※この地球とは別の世界の完全な創作のお話です。
登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。 申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。
(第2部)
僕はニューラナークからエジンバラに向かう列車の中に乗っていた。 行きと同じく、もちろん帰りも殆ど人は乗っていなかった。 アニーは僕より4席離れた所にぽつんと座っている、少しだけその表情を観察してみたが、相変わらず怒っているのか悲しんでいるのか判断に困る表情をしていたが、この少女は元々そんなものかもしれない。 僕はふと彼女の境遇を思いやってみた。 コツコツ造花を作って、体の不自由なお姉さんの面倒を見つつエジンバラまで売りに来ていたのだ。 アニーがあの素材の味しかしないキャベツの薄いスープを1人で懸命に作っている光景を想像して、なんだか僕は自分が物凄く悪い事をしている気分になって、少しだけ暗くなった。 僕はラナーク駅で買ったビール(冷えていた)を開けて、一口だけ飲んでコリン市長の邸宅で食べたうまい食事の事を思い出した。申し訳ないけど、マクラウド家のキュウリサンドやキャベツのスープが束になっても敵わないだろう。 これはあくまで僕の考えなのだが、食事ほど端的に格差や社別を表現してるものはない。 衣服は誰でも与えられれば着れるし、家も与えられればだれでも住める。 もちろん食事もそうなのだが、食べる人間の人格、教養、積み重ねてきたキャリアや知性そのものがその味わい方に影響を与えてしまうのだ。 コリン市長はあの豪勢な食事を毎日のように味わっているのだろう、そこには、マクラウド家とは物理的にも精神的にも、決して埋められない断絶があった。 どちらが良いかという問題ではなく、そういう現象なのだ。 結婚式場で目を白黒させて内側からナイフとフォークを使い始める人と同じだ、それを傍目で眺めながら、悠然とシャンパンを味わって外側から食器を取り、食材の質の悪さに文句を言う人間もいる、そういうことなのだ。 僕はどうしてこんなことをずっと考えているのだろう。 もちろん朝食を抜いたからだ。 僕はようやく思い当たって、乗り換えの駅構内でなるべくパンがしゃんとしてるサンドイッチと黒ビールを選んで買った。
僕の後ろからアニーがとぼとぼと大きな荷物を引きずりながら進んできていた。 えらく年代物のスーツケースだ、骨董市で良い値がつくかもしれない。アニーと目が少し会うと、もちろん彼女は睨み返したのち顔を背けた。 僕はここに来てようやく、ジェーンから預かったポンドを全て僕が持っていることに気づいて、自分の財布から紙幣を出してアニーのためにサンドイッチとコーヒーを買った。 ビールにしようか一瞬迷ったが、ここで明らかに未成年のアニーにアルコールを勧めるのが適切な行為かどうか僕には分からなかったので、無難な方にしておいた。 僕たちはお互い黙ったまま乗り換えの列車に乗り込み、今度は向かい合わせで座った。 僕はジェーンから貰ったポンドを全てアニーに渡して、これはニューラナーク村の有志が君のために集めてくれた旅費だという旨を説明した。 分かっていた話ではあるが、アニーは受け取らなかった。
「……貴方、どういうつもりなのか知らないけど、何様なの。 こんな物を貰ったってもうどうしようもないの、昨日姉さんが説明してくれた、私は産業革命の亡霊の村に留まるべきじゃないんだって何度も何度も言い聞かせてくれた。 そんな事私にも分かってる、分かってるの。 でもだからどうしろって言うの、こんなお金があるなら姉さんの治療費に当ててほしいの、村の人もみんな気づいているでしょう、姉さんはニューラナークの備え付けの粗末な医療施設ではどうしようもない病気だって！」
そこまで一気に喋ってアニーは泣き出した。 それは以前僕の前で見せたような屈辱からくる嘆きではなかった、無念さと後悔、あるいは無力な自分を呪うような嘆き方だった。 僕は彼女を慰めてやることは出来なかった。 彼女の境遇を振り返ってみれば、それはあまりに辛い事なのだろう、村の人々ーもちろんスクルージ爺さんも含まれていると信じたいーは、みんな優しすぎたのだ。 かと言って、僕に出来ることはただ事実と自分の考えを述べることだけだった。
このお金は君のためにニューラナーク村の人が僅かな貯蓄を吐き出してくれたもので、当然僕には使う権利も預かる権利もない。 僕は君の保護者でも無いし、ニューラナーク村の住人でもないのだから。 それに正直なところ、君に対して何らかの責任を負うのが嫌でしょうがない、あくまで対等な関係だと考えてる、僕が上でも無いし君が上でも無い、そういうものだと思ってる。 もちろん君はこの場でこのポンドの束を燃やし尽くしてもいいし、なんなら消火のためにビールを少しだけ分けてあげてもいい。ウエストミンスター寺院の前にウヨウヨいる乞食に恵んでもいいと思う、勿体無いならロンドンかエジンバラで使っちゃえばいい、本泥棒みたいな服を捨てて、よくわからないけど高級な服を買ってあとは全部パブで使っちゃえばいい。
「…貴方はウエストミンスター寺院に何か怨みでもあるの？ それとも本気で冗談の例えか何かとして認識しているの？」
