※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。
あまり名前は出てきませんが、ラナークファンタジーのアニーちゃんが主人公です。
(秋田犬編)
次のニュースです。
仙台市∗∗∗∗∗∗区∗∗∗∗∗∗町の家屋内で、19日午前9時45分ごろ、40代の∗∗∗∗∗大学教授が遺体となって見つかった事件に関して、続報が入りました。
駆けつけた警察官が確認したところ、男性は少なくとも死後数時間が経過しており、仙台市消防局によると、遺体は死後硬直が始まっており、発見時には少なくとも死亡から24時間が経過していたとみられるとのことです。 宮城県警は、殺人事件とみて捜査を始めているとのことです。
∗∗∗署によると、男性は自宅とみられる家屋の2階部分にある部屋に倒れていました。同大学職員の男性は「倒れているのは確かに∗∗∗教授だ」と説明しており、県警で身元確認を急いでいます。凶器になるような物は見つかっていないとのことです。
捜査関係者によると、遺体は、ベッドの上の布団にに潜り込むような格好で倒れており、下腹部には刃物で刺されたような傷があり近くには大量の血痕があったということです。 なお、男性の妻とみられる女性は、同日から行方が分からなくなっており、県警が関係者とみて捜索を続けています…
仙台市の喫茶店の薄暗いテレビでニュースが放映されている、キャスターは無愛想な口調で話し切ると、自分の役目は終わったという顔で、天気予報士に後を引き継いだ。
ー怖っ。 これわたしたちの通ってる大学の先生なんだよね…。 専攻は日本史なんだけど、滝に関しての古代信仰の話しかしない変人教授なの。 頭とかすごくいいし、業績とか、論文とかも凄いんだけど。
ーえ、そんな身近な人だったの？ わたし、全然知らなかったんだけど…。
ー南条さん、まだ仙台に来て間もないもんね、この先生奇人として有名なんだ、近所の人と挨拶するときも口を開けば滝の話しかしないの、滝の魂がとか、滝への信仰がとか、そんな話。 奥さんまで変わった人で、けっこう年齢差あるんだけど、いっつも外国の歌を小さく口ずさんでるの、ディランとか、クイーンとか、けっこう古いやつなんだけど…。 それでどんなに暑い日でも、長袖と丈の長いスカートとか、とにかく、肌が露出する服装をしない人でね、すごく綺麗な人なんだけど、顔に大きな火傷があって…………
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
翌朝わたしとカナコさんは、このなかなか素晴らしい旅館を朝早くにチェックアウトし、爽やかな日差しの中を駐車場まで歩いた。 張り詰めた寒さを湛えた透き通った空気がわたし達を包んで、谷の下を流れる川の音がかすかに聞こえてきた。 素晴らしい朝だった。 何故かわたしの頭は少しクラクラしていたけど、それは昨日飲んだお酒のせいかもしれなかった。 カナコさんは楽しそうに笑いながら、初めてだったもんね、あんまり飲んじゃダメよ、そうわたしに伝えた。 駐車場に着いて、わたしは昨日と同じ助手席に、カナコさんは運転席に座って、エンジンをかけて暖房をつけた。 シートベルトを締めて車が走り出そうとしたそのときに、わたしのスマートフォンが軽快な音を立てて鳴り響いた。 取り出して画面を見てみると、その電話はお姉ちゃんからだった。 当たり前だった、お姉ちゃんにはずいぶん心配をかけている気がする。
ーアニー・マクラウドです。 ……お姉ちゃん？
ーやっと繋がったわ、アニー、貴方何してるの、今すぐ成田に戻ってあのクズ男と落ち合いなさい、あのクズも、今日、日本時間での今日ね、そっち今朝でしょう…成田まで迎えに行ってくれるらしいから。 わたしも今成田に向かってる、有給取ったの。 今香港で乗り継ぎの最中だけど…。
ー……ごめんなさい。 わたしはしばらくこの東北にいるわ、傘はまた今度返す。
ー………貴方まさか、誰か知らない人と一緒にいたりしないわよね？
わたしはチラッとカナコさんの方を見た。 わたしは慎重に言葉を選ぶ必要があった。 昨日会ったばかりの大人の女の人と一緒にいます、だから心配しないでください、さすがにそれではまずそうに思えた。
ー…1…ノー、1人で温泉街のホテルに泊まって、さっき出てきたわ。 今タクシーに乗って、湖に向かってる。 景色は素晴らしいし、食事も美味しいし、いいところよ。
だから心配しないで。 必ず帰るから…。
