登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。 申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。
この章には、一部差別的な表現が含まれますが、実在するいかなる人物を対象にするものではありません。 あくまで創作内でのお話です。
苦手そうな方はこの章は読み飛ばして下さい。
(第4部)
アニーが目を覚ました時には、微かに日が傾きかけていた。 ぼろぼろになった安物の腕時計で時間を見てみると、午後4時を回った頃だった。随分と長く眠ってしまったようだ。 アニーは立ち上がり、草を軽く払ってゲートに向かって歩き出した。 ずいぶん幸せな夢を見た気がする、思い出そうとしてみたけど、それはあまり意味をなさない試みだった。 あるいは、こうしてわたしがここにいることも、夢みたいなことなのかもしれない。 次に目が覚めたら、わたしは変わらずニューラナーク村のぼろぼろのベッドの上から起き上がって、せっせとその日売る予定の造花を造るのかもしれない。 物思いに耽ったまま、彼女はゲートをくぐり、帰り道をとぼとぼと歩いて電車に乗って、キングズ・クロスに向かった。 夕食をそのへんでとろうかと考えて、アニーはまた少しだけ眠った。
彼女がキングズ・クロスの正面口から出ると、広場に人集りが出来ていた。 彼等は皆それぞれにプラカードや拡声器を持って、広場の一角に据えられた壇上の周囲に集まっていた。 警官隊の車が何台か止まっており、武装した警官が何人か遠巻きにその集まりを見つめていた。 アニーは彼等の顔をそれとなく見てみた、スキン・ヘッドの若者がその大半を占めており、彼等は皆それぞれの格好をしていたが、共通してその目は今から起こる何かへの期待を溢れさせ、そして暴力的で攻撃的な鈍い光に輝いていた。 アニーは生涯でこんな種類の人間の顔を見たことがなかった。 彼等は光に集まるハエのようにも見えた。 壇上に1人の男が登ってきた。 彼はまだ若そうで、紺色のズボンとジャケットに身を包んでいる、淡い金色の髪の男だった。 背も高く、彼と比べてしまうとナガトユキさんはずいぶんみすぼらしく見えるわ、きっと怒ると思うけ…アニーがそんな事を考えていた時に、彼が話し出した。 静かに、皆さん、静かに。 彼はよく通る声で話していた、その声は決して大きくはなかったが、ざわつく群衆の中でも不思議とよく通って浸透する類の声色だった。 集まってくれてありがとう、皆さん、ありがとう、仕事終わりの疲れた身体でしょう、家に帰って冷たいビールと温かい食事にありつきたい、我々には帰る家があります、安らかで裕福な生活を享受できる立場なのです、でもそれを許さない寄生虫どもがいる、皆さんも知っているでしょうがそれは低所得労働者やホームレスや生活保護を受けている人間です、彼等は当然の権利だと言って我々の資源や財産を搾取しようとしています。
アニーは話を聞いているうちに、いつのまにか群衆の輪の中に取り込まれていることに気づいた。 なんとなく直ぐにでもその場を離れるべきだと感じたが、既にアニーの左右にも、後ろにも人の輪があった、彼等は皆集中して、恍惚に浸ったような、熱にうなされた顔で壇上の男の話を聞いていた。 彼等はなぜかみんな肥えていて、男も女も醜かった。 それでいて身なりは裕福そうだった。 壇上の男は話を続けている。
ちゃんとした知的労働性のある職業につき、社会や人間関係の歪みの中で知恵を絞り、ストレスを受けている我々が対価として受け取った給料を、寄生虫どもは毟り取ろうとしているのです、もちろんそれを許しているのは政府でもあります、皆さんはもちろんご存知でしょうが、この国は将来EUを離脱します、それはそう遠くない未来の話です、世界中で貿易摩擦が起こって米国株価は下がってきている、我々は不安な未来に向かって進んでいるのです、経済的敗北者である人間を我々の金で養ってやる余裕は無くなろうとしています、彼らをまとめて管理しなくてはなりません。 管理して、選別して、能力のあるもののみ残して社会適合性をつけねばなりません、我々と同じ目線から物事を考えさせなければなりません。 我々は昨年政党としての正式登録を終えました、入党者はすでに18万人を超えています、自分たちの財産は自分たちで守らなくてはいけないのです…。
アニーの身体が小刻みに震えてきた。 今すぐにでもこの場から離れたかった、でも脚が動かなかった。 吐き気がこみ上げてきた。 周りの熱気が妙に暑苦しく感じられた、それはもちろん群衆のせいだったかもしれない。 それとも、この場に漂う狂信的なイデオロギーが、彼女の身体や心の奥深い部分に何らかの影響を与えているのかもしれなかった。 男の話はまだ終わらない、アニーはますます気分が悪くなり、吐き気すら覚えた。