入場料をぼられたんだ。 あんなしょっぱい寺に入るのに数十ポンド払うのはさすがに馬鹿げてるね、ジャップランドの寺でも精々数ポンドなんだ、数ポンド払ってだだっ広い敷地の中で除夜の鐘を聞くんだ、なかなか利率のいい商売だと思うけど。
そこまで言って、ようやくアニーは微かに、ほんの微かに笑った。
「…ジャップよりも、英国紳士の方が商売上手ね。」
僕も同意して、とりあえずサンドイッチを食べながらビールを飲んだ。 もちろんアニーはコーヒーを飲んだし、ポンド紙幣も燃やされずに済んだ。
「………………名前。 貴方の名前を聞いていなかったわ。」
僕は相変わらず、ナガトユキだと答えた。
「貴方は、私を見下してるの、馬鹿にしているの？ それとも哀れんでいるの？」
それは非常に難しい質問だった。 僕はしばらく考えて、全部当てはまると答えた。
「…正直なのね、根拠を教えて頂きたいわ。」
僕は頭を使わない労働者が嫌いでしょうがない、例えば鹿の角だけを造り続ける工場があったとしよう、そこに雇われている工場作業員にはいろいろな人がいる、鹿の角を切ったり、ルーターで形を整えたり、やすりで磨いたりする連中だ、彼らは何も考えずに自分の工程だけをただひたすらこなす、そして文句を言う。 自分の工程が一番辛いはずだ、設計者は何も考えていない、彼らが鹿の角の図面と工程をちゃんと引いて、設計レビューをしてないからトラブルばかり起こるんだってね。 もちろんそれは正しい部分も多々あると思う、そして世間はえてしてそう言う側にフォーカスするんだ、ジャップランドでは特に顕著だけど、ものづくりの現場に密着するとか言ってね。 でもそれって、きっと不公平で一面的な見方じゃ無いかな、設計者も作業者もマネジメントも、本質的に製品や思想に対して持っている責任は同じなんだと思うんだけど。 要するに僕は、君みたいな造花押し売りが、自分の不幸を嘆いて他人に押し付けてくるのは好きじゃない、そんなことはこっちの知った事じゃ無いし、社会的なモラルを盾にとって利益をもぎ取る、追い剥ぎみたいな行為だ、君は自分の売った造花がどんな用途で使われているか考えたことが……
そこまで喋って、僕はようやくアニーがまた泣き出したことに気づいた。 口は災いの元なのだ。 エジンバラに向かう鈍行列車の中で、ひとまわり以上年の離れた少女に僕の極めて一面的で自衛的な考えを聞かせることが適切では無い事はすぐ分かったのに、どうして僕は鹿工場の話なんてしたのだろう？ 僕は反省して要点だけをかろうじて伝える事にした。
最初の質問に戻ろう。 今のところ、僕は君のことが特に好きではない。だから僕は君に何の貸し借りも作りたく無い、あくまで対等な関係だと考えてる。同じ位置からお互いに相手の考えを自分なりに噛み砕いて、その上で時には否定して議論する必要がある。 もちろん相手の方が正しいと思ったら、その意見を素直に受け入れる。
アニーはその後も泣いたままで、僕の言うことが耳に届いているのかどうかはよく分からなかった。 最も、僕の自己中心的な意見が聞き届けられた所で同意を得られるのかは、甚だ疑わしいところではあったけど。僕は泣き止まないアニーから目を逸らして、すっかりぬるくなったビールを啜った。列車は着実にエジンバラに向けて進んでいた。
もう少しだけ現実に立ち返ると、僕はエジンバラ空港から何処に逃げ出すかに関して検討する必要があった。 当初はウエストミンスター寺院の真ん前でアニーを置き去り位してやろうかと本気で思案していたが、現実問題としてユートピア共産主義の亡霊から本気で逃亡するつもりなら、エジンバラから即座に飛び立つべきなのだ。僕はエジンバラから出てる航空券に関して調べてみた。ヘルシンキまで飛んで、そこから関空まで帰るパターンが魅力的に思えた。 僕はヘルシンキ・ヴァンター空港は個人的に大好きだったし、 とてもじゃないけどあのいまいましいヒースロー空港と比べる気にはなれなかった。 とりあえずアニーが泣き止んだらヘルシンキ行きを提案してみよう、本人が気に入らなかったらとりあえず議論してみて、歩み寄りようが無かったら諦めてエジンバラで別れるしかない。 ジェーンには申し訳ないけど、これはあくまで僕の個人的な旅であって、僕とアニーの旅ではないのだ。 僕には僕の生活が無いわけではないし、結局のところアニーは自分で自分の行き先を決めなければならないのだ。 僕はアニーが落ち着いた頃を伺って、とりあえずヘルシンキに行こうと思う、という旨を説明した。
「私の事が嫌いな貴方に説明を求めても無駄かもしれないけど、どうしてヘルシンキに行こうと思ったのかしら、良ければ説明いただけないでしょうか、ナガトユキさん？」
当然ながら先ほどの会話で、僕とアニーの溝はまた広がったようだった。 僕はとりあえず端的に、ヘルシンキに行きたい理由を説明した。
・自然が綺麗で落ち着く
・この国より明るい気がする
・ビールもまあまあ美味しい
アニーはもちろん、どうしようもない男を哀れむような目でこちらを暫く眺めていた。 僕は当然、アニー自身の見解も聞いてみた。
「…別にいいわ、私、他の国知らないもの。」
イギリス国内でも別にいいんだけど、僕はとりあえず振ってみた。
「どこでも同じよ、ニューラナークと、エジンバラの一部しか行った事ないんだから………。」