お姉ちゃんもはあ、と溜息をついて、いい、知らない人にホイホイ付いていくような真似だけはしないでね、貴方はあのクズ男と違ってそのあたりはちゃんと判断できるだろうと思ってるから。 そう忠告して電話を切った。
カナコさんの方を見ると、ふふ、と小さく笑って、お姉さんの方が正しいわね、こんな全身火傷の女と2人で滝を探しに行ってるなんて言ったら警察沙汰ね、そう冗談を言ってわたしを少し慰めてくれた。 そう、確かにお姉ちゃんの方が正しいのだ、間違ってる、理性的でないのはいまのわたしの方なのだ。 大人はわかってくれない。
「音楽を聴きましょう。 落ち込んだ時はこれに限るのよ、私はいつもこの人達の歌を聴いて慰められたし、勇気を手に入れた、立ち向かう勇気と逃げる勇気を。 伝説のロック・バンドよ、貴女の国のロンドンが生んだ、ね。」
ー最近のやつ？
結構昔だけど。 いい音楽と物語は色褪せないの。
そして流れてきた歌は、わたしがこれまで聴いてきた現在のヒット・ソングのどんなものとも異なり、その歌詞からは一種の文学性が漂い、そのボーカルの歌声はわたしとカナコさんを引き寄せて話さず、じらして、驚かせてくれた。 それは一種の演劇や映画ののようでさえあった。 ボーカル、ピアノ、ギター、ドラム、ベース、全てが一体となって、時にゆっくり、時に激しく、またある時は思わず口ずさみたくなるほど軽快で、曲によって表情の変化するオペラのようだった。 わたしはその中の一曲が特に気に入って、カナコさん何度か繰り返しリクエストした。
She keeps Moet et Chandon in her pretty cabinet
'Let them eat cake' she says, Just like Marie Antoinette
A built-in remedy for Kruschev and Kennedy
At anytime an invitation You can't decline…………
ねえ、なんだかこの曲の女の人、カナコさんみたい。 フルシチョフとケネディに処方箋を出したことがあるの？
「さすがにないわよ。 家ではモエ・エ・シャンドンじゃなくて日本酒と安いチリワインを冷やしてよく飲んでる。 キャビアじゃなくてたらこをおつまみにして。」
この国版のクイーンね、そういうとカナコさんは可笑しそうに微笑んだ。
「そうね。 今の私は本当にそうかもしれない。 あなたにとっては謎の女だから。」
She's a Killer Queen
Gunpowder, gelatin, dynamite with a laser beam
Guaranteed to blow your mind. Anytime…………
美しい歌声を聴きながら、わたし達は雪が両脇に降り積もる東北の道路を走った。
しばらくそうして走っていただろうか。 わたし達を乗せた車は、やがて湖のほとりに差し掛かり、そのあまりに静謐な光景にわたしは息を飲んで、窓からじっと流れてゆく景色を眺めた。 田沢湖よ、美しい景色でしょう。 カナコさんが説明してくれるのもあまり耳に入らなかった。 わたしは湖を見たこと自体がそもそも無かったし、こんな種類の景色がこの世界に存在したことに不思議な感動を覚えていた。 それは心のどこか深い部分から湧き上がってくる、あまり経験したことがない種類の感動だった、空は曇り灰色の雲に覆われ、湖を取り囲む山々にはうっすら雪がかかっている。 湖面は澄んだ鏡のようにそれらを静かに映し出し、ずっと前から、わたしたちが生まれるそのずっと前からそうしていたように、ただそこに存在した。 ねえ、降りて少し歩いてみましょうか、美しい鳥居と神社があるの。
カナコさんは湖のほとりの少し奥まった駐車場に車を停めた。 わたし達以外に、車は一台も存在しなかった。 わたしは助手席から降りて、カナコさんの手を握って雪を踏みしめながら2人並んで歩いた。 湖へと続く小さな階段を降りて、雪を少しかき分けた先にその門ーカナコさん曰く、トリイーが存在した。 赤に塗られたそれは、見たことがないような独特の門のような形状をしていた。 この門は、人間の住む世界と、神様が住む領域を分けるためのものなの、信仰のひとつの形。 カナコさんはそう教えてくれた。 じゃあ、この湖の先には神様がいるの、そう聞くと彼女はええ、そうかもしれないわね、こんなに美しいんだもの、人間が安易に踏み入ってかき乱してはいけないような静けさで満ちているから。 そう答えた。 わたし達はしばらくその門を通して湖を見つめた。 しばらく2人とも黙って何も話さなかった。 わたしはふとカナコさんを見上げて、彼女が涙を流していることに気付いた。 なぜ彼女が泣いているのか、わたしには分からなかった。 感動で心を動かされたのか、それとも、カナコさんにはわたしの知らない、もっと別の部分があるのか、わたしには分からなかった。