害虫や寄生虫から我々の財産を守るには、もちろんある程度のお金が必要であり、法令が必要であり、それを整備する環境が必要です、残念ながら我々がこうして集まって、皆の正義の意思と心を結集しても、それらが具体的な形を為さなければ何の意味もないのです。 我々はそのために政党を作り、党員を募集しております。 それは夢や妄想だけで成り立つユートピアの住民たちの集まりではありません、社会に対する発言力と、それを支える資産、そして確固たる志を共有する同士の輪なのです。 皆さん、突き詰めれば簡単なことなのです、皆さんも庭の美しい花を咲かせる木に群がる害虫は駆除するでしょう、ほとんど行動においては同じことなのです。 年齢に応じてある一定の所得もしくは高度職業的訓練を受けていない害虫どもを矯正センターに送るのです、そこで再教育と選別を行います、それが未来に向けた適者生存というものなのですから。 と言っても、何も我々は害虫を無為に虐殺するわけではありません、我々はそう言った意味でかつて政権を握った独裁者とは根本的に志を逸にします。 害虫もその息子や娘たちにも、もちろん生きる権利はあります、与えられたことがどれだけ過酷でも忠実にこなし、かと言って自分の頭で考えるような高度職業性は持ち得ない適職が彼らにもあるのです、そして彼等の財産を管理します。 その子供達には教育を受けさせます、知能や社会適合性に対する合理的テストを周期的に行い、クリアした者には我々と同じ教育を、不適合な者には信号機の色とお金の足し算と引き算を覚えさせて働かせればいいのです……。
そこで拍手が起こった。 アニーの鼓膜が破けんばかりの熱狂的な大きな拍手だった。 アニーは既に泣いていた。 激しい目眩がして立っていられなくなり、キングズ・クロス駅前の広場の石畳に膝から座り込んで、そこで今日食べたものと飲んだものを全部吐き出した。 昼間食べたサンドイッチのような物体がドロドロに溶けて吐瀉物の中に混じっており、それを見てしまってアニーはますます気分が悪くなった。
どうしたの、お嬢ちゃん、気分が悪いの、大変だわ、病院に連れて行かなきゃ、周囲の人集りが口々に話す。 でもこの子はどうして吐いているんだ、服が擦り切れている、靴も汚いわ、あなた親はどこにいるの、いないの、どうやって生きているの、学校にはちゃんと行っているの……初めは心配から始まり、その言葉はゆっくりと変異して、やがてそれはアニーに対する明確な敵意となって現れていた。 アニーはほとんど狂乱して何も考えられなかった。 熱にうなされたかのように、群衆の言葉に対してイエス、イエス、イエス、そう呟いて頷いていた。 学校に入っていないの、イエス、じゃあ貴方は物乞いや押し売りで生計を立てているの、イエス、その卑しい服装も同情を誘うためのものなのか、イエス、それでまっとうな人々の資産を巻き上げて生きてきたのか、イエス、恥ずかしくないの貴方は、おい顔をもっとちゃんと上げて見せてみろ、男の1人が蹲ったままのアニーの髪を掴んで無理やり持ち上げて、下からも彼女の顎をぐいっと持ち上げて周囲によく顔が見えるようにした。 ごめんなさい、ごめんなさい、だますつもりはなかったの、助けて、助けて、お願い……。 アニーはほとんどする切れた声で祈るように助けを祈った、その手はナガトユキからもらったお守りのアメリカン・エキスプレスをポケットから取り出そうと彷徨っていたが、その手は掴み上げられた。 群衆も、壇上の男も、警官隊も、笑いながらアニーを見つめていた。
皆さん見てください、このかわいそうな少女こそが今の社会のある一面を的確に表しています。 ねえ君、落ち着いて、誰か彼女に飲み物を。 水、そう水でいい。 落ち着いて、ゆっくり飲んで……アニーは誰かから差し出されたペットボトルのボルヴィックをごくごく喉を鳴らして飲んだ、水が少し唇の端から溢れ出てもアニーは気にしなかった。 水、水、水、とにかく水を飲みたい。 ねえ君、壇上の男がアニーに問いかけた、親御さんはいない、じゃあ君にはお兄さんやお姉さん、ないしは弟さんや妹さんはいるのかい、彼はアニーに聞いた。 姉が1人います、アニーは水をほとんど飲み干してやっとの思いで答えた。 お姉ちゃんは何をしているの、そう聞かれて病気なんです、姉は病気で働いてないんです、だからわたしがエジンバラで造花を売って生計を立てないと…そこまでアニーは聞かれてもいないのに話した。 その造花は、一本何セントで売ってるの。 1ポンドです、アニーは話してしまってからとても後悔して恥ずかしくなった。 君が作った造花を皆んな1ポンド払って買っている、それで君はお姉さんと自分の生計を立てている、それで間違いないかな。 アニーは泣きながら頷くしかなかった。
皆さん見てください、壇上の男は群衆に語りかけた、皆さん見てください、見てください、いや我々はこの少女から目をそらしてはいけないのです、これが、この少女が、かわいそうなこの少女こそがこの社会の一面を的確に物語っています、彼女は今かわいそうな境遇にいます、教育を受けられず、造花を押し売りして生計を立てています、このままではこの可愛らしい少女も寄生虫や害虫と同じになってしまいます、ねえ君、君が今できる事を教えてくれないかな…。 アニーは、造花を作ること、簡単なスープとサンドイッチを作ること、あと、お金を計算すること、ようやくそれだけを答えた。 そして周囲は今日一番の笑いに包まれた。 誰も彼もが楽しくて仕方がなかった、それは自分たちの主義と主張がある形で実証されたことに対する満足からくる笑いだった、彼等は皆、勝ち誇って満足していた。 