ラナークファンタジー第3部

※この地球とは別の世界の完全な創作のお話です。
登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。

(第3部)
僕とアニーはその夜、ずいぶん遅くまで起きていた。時刻が0時を回るまで、僕たちはいろいろな話をした。お互いにニューラナーク村の事には触れなかった。真面目な話もしたし、ずいぶん下らない話もした。僕は今まで飲んだビールの銘柄を全て答えるという特技を披露してみたが、アニーには当然感心されなかった。
「大人って、ずいぶん下らない事に記憶力を使うのね。それとも貴方が変わっているだけなのかしら。」
みんなこんなものさ、僕はそう返した。世の中の凄い奴には、今まで行った世界遺産を事細かに全部説明できる奴もいるし、ナマコの細胞で論文を書いた奴だっているんだ。君が思う以上に、大人の力は凄いんだ…。
「……私が大人になったら、今日みたいに、いろんな国のいろんな場所を見て、いろんな料理を食べて、そしてお酒を飲むのかしら。ねえ知ってる、私今日初めてイギリス料理以外のものを食べたの、あの餃子は美味しかったわ。少なくともイギリス料理よりは。夢にまでは見なかったけど。」
君はフィンランド料理もたくさん食べたと思うけど。
「あれはイギリス料理とあんまり変わらなかったわ。」
僕もアニーも笑った。
最初の質問に戻るけど。君が大人になってどんな人生を送るのかは誰にも分からない。もちろん僕にも分からない。けど確かなのは、君にはどこにでもいける、どんな人生を送ってもいい権利があるっていうことだ。それは誰にも縛れるものじゃないし、もちろんニューラナーク村の人にも、市長にも、肉親にもそれは奪えない、君の権利なんだ。少なくとも僕はそう思うけど。
「……貴方は本当に変わってるわね。私、貴方は子供が嫌いなんだってずっと思ってた。あまりにも意地悪過ぎたもの。」
やっぱりそう思ってたのか、僕は自分の行動や言動を振り返ってみたが、確かにそう思われても仕方がなかった。実際に子供は大嫌いだけど、それは僕が大人じゃなくて、まだ精神的に子供だからかもしれない。
対等な関係ってそういうものだと僕は思ってるんだけどな、僕はそう返した。
「貴方、少なくとも結婚とか、保護者には向いてないわね。」
全くそう思う。
「…貴方、女の人と、付き合った事もないんじゃない？」
残念ながら、それはノーだ。意見の相違で別れたけど。アニーは肩をすくめて、その話題にはそれ以上触れようとしてこなかった。僕もその方が有難かった。

そろそろ眠くなってきたので、僕はもう寝ようと提案して、アニーも同意した。
ベッドに入ってライトを消してからも、少しだけアニーは僕に話しかけてきた。
「私、早く大人になりたいわ。」
そうかい。大人になるには厳しいテストがある。少なくともジャップランドではそうだ。ビールと煙草の銘柄を最低10種類は答えられて、世界遺産の種類と場所と名前と行き方を最低60種類はスムーズに回答できて、当然だけどポケットモンスターの育て方は全部当たり前のように答えられないといけないんだ。厳しい関門だ。
僕がくだらない嘘(本当かもしれない)を話している間に、アニーは寝てしまったようだった。僕も枕に頭を預けて、ゆっくり目を閉じた。少しだけ経って、もう寝てしまったかと思ったアニーが、微かに、耳をよくすまさないと聞き取れないほどに小さい声で、誰に向かってでもなく呟いた。
「…そういう大人になるのも、悪くないかもね。」
そうだね。ぼくも小さく同意して、その後で眠りについた。

翌朝僕たちは7時ごろにゆっくり起きて、ヒルトン・ホテルのうまい朝食を食べに行った。僕は自分のために、パンとスモーク・サーモン、鰊の酢漬け、そして相変わらずベリーをたっぷりかけたトルコ風の黄色いヨーグルトをとった。アニーにはカレリア・パイを勧めた。フィンランドまで来てこれを食べない奴は非国民みたいなもんだ。君の国まで来て魚と芋を揚げたアレを食わないのと同じようなもんだ。アニーはそれを一口そのまま何もつけずに齧り、なんとも言えない顔をして、何も言わずに別のパンを取ってきた。やれやれ。僕たちは食後に濃いコーヒーを飲んだ。アニーは苦そうな顔をして、でもミルクも砂糖も入れずにブラックで飲んでいた。
「…大人って本当に不思議ね。これ何が美味しいのかしら。」
君も四六時中オフィスに座ってる大人になったら、1日1リットルはもっとまずいボトル・コーヒーを飲むようになるかもしれない。ブラックのボトル・コーヒーだけじゃ足りないから、それに加えて3本は甘いコーヒーとカフェオレを毎日飲んでる奴を僕は知ってる。
「やっぱり、貴方の知り合いが変わってるだけじゃないの？」
もちろんそれは僕自身のことだったけど、口には出さなかった。
良かったら、エスプレッソ・コーヒーも飲んでみたらどうかな。僕は一応提案してみた。飲み方は教えてあげるよ。
アニーは疑わしげに僕を見た後で頷いて見せ、僕たちはエスプレッソ・マシンに向かった。小さいマグにものすごく濃いドロドロのエスプレッソを注いで、僕たちは席に戻った。いいかい、まず砂糖を入れるんだ。大量に、大量に入れるんだ。エスプレッソの体積と同じくらいまで入れてもいい。僕はアニーに教えながら、絶えず手を動かして砂糖をすくって入れていた。 5杯は砂糖を入れたところで僕はエスプレッソを飲み干した。アニーは絶えず疑わしそうな目をこちらに向けながらも、それに従った。
どうだい、コーヒーもそこまで悪くないだろ？
アニーはしばらくマグの底に残った溶けてない砂糖を見つめて、そうね、と頷いてくれた。