人間の心の奥底を知るのは難しいのだ。 友達でも、家族でも。
ねえ、上の神社でお参りをしていきましょう。 カナコさんに誘われて、わたしも頷いて同意した。 お参りとは？ カナコさんは、神様にご挨拶をして、何かお願い事をするの。 安全、健康、成功、お金……まあ人によっていろいろあるけど、とりあえず1個くらいに止めておいた方がいいわね。 欲張りは成功しないから。
わたし達は雪を踏みしめながら階段を登り、森の中に作られた神社を見た。 神社の本体？の近くに、東洋の龍の口から水が出る飾りがついている、清らかな水を湛えた鉢が置かれていた。 龍の口からは水の代わりに氷柱ができていた。 わたし達はその水の冷たさに顔をしかめながらも簡単に手をそこで清めた。 カナコさんはちょっとだけ指先を洗う程度だったけど、わたしは思いっきり両手を水につけてしまって、そのあまりの冷たさにびっくりしてわっ、と声を漏らしてしまった。 カナコさんは面白そうに笑いながら、自分のハンカチをわたしに貸してくれた。 わたし達は神社の本体まで歩いて、カナコさんが屋根の上についた鈴から下がったロープを揺すって、からん、からんと鈴が鳴った。 2回お辞儀をして、そのあと2回手を合わせて音を立てて、目を閉じてお願い事を頭の中に思い浮かべるの。 最後にもう一度お礼をしておしまい。 やってみましょう。
わたしは言われたとおりに進めた。 2回、お辞儀をして、2回、手を叩いて、そして目を閉じてお願い事を考えた。 終わってから、最後にもう一度お辞儀。 カナコさんはもう終わっていたみたいで、わたしの方を見つめていた。 けっこう長いお願いだったね、もしよければ教えてくれない？ 私はシンプルに今日こそ滝に巡り会えますようにってお願いしたんだけど。 わたしは少しだけ話すのを躊躇った。 ごめんなさい、滝のことは特にお願いしてないの。 みんながこの先も幸せになれますようにって、そんな感じのお願いだったから。 お姉ちゃんとか、ナガトユキさんとか、それからもちろん、カナコさんも。
カナコさんは、わたしの方をじっと見つめた。
ありがとう、私の分まで祈ってくれて……。 彼女は小さく呟いて、そろそろ行きましょう、そう言ってわたしの手を取った。 でも私は、もう遅いの。 引き返せないの。
カナコさんは何か小さく呟いたけど、わたしの耳には届かなかった。
湖は来た時と同じように、わたし達が立ち去る時にも、変わらず静謐な輝きを湛えていた。 これまでもそうだったし、これからもずっとそうあるように。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
Re:Re:今日はまだ行けません。
To : ナガトユキ
ありがたいお言葉だけど彼氏は出来てないわよ。
年上の優しいお姉さんがよく聞いてるの。 今まであった大人の中で一番まともだわ。
>>-----Original Message-----
>>From: ナガトユキ [＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊]
>>To : 自分
>>Sent: Thursday, Feb 22 , 2020 9:46 AM
Re:Re : 今日はまだ行けません。
>了解、理解した。 ジェーンはなんか怒ってたけど、旅行を楽しんでください。
>湖はもうフィンランドで見飽きたから別にいいかな。 心が浄化されるって話だけど、僕はこれまで散々いろんな国の寺院とか教会にお布施をしてきたから、もうこれ以上ないくらい澄んだ心になってる。 きっとね。
>Queen? もちろん飽きるほどに聴いたよ。
>君がアレに興味があったとは驚きだけど、もしかして彼氏でもできたかい？
>結婚式にはちゃんと読んでくれ、タイツを着て足を踏みならしながら教会でWe will rock youを歌って精一杯祝福するから。
>>-----Original Message-----
>>From: アニー [＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊]
>>Sent: Thursday, Feb 22 , 2020 9:32 AM