素晴らしい、お祝いをしましょう、よしそうだ、ビールを買ってきましょう、いいね、そのとおり、皆で今日という日に集まれた事を、この少女に出会えた事を祝福してビールを開けよう、街中のロンドン・プライドを皆で飲み尽くそうじゃないか、我々のイデオロギーとこの少女の未来と健康を祈って！ 壇上の男も群衆を煽ろうとした、そうです、皆さんその通りなのです、このような不幸な少女が2度と産まれないためにも、我々は何十年かけても選別と教育を成し遂げねばならないのです、そうだ、矯正センター第1号が出来る日が来たら、ぜひこの少女に入ってもらいましょう！ そこで彼女が真に我々と同じ目線から物事をを考えられる人間かどうかがはっきりしますよ、ねえ…！ 君、君にはきっと、生きていくのにもっとふさわしい場所があるんだよ、人間が誰しもそうであるように、君はまだ自分のやっている事がよく分かっていなくて、だからそんな恥ずべき寄生虫のような真似をしていても良心が咎めずに要られるんだよ、君がいるべき場所はこのキングズ・クロスじゃないんだよ、強制収容所の硬い2段ベッドの上さ！
ちがう、そうじゃないの、アニーは必死に声を張り上げた、今はなにもできないけど私は勉強する、必死に勉強していろんな事ができるようになりたい、それで世界を見て回りたい、ビールの銘柄も世界遺産の名前もナマコの種類もちゃんと言えるようになる……わたしは……。 群衆たちはようやくアニーから手を離していた。 アニーは言いかけてポケットの中を探って、硬い金属製のカード・ケースを探し当てて握りしめた。 どうか、どうか、わたしを助けて、
群衆も警官隊も壇上の男も、静まり返ってアニーの言葉を聞いていた。
わたしは……どこにでもいける、わたしの人生を送れる、権利があるから。
少なくとも、貴方はそう言ってくれた。
いつもの嘘かもしれないけど。
でも、あの言葉だけは貴方の本心だった。 わたしはそれだけは確信してる。
殺せ、こいつを殺せ、躾けろ躾けろ躾けろ躾けろ、2度とこんな事が言えないように躾けてやれ、権利だと、人生だと、そんな事は額に汗水垂らしてストレスと戦って財産と成功と発言力を得ている人間にしか言うことは許可されていないんだ、誰かがアニーの髪の毛を掴んで頬を激しく叩いた、アニーはその勢いで自分の吐き出した吐瀉物の中に頭から倒れ込んだ、誰かがアニーの頭を革靴の底で踏んだ、見ろ、みんな見ろ、こいつはあんな事を言っていたけど、今自分の吐いたゲロの中に頭から突っ込んでるような害虫だ、寄生虫だ、食え、自分のゲロを早く食うんだ、その中にはお前が巻き上げた善良な人々の1ポンドが大量に混じっているだろう、食えないなら駆除しろ、駆除だ、駆除だ、躾けろ、労働者を躾けて管理しろ、あいつらを人間だと思うな、機械だ、機械だと思え、ウエイターも鉄道員も事務員も受付嬢もみんな機械だ、そうやって扱わなければ我々の貴重な資源は資産は搾取される一方だ、搾取だ、搾取だ、規制だ、法律を整備しろ、収容所を設立してゲットーを立てろ、難民キャンプと孤児院と老人ホームを潰して矯正センターに建て替えて我々の生活を守る必要がある！！
さすがに許容できなくなった警官隊が雪崩れ込んできた。 彼等はここまで何をしていたのだろう？ アニーにはそれが不思議だった。 無数の腕が、それは群衆の腕も警官隊の腕もどちらも紛れ込んでいた、アニーを掴もうとした。 掴もうとしてやがてお互いの間でもみくちゃになり、広場全体が狂乱と喧騒に包まれた。 アニーは何とかその場から立ち上がり、あちこちで乱闘が起こっている間を逃げた。 必死に走った。 キングズ・クロスの広場を抜けて、ユーストンまで脇目も振らずに走った。 アニーはその間ずっと、ポケットの中の金属製のカード・ケースを握りしめていた。
アニーはやっとユーストンのホテルに着いた。 頭から吐瀉物を被って涙と鼻水と土ぼこりに塗れたアニーを見て、どうしました、何があったんです、救急車を呼びましょうか、ホテルマンは慌てて尋ねてくれたが、アニーは自分でも驚くほど冷静に、大丈夫、道で酔っ払いのゲロの中に転んじゃったの、今日は最悪、早くシャワーを浴びないと、そう返して、心配そうなホテルマンを振り切って自分の部屋に戻った。 汚れた服を脱ぎ棄てて頭から熱いシャワーを浴びて、シャンプーとボディー・ソープをその瓶ごと頭から被ってむちゃくちゃに全身を洗って、もう一度熱いシャワーを何十分もかけてアニーは浴びた。 下着を身につけて、アニーは柔らかなベッドに顔を埋めた。 そして泣いた。 声を張り上げて、溢れ出る涙を一切我慢しないで、枕を掴んで顔を埋めて泣いた。 どうして、どうしてあんなことを、されなきゃいけないの、言われなきゃいけないの。 わたしはわたしなりに頑張って生きてきた、なのに、それなのに……
思い出すほどにアニーは悔しくて辛くて、より一層激しく泣いた。 ジェーンが病気だと分かった時も、市長やナガトユキに造花を燃やされてお酒で消化された時も、ニューラナークから離れるように諭された時もアニーは泣かなかった、そして今、ナガトユキと別れた時よりさらに激しく、心の底からこみ上げてくる何かを吐き出すように彼女は泣いていた。 人間が最も辛い涙を流すのは、愛する家族や友人との死別ではなく、自分の、自分がこれまで積み重ねてきた生き方の全てを貶されて、明確な根拠を元に否定される時なのだと、その時のアニーには理解できた。