僕たちはホテルをチェック・アウトした後で、空港まで歩いた。僕もアニーも黙っていた。アニーはあの継ぎ接ぎだらけの年代物のスーツケースを引っ張って、僕もいつも使っているザックを背負っていた。途中で安いペットボトル入りの水を買って飲んだ以外は、僕たちはまっすぐ空港まで歩いた。僕とアニーは、ここからは別々の旅をしなくてはならない。僕は昨日、アニーのためにロンドン行きの航空券を取って、そこでのホテルも3泊分予約した。僕がビザ・カードを見ながら支払いを済ませるのを、不思議そうにアニーが見つめていた。それを見て、僕は少し考えてから、自分のアメリカン・エキスプレスを金属製のカード・ケースに入れて、それをアニーに渡しておいた。アニーはクレジット・カードを知らなかったけど、僕はとくに説明しなかった。これをパスポートと一緒に肌身離さず持っていたらいい。僕はそうアニーに教えた。パスポートとクレジット・カードは、どんな国でも君を守ってくれると思うから。
「お守りみたいなものなの？」
まあそんなところだ。少なくとも、ジャップランドの寺とか神社で投げ売りしてる、フィリピン製のお守りよりは効果があると思う。そのカード・ケースと同じだ。お守り袋の中にフィリピン製の厚紙が入ってるんだ。
「造花より売れるかしら？」
アニーは本気で考えているようだったので、僕はやめておいたほうがいいと思うと返した。クレジット・カードを作ってお守りがわりに売るのはリスクが高いと思う。御利益はその分ありそうだけど、アニーなら本気でアメリカン・エキスプレスを厚紙で作りかねなかったから。
僕たちはお互いに航空券を発行し、荷物を別々に預けてしまうと、もう何もすることがなくなった。話すべき事は昨日話し尽くした。僕たちは行きと同じカフェでビールとコーヒーを飲んだ。アニーはエスプレッソを頼んで、砂糖を大量に入れた。
「ねえ。」
何？
「また、どこかに旅行に行きましょう。貴方が次に会社をクビになった時に。」
次の会社はニューラナーク社だけど。僕たちはそうやってお互いに笑いあって、その後でアニーは泣き出した。僕はしばらく黙った後で、そろそろ君のフライトの時間だ、そう言って会計を払い、まだ泣き止まないアニーを連れて手荷物検査を受け、フライト・ロビーに行った。
もし君が困った時には、僕は最後にアニーに言った。クレジット・カードを見て、この旅行の事を思い出すんだ。クレジット・カードは、本当に君が困った時以外には取り出してはいけない。 10歳の女の子がアメリカン・エキスプレスを持ってるのを優しく見守ってくれるほど、世の中は優しくないから。
アニーは泣いたままで頷いた。