それは気の毒な事を聞いた。 ちょうどエジンバラ駅に着く頃だったので、僕たちはお互いの荷物をまとめて駅のホームに降り立った。
僕たちはとりあえず、僕が以前エジンバラで滞在していたホテルに行き、予定よりもう一泊伸ばしてもらって明日までここに留まることにした。 僕は僕で預けていた荷物を回収する必要があったし、僕もアニーも長旅に備えて体調を整えておく必要があった。ヘルシンキ行きの航空券も予約する必要があった。 フロントで実に退屈そうにスマートフォンをいじくり回していた男は、僕とアニーを珍しげに眺めて、家族かと聞いてきたので、僕もアニーも否定した。 心なしか僕よりアニーの否定の方が強くてよく響いていた気がする、ほとんど叫んでいると言ってもいいくらいだった。 しかしどれだけ頼んでも、部屋は変えてもらえなかった。 空いていないらしいのだ。 要するに、部屋には僕が寝ていたベッド１つしか備わっておらず、僕とアニーはどちらが床で寝るかに関して議論を重ねた。アニーは溜息をつきながら僕に言って聞かせた。
「貴方の性格がどうしようもない事は分かったけど、普通はこういう時はレディに譲るものだって学校では習わなかったの？」
僕は僕で譲る気は全く無かったので、今の世の中は男女平等であり、男が権利を主張したって何もおかしくはない、そしてここはそもそも僕が使ってた部屋だ、ニューラナークの田舎学校で何を習ったかまでは知らないけど……と並べて主張したが、またアニーが泣きそうになったので諦めて床で寝ることにした。 ヘルシンキまでの航空券(高かった)を2人分予約して、エジンバラ空港まで行く方法と時間を決めてしまうと、もう後は何もすることが無かった。 僕はランニング・ウェアに着替えてエジンバラ市内を走りに行った、陰気な市ではあるけど、晴れてる中でエジンバラ城を眺められる橋の上から、まっすぐ進んで小高い丘の上の公園まで走り抜けるとなかなか気持ちが良かった。 丘の上の公園には、出来損ないのギリシャの神殿のようなモニュメントがあった、僕は試しにその上に登ってみたが、思いの外風が強かったのですぐに降りて帰った。アニーを連れてパブに行くのも何なので、ほっといてパブに行くべきか、それとも適当なスーパー・マーケットで何か買って帰るべきかに関して思案して、結局アニーの意見を聞くことにした。 彼女は外で食べたい、と短く答え、僕たちは近くのパブまで歩いて行った。 小さな店で、香草を乗せて焼き上げた薄いピッツアとホップの香りが効いたビールを注文して、僕とアニーは一言も喋らずに熱いピッツアを齧った。 僕はアニーに普段どういうものを食べてたのか聞いてみた。
「キャベツと、パンと、たまにチーズ。」
産業革命期。
「貴方はどうして会社をクビになったの。」
僕は何故、君が僕が会社を辞めたことを知ってるのか聞いてみた。
「なんとなく。 貴方はいつも、何かに怒ってるような顔をしているから。」
僕はしばらく考えてみて、どうして僕が会社を辞めたのかについて考えてみた。 直接的な原因はもちろん上司だった。 彼の顔を思い出そうとしたけど、あまりうまく行かなかった。 代わりにコリン市長の顔を思い出して、僕はビールをもう一口飲んだ。
結局のところ、僕はどうにかして逃げたかったのだと思う、僕は正直にそう答えた。 僕は昔から、何かを変えるためにエネルギーを使うよりも、その物事から逃避することを選ぶ人間だったから、今回もそうしたんだと思う、そこまで答えた。
「……認めるのは嫌でしょうがないけど、貴方は私より頭が良さそうだし、ある程度はしっかりしてそう、ちゃんとした教育も受けてる、なのにどうして貴方は逃げる事を選ぶの？」
それは彼女の純粋な疑問だった。 日本ではこんな質問をされたことが無かった。 僕は性格のせいか交友関係も極めて狭く、本当に仲が良い友人だと言えるのは片手で数えられるほどだった。 でも彼らともこんな話をしたことはなかった。 あるいは、お互いに距離の踏み込み方をわきまえていたかもしれないし、そもそもそんな話をするようなシチュエーションにならなかっただけのことかもしれない。 いずれにせよ僕は、日本では一度も考えたことのない質問に対して、僕なりの答えを考える必要があった。 適当に嘘をついて誤魔化すことも出来たけど、なぜだかアニーに対してそういう事をしたくなかった。 僕はあくまでお互いにニュートラルな関係でいるべきだと思っているし、それにはある程度の正直さが必要だからだ。
僕は臆病なんだと思う、正直に答えた。 それ以上は話さなかった。 アニーはしばらく僕を見つめていて、それから今日で2度目の僅かな笑みを見せた。
「貴方の事は嫌いだけど、正直なところだけは認めてあげるわ。」
それはどうも、僕はそう返して、またビールを一口飲んだ。
翌朝僕たちは早めに起きて荷物をまとめ、淡々とホテルのチェック・アウトを済ませてエジンバラ空港まで向かった。 僕もアニーも、お互いほとんど言葉を交わさなかった。 アニーは心なしか緊張しているようだった。 考えてみればそれは当然の事なのだろう、僅か数日で行ったことのない国に行き、挙げ句の果てにはそこで何をすれば良いのか、どうやって生きていけばいいのかすら彼女は分かっていないのだった。