コン、コン、コン 小気味よいリズムを立てるようにドアがノックされた。
お客様、大丈夫ですか、何か具合の悪いところがあるなら遠慮なくそう仰ってくださいね、余計なご迷惑かもしれませんが。 ドアの向こうの声はそう言っていた。 アニーは返事をせずに枕に顔を埋めて泣いていた。
「……本当は、貴方に電話を取り次ぐ事は、許されていないのです。」
アニーはようやく枕から涙でしわくちゃになった顔を上げた。 電話？ わたし宛の？
「私はユートピア共産主義者です。 しかし、同時に私はこのホテルのオーナーとして、お客様に快適に休んで頂く義務もあります、貴方なら御存知でしょう、ユートピア共産主義者は、何よりも自分に与えられた仕事と義務を優先しなければなりません。 …ドアの前に、携帯電話を置いておきます。 画面を開いてそこに写っている数字を打ち込めば、電話が繋がるでしょう。 もし貴方の心がそれで少しでも休まるならば、私はそれを見なかったことにします。 いらなければ、携帯電話には触れないでそのままお休みください。」
それだけ伝えて、その声はそれっきり聞こえなくなった。
アニーは涙を拭って、ドアに近づいて震える手でドアノブに手をかけた。 ゆっくり慎重にドアを開けると、廊下の壁の隅に盆が置いてあるのが分かった。 その上には湯気を立てている温かいココアと、黒い折りたたみ式の携帯電話が置いてあった。 アニーはお盆を部屋の中に持ち込んで、ドアを閉めて鍵をかけてから、ココアを一口だけ啜った。 僅かにだが、疲れ切った心が温まった気がした。 それから携帯電話を手にとって開いてみた。 表示された画面には、あの声の言う通り、何かに繋がるであろう番号が表示されていた。 アニーは震える指で、その番号をひとつひとつ打ち込んだ。
祈るように。
アニーは怖かった、携帯電話のコール音を聞く間、身体中がガタガタ震えだした。 左手にココアのカップを持っていたが、中身が溢れ出すほど手の震えが酷くなってきて持っていられなくなったので、諦めて盆の上にそれを戻した。 もしこの電話の先に出てくるのが、あのデモ隊の壇上の上に立っていたあの男だったら、わたしはどうしたらいいのだろうか？ プルルルル、プルルルル、何回かコール音が響いたのち、電話がどこかに繋がった。 電話の先にいるかもしれない人からは、何の反応もなかった。 かち、かち、かち、妙に歯が合わない。 アニーはまだ震えていた。 数分間はそうしていただろうか、やっとの思いでアニーは切り出した。
「………わたしよ、アニー、アニー・マクラウド………」
そして、ようやく相手からの返答があった。
ー君かい？ おいおい、こっちからかけた電話は悉く弾かれたのに、君の方からはいけるのか。 電話口の男はそう言って、煙草の煙を吐き出すような音が聞こえた。
「貴方なのね、貴方で間違いないのね、ナガトユキさん。」
ー…とりあえずイエス。 さて、僕の方は今、君に初めて会ったあのしょうもないパブでビールを飲んで、あのいまいましい魚と芋を揚げたやつが来るのを待ってるんだけど、君の方はーーー
「どうして、どうして、何故なのかわからないの、どうしてわたしの生き方も何もかも否定されなきゃいけないの、会ったことも話したこともない人たちによ、あの人達はわたしのことを教育も受けていない害虫や寄生虫みたいなものだって言ってた、どうしてあの人たちにそんな事を言われなきゃいけないの、どうしてあの人たちがわたしの事を全部否定されなきゃいけないの！？」
アニーはそこまで一息に言い切って、相手の返答も待たずに泣いた。 泣き続けた。
電話口の男は黙っていた、アニーの激しい鳴き声をスマートフォン越しに聴きながらずっと黙っていた、彼にしては珍しく、ビールを飲む様子も煙草を吸う様子もなく、ただ黙ってアニーが泣く音を聞いていた。
ー……君はずいぶん酷い目にあったようだね。
「…酷いなんてものじゃないの、わたしにも訳がわからないの、ねえ教えて、貴方は大人なんでしょう？ どうして同じ大人なのに、あんなにも他人に対して無感動に、その人のことを何も知らずに人を徹底的に傷つける事ができる人たちがいるの？ あの人達の主張をわたしは何も知らない、だからあの人たちを貶す事も批判する事もしない、いいえ、しないんじゃなくてできないの。 でもどうして、あの人達にわたしのことがわかるの、わたしが学校にも行っていない、卑しい造花売りだなんて、どうしてあの人たちに決めつけることができるの！？」
ー………彼らはきっと自信が無いんだろう。
「…何を言っているの。 彼らはあんなに自信たっぷりにわたしを傷つけたのよ。」