また、ニュー・ラナークで。
「………ありがとう。ナガトユキさん。本当に、本当に、楽しかった。」
僕は最後まで、アニーに本名を名乗らなかった。

僕は僕で、まだこの空港でやることが残っていた。あの操縦士に会わなくてはならなかった。僕にはニューラナーク村の情報が少しでも必要だったし、ここでまともな会話ができそうなユートピア共産主義者は、少なくとも僕は操縦士以外には知らなかった。どこに行けば会えるのか、何故だか僕には何となくわかった。僕はカウルー・ビールの瓶を4本買って、喫煙室に向かった。ヴァンター国際空港の清潔な喫煙室で、やはり僕は彼と会うことができた。
「お久しぶりです。 ∗∗∗∗∗∗∗さん。契約書にサインを頂けたようで、光栄です。コリン市長もこれで役目を果たすことができる、そう喜んでおられましたよ。」
僕たちはお互いの煙草に火をつけた。ビールを買ってきたんだけど、良かったらどうかな。飲酒運転は問題だけど。
「頂きます。今日は夜の便なので、その間に酔いも覚めます。この後少し眠る予定なので、ちょうど良かった。貴方と少し話して、酒を飲みながらリラックスする。熱いシャワーを浴びて、もう一本煙草を吸えばぐっすり寝れます。貴方も会社にいた頃はそうだったでしょう？」
僕は同意した。残念ながら、彼はかなり僕と似た人間かもしれなかった。少なくとも今の会話から察するにだけど。僕たちはビールの蓋を開け、軽く乾杯をして一口飲んだ。ヒースローの喫煙室に行った事はある？
「あの牢獄にですか？もちろん、1度行ったっきり2度と入る気になれませんでした。あの空港は喫煙者を家畜か犯罪者と間違えている。」
僕は深く頷いて同意した。その後で本題を切り出した。いつになるかよくわかってないけど、僕はニューラナークの市長になる、過程はどうあれ、僕はあの契約書にサインしてしまった。
「その通りですね、過程はどうあれ。貴方にも日本での手続きや何かとあるでしょうから、もちろん実際に市長の業務に就くのはそれほどすぐにではありません。半年後かもしれないし、もしかしたら1年後かもしれない、もっと後かもしれない。しかし覚えておいていただきたいのは、契約書がコリン市長の手元に届き、それに市長が同意したその時から、貴方は間違いなくニューラナークの市長なのです。貴方には少しばかりの義務と、それから莫大な利益と権力が与えられます。」
それから、少しの呪いと。僕はそれは口に出さなかった。 2つ頼みたい事があるんだけど、僕はそう言って、お互いにもう一口ビールを飲んだ。まず、ニューラナーク村で絶対に守らなければならない事があれば、今のうちに教えてほしい。
「ニューラナーク村のルールはシンプルです。これは、市長の貴方であっても絶対に逆らえない、村そのもののルールです。これはとても古くから定められています。デイルやオーエンがあの土地に労働者達のユートピアを建設するそのずっと前から、あの土地に根付くルールなのです。貴方はそれをある種の呪いと思うかもしれませんが、それはあるいは祝福の形かもしれない。ルールは2つあります。 1つは貴方も知っているだろうと思いますが、あの村の住人は、決してお互いに嘘はつけません。ユートピア共産主義は、正直さという紳士協定の上でしか成り立てないのです、あらゆる形式やユートピアがそうであるように。」
ということは、ジェーン・マクラウドは残念ながら本当に危篤なのだ。あと1ヶ月の命だろう、アニーに昨日の夕方見せてもらった市長からの手紙にはそう書いてあった。僕は少し暗い気分になった。ただでさえ憂鬱なのだ。
「もうひとつは至ってシンプルなルールです。ニューラナークでは、物事の名前が何にも増して絶対的な力を持ちます。貴方がいた会社や、私が勤めているフィンエアーのあらゆる手続きよりもはるかに薄っぺらい1枚の紙切れが拘束力を持てるのは、その力が働いているためです。」
名前。もちろん彼は僕の本名を知っていた。航空会社に勤めているのだから当然のことなのだ。そして、アニーにはそれを教えなかった。僕はずっとナガトユキのままだったし、アニーもそれを信じていた。要するにそういう事なのだ、僕はそうやってアニーの目の前で契約書にサインして、そして見捨てて逃げようと考えていた。我ながら10歳の子供を騙すのに手の込んだことをしたものだ。きっと僕が初めにカラー・コピーを燃やして見せなければ、きっとアニーは僕を疑っただろう。僕は今でも、自分のとった行動は完璧に正しく、合理的な行動だと思っていた。少なくとも僕の中では。非合理的なのは、今からエジンバラに戻ろうとしている僕の行動の方なのだ。
ありがとう。頼みたいことのもう1つなんだけど。
僕をコリン市長にもう一度合わせてほしい。出来ればニューラナーク以外で。
彼は少しだけ笑ったように見えた。
「もちろん。市長と事前に話さないと分からないこともあるでしょう。貴方自身の納得が、何より大切なのですから。市長と会う手筈は私が整えましょう。 3日後、8月27日の朝に、エジンバラ駅の近くで待っていてください。市長とゆっくり話す場所は、貴方の方で決めてくださって構いません、市長はその日は休暇ですが、貴方のために喜んで時間を取ってくれるでしょう。」
ありがとう。良かったら、もっとビールを飲もう。
僕たちはもう一本ずつカウルー・ビールを開けて、また煙草に火をつけた。
「よろしければ、私からも質問があるのですが。」
どんなこと？
「貴方はあの社会的敗北者のために、日本での普通の生活を捨ててニューラナークを受け継ぐことを選んだ。貴方がその気になれば、逃げ切る方法を考えることはそう難しくないように私には思えますが。アニー・マクラウドのような、学もない、世間も知らない、力も持たない人間1人を騙す事は、貴方なら簡単な事でしょう。どうして貴方はアニー・マクラウドのために、わざわざ今からエジンバラまで向かうのですか？」
確かにその通りだ。実際僕は今でもアニーを騙し続けていた。僕は昨日の夕方まで、そうして日本に帰ろうと本気で考えていたのだ。僕はしばらく考えた。火をつけた煙草がずいぶん短くなって、僕はそれを灰皿に擦り付けて消してから答えた。
アニー・マクラウドは僕の友人で、僕は彼女を助けたいと思ったから。だから、彼女のことを社会的敗北者なんて呼ぶのは、もうやめてほしい。
彼はしばらく僕を見つめて、黙って頷いた。
僕と彼はビールの続きを飲んで、その後はニューラナークとは関係のない話をした。
「貴方はずいぶんと旅行をなされているようですが、行ってみたい国はまだありますか？」
僕はニュージーランドに今度もう一度行きたいと答えた。前にオークランドに行った時はひどい台風だった、飛ばされた木に当たって1人死んだらしい。今度は南に行ってみたい、夜のミルフォード・サウンドでスタンド・バイ・ミーを歌ってみたいな。
「…………大変失礼ですが、あまり似合わないように思えますが。」
そうだねと僕も同意して、お互い笑い合った。
そうして僕と彼は、握手を交わしてお互いの健康を祈ったのち別れた。僕はフライト・ロビーに向かって歩き、彼は仮眠室に向かって歩いて行った。
さて、僕はこれからどうすべきだろう？今日はとりあえずエジンバラに宿を取ってしまった。どうせこれからのフライトで疲れるのだ、ビールを飲んでさっさと寝てしまいたい。でも、コリン市長ともう一度会うまで、それでもあと2日をエジンバラで過ごさないといけない。アニーはちょうど今日から4日目の朝、夜行でロンドンからエジンバラに着く予定だった。僕はそれまでにコリン市長と話をつける必要があったが、どうしてももう1人、会っておかなければならない人がいた。ジェーン・マクラウド。考えてみれば当然の結末なのだが、アニーは僅か数日でニューラナーク村に戻る羽目になったのだ。もちろん僕がジェーンと交わした約束は、アニーをとりあえず国外に連れて行く事だけだったので、別に僕としては約束を破ったわけでもない。ただとりあえず、僕自身の納得の問題として、僕はジェーンに事情を説明する必要があった。ジェーンは今、命が危ぶまれるほどの状態だと手紙には書いてあった、それは本当なのだろうか？いずれにせよ、僕とアニーに真実を知る手段はなかった。もちろんそれはコリン市長の罠かもしれないけど、ある重大な関心ごとが真か偽かわからなくて、それを知るために時間を過ごす時に、人は最も弱くなるのだ。
僕は飛行機に乗り込むタラップを歩きながら、アニーとジェーンの事を考えていた。死が2人を分かつまで。