>>>ごめんなさい、まだ成田までは行けそうにないので、今日は迎えに来てもらわなくても大丈夫そうです。 傘を返せなくてごめんなさい。
>>>今東北の綺麗な湖まで来てます。 ロンドンやエジンバラではあまり見ることのない素晴らしい景色よ、貴方も来てみたら、心が浄化されると思うわ。
>>>ところで貴方、Queenってバンド聴いたことある？
やれやれ、これじゃ僕がまともな大人じゃないって言われてるようなものだった。
確かに大概な方だとは思うけど。
それにしても今時のお姉さんでQueenが好きだとは素晴らしい。 できれば是非お近づきになりたい、今度アニーに紹介してもらおう。
僕はそんな下らないことを考えながら、オフィスのデスク前でexcelを意味もなく広げてぼーっとしていた。 そもそもこの会社は人をゴミのように詰め込みすぎなのだ。 作業の効率化や、チームワークや、個人のパフォーマンスを最適になるようにオフィス環境を設計するデザイン工学があるけど、この会社はひたすら狭いフロアに詰め込むことに美を感じているようだった。 僕はしかたなく隣に座っていた新人をコーヒーに誘って、適当に喋って脳を動かそうとした。
南条くん、今の君くらいの年齢の人とかって、Queenとか聞くのかな？
ー何年か前に映画やってましたよね、アレで知ってちょっとだけ聴きました。 でも女の人は何となくあんまり知らないイメージありますけどね、妹も特に知らなかったんで。
妹さんがいるの？ それは初耳だ。
ーええ、今は大学生です、東北にある学校に通ってますね。 つい3、4日前かな、妹から電話があって、そこでも何故かQueenが話題に上がってました。 東北の大学教授が殺されたやつですけど、それ妹の大学なんですよ、今その奥さんが容疑者として捜索されてるんですけど、ディランとか、Queenとか、そんなのをずっと口ずさんで年中長袖の奇人らしくてーーーー
やれやれ。 申し訳ないけど、僕はまた何日か有給を使う必要がありそうだった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
体が重い。 うまく指を動かせない。 全身がぬるぬるした液体で覆われている、拭おうと思ってもまた出てくる、3日前からだ、3日前の朝に起きた時からこうだ、何を食っても味を感じない、どれだけ酒を飲んでも酔わない、私はどうなったんだ。 私の心と身体はあちらこちらを彷徨って歩いていた、人が私の姿を見える時も見えない時もあった、でもだんだん薄れてきている。
わたしは滝に行かなければならない、それだけは確かだ、私が大学教授でも、研究者でも、ユートピア共産主義者でもなくなる前に、私がわたしそのものの姿と形を留めていられる前に、滝を見つけなければならない、あの少女はうまく滝に辿り着けただろうか、見た時からわかった、あれはニューラナーク村の住人だった、亡霊と親しみとあるあの村の。 滝を見つけろ、見つけなければ、早く、早く、早く……。
こうなったのは全部あの女のせいだ、私と彼女はうまくやれていた、私の嗜好や快楽追求のための夜の作業は彼女にも受け入れられていたはずだった、なぜ、なぜ、どうしてだ、あんなに美しく焼けていたのに、あれは美しい滝にも似た芸術だった、なぜ私を裏切ったんだ、許さない、あの女だけは許せない、滝に着いたらすぐにまた私のものにしてやる、戻ってきてもらう、私を裏切ったことよりも、逃げようとしていることが許せない………。 わたしはカティ・サークの瓶を掴んで氷を放り込んだグラスに開けて、水を入れずに一息に飲んだ。 それはただ冷たいだけだった。 どんな味も私には感じられなかったし、アルコールの熱気も私を包むことは無かった。
行かなくては。 私は滝に行かなければならない。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
私の隣で、アニーちゃんはスヤスヤと安らかな寝息をたてて眠っていた。 割とどこでも寝れるタイプの子のようだ。 こんな良い子に今の世の中で巡り会えるのは奇跡といってもいいかもしれない。 彼女が日本のニュースに疎い事も良かったのかもしれない。 でもそろそろ誰かが、彼女のお姉さんや友人の誰かが気付くかもしれない。
