたままだった。
ー.......ぁ..........ぁ..............
アルルゥが私の側で、蚊の鳴くような細く、小さな声で、レイを見つめている。 それは暗い...この森の夜の闇よりも暗い、絶望を覗き込むような、震える声だった。私はほとんど祈るような気持ちで、そっと彼女の胸に耳を近づける。...不規則で、今にも止まってしまいそうなくらいに微かな、本当に微かな、とくん、という鼓動が聞こえた。
この...バカ!!!
私は松明をアルルゥに預けて、手を組んで、体重をかけてレイの心臓を強く押す。 自分の息が上がるくらいに強く、何度か繰り返してマッサージを続けた後で、私は自分の上着を脱いで、レイの身体を強く抱きしめて、自分の体温で温める。レイの体にまとわりついた薄い霜はだんだん溶けてきたけど、その小さな体は、なかなか温まらなかったし、目を覚さなかった。 ...体だけじゃなく、心まで冷たく冷え切るような、そんな冷たさ。
バカ...バカ...!! 早く、早く、起きなさいよ....!! バカ!!!
ーそうなのです...レイ、お願いだから、早く起きてくださいなのです...!!! フレイアを助けられるのは、レイしかいないのです.....!!
アルルゥができるだけ松明を近づけて、私もギュッと強くレイの身体を抱きしめる。
...どれくらい、そうしていたのかわからない。
やがて、ぅ、と、小さな呻き声を一度だけ上げて、レイは重そうな目蓋を、ゆっくりと開けて、私の顔を見つめる。
...レイ!!
ー.........どうして........ここに........
ーレイ!!! 良かったのです...本当に、無事で嬉しいのです....。
...レイ、魔法は使えそう? ...身体を温めないと、本当に死んじゃうわ。
ー......できそうだけど.....ごめん、抱きしめられたままじゃ、苦しい。
私ははっとして、ようやくそこでレイの身体を離す。 彼女は震える声で呪文を唱えて、自分と、わたしたちの体から冷気を追い払う。
...レイ。 話は後で、お願いだから...戻って、フレイアを助けなきゃいけない。
ー.....フレ......イア.......?
ーお願いなのです、レイが...レイが弱ってるのは、アルルゥにもよく分かるのです...でも、フレイアが...フレイアが....
それ以上は、アルルゥの言葉は続かなかった。 彼女は両手で顔を覆って、後には小さな、本当に小さな泣き声だけが、森の中に吸い込まれて、消えていった。
ーわかっ.....た......
レイはまだ白い、血の通ってない顔で小さく頷いて、私は彼女に肩を貸して、フレイアが待っているはずの場所へと戻る。レイは、よろめくように歩きながらも、その目だけは、はっきりと前を見つめている。 ...でも、それが私と同じ光景を見ているのかは、わからない。それほどに、彼女の目は揺らいで、時々、小さな涙の粒を流しながら、震える手を前に伸ばして、何かを掴もうとするのだ。 ...彼女の手は、夜の冷たい空気を、虚しく切るばかりだった。フレイアのことも、レイのことも...不安に思うばかりで、自分では何もできない。
無力ということは、こんなにも...自分を虚しくさせるのだと、私は初めて知った。
残してきたフレイアのことを思うと、もっと早く走りたかったけど、レイの体調が傍目から見ても分かるくらいに悪く、とてもじゃないけど走れるほどじゃない。私は結局、レイを背中におぶって走り出す。 私の背中で、レイが小さく呟く。
ー.......ぁ.........やめて.......下ろして.......
レイ....?
ーフィアが.....フィアが......離れてく........
え.....っ......?
ーおろして....おろしてくれ.......
ダメよ、レイ...!! 貴方、1人で歩けるような体じゃないでしょ!!
私は彼女を叱責して、アルルゥの後を遅れないように、できるだけ早く走る。 やがてようやく、私たちが後にした場所まで戻ってくる。「彼ら」の青白く光る体は、まだフレイアを取り囲んでいる。 彼女はまだ立ち続けていたけど、その身体中が大小の傷跡で覆われて、その所々が凍り付いているようだった。
ーフレイア!! ...レイ、早く、早くフレイアを、助けてくださいなのです...!!
私は背中のレイを慎重に地面に降ろして、自分の肩を貸して支える。
レイ!! はや.............く...............