それからは特に何も起こらず、僕は無事エジンバラに到着し、ビールを買ってホテルの中で飲んだ。オーク樽の中で造られたそのビールはまるでウイスキーのような芳香が漂い、僕はこれがエジンバラで唯一好きな食物だった。ビールを数本開けて、特にやることもなくなった僕は、久々に1人で眠った。久々？アニーと一緒に旅行したのは、僅か数日の話だった。そういえば僕は同じホテルで床に寝かされたんだっけ。アニーは無事ロンドンにたどり着けただろうか。明日には、僕が散々貶していたウエストミンスター寺院に行き、どうやったら造花が売れるかを考えるかもしれない。アニーはうまい商売を思いつくだろうか。そういえば、僕は彼女の造花を燃やしてビールの中に突っ込んだんだっけ。謝った気もするけど、もう一度会ったらまた謝っておこう。友達同士でも許されないこともあるのだ。僕の知り合いは、旅行中に車の中で白ワインを飲んでいい気分になったんだけど、その事を運転していた友人から未だに引き合いに出されるそうだ。要するにそういうものなのだ。
まだ時間はそれほど遅くなかったけど、そんな事を考えているうちに僕は少し微睡み始めた。何分か、何時間か分からないけど時間が経った時に、ドアがノックされる音で僕は目を覚ました。それはコン、コン、コンとリズミカルで一定の間隔で繰り返されていたが、あくまで控えめな音だった。こんな音を、僕は何日だったか前にも聞いたような気がする。あれはどこでだっけ、僕は少し考えて、ニューラナーク村のホテルだった事を思い出した。
「ジェーンです。ジェーン・マクラウド。」
僕はベッドから起きだして、寝間着を脱いで着替えてからドアを開けた。