アニーちゃんには危害を加えたくなかった。 この子には幸せになって欲しかった、もう引き返せない私の分まで。 ニューラナーク村、この子は昨日確かにそう言っていた、あの男も元はニューラナーク村の住人のはずだった、私にはその村の意味するところは分からなかったけど。 でも、もしあの滝が、本当に人間の意思や理性を超えたその先にあるものならば、あれにたどり着く事が出来るのは、私ではなくてこの子の方なのかもしれない。 それはそれでよかった、この火傷の痕が綺麗に消えたとしても、私がやる事はもう決まっていた。 ただ身体だけでもクリーンな状態に戻りたいだけなのだ、その後でちゃんとやらなければいけない事を済ませる。 申し訳ないけど、滝を見つけるまでは、この子に付き合ってもらわなくてはならない。
アニーちゃんのポケットのスマート・フォンが震えた。 誰かから電話が来たようだ。 彼女はそれにも気付かないようで眠っていた。 私は信号待ちの間にそれをそっと抜き出して、電話に出た。 この子が途中で起きないといいんだけれど。
ーアニー、アニー、ジェーンよ、早く、一刻も早く仙台まで戻りなさい、あのクズ男から聞いたわ、貴方の隣に、顔に火傷のある、Queenの歌ばっかり聴いてる女の人がいない？ その人はーーー
「お姉さん、彼らは素晴らしいロック・バンドよ。 確かに私は特にお気に入りだけど。 彼らの歌を聴いていると、本当に深く、深くその世界に入り込めるの、この世界から近いけど、そこには確実に境界がある。 ニューラナーク村に私が知らない何かがあるのと同じように、それはこの世と隣合わせにあって、でも確実に切り離された世界なの。」
ー………貴女は…………
「ねえ、アニーちゃんの優しいお姉さん、今日1日だけ、今日1日だけこの子をわたしに貸して、危害は決して加えないわ。 今日だけでいいの、滝が見つかっても見つからなくても、私は今日でやるべきことを全てやるし、アニーちゃんは明日ちゃんと仙台に戻れるわ。 ごめんなさい、この子に昨日、お酒をちょっとだけ飲ませちゃったの、けっこう楽しそうだったけど。 この子、将来きっと結構飲むようになるわね。」
私は通話を切って、窓を開けてスマート・フォンを外に放り投げた。
アニーちゃんがスマート・フォン依存症候群じゃ無ければいいんだけど。 でもこの子、昨日から殆どいじってないし、まあ多分大丈夫だろう。 ごめんね、あとでお金はちゃんと渡すから、最新のiPhoneXIIを買い直して……。
滝があるかどうかはよくわからないけど、私が向かう場所はもう決まっていた。 スキー場の麓で秋田犬を撫でて、その後で樹氷を見たかった。 あの美しい、一切の不純物の無い白い森を見て、心を落ち着けて、それから私は自分のやるべきことを果たさなければいけなかった。 時代は変る、これからはこの子の時代がちゃんと始まる、私はそれを見る前に、役目を終える必要があった。
For the times they are a-changin'…………
彼は少し枯れた声で、変わらずに歌い続けていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
わたしはまた寝てしまっていた。 本当にカナコさんに申し訳ないけど、彼の緩やかな民謡のような歌と、快適に保たれた車内は、わたしに安らかな眠りをもたらすには十分だった。 いつのまにか車は、クネクネした山道を走っていた。 時折タイヤが滑っているような気もしたけど、まあ多分気のせいだろう。これからどこに向かうの、聞いてみたらスキー場よと返された。 滝がそこにあっても、無くても、私はそこに行かなければいけないの。 アニーちゃん、もう少しだけ付き合ってね。
ーもう少しだけ？ 別に明日も明後日も、わたしは一緒に滝を見つけるまで付き合うわ。 カナコさんが迷惑だったらーー
迷惑なんかじゃ無いわ、カナコさんはそう言ってわたしの言葉を遮った。 迷惑なんて、そんなこと本当に微塵も思ってないわ、あなたが一緒にいてくれて本当に良かった。 あなたと一緒に過ごした時間を、私はずっと大切にするわ。 ずっと、ずっとね。 ねえ、アニーちゃん、あなたには未来があるの。 あの湖みたいに、澄み切った綺麗な未来があるの。 もしあなたが、これからの人生で誰かと長いお別れをすることになっても、それは一瞬のことなの、時代は変るのだから。
ー時代……。
「そう、あなたの時代。 時代は変るの。 Your old road is Rapidly agin'…Please get out of the new one If you can't lend your hand……For the times they are a-changin'……忘れないで。 できれば、私のことを、たまにでいいから、思い出してくれると嬉しい。」