君はこれからどうやって生きていくんだろう、僕は呟いてみた。 アニーは僕の方をそっと見つめて、静かに口を開いた。
「……花を売るわ。」
フィンランドで造花が売れるのかどうか、僕にはよく分からなかった。 確か、海沿いにマーケットはあった気がするけど。 そこにアニーが並んで造花を並べて売るのは、なんとなくあまりうまくいかないように思えた。 あるいはエストニアに行った方がうまく行くのかもしれない、僕はそう返した。 エストニアのタリンになら、高速船に乗ればすぐに行ける、タリンの旧市街の丘の上で造花を売るのもいいかもしれない、ウエストミンスター寺院ほどじゃあないけど、しけた教会なら何個かあった気がする、僕はそこで君よりもう少し年上の女の人が観光客相手に絵を描いてるのを見たことがあるんだけど…そこまで言って、僕はまたアニーが泣き出したことに気づいた。 今回は特に僕に非はないように思えたので、僕はその理由を訊ねてみた。
「分かってるの、わたしにも分かってるの、こんなくだらない造りものの花を一生売り続けたって、何も変わらないって。でも分からないの、どうすればいいのか、ずっと離れたくてしょうがなかったあのニューラナークを出て、わたしに何ができるのか、何をすればいいのかが分からないの。」
残念ながら僕にもそれは分からなかったし、アニーのこれからの人生に対して責任を持つ気にはなれなかった。 お金があるうちはいいのかもしれないが、そのうちそれも尽きて、誰かに保護されればそれでもいいけど。 良くてイギリスまで送り返される、悪いと、もっと彼女にとって酷い方向に物事が進むかもしれない。 学もない、経験もない、金もない、身寄りもない少女が1人でどうにか生きて行けるほど、世の中がうまく出来ているとは僕には思えなかった。
あなたはまた逃げるの、誰かが僕にささやいたような気がしたけど、それはもちろん気のせいだった。
アニーはもちろん飛行機は初めてで、この古ぼけたパスポートが通用するのか僕はいささか心配だった。 ちなみに僕は当然、ナガトユキではなく本名で航空券を取らなければいけなかったわけだが、アニーには頑として本名を伝えなかった。 なんとなく、本名を伝えてしまうと、僕はアニーの今後に対して責任を持たなければならなくなるような気がしたからだ。 とにかく、僕もアニーも無事パスして航空券を手に入れ、荷物も預けてしまって出発ロビーの椅子に2人並んで腰掛けていた。 そういえば、僕は道中では完全にアニーとは何の関わりもない程で離れて座るつもりだったのに、どうして隣に座っているのだろう？ 僕は自分のためにビールと、アニーのためにオレンジジュースを買ってきて、お互いに黙ってそれを飲んだ。 そういえば、僕はこの国に来てから随分酒を飲んだ気がする。 もちろん日本でも毎晩飲んでいたんだけど、悪癖はより一層悪い方向へ向かっているようだった。 そういえばアニーは煙草が嫌いなようで、散々やめたらと言われた。 もちろん僕は構わず吸い続けた。 煙草を吸った息を吐かないで、そう言われて僕はしばらく息を止めようと頑張ってみたが、諦めてため息をついてアニーに何度も怒られた。 こうして時間は過ぎていき、僕たちは飛行機に乗った。 機種はエアバスの旧型だった、短距離を運行する用途の小さくて機内が狭いやつだ。 僕はこのタイプだけはどうしようもなく嫌いだったが、贅沢は言えないので黙って耐えていた。 ようやくヘルシンキ・ヴァンター空港に着いた時には、僕もアニーも疲れていた。 どうして昨日ランニングなんてしてしまったのだろう？ よりによってこんな移動の前日に体力を使わなくても良かったのだ。
僕とアニーは黙ったまま、とりあえずヴァンター空港のカフェに入って、アニーはミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを、僕はカウルー・ビールを頼んだ。 ビールはあの熊の柄がプリントされたグラスに入って出てきた。 僕はプラスティック製の椅子に深くもたれて、カウルー・ビールを啜った。
「失礼ですが、ご一緒してもよろしいでしょうか。」
彼が声をかけてきたのは、そんな時だった。 僕とアニーは黙ったまま男の顔を見上げた。 彼は操縦士の制服に身を包んでいる、僕よりひとまわりほど年上の中年男性だった。 顔付きも柔和で、その目はどこまでも穏やかだった。 まるで空でも眺めてるみたいだ。 僕は黙ったままビールをもう一口飲んで、とりあえず頷いた。 操縦士は僕の正面に座って、僕と同じカウルー・ビールを注文した。 操縦士がビールを飲んでもいいんですか、僕は尋ねてみた。
「今日はもうオフなのですよ。 操縦する時はこれでもけっこう神経を使うのです、操縦で疲れた神経をほぐすためには、誰かと話しながらカウルーを飲むのが一番なのですよ。」
操縦士は軽くグラスをあげて乾杯の意思を示し、そのまま一口ビールを飲んだ。 彼はフィンエアーに勤めている操縦士だと自己紹介して、僕とアニーに名刺をくれた。 僕も名刺を返そうとしたが、会社を辞めたことを思い出してやめておいた。