こんな夜分にごめんなさい。でも、貴方とどうしてもお話をする必要があるの。
ジェーンはそう切り出した。彼女は上品なカーディガンとワンピースに身を包んで、僕は黙って彼女を迎えた。どうみても不健康そうには見えない。僕はジェーンが話す前に、ほとんど直感的に全てが理解できた。彼女は僕をバーに誘って、僕も同意した。ホテルから近いところに、小さくて暗いけど美味しいお酒を出すバーがあるの、彼女はそう言って歩きだした。僕は黙って従った。
分からないのは、僕たちはホテルを出て、そこでようやく僕は口を開いた。ニューラナーク村の人は嘘をつけない。それは市長ですら例外じゃないと聞いたけど。もしくはそれ自体が嘘だったのかな？
僕と彼女は並んでエジンバラの石畳を歩いていた。彼女はいいえ、それは本当なの、そう返した。
「あの手紙を書いたのは市長じゃないの。書いたのは運転手さん。貴方が乗ったロールスロイス・ゴーストのね。彼は知らないの。私が本当に危篤だと思ってるのよ、笑っちゃう話でしょう？」
つまり君がコリン市長と結託している事は、村の誰も知らない。
「知らない事を間違って伝えても、嘘にはならないの、そんな事よくある話でしょう？」
確かに。僕も前の会社ではよくやった、特に新人の頃は。
僕たちはバーの前について、薄暗い階段を降りた。
「今日は私達の貸切にしてもらったの。」
そのバーは実に理想的だった。壁や床は温かみを感じる美しく磨かれた木製で、この石だらけの街にしては珍しい造りだった。壁にはたくさんのウイスキーの瓶が並んでいたが、それらがやたらめったに主張するわけでなく、静かに、控えめに整列していた。アイラ・モルトのピート香が、微かにだが店内に漂っていた。僕とジェーンは店の奥のカウンター席に腰掛け、初老のバーテンダーに酒を注文した。僕はマティーニを、彼女はバラライカを頼み、しばらくして繊細なカットを施されたグラスにカクテルが注がれた。
「貴方の市長就任予定を祝して。」
そう言って彼女はグラスを微かに上げ、一口だけバラライカを啜った。僕もそれに倣ってマティーニに口をつけた。そのマティーニの鋭利さと完璧な味わいは、憂鬱な気持ちを少しの間完全に忘れるほどのものだった。
君はアニーも騙していたの？
「言ったはずよ、ニューラナーク村の住民は、嘘はつけないの。私はただ寝ていただけ。アニーは勘違いしてるだけよ。ねえ、私、アニーの事が本当に嫌いなの、邪魔でしょうがないの。貴方、気付いてた？」
いや、分からなかったな。僕はマティーニをもう一口飲み、銀色の串に通されたオリーブを食べてから煙草に火をつけた。ジェーンも同じように、バラライカを飲んで、煙草に火をつけた。アークロイヤル。
君たち姉妹の間の事を正確に理解できるほど、僕は君たちと知り合って長くないから。
「誰も本当の事なんて分からないのよ。特にニューラナーク村の労働者たち風情には。スクルージ爺さんなんてとても面白いのよ、私が泣きながらアニーのためのお金を頼みに言ったら、分かったような顔で頷いて店の奥から薄汚いシワクチャの紙幣を何枚か出してきたの、それを見て、やっぱり私はあんな惨めな暮らしは出来ないってつくづく思ったわ、あんな薄いキャベツのスープをいくら飲んでも、お腹も心も満たされないの、実際にあれを飲んだ貴方になら解るでしょう。私、アニーがエジンバラまで造花を売りに行ってる間に、いろんなレストランに行ったわ、もちろん市長と一緒に。アニーが家にいる時は、医療施設に行くって言ってエジンバラのレストランに行ったわ。このバーもその時に見つけたの。ねえ、貴方、私は酷い女だと思う？」
僕は正直に、今まで僕が会った中でも、君は1番のクズ野郎だと思う、と答えた。君みたいなクズがウジャウジャいるって考えると、まだ世の中も捨てたもんじゃないね、きっと神様も真っ青になりながら、喜んで君の靴を舐めて綺麗にしてくれるさ…。
「……貴方、悪口を言うと途端に饒舌になるわね。」
それはアニーにも言われた。
「でも貴方、本当はきっと分かってるんでしょう、だって貴方は市長に見込まれてニューラナークを託されようとしているのよ。人間の人格や品格は、ちゃんとした生活と食事、経験と、困難を乗り越えて得られる成長、それでしか正常には育まれないの、貴方も同じ考えでしょう？そんなものは、私の妹には無縁なの。あの子に出来ることと言ったら、よれよれの造花を製作して押し売りする事だけ、寄生虫と同じようなものでしょう、他人からの哀れみと情けに寄生して生きてるの。私はそんなことは嫌なの、だから市長に必死に取り入って秘書にしてもらった、まともな人生を自分で手に入れるために。勉強も必死でやった、仕事を覚えようと誰よりも働いた。アニーには言わなかったわ、あの子には何も渡したくなかったし、絶対に止めてきただろうから。信じられないでしょう、私が市長の下で働いている間、あの子、私が紡績工場に行ってるものだと思ってたのよ！」
そこまで言って、彼女はバラライカを一息に飲んだ。そして彼女は笑いだした。あははははははははは、彼女は目を大きく見開いたまま笑っていた、ドアをノックるす時と同じ様に、静かに、一定のスピードで、肩でリズムを取る様に美しく、あはははははははははっ、あはははははははははっ、何度も繰り返していた。彼女は左手に煙草を持ったまま笑い続けていた、トン、トン、トン、トン、器用にリズミカルに灰を一定の速度でクリスタルの灰皿に落としながら笑っているのだ、あはははははははははっ、あはははははははははっ、あはははははははははっ。
僕はようやくそこで、彼女がアニーの病弱で優しい姉でも、弱者への憎しみに溢れた上昇意欲の並外れて高い市長の秘書でもないことに気付いた。彼女は狂っていた。ニューラナークム村に本当の亡霊が存在するとすれば、彼女かもしれない。僕もマティーニを飲み干した。彼女はそこでようやく笑い終わった。
「要するに、アニーには、」
彼女は何もなかったかの様に続けた。
「何もないの。でも最後に、貴方に温情をかけてもらえて、少しは幸せだったでしょう。あの子が契約書を市長のところに届けたら、それで終わり。市長が貴方で良かったわ。少なくとも、アニーを酷い目にはあわせなさそうだから。」
ちなみに。僕が市長になったら、君はどうするんだろう？
「現市長がその立場を降りた時から、私もニューラナーク村から解放される契約なのよ、ありがとう、貴方がアニーに情けをかけてくれて、あまつさえサインまでしてくれるなんて、夢みたいな話よ。私は結婚する予定なの、彼はロンドンに勤めてる真面目である程度裕福な人なの、私はようやくそれでマクラウドの姓からも解放されるの。ねえ、もっとお酒を飲みましょうよ。」
僕はラフロイグをストレートで、ジェーンはジュラをロックで頼んで、ほんの少しだけ加水した。僕たちは生牡蠣を別に頼んで、上からボウモアをかけまわしてお互いに4つずつ食べて、牡蠣の殻に残ったウイスキーを啜った。
ねえ、私今とても幸せよ。彼女は4つ目の牡蠣を食べ終わってそう言った。もし僕がアニーと友人にならずに、サインなんてすっぽかして逃げたら君はどうしていたんだろう？僕は試しに尋ねてみた。
「もちろん次の機会を待つわ、市長を引き継ぐ資格を持つ人がまた来るまで。ねえ、貴方、市長とけっこう似てるわよ、気付いてたかどうか知らないけど。」
参考までに、どんなところが？
「冷徹で情が無いように見えて、以前の私とか、アニーみたいなクズに構っちゃうところとか。あと、悪口を言う時だけは生き生きするところとかね。」
それはどうも。ところで、君は僕を何のために夜に呼びつけたのかな？自分の計画がうまく行ったことを自慢するため？
「違うわよ、これからの予定の話。貴方は３日後に市長と会う、そして４日後、アニーが無事ニューラナーク村に着いたら、貴方は市長を引き継ぐの、貴方はその時にニューラナークに居なければならない、市長権が貴方に渡るときに、貴方自身がニューラナークに居ないと、とってもめんどくさい事になる、アニーにももしかしたら災いが起こるかもね。」
やれやれ、要するに、アニーは人質の役割も兼ねてると言うわけだ。回りくどくて面倒な話だ。
「…物事をややこしくしたのは貴方のせいでしょう。どうして貴方、アニーをわざわざロンドンに行かせたの？そのままエジンバラまで来てくれたら話はもっとシンプルだったのに、あんなクズによく出資する気になったわね、あの子は私の雑な二重生活にすら気づかないほどの無能な労働者なのに？」
ウエストミンスター寺院で何が売れるか考える期間も必要だからね。
「貴方がどこまで本気なのか分からないけど、貴方もあの子もニューラナーク村からはもう逃げられないの、恨むならアニーを恨み続けたら？あの子のせいで貴方は、あの呪われた村の市長としてあの土地に永遠に縛られ続けるのだから。」
あはははははははははっ、あははははははっ、あはははははははははっ、彼女はまた笑いだした。目を見開き、あのメトロノームのようなリズムを煙草の灰で刻みながら、彼女は笑っていた。
その笑い方もニューラナークの流行なのかな？
「練習したのよ。」
彼女は短く返して、僕たちはチェックを求めてから、そのバーを後にした。