さあ、秋田犬を見に行きましょう。
彼女はそう言って車を停めた。
その可愛らしい犬は、スキー場の檻の中にちょこんと座ってわたし達の方を眺めていた。 おまえたちまた、どうしてこんな何も無いところに来たんだ、見たとこスキーヤーでも無いみたいたけど、そんなことを言いたそうな顔つきだったが、もしくは何も考えずにただ眠いだけなのかもしれない。 いずれにせよ穏やかな顔つきの大柄の犬だった。 わたしが柵の中からそっと手を出して、そのもふもふした頭を撫でてみると、彼(彼女かもしれない)は甘えるようにわたしに頭を預けてくれた。 かわいい。 でもわたし達は、今からリフトで登って、この山の上まで行くはずだった。 この子とはここでお別れしなくてはならない、長いお別れを。 彼はわたしの飼い犬では無いし、カナコさんの飼い犬でも無いのだ。 わたし達に彼を独占する権利はなかった。
2年前に来た時から、この子は変わらずにここでこうしているの。 少しも老けた様子もないわ。 カナコさんは懐かしがって、しきりに犬を撫でた。 ねえ、犬の天国って本当にあると思う、カナコさんはそう呟いた。
ー犬の天国？
そこにはきっと犬だけが過ごしてるの、みんなそれぞれ、自分が一番犬らしかった頃の姿でね。 青空と、どこまでも広がる草原と、それから綺麗な浅い湖がたくさんあるの、そんな犬の天国。 人間はそこには入れないの。
本当に不思議な事を思いつく人だった。
わたし達は犬をひとしきり可愛がった後、リフトに乗り込んで山の上へと向かっていった。 リフトにはわたし達以外には誰も乗っていなかった。 少し曇った暗いガラスから通して見た山々は、灰色の雪に覆われて、荒涼とか、静けさとか、それよりももっとはっきりとした畏怖のようなものをわたしに覚えさせた。 この国の、少なくともこの場所では、自然の方がわたしたちより強い存在なのだ。 それが感覚としてわたしにはわかった。 こういう感覚を、言葉で残したいとその時にふと思った。 人の心を深く動かせるのは、良い物語と音楽だけなの、カナコさんはそう言っていた。 音楽はダメでも、物語ならわたしにも書けるだろうか？ 特に自信はなかったけど、その時にふとそうなりたいと漠然と思った。ねえ、もしいつかわたしが小説みたいなものを書いたら、カナコさんは読んでくれる？
彼女は曖昧にわたしを見つめて、もちろん、楽しみにしてるわ、そう答えてくれた。 よかった、少なくとも1人は読者が確保できそうだった。 誰も読んでくれなかったら、またパブか寺院で押し売りしなければならないところだったから。
リフトは山の上に向けて登っていく。 やがて樹の上に雪が積もった、カナコさんが樹氷と呼んでいた美しい自然の芸術が見えてきた。 それは最初はぽつ、ぽつとしか見えなかったけど、高度が上がるに連れて、やがて氷の森となってわたし達の眼の前に現れた。 わたしはその時思わず下の方を見つめた。 どうしてそんなことを思ったのかよく分からなかったけど、さっきの可愛らしい犬が、一瞬見えた気がしたのだ。
でももちろん、そんなことはなかった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕はその日の午後と明日、明後日と休みを取り、仙台行きのフライトを予約した。 相当高かったので一瞬やめようかと本気で悩んだけど、南条くんの妹さんが運転手兼道案内として来てくれるらしい。 それは頼もしいことだ。 ジェーンから相当な呪詛に満ちたメールが届いていて、彼女も成田から仙台に向かっているようだった。 やれやれ、正直僕達が仙台まで行ったところでどうしようもないと思うんだけど。 大人しく警察に事情を説明して任せた方がいいように思えた。 しかし何れにせよ、こうなった責任の一端は残念ながら僕にもあったし、アニーを迎えに行ってもやらないのは流石にいささか気が咎めるように思えた。 やれやれ、ジェーンの怒りが静まっていることを祈ろう、どうしようもなければ南条くんの妹さんになんとか間を取り持ってもらおう。 あの賢い南条くんの妹さんなのだ、僕やジェーンが束になってもかなわないほどにしっかりしているに違いない。
僕はどう考えても高すぎるフライト・チケットを発行して、荷物検査に向かって進んだ。
(秋田犬編おわり 長いお別れ編につづく)
(引用)
The Times They Are a-Changin…Bob Dylan
Killer Queen (Mercury)…Queen
本引用は、商用を目的とするものではありません