我々はお互いの飲み物を啜りながら、しばらく話した。 彼はいろんな国を訪れた話をしてくれた。 ダラスでハリケーンに遭遇し、45時間フライトの出発が遅れた話まで進んだところで、僕と彼のビールが切れた。 僕達はもう一杯ビールを注文して、昼食を食べていないアニーのためにスモーク・サーモン・サンドウィッチを注文して、それらが届くまでに煙草を吸いに外に出た。 コリン市長から貰ったアークロイヤルはもう吸い尽くしていたので、僕は仕方なく自分のマールボロに火を付け、彼はL &Mの箱を取り出した。 僕は彼の加えた煙草に火をつけてやった。 やれやれ、僕はようやく彼が僕たちに近づいてきた要件に関して尋ねることができた。
「珍しい組み合わせでしたからね、日本人の青年とイギリス人の少女。 誘拐かと心配しましてね。」
僕も彼も笑った。
「市長は貴方に戻ってきて欲しいのです。 貴方にニューラナーク村を受け継いで欲しくてね。 私はユートピア共産主義者です、ニューラナーク村で労働者として2001年まで過ごしてました。」
やれやれ。
「ニューラナークの力は、貴方が思っているよりずっと強くて深いのです。」
僕は深く煙を吸い込んで、それを吐き出した後に答えた。 申し訳ないけど、僕は市長を引き継ぐつもりもないし、正直なところあの村にいい感情は抱いていない。 君がアニーを連れ戻しにきたのなら話は早かったんだけど。
「市長はマクラウドには興味が無いのです、あれはニューラナークの労働者ではない、ただの社会の敗北者なのです。 貴方ならわかるでしょう、アニー・マクラウドは結局のところ、ニューラナーク村に戻る以外にこの世界で生き残る術を持たないのです、それは仕方のない事なのです。 問題はそこではないのです、貴方の方なのです。 貴方が日本人である事も、日本での暮らしがあることも何の問題もありません。 貴方はニューラナークの市長権を受け継ぐだけで、これからの暮らしは保証される、別に何も一生をニューラナーク村で過ごすわけではありません。 休暇も年間125日あります、市長の身分になれば、出張で日本を訪れる機会も多く作れます。 今は秋田犬の人形を新たに作っている最中で、コリン市長もそのビジネスで忙しいのですよ。」
それは良かった。 成功を祈っている。 個人的にはパピヨン種の人形も頼みたい。
「検討しておきましょう。 もちろん、貴方に強制をしたいわけではないのです。 私は空港で待っています、貴方の考えがまとまった段階で、もう一度ヴァンターに来ていただきたいですね。 これは個人的なアドバイスですが、貴方はアニー・マクラウドとは一緒にいるべきではないのです。 あんな労働者にも満たない社会的敗北者に惑わされてはいけません。 貴方はよくわかっているでしょう、世の中には社会の歯車になる事を必死に拒み続けて、自分が歯車にすらなれないうちに一生を終えていく敗北者が山ほど世の中にいる事を。 もし貴方が明日以降もアニー・マクラウドと行動を共にすれば、それは必ずいつか貴方自身の枷となって選択を迫ることになります。 社会的敗北者と行動を共にすることは、未来ある人にとって決して賢明な行動とは言えないのです。 貴方がユートピア共産主義者であれば話は別ですが。 ユートピア共産主義は、敗北者を労働者として引き上げて管理できるのですから。 貴方はその管理権を、現代社会に適した形で得るのです、貴方への祝福としてね。」
僕は黙って2本目のマールボロに火をつけて、彼が話している事を咀嚼した。 彼が言っていることは確かに僕の考えの一面を的確に表していた。 残念ながら認めざるを得ないのは、彼はアニー・マクラウドより僕の事を理解しているように見えるということだけだった。 彼がどう言った経緯でニューラナーク村の労働者から、フィンエアーの操縦士になったのかは分からなかったし、別に知りたくもなかった。 しかし彼には立場があり、それはアニーよりは僕に近いように思えた。
考えておく、僕はそう伝えて、7日後に帰国する予定でいるから、その時にもう一度伺うと言った。
「ありがとう、いい返事を期待しています。 フィンランドでは今、ベリーが美味いのです。 トルコ風の匂いのあるヨーグルトに、砂糖で煮込んだベリーをたっぷりかけて食べると最高ですよ。」
それはどうも。 期待しておく。
僕たちはカフェに戻って、もうテーブルの上に乗っていたビールを飲んだ。 アニーは黙ったままスモーク・サーモン・サンドウィッチを齧っていた。
ところで、ユートピア共産主義者って、フリー・メイソンみたいな集団なのだろうか？ 今度調べてみようと僕は思った。
彼は別れ際に僕と握手をして、良かったらこれを、とヘルシンキ市内の地図を渡してくれた。 僕はアニーとホテルに向かう途中でそれを広げてみた。 彼はヘルシンキ市内のうまい飲食店に赤い丸をつけてくれていた。 それに一枚だけ書類が挟んであった。 私はニューラナーク市長の役職を受け継ぐことに同意する。 サイン欄。 僕が会社で回していた起案よりも遥かにシンプルだった。 僕は捨てようとして、ちょっとだけ考えてやめておいた。 やれやれ、これだけシンプルに運ぶ物事がある一方で、めんどくさい物事はどこまでも面倒なものなのだ。
「ねえ、この石畳、スーツケースで歩きにくいんだけど、ちょっと持ってくれない、ナガトユキさん？」
僕は契約書にサインして、ニューラナークの市長に就任した場合を考えた。 とりあえずジェーンに秘書になってもらい、申し訳ないけどアニーはクビにしよう。スティーブ・ジョブズかトランプ大統領みたいだ。