僕はジェーンと別れてから、これまでのことを考えるために、2本のビールを追加で買ってホテルに帰った。部屋で煙草を吸いながら、僕は今日あったさまざまな事を思い返していた。アニー、操縦士、そしてジェーン。皆にそれぞれの思惑があり、でも最終的に交わることはあるのだろうか。アニーは、ジェーンの真相を知ったら悲しむだろうか。僕はすでにアニーのホテルに連絡し、アニーに繋いでもらえないかを試したが、ホテルマンは電話口で沈黙したままだった。やれやれ、彼らは本当にどこにでもいるのだ。あなたや私の隣にいるその人も、名前も知れぬユートピア共産主義者かもしれない。誰も、普段隣にいる人がどんな人か、心の奥底では分からないのだ。アニーがジェーンの事を分からなかったように。僕もジェーンの本当の気持ちは到底分からなかったし、それはたとえ友人でも、彼女でも、家族でも同じ事なのだ。
僕はまた逃げる事を考えてみた。事態はますます悪くなっている。そしてアニーの事をまた考えてみた。偽名の契約書、僕は市長にならない、彼らはニューラナーク村から解放されない。そしてアニーはどうなるのだろう、ジェーンの真相を知り、自分の役割も果たせなかったアニーの今後を想像して、日本行きの航空券を探すのは辞めにした。事態の責任の一端はもちろん僕にもあるのだ。
やれやれ、アニーには連絡が取れない、市長と会うのは３日後だ。僕はガイドブックを取り出し、この陰気な市でどのように時間を潰すかについて考えた。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

アニーはずっと泣いたまま、ロンドンに向かう航空機の座席に座っていた。どうしてわたしは泣いているのだろう、彼女は自分なりに考えをまとめようとしたが、それは上手くいかなかった。乗務員がアニーを見て、何か隊長に問題はあるの、お母さんは、お父さんは、そう聞いてきたので、アニーは目を拭ってなんとか言葉を返した。別に体は悪く無いの、今から姉に会うためにロンドンまで1人で行くところなんです。乗務員は、まあ偉いわね、貴方の年で1人で飛行機に乗ってロンドンまで行くなんて、そう言ってアニーを褒めてくれた。何か飲み物は、そう続けて聞かれて、アニーは少し迷ってコーヒーを頼んだ。砂糖とミルクを山ほど入れた暖かいコーヒーをゆっくり飲んでいる間に、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、これまでのこと、そしてこれからのことを考えた。どうしてナガトユキさんは、私をあえて行かせたのだろう。本当の事を言うと、アニーは直ぐにでもジェーンに会いたかった、ジェーンは今こうしている間にも確かな死に向かって少しずつ歩いて行っているのかもしれないのだ。きっといつかはそんな日が来るかもしれない、アニーはずっとそう思っていた。でもそれが今である必要はなかったのだ。
アニーはジェーンと別れた夜のことを思い出した。
貴方は外の世界をもっと観るべきなの。ジェーンはそう言った。この街に留まっていると、貴方もだんだん亡霊に近づいていくの、自分では何も考えられない亡霊に。そうなる前に、貴方はこの街から逃げ出さなくてはならないの。出来れば他の国に連れて行ってもらいなさい、そしてそこで生きていくの。
アニーはジェーンと別れるのは嫌だと言い続けた。ジェーンは黙って首を振って、無理にでも貴方を外の世界に連れ出すわ、貴方の未来をニューラナーク村で閉ざすわけにはいかないから、そう言って黙ってアニーを抱きしめた。わたしがお姉ちゃんの危篤を聞いてニューラナーク村に戻ったら、ジェーンはどんな顔でわたしを迎えてくれるのだろう。それも、その代償としてナガトユキさんをあの村の犠牲にしてしまうのだ。彼は特別いい人間ではなかったし、確かにその心の中には薄暗い部分があるかもしれない、そうでなかったら造花をビールに突っ込んで燃やすような真似はしないだろう。だけど彼はあくまで公平な立場からわたしに接してくれたし、そんな事はお姉ちゃん以外にはしてもらった事が無かった。彼が市長になったら、何かが変わるのだろうか。それとも彼はやっぱりいつか、わたしを恨むようになり、ニューラナーク村の労働者としてわたしを縛り続けるのだろうか。アニーは考えているうちに悲しくなって、また少しだけ泣いた。