ー自分に自信が無い大人はこの世界にたくさんいる、もっと言えば、自分に自信が無いんじゃなくて、今自分がやっている事や、立場や、主張に対して、本当は自分の意見が持てていないから、逆に怖くなるんだ。 拠り所がないから。 今の自分が本当は間違っていて、自分の社会的立場や財産も、もしかすると吹けば飛ぶように薄っぺらくて頼りないものかもしれない、そう心の何処かで感じているから、自分より立場の弱そうに見える者を傷つけて、集団で嬲るんだ。 そうすることでしか彼らは自分が本当の意味で世界に帰属しているという意識を持てないから。 でもそれは僕にしたところできっとそうだ、本当に自分に対して責任と自信を持ってる人間は、少なくとも造花をつかみとって目の前で燃やしてビールのなかに突っ込むような真似はしないんだ。
「………貴方も、あの人達と同じ考えなの？」
アニーは縋るようにそう言った。
ーそれに対してはノーと言いたい。 少なくとも僕は、自分が本当はちっぽけで情けなくて、何者にもなれない事を受け入れたいと思っている。 僕はそんな自分を少しでも変えたいとどこかで思っていたのかもしれない、だから関西国際空港に帰るのをやめて、いまここにいるんだけどね、エジンバラのしけたパブでぬるいビールを飲んでいる、今魚と芋が来たけど相変わらず最悪だ。
アニーはようやく、微かに笑うことができた。
「……今日は本当に、本当にいろんなことがあったの。 植物園にも行ったし、貴方が散々けなしていたウエストミンスター寺院にも行ったわ。」
ーまさかと思うけど、入ったの？
「高すぎて入らなかったわ、造花を40本以上売らなきゃいけなくなるから。」
ーそれは幸いだった、あんなものはほとんど詐欺みたいなもんだ、20ポンドを払って何個かのお墓を見て荘厳なお祈りを何回も捧げて帰るだけだからね、少しはジャップランドの神社仏閣を見習わないといけない。
ねえ、僕は確か君に、君はどこにでもいける、どんな人生を送ってもいい権利があるって話したと思うけど、あれは嘘じゃない、一応本心で言ってるつもりだ。 だけどこの社会にはロクでもないことも山ほどあるし、君は今日その悪い一面を嫌という程見たのかもしれない、でもどうか君の年齢でこの世界を憎んで嫌いになるのはやめてほしいと思う、復讐や報復といった類の暗いモチベーションは確かに時として大きな力になる、強力な上昇志向や意欲となって現れる、だけどそれは結局のところどこにもいかないのかもしれない。
「貴方の言ってることは相変わらず抽象的でよくわからないんだけど、じゃあわたしは何をしたらいいって言うの？」
ー一般論だけど、まず君は直視する必要がある、自分に何が足りていないのかを、もし君が自分の思うような人生を送りたいならだけど。 この世のいかなる種類の設計や計画は全て、足りないことを見つけて、課題を見つけて、それを一つ一つ解決することでしか進まないから。
「…わたしには何も無いのよ。」
アニーはそう言ってから、また悲しくなって少し涙ぐんだ。
ー残念ながらそれは僕も認めるよ、君には何もないし何の経験も知識も持っていない、それは君自身も認めている。 でも君には、何も無いって事を素直に認める勇気は少なくとも備わってる、それは君を否定した人たちや、あるいは僕も、市長も持っていないものだと思う。 君はその気持ちを大切にする必要がある。
(あるいはジェーンも) 彼は言おうとしてやめておいた。
「……貴方は本当に、人を言いくるめちゃうのが上手いわね。 少しは気が楽になるわ。」
ーそれはどうも。 君は明日の夜行でエジンバラまで向かう、そこでも辛いことが君を待っているかもしれない。 あるいは君はこのままロンドンから他のところに行く事もできる、さてどうする？
妙に引っかかる言い方をするなとアニーは思った。 彼は何か重要な事を、隠しているような気がしたが、聞くのはやめておいた。 ナガトユキにはナガトユキの考えと世界があるのだ、それは本質的には、アニー自身の考えとは面でぴったり合わさることはないのだ。
「行くわ。 貴方はわたしがまだ知らない何かを知ってるのかもしれない、けどわたしは自分で見て、自分で考えて判断して見たいから。 どこにでもいく自由があるし、どんな人生を送ってもいい権利があるから。」
ー………ならそれはそれでいいと思う。 オーケー、明後日の朝8時、エジンバラ城に向かう途中の坂にあるスターバックスで待ち合わせよう。 その後で少し買い物をしてニューラナークに行こう。 もしかすると食べ物とか、ビールとあ、煙草とかを買っておいたほうがいいような気もするから。
「……わたしはビールも煙草もいらないんだけれど。」
ーそれは残念、君は人生の70パーセントくらいを損してる。 煙草とビールが無い人生っていうのは、簡単に言うと水の無いプールの底で泳ぎ続けるようなものだから。
「吸いすぎて溺れないと良いけれど。」
そこで、ようやくアニーはもう少し笑うことができた。
おやすみ、アニーと電話口の男はお互いに言葉を交わして、アニーは電話を切ってすっかり冷めたココアを飲んだ。 彼は時間が経ちすぎてべっしょりした魚と芋から衣を剥がして塩をかけて食べ、ぬるいビールでそれを流し込んだ。