そういえば、どうしてニューラナーク「村」なのに「市長」なのか聞くのを忘れた。
やれやれ。
僕たちは空港から数百メートルほど離れたヒルトン系列の豪華なホテルに、とりあえず数日間の宿を構えた。よくわからないけれど、夏のヘルシンキはヒルトンでも安く泊まれるのだ。 考えても調べてもわからない、永遠の謎である。 僕たちは荷物を預けて、夕方でもまだ明るいヘルシンキの市内を歩きながら、これからのことに関して話した。 とりあえず、僕がジェーンから頼まれた義務はこれで終わったわけだ。 アニーをニューラナーク村から遠く離れたヘルシンキまで送り届けたし、それ以降のことはもちろん僕の預かる範疇を超えていた。 僕は再就職先に出社するまでに残った日数を数えてみたが、あと43日は残っていた。 2週間前に日本に帰るとしても、あと1ヶ月近くは海外に滞在できるわけだ。 ヘルシンキにそんなに長く滞在するつもりもなかった、せっかくだからこの機会に行きたい国は山ほどある。
「貴方はいいわね、気楽で…。」
アニーは沈んだ声で僕に話しかけてきた。 確かにその通りだ。 僕がとりあえず自分のために考えなければならないのは、退職手続きや入社時に記入する書類より遥かに簡単な、ニューラナーク市長引き継ぎ書類をどう処理するかだけだった。 もちろん僕はニューラナーク市長になる気は無かった。 ならどうして、すぐにこの紙切れを捨てなかったのだろう？ 僕の再就職先よりも給料は良さそうだけど。 僕たちは操縦士が勧めてくれた店のひとつに入り、アニーも僕もサーモンのクリーム・スープを注文した。 僕はビールも頼んだ。 クリーム・スープの中には細かく刻んだディルも入っていた。 フィンランド料理の中では珍しく香り高いそのスープを啜りながら、僕は自分の知ってるフィンランド料理についてアニーに話して、カレリア・パイを明日の朝食に是非、と進めた。
「なんなの、それは？」
カレリア・パイは素晴らしい料理の一つだと僕は答えた。 あのフィッシュ・アンド・チップスなんかとは比べ物にならない。 大麦を柔らかく煮て生地の上に盛り付けて、上からマッシュ・ポテトを軽くかけて焼き上げる。 手間もかかるけど栄養も抜群の料理だ。 たまにエッグ・バターをつける奴もいるけど、あれは邪道だ。 素材の味を大切にするなら、そのままで食べるべきだね。 あれはフィンランドが世界に対して誇っていい料理の一つだ。 僕はイギリス人と飛行機で隣り合わせになったことがあるけど、彼は日本へ向かう航空機の中で出された機内食で、日本の蕎麦よりもカレリア・パイを優先して食べてたね……。
「ねえ、１つあなたに関して気づいたことがあるんだけど。」
んん？
「貴方、悪口を言う時と冗談を言う時だけは饒舌になるわよ、気付いてた？」
僕は肩をすくめてビールを一口すすって、あのどうしようもなく不味いパイの事を頭の中から追いやった。 ヒルトンでは絶対にベリーを乗せたターキッシュ・ヨーグルトを食べよう。そういえばあのユートピア共産主義者の操縦士も、カレリア・パイだけは勧めてこなかった。 帰り際に空港に行った時に、お土産に持って行ってやろう。
僕とアニーは、明日行くべき場所について話した。 港沿いの市場で造花が売れるかどうかを見に行って、その後でスオメンリンナに行こう。 アニーにも特に異論は無いようだったので、明日はそうすることにした。 僕たちはヒルトンに戻り、清潔なベッドで寝た。 そういえば僕は昨日床で寝たんだった、僕がそう呟くと、アニーは当然の礼儀だと返した。 考えてみれば確かにそうかもしれない。 そういえば、僕はふと気になって聞いてみた。 僕のなんとなくのイメージで申し訳ないんだけど、ニューラナーク村の人たちはみんな正直そうな気がしたんだけど、ユートピア共産主義者はみんなそういうものなんだろうか？
アニーは肩をすくめて返事を返してくれた。
「そういうものなの。 あの村の住人には嘘は許されないの、それがルール。」
なんとなくそんな気がしたけど。 正直こそ全て。 昔の村の掟みたいで、僕は少し怖くなった。 嘘をついたら村八分……。
翌朝僕たちは朝早く起きて、海沿いの市場まで歩いて行った。 あのどこまでも陰気なイギリスとは全然違って、フィンランドの朝はあくまで爽やかだった。 市場ではいろいろなものが売られていた、大量のベリー、セーター、お土産、その他。 僕は正直に言って特に興味もなかったので、アニーにしばらく見たいようにさせて、僕は埠頭で煙草を吸った。 この市場で本当にアニーは造花を売り続けるんだろうか、僕はそれをずっと考えてみた。 残念だけど、どれだけ考えてもうまく行きそうもなかった。 造花で生計を立てていくなら、やっぱりウエストミンスター寺院に行くべきなのだ。 あんなけばけばしい東方正教会みたいなやつの麓で造花を売っても、うまくいきそうになかった。 僕はとりあえずそれは個人的な意見として、しばらくアニーには伝えないことにした。 彼女はとりあえず今のところ楽しそうに見えたし、人間は考えたく無いことは後回しにするのもまた重要な機能なのだ。