ナガトユキはヒースロー国際空港を、この世で最低最悪の空港だと表現していたが、アニーにはとてもそうは思えなかった。少なくともニューラナーク村と比べれば遥かに立派な設備が整っていたし、売っている食べものや飲みものも美味しそうだった。
そういえば、アニーはふと考えた。わたしはジャップランドー日本の事を何故だか馬鹿にしていた(それはナガトユキの態度のせいもあるかもしれない)けど、あの国のことについて殆ど何も知らなかった。ナガトユキも、あえて自分の国のことを説明しようとはしなかった。彼が自分の国のことをどう考えているのか、アニーには分からなかった。少し空腹をおぼえて、彼女はジャップランドの食べものが売っている屋台に歩いて行き、ペットボトル入りの水とカリフォルニア・ロールを買った。カリフォルニア・ロールにはサーモンとアボカドが巻き込まれており、それを黒くて辛い液体につけて食べるのだ。アニーはヒースロー空港のベンチに座ってそれを食べて、確かに美味しいけど、どうして日本人はカリフォルニアの名前を拝借したのかしらとアニーは不思議に思った。カリフォルニアはアメリカの地名だったはずだけど、彼等は自国の誇りを売り払ったのかしら、それともスシは元々アメリカで生まれた食べものなのだろうか？考えても分からなかった。
彼女はヒースロー空港を出て、電車に乗ってナガトユキが予約したホテルに向かった。大したホテルじゃ無いけど、駅からのアクセスは悪く無いし、近くにキングズ・クロスがあるから見ていくといい、 9と3／4番線のめり込んだカートに向かって突撃してみろよ、君ならニューラナークじゃなくてホグワーツ特急に乗れるかもしれない。彼はそう言っていたけど、アニーには意味が分からなかった。ハリー・ポッターはジャップランドでもそれなりに有名なんだ、エジンバラのカフェで1人のシングルマザーが書き上げたんだ、君も小説でも書いてみたら意外と売れるかもしれない。
わたしにも何か小説が書けるだろうか？アニーは少し考えてみたが、何も思い浮かばなくて、自分のことが少し惨めになってきた。アニーは考えるのをやめて、あの古いスーツケースを押してホテルに向かった。今日はキングズクロスに向かうには疲れすぎていた。ホテルのフロントマンは、料金はすでに支払われています、そう言ってアニーを部屋に案内してくれた。彼女は熱いシャワーを浴びてベッドに寝転び、なぜ彼が自分を数日間ロンドンに送ったのかを考えてみた。君はもう少しだけ、いろんな場所を観て回るべきだ、彼はそう言っていた。僕もその間にやらなきゃいけない事が少しだけある。でもわたしは、アニーは思った、何をすればいいのか何も分からないの。貴方がいつか言ったおり、温情にすがって造花を売り続ける事以外、わたしは何もできる事がないの。アニーはまた惨めになって、少し泣いた。

翌朝目を覚まして、アニーはよく澄み渡った青空を見て僅かに安心した。どんよりした曇天の元でこの街を歩く気にはとてもならないだろう。どうしてわたしの住んでいる国は、こんなに陰気な物事に満ち溢れているのだろう。少なくともヘルシンキよりはるかに息がつまるような気がした。アニーはキングズ・クロスの大きな駅の構内に入って、壁にめり込んだ小さなカートを見つけた。何人かのアジア系の旅行者らしき人たちが、楽しそうに写真を撮っていた。この壁にめり込んで通り抜けたら、わたしも別の世界に行けるのかしら、けどそこがわたしにとっての夢の世界とか決して限らなかった。ユートピア共産主義者や、もっとひどい全体主義者に満ち溢れた場所かもしれなかった。アニーは首を振って、キングズ・クロス駅を後にした。