その日、アニーはそのまま携帯やココアを返すことも忘れて、そのまま寝てしまった。 横になっているといろいろな思いが去来した。 今日は本当に色々な事がありすぎたのだ。 そしてこの世界には、本当に様々な人がいるんだ、アニーはそう考えるうちに眠った、深い、深い眠りだった。 翌朝目を覚ました時にはもう10時を回っており、アニーは大きく伸びをして着替えを身につけた。 とりあえず携帯とココアが入っていたカップを返しに行かなければ、アニーはそれらを盆の上に乗せてフロントまで持っていった。 フロントに立っていた痩せ型のハンサムな男が、おはようございます、そう言ってアニーに頭を軽く下げた。 少しお元気になられたようでで何よりです、お電話は役に立ちましたか。
ありがとう、ずいぶん気が楽になったわ。 アニーは盆を彼に渡した。 本当に助かったの、貴方はずいぶん親切なユートピア共産主義者ね…。
「私の妻……になる予定の人にも、貴方くらいの歳の離れた妹がいるそうです、 私としては他人事のように感じられなくて。」
そうなの、彼女さんとお幸せにね。
「ありがとう、私より遥かに頭のいい、自信に満ち溢れた女の人なのです。 貴方は彼女に少し似ている、貴方の1日が良いものでありますよう。」
彼はそう言って、何か困った事があれば。 そう言って名刺をアニーに渡してくれた。 ありがとう、アニーもそう返してありがたく受け取っておいた。 御守りがこれで2枚できた、金属製のカードケースと名刺。 そういえば、昨日は結局あの御守りを出さずに握りしめていただけだった。 まだ御利益は残っているかしら、少なくともジャップランドのフィリピン製の御守りよりは。 そういえばずいぶんとお腹が空いている気がする。 昨日は結局何も食べてないに等しいから……。
アニーは、ナガトユキが唯一ロンドンでまあまあマシだった、そう言っていたベルギー料理の店に向かうために、トラファルガー広場を目指した。
幸いにも今日も晴れていた。
天気ってやっぱり大事なのね。 エジンバラやニューラナークのどうしようもない曇天とは全然違うわ。
アニーはひとつ、人生における重要な事を学んだ気がした。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕はアニーと話した日の翌朝早く起きて、またエジンバラ市内をランニングしてから熱いシャワーを浴びた。 市長と逢う日は今日のはずだった、昨日の昼彼から電話がかかってきて、明日お会いできるのを楽しみにしていますとの事だった。 ちなみに僕はちっとも楽しみではなかった。 僕はローリングがハリー・ポッターを執筆していたと噂のエジンバラのカフェに行ったが、まだ空いてなかったので仕方なくとなりのカフェに入って、コーヒーとサンドイッチを注文した。 スコティッシュ・ブレックファーストは確かに旨いのだが、市長から是非昼食をご一緒にと言われていたので、あまり重いものを朝から食べたくなかった。 先にコーヒーだけ来たので、僕はそれを飲みながら昨日起こったニュースを適当にスマートフォンで見ていた、アメリカ株は平均してゆるやかに下降していた。 それ以外は世界は概ね平和なようだった。 キングズ・クロスで極右政党の小規模なデモがあった事を書いてあった、そこにはアニー・マクラウドの名前は全く出ていなかった。 しかし僕はほとんど確信に近いものを抱いていたが、間違いなく昨日彼女が取り乱して僕に電話を繋いできた原因の一端はここにあるんではないかという気がした。 アニーの事は確かに心配だった。 しかし今日、僕は僕でやらなければいけない事があった。
市長の方から僕に会う場所を指定してきた。 もし貴方が構わなければ、エジンバラからすぐ近くのダルメニー駅で待ち合わせましょう。 あまり近くに飲食店はありませんが、良ければお互い何か持ち寄りませんか、テーブルと椅子はこちらで簡単にセッティングするつもりです。 彼はそう言って、僕の方にも特に異論は無かった。 食べ物は彼に任せて僕は飲み物を担当させてもらうことにした。 ちょっと考えても、この国家でまともな食料を調達するのはある程度の現地勘がないと厳しそうだったし、そもそもトマト以外にまともな食料品が存在するのかは疑問なところではあった。 その点に関して言えば酒は楽だ。 僕はオーラ・ドゥとブリュードッグのIPAをそれぞれ2本ずつ買い、ラフロイグの10年の瓶と、ウイスキー・グラス2個と、適当なさっぱりした白ワインを1本買い求めた。 それらを紙袋に詰めてしまうとなかなかの重さだったので、僕はそれ以外には簡単なショルダー・バッグに財布とスマートフォンだけ入れて、指定された時間に間に合うようにダルメニー駅に向かった。
ダルメニー駅はいつ来てもどうしようもない駅だった。 目の前に巨大なフォース鉄道橋がある以外は、僕は人生でこれほどどうしようもない駅を見ることは滅多に無いんじゃないかと本気で思った。 しかしこんな所に2度も来ることになるとは、本当に人生はよくわからない。 何故かダルメニー駅に着いた瞬間から風が強くなり、パラパラと僅かに雨も降り始めた。 やれやれ。 僕はとりあえず駅の出口に向かって歩いた。
出口には既にコリン市長が待っていた。
「あいにくのお天気ですが、是非貴方とささやかなピクニックを楽しみたくてね。」
それはどうも。 僕もニューラナーク村で話すよりは、こっちの方がいい。
「正直ですね、新市長。 それでいいのだと思いますよ。 さあ、歩きましょう、この風の中ではあまり傘は役に立たないでしょう。 私は以前、このダルメニーで傘を2本ももっていかれてしまいましてね。 それ以来のトラウマなのです。」