僕とアニーはその後でスオメンリンナ行きのフェリーに乗って、しばらく黙ったまま少し冷たい海風に当たっていた。 船の上から眺めるヘルシンキの街並みを眺めて、アニーはとてもきれいだと呟いた。 そういえば、アニー自身の口から、風景に限らずあらゆる物事に対して、彼女自身の感想を聞くのは初めてかもしれなかった。 僕は珍しく皮肉を言わずに、そうだねと返した。
「他の街もこういうものなの？ ニューラナークが特別酷いだけ？」
僕はしばらく考えて、こんな街ばかりでもない、世界にはもっと色々あるからねと返した。 僕は学生だった頃から、時間を見つけてはこうしていろんな国を旅行してきたけど、もちろん感動したこともいっぱいあるし、がっかりしたことももっといっぱいある、でもそう言う事を経験すること自体がいいことだと思ってる。
「貴方がこれまで旅行した国の中で、一番ひどかったのはどこなの、もちろんニューラナークは除くとして。」
あそこと比べられても困るけど、そう言って僕もアニーも珍しく笑った。
僕たちはスオメンリンナ島で特に何もすることは無かった。 小さな教会まで歩いて、その後で島の端っこまで歩いて行った。 僕もアニーも特に何も話さなかったけど、お互いにそれはそれで満足していたし、旅行とは本来そういうものでもいいはずだった。 穏やかな日だった。 僕とアニーは港沿いのレストランで簡単な食事をとって、僕は自家製のビールを飲んだ。 アニーはアイスクリームとコーヒーを頼んだ。 こんな日がずっと続いても、それはそれで悪く無いかもしれない、僕はふとそう考えている自分に驚いた。 おいおい、最初と話がずいぶん違う、僕はジェーン・マクラウドからアニーを押し付けられただけだし、後数日で僕は別の国に行くつもりで、そこでアニーとは別れる予定だったはずだ。 アニーには気の毒だけど、それは僕が責任を持つ事では無いはずだった。 僕はそんな事を考えていた。 でももちろん、そんなに上手くはいかなかった。
夕方頃に一旦ホテルに帰ってきた僕たちに、フロントマンが声をかけてきた。
「アニー・マクラウド様にお手紙が届いてますが。」
どこから？
「スコットランド。 ラナーク州、お名前は…コリン、コリン・ファース。」
僕もアニーも顔を見合わせて、僕はため息をついた。 やれやれ。 アニーは少し緊張して手紙を受け取りに行った。 僕はなんとなく気になって、別のフロントマンに話しかけて、ちょっとした頼み事をしておいた。 アニーは手紙を開けないまま黙ってエレベーターに乗って、僕もそれに従った。 部屋に戻って、アニーが封を開けて中を読んでいる間に、僕は次にどの国に飛ぼうか思案していた。 事によっては、さっさと日本まで逃げてしまった方が色々と楽かもしれない、残りの休みは九州にでも行ってのんびりするのも悪く無いかもしれない。 そんなことを考えていたので、僕はアニーが近寄ってきて、僕の手をそっと握るまで、彼女に全く気付いてやれなかった。 彼女の手は小刻みに震えていた。
アニーはしばらく何も話さなかった。 僕も黙っていた。
「地図を貸して。 操縦士さんから貰った。」
数分間そうした後で、アニーはそれだけ喋った。 僕はまだ黙ったまま従った。 ここにきてようやく僕は、何も考えずに1日アニーと一緒に過ごして楽しく観光したことを後悔し始めた。 操縦士の言う通りだった。 僕はアニーに縛られる前に、昨日のうちにすぐこの可哀想な少女を見捨てて逃げ出すべきだったのだ。
「食事に行きましょう。」
やれやれ。 今日の航空券を予約するにはもう遅すぎた。 僕は機会を逃してしまったようだ。 わかったよ、僕は現金を入れた財布とパスポートだけを持って、部屋から出ようとしたところでアニーに呼び止められた。
「………これも、持って行って。」
彼女はあの起案より薄っぺらい契約書を持っていた。 僕はこの旅行中で何度目になるかわからないため息をなんとか押し殺してドアを開けた。
僕はアニーと出かける前に1人でフロントに寄って、頼んでいたものを貰った。 これからおそらく起こるであろう災いを避けるために、こんなもので切り抜けられるのか不安ではあったけど、とにかく今はこれしか頼るものがなかった。 今すぐにホテルの外に逃げ出して明日の航空券を予約して、出発の時刻までどこかに隠れることも本気で考えたけど、空港にはあの操縦士がいるはずだった。 僕が今考えている通りだとすると、そうなるとおそらくもっと面倒な事になる気がした。 やれやれ、本当にとんだことになった。 決断が遅れたことを僕は心底後悔していた。 起こってしまったことはもうどうしようもないんだけど。
僕とアニーは郊外の店に向かって歩いていた。 アニーの顔色は、手紙を読んだ時からあいかわらずよくなかった。 困った事になった、どうも冗談や軽口を言う雰囲気では無かった。 僕の冗談がどれほど場を和ませるかについては、人々の間で意見が分かれるところではあったけど。
「私、ニューラナーク村に戻らなきゃいけない。」
僕は黙っていた。 アニーの体の震えが少しひどくなった気がした。
「姉が危篤なの。」
僕はまだ黙っていた。 アニーもそう言ったっきり、黙ってしまった。 僕たちは黙ったまま店の中に並んで入って、壁際のテーブルに通された。 店の中は照明をあえて落として暗めに、落ち着いたムードが保たれていた。 ジェーンと食事できるならこんなところでも悪く無いかもしれない、僕はそんなことをふと思った。 食事に来たのだけど、僕はまったく腹が減ってなかった。 アニーも同じみたいだったので、僕たちはビールとココアだけを頼んだ。 この店にもユートピア共産主義者がいるのだろうか。