焦りから彼女を急かそうとして、私は彼女の顔を見つめて、そして、言葉を飲んだ。
レイの目は、大きく見開かれて、「彼ら」に取り囲まれて傷ついているフレイアを見つめている。でも私には、その時ようやく分かった。 レイが今見ているものは、フレイアじゃない。「彼ら」の姿でも、森の中でもない。
その目は、誰か...私たちには見えない、この場にはいないはずの、誰かに向かって、注がれていた。
ーフィア...フィア...........!!!
レ、レイ...!?
魔力のほとんどない私や、そして...多分、呆然と彼女の方を見つめてるアルルゥの様子からも分かるくらいに、激しい魔力が、レイの身体を包み込んでいる。 ...そこから溢れ出すような、強い、強い感情の奔流は、私たちを捉えて、離すことがなかった。 ...怒りと、憎しみ...そして、強い不安が...彼女の心を取り巻く、その全てだった。
ー何してる...お前ら...その子から....フィアから......!!!
私はレイに手を伸ばして、止めようとする。 フレイアが襲われてることさえも...忘れてしまうくらいに。それほどに、レイの魔力に込められた感情が...辛くて...それに、危険なものであるということが、はっきりと理解できたからだ。
でも、私の伸ばした手が、彼女に届くことはなかった。
ー.....フィアから、離れろぉぉおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!
激しい怒りと憎しみが、レイの身体から放たれて、そして、爆ぜていく。
それは最初は、ちいさな星の煌めきのようなものだった。それが次々と、流れ星のように空に向かって放たれて、そして、森の中に降り注いでいく。松明の煌めきよりも遥かに強烈な、目も眩むような光の後に、何も彼もが焼かれるような熱気が、森の中を漂い流れる。
私は目を擦って、眩い光の中で何が起こっているのかを確かめようとする。
そこはもはや、さっきまで私たちが歩いていたはずの「森」ではなかった。
全てが赤く、燃えている。 足元の草木は至る所が赤く燃え盛って、ひとつの焦土のような赤い地獄と化して、木々は高らかに炎と煙を上げて燃え盛り、巨大な松明が空に向かって何本も、何本も灯されているように、全てを赤く照らしている。 「彼ら」の青白い姿も、もはや見えなかった。 彼らが静かに放っていた冷気は、全てが、熱と煙の中に飲み込まれていく。...それは、ひとつの世界の終わりだった。
本当に、そんな地獄の中のようなひとつの光景が、私の目の前で起こっているのだ。
...アルルゥ!
私は横で倒れていたアルルゥを抱き抱える。彼女のちいさなふさふさの毛皮は、所々が黒く焼けていて...そこから立ち昇る肉の焦げた臭いが、私を強く揺さぶる。 私はアルルゥを抱いたまま、フレイアの方を見る。 彼女はサーベルを地面に突き立てて、それを杖代わりにしながら、なんとかレイの方へ近づこうとする。 そのレイは...魘されたように何かを呟きながら、ただ、その場に立ち竦んで、動こうとしなかった。フレイアがレイに近づいて、自分の胸に彼女の頭を埋めるように預けさせて、落ち着かせようと試みる。
私も2人の方に近づこうとするけど、煙と、炎は、至る所から立ち昇る。
フレイア! ...レイ!!
ー大丈夫だ! サーシャ、アルルゥ、まだ動けるか!?
フレイアの声が煙の向こう側から聞こえて、私はむせ返りそうになりながらも叫び返す。
私はなんとか...! ...でも、アルルゥが怪我してる...!!
ーくそ...! サーシャ、走れるか? 森を抜けるぞ! 火の回りが早すぎる、煙をできるだけ吸わないようにしろ、体が燃える前に動けなくなるぞ!
フレイアが息を止めながら煙の中から出てきて、私はようやく彼女と合流する。
ー行くぞ! 早くしろ!!
火と煙の中を、私たちは掻い潜って、赤く燃え落ちる森を走り抜ける。
燃え落ちる。
全てが、赤く輝いて、やがて燃えて、落ちていく。
火に包まれる森の中で、誰かが歌っているのが聞こえる。
哀しくて...何かを憐むような、そんな、微かな歌声だった。
(第8話終わり)