僕も以前ダルメニーでグリニッジでわざわざ買った高い傘を壊された事がある。 あれは酷い思い出だった。 以前サンマリノで買ったそれより安い値段の傘は今でも使えているというのに。 まったく、この国は見てくれはみんな立派だが、中身が入っていない。 僕たちはたわいも無い話をしながら歩いていた。 坂を下ると、もう目の前に例のフォース鉄道橋が見えてきた。 相変わらず死んだ恐竜の化石のような、雄大で荒涼とした風景だった。 周囲に人は誰もいなかった。 幸いにして雨だけはなんとか収まっていた。 僕とコリン市長は坂を下って、海岸に降りれそうな場所を見つけて、そこから石だらけの三途の川のほとりのような海岸に降りた。 そこには既に、大きな傘が張ってあり、椅子が２つとテーブルが置いてあった、椅子は革張りの折りたたみで、シンプルで機能的、かつ使い心地の良いものだった。 僕とコリン市長は椅子に腰掛けて、お互いに持ってきた食べ物や飲み物を並べた。 僕が白ワインの栓を開けてグラスに注いでいる間、コリン市長は食べ物を皿に移し替えた。 彼はスモーク・サーモンと、ロースト・ビーフ、そしてロースト・チキンの3種類のサンドイッチをたっぷりと持ってきていた。 もちろんマスタードも、ちゃんとしたディジョンのものがたっぷりと塗ってあったし、挟んであるクレソンやレタスもしゃきっとしていた。 彼はそれ以外に、玉葱とピーマンがたっぷり入ったグリーク・サラダと、チーズやビーツが乗った何種類かの簡単なカナッペを用意していた。 素晴らしい、イギリス人でも頑張れば魚と芋以外の食事もちゃんと作れるのだ、あるいは外部からカッパを何匹か仕入れて作らせているのかもしれない、月に数本のキュウリを支払って。 可哀想な話だ、涙が出てくる。
「カッパでは有りませんよ。 労働者が作るのです、社会的敗北者の奴隷のような労働者たちがね。 貴方もそれらを管理する側になるのです。 さあ、乾杯しましょう。」
コリン市長はカッパをご存知なのですか？
「回転寿司を握っているのは彼らでしょう？」
僕とコリン市長は、僕が買ってきた白ワインで乾杯して、料理を食べ始めた。 最初にカナッペをつまみながらグリーク・サラダを食べ、ブリュードッグを飲んだ。 サンドイッチには白ワインとIPAを合わせた。 素晴らしい食事だった、こんなフォース鉄道橋の真下じゃなくて、晴れ渡った昼のキュー・ガーデンズでやりたいものだ。 こんなん、僕の友人はそう言っていた。 言外に、(こんな雨の日にこんなものを見て、我々は何を得るんだろう？ あるいは我々はくるところを間違えたのではないか？)、と彼は言いたそうだった。 そして僕はもう一度ここに来てしまった、今度はニューラナークの市長と一緒に。 やれやれ。
僕たちは食事を和やかに食べ終わり、ラフロイグを開けてウイスキー・グラスに注いだ。 僕は単刀直入に切り出した。 コリン市長、アニーが契約書を持ってニューラナークに戻り、それを貴方が受理した時から、僕はニューラナークの市長になる、望む望まざるに関わらずね。 その理解で間違い無いですか？
「イエス。望む望まないに関わらずね。 貴方は契約書の名前によってニューラナークに縛られ、市長の掟を継ぐことになります。 貴方は莫大な資産と権力、下らない奴隷労働力、そしてそれ以上の知的労働力を得ます、操縦士には会ったでしょう、彼のように、高度な専門的職業に就ける資質のある者は外に出る事を許されるのです。」
それだけ聞くといい事ばかりだけど。
「貴方は死ねなくなります。 亡霊としてニューラナークに縛られることになります、新たな市長にその役割を譲るまで。 もちろん出張はあり、旅行も休暇もありです、我々も仕事をしなければいけないのですから。 しかし、根本的に、貴方が帰属する場所はニューラナークとなり、いずれはそこに帰ることになります、望む望まないに関わらずね。」
貴方が市長を譲りたい理由を聞こうと思ってたんだけど、何となくわかったよ。
「デッドマンズ・チェスト。 そういうことですよ。 私はこれでちょうど98年目になります、貴方とほぼ同じ年に市長を引き継ぎました。」
やれやれ。 本当にこの国の人間にはロクな奴がいない。 ジャップランドもまあ似たようなものかもしれないけど。 というより、僕がそうなのかもしれない。
質問があと2つと、お願いが1つあります、それ以外は市長を引き継いでから改めて教えてもらいます。 僕はそう言って、コリン市長も続きを促した。
1つ目。 ジェーン・マクラウドは本当に危篤では無く、貴方の秘書なのか？
「イエス。 間違いなく彼女は5年前から私の秘書です。 この仕事が終われば、彼女はロンドンのユートピア共産主義者と結婚式を挙げます、婚姻届はもう提出したようですが。」
ということは彼女は、僕が市長になれば、ニューラナーク村から離れられると。
「そうですね。 ジェーンと何かお話になりましたか？」
エジンバラで一緒に飲んだよ。 つまり貴方の話からするに、高度な専門的職業性を有するもの、又は知的労働に従事する者は、ニューラナーク村から離れて生活しても良い。 ユートピア共産主義者の集いか何だかはあるのかもしれないけど。 そういう事ですか？