飲み物が運ばれてきて、僕たちは黙ってそれを一口だけ飲んだ。 ニューラナーク村で飲んだぬるいビールよりまずい、そう思ったけど、それは僕とアニーの間に流れる空気のせいかもしれない。 アニーはもうすでに泣きそうな顔になっていた。
要するに。 僕の方から切り出した。 要するに、僕がこの紙切れに署名して、君はニューラナーク村までそれを持っていく。 そうしないと君はニューラナーク村に帰れない、コリン市長からそう言われたから。 そんなところかな？
顔を上げたアニーと僕の視線が合った。 僕の言ったことでおおむね間違いないようだった。 残念ながら僕の答えは、そこまで言ったところでアニーに割り込まれた。
「………ごめんなさい。」
そういえば、僕は初めてアニーに謝られた気がする。 はじめの頃は、どうやってこいつに頭を下げさせてやろうか本気で考えていたけど、考えてみれば彼女自身は何も悪いことはしていないのだったっけ。 僕は話すのを中断して店の中を見回した。 店員も客も、全員が僕たちの方を見つめていた。 それは完全に表情の無い顔だった。 人間はこんなに無感動になることができるのだろうか。 ユートピア共産主義者。 要するにこの店に入った時から、僕に拒否権は無いようだった。
「……………本当にごめんなさい。 こんな方法でしか、私は帰れないの。 姉と貴方にここまで連れてきてもらったのに、こんな事になってしまって、本当にごめんなさい………。」
僕は泣きながら話しているアニーを暫く見つめて、契約書を取り出した。 僕はそれを2枚用意していた。 アニーも黙って、涙を拭ってその2枚の契約書を見つめていた。 僕はそのうち1枚を黙ったまま破って、ライターで火をつけてビールの中に突っ込んだ。 カラーコピー。
「……それで、私を騙すつもりだったのね。」
僕は正直にそうだと答えた。 でもそれはやめにした。 僕が嘘をついても、君にはすぐに分かるだろうし、何よりそれは対等な君との対等な関係を破る事になるから。
「……………貴方、嘘をつくと話がながくなるから。」
アニーはそう言って、僕は君も冗談や軽口が上手くなったねと返した。 何日か一緒にいたら、嫌でも癖の1つや2つは移るものだから。 僕もアニーも、そこでようやく少しだけ笑った。 僕は笑いながら契約書にサインして、アニーに渡した。 アニーはしばらく躊躇ってから、それを受け取って僕のサインを見つめて、確認してそれを折り畳んでポケットに仕舞った。 ユートピア共産主義者たちは、黙ったままその光景を見つめていて、アニーが微かに頷いて、ようやく自分たちの仕事や食事に戻った。 彼らの間では嘘は通じないのだ。 厳しい村の掟。
僕とアニーは店の外に出た。
そういえば腹が減った。 僕はアニーを、以前行ったことのある中華料理屋に行かないかと誘った。 君は知らないかもしれないけど、このヘルシンキで最もうまいのは中華料理なんだ、ヒルトンの近くにあるんだけど、店は汚いけど味は最高なんだ。 僕の友達の1人は、その店の餃子が食べたすぎて夢にまで見たんだぜ。 信じられないかもしれないけど、中華料理屋にはフィンランド人じゃなくて中国人しかいないんだ…。
アニーは黙ったまま聞いていて、歩きだしてからようやく口を開いた。
「…また、嘘でしょう。」
残念ながらこれが本当なんだな。
僕は真面目な顔でそう言って、ようやく僕もアニーも本当に笑えた。
やれやれ、僕はまた逃げようとしていた。
アニーは契約書を持ってニューラナーク村に帰れる。 でもきっとコリン市長にあんな子供騙しは通じないだろう。 きっと、アニーにとって最も酷い事になるかもしれない。 でも僕は、アニーに対しては何の責任もないのだ。 僕は日本に帰るための航空券を探していた。 ちょうど安いやつがある、これでこのユーロ圏・ポンド圏ともようやく離れられる。 もうしばらく来たくない。
あなたはまた逃げるのね。
誰かが僕の耳元で囁いた気がした。
僕とアニーは、あの美味い中華料理屋まで歩いていた。
「ありがとう。」
アニーは僕にそう言ってくれた。 やれやれ。 僕の方こそ、君のおかげでなんとか厳しい局面を切り抜けられた。 感謝するのは僕の方なのだ。 そして本当に反省しなければならないのも僕の方なのだ。
「……貴方は市長になっても、私と今みたいに話してくれるの？」
僕は黙っていた。
「あつかましいかもしれないけど、私はその方が嬉しいわ。」
君は良かったら、ロンドン経由で帰ったらどうだい。 僕はそう提案した。 ウエストミンスター寺院で造花を売るのも最初で最後かもしれないからね。
「貴方は本当にウエストミンスター寺院が好きなのね。」
僕はもう一度否定して、またお互いに笑った。
やれやれ。
僕は関西国際空港行きの便を調べるのをやめた。
代わりにエジンバラ行きを調べてみると、残念ながら安いやつが山ほど出てきた。
僕はその中から適当なやつを選んで予約してしまった。
これで逃げるのはやめた。 僕はアニーに聞こえないように呟いた。
僕はもう一度、市長に会う必要があった。
(第2部おわり)