アニーは一度ホテルまで戻って朝食(まずかった)を薄い色付き泥水のようなぬるい紅茶で流し込んだ後に、ユーストン駅からウエストミンスターに向かう電車に乗り込んだ。時間はまだ早かったので、電車の中にはスーツに身を包んだ大人がいっぱいいた。彼らと一緒にもみくちゃにされて、アニーはウエストミンスターに着くのをじっと耐えていた。どうして世の中の大人は、こんなに大変な思いをしながら、おそらくもっと大変な思いをすることになる会社に行かなくてはいけないのだろう？アニーには分からなかったけど、彼らに造花を売りつけて1ポンドを巻き上げる仕事をしていた自分が、なんとなく嫌になった。みんなそれぞれの暮らしがあるのだ。
ウエストミンスター宮殿は確かに綺麗だった。でもそれは相変わらずのイギリスの建物で、アニーはこれといって大きな感動を覚える事はなかった。テムズ川の向かいのロンドン・アイへとかかる橋の上では、何歳かわからないようなお婆さんが、アジア系の旅行客の胸に花を無理やり押し付けて、お金を稼いでいた。プリーズ、プリーーーーズ、老婆はしわがれた声で目をギラギラ光らせながらほとんど叫ぶように1ポンドを要求していた、アジア系の若い女の子の観光客たちは、気味悪がって何事かをささやきあった後、お互いに小銭を出して老婆が下げているカゴに放り投げ、逃げるように向こう岸に向かって早歩きで居なくなった。わたしが年寄りになったら、あんな大人になるのだろうか。彼女は考え込んだまま、ウエストミンスター寺院に向かって歩いて行った。ウエストミンスター寺院を見ることだけは、ロンドンを訪れるにあたって楽しみだった、ナガトユキが散々ゴミのように貶し続けていたせいで、逆に見たくなってしまった。街の広場に立ち並んでいる銅像の顔は、名前と顔を見てもどれもしっくりこなかった。ウエストミンスター寺院の前には、すでに観光客と遠足の集団が大行列をなしていた。アニーは自分とさして年の違わないであろう遠足の集団を見て、少し羨ましくなった。彼らは学校で正常な教育を受け、アニーより遥かに多くの物事に対して詳しいはずだった。彼女が習得できた勉学といえば、せいぜい今日の造花の売り上げを計算して、明日作る分の材料費との差分を考えることだけだった。彼らは造花を買ってくれるだろうか、アニーは入場料を見ながら考えてみた。この寺に入るために20ポンドを喜んで投げ出す人たちなのだ。わたしが身の上を歌い上げながら造花を手渡していったら、飛ぶように売れるかもしれない。でもわたしはそれで何を得るのだろう？お姉ちゃんが居なくなっても、わたしはわたし自身のために一生造花を売り続けるのだろうか、テムズ川の上の老婆みたいになるまで。
アニーは寺には入らず、黙ってその場を後にした。プリーズ、プリーーーーズ、老婆はまだ橋の上で叫び続けていた。

この街に着いてからから、なんだか落ち込むことばかりだった。

ナガトユキが、この国で唯一まともな場所なのは、ロンドンの郊外にあるキュー・ガーデンズくらいだと言っていたのを思い出して、アニーはしばらく電車に揺られて向かってみることにした。それはロンドンとヒースローの間にある庭園だった、王立植物園。アニーは植物園がどんなものかほとんど知らなかった。駅について、チーズや硬そうなパンを売る小規模なマーケットを通り抜けてしばらく歩いてみた。あんなにたくさんいたスーツを着た会社員たちはみんなどこに行ったのだろう、閑静な住宅街には殆ど人が歩いていなかった。アニーはキュー・ガーデンズの正面受付で入場料を払い、中に入ってみた。中はだだっ広く、いろいろな草原や森が同化したように見た事のある植物も、見たことのない木もたくさんあった。アニーが歩いているルートには、いろんな色のチューリップや桜の木があった。青空の下で森や草原を歩くのは、なかなか気分が良かった。でもこれがどうして世界遺産なんだろう、ニューラナークからエジンバラに向かうルートの途中にいっぱいありそうなのに。王族の考えることはアニーには今ひとつしっくりこなかった。でも、少なくともあのロンドンよりは落ち着くのは間違いなかった。芝生の真ん中で、若いカップルが鳥をカメラに収めようとそっと近づいていた。走っていって鳥を飛び立たせてやろうかしら、アニーは一瞬考えて、やっぱりやめておいた。
少しお腹が空いたので、アニーはモッツァレラ・チーズとトマトのサンドイッチと、ジンジャーエールを買って近くの公園の木の下に座ってそれらを食べた。爽やかな青空の下で、キュー・ガーデンズの芝生で遊んでいる自分より年下の少女たちを見ながら、アニーは少しウトウトと眠くなってきて、ほんの少しだけその場で横になって寝た。もしナガトユキが市長になって、アニーはうつらうつらしながら考えてみた。もし彼が市長になっても、ヘルシンキに行った時と変わらずにわたしと接してくれるだろうか。もし彼さえ良ければ、わたしと、お姉ちゃんと、そして彼でもう一度キュー・ガーデンズに来たかった。彼とお姉ちゃんはロンドン・プライドを飲んで、私はジンジャーエールを飲むの、こうして芝生に横になりながら。彼はこんなに爽やかな植物園でもあの不味そうな煙草を吸うのだろうか。ジェーンに無事会えたら、誘ってみよう。もちろん、彼が市長になって、ルールを変えてくれたらの話だけど…………。休日はみんなでキュー・ガーデンズでランチを食べて、普段は彼は市長として働いて、お姉ちゃんは秘書として彼のそばで働くの。それからわたしは学校に行くの。わたしには、学ばなきゃいけないことがたくさんあるから。
アニーは眠りにつき、少しの間夢を見た。夢は安らかなもので、そして起きた時には記憶に何も残らない種類の、優しい夢だった。

(第3部おわり )

ラナークファンタジー 第3部

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