「イエス。 あの村に完全に縛られるのは、例えばあのアニー・マクラウドのようなどうしようもない奴隷的労働力のみです。 1人入れば1人出て行く。 奴隷労働力は一定以上は要らないのです。 アニー・マクラウドがエジンバラに花を売りに行くのだけは止められませんが。 あの娘はニューラナークの設備では働いたことがないのですから、真の意味でのあの村の労働者では無いのです。」
ジェーンは、あの村に迷い込むと出られなくなると言っていたけど、要するにそういう風にして労働力を補充するのかな？
「それはイエスでもありノーでもあります。ニューラナーク村に入ってしまうと、基本的にその人は名前によって縛られます。 例えば我々のような外部に出れる知的労働者がその人を連れ出すことはできますがね。」
ありがとう。 長くなってすまない。
2つ目はシンプルで、お願いと一体化しています。
アニー・マクラウドは、僕が市長を引き継いだ後どうなる予定ですか？ もしどうにもならないのであれば、契約書が貴方の手に渡った時点で解雇してほしい。
「予定はありません、あの娘は一生ニューラナーク村の労働者として生きていかねばいけないでしょう。 何せ、ジェーン・マクラウドはもう村から去るのですからね、実に愚かで、本当に人を見る目がない娘です。 貴方にとってアニー・マクラウドが目障りとなるなら、いくらでも解雇しましょう。 もちろん契約書を持ってきた後ですが。 しかしながら貴方は、アニー・マクラウドのために市長を引き継ぐことに同意したはずではないでしょうか、そうなるといささか話が矛盾しているように聞こえますが。」
僕はため息をついた。 やれやれ、たしかにその通り。 僕はアニーの事を個人的に友達だと思っている、珍しくそれは嘘じゃなくて本心だ。
「ではなぜ？」
もし僕が永遠に生きるとすると、きっといつか、アニーを恨んでしまうからかな。
「成る程。 理解しました。 ラフロイグをもっと飲みましょう。」
僕とコリン市長は、もう一杯ずつラフロイグを注いで、煙草に火をつけた。
アークロイヤルの甘い煙を吐き出しながら、コリン市長は続けた。
「貴方に何故ニューラナーク村を譲りたいと思ったか。 それはわかりますか？」
なんとなく。 特に認めたくないけど、もしかして僕は昔の貴方と似ている？
「イエス。 私もそうでした。 第二次世界大戦の時にゲルマン人どもが同士や女子供を虐殺しても私は何とも思わなかった、あれらは奴隷であり、使い捨てだと考えていました、それは今でも変わりませんが。 そして妻も娘も巻き込まれて死にました、銃剣で全身を刺された後に頭を吹き飛ばされました、遺体には犯された形跡がありました、1人ではなく何人にも、私はニューラナークの資源と力を利用して殺人者どもを一匹残らず探し出して全く同じようにしました、彼らが妻と娘にしたのと同じ方法で、1人ずつ泣きながら私自身が手を下しました。そういう事です。 貴方があの極右団体に対して感じた憤りと同じ種類なのです。 貴方はアニー・マクラウドのためになら怒れたかもしれない、涙を流せるでしょう、しかしあの場で乱暴されたのが見ず知らずの可哀想な女の子なら貴方は何とも感じないでしょう、そういう事です。」
成る程。 よくわかりました。
「我々がおかしいのでしょうか、それとも最早狂っているのでしょうか。 それとも世界の人々は大なり小なりそういう考え方をするのでしょうか。」
それはよくわからないな。
僕たちはもう一杯ラフロイグを注いで、一息に飲み干した。
「いい食事ができました、ありがとう。 次は晴れている時に是非。」
それは同意するね、こんな橋をしけた曇りの日に見ても、どうしようもないからね。
我々はダルメニー駅から一緒にエジンバラまで戻り、そこで別れた。
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僕は翌日の朝、例の無駄に綺麗で清潔なスターバックスでまずいコーヒーを飲みながら、アニーを待っていた。 やれやれ、どうしてスターバックスのコーヒーはこんなに不味いんだろう？ ドトールの泥水の方がまだいけるかもしれない。 エスプレッソはまあまあ美味いんだけどな。 しかしコーヒーを飲む以外にやることもないので、僕は2杯目としてエスプレッソを注文し、席に戻って砂糖を入れている時に、少女が声をかけてきた。
「おじさん、花を買って。」
やれやれ。 僕は声の主を見ずに反論を試みた。 第1に僕はおじさんと呼ばれるような年齢ではないと思う。 そして見ず知らずの少女に造花を売りつけられても反応に困る。 エスプレッソに突っ込みたくなる。
「ウエストミンスター寺院の無名戦士の墓の前で清められた造花よ。」
ついに商品に付加価値をつける事を覚えたようだ。 人間は成長する。
でも君はウエストミンスター寺院に入らなかっただろ？
「…寺院の前で祝福を受けたのよ、20ポンド分の。」
やれやれ。
僕はエスプレッソを飲み干した。
「行きましょうか。」
僕とアニーはスターバックスを出て、ほんの僅かな雨が降る石畳を歩き出した。
(第4部おわり)