※この地球とは別の世界の完全な創作のお話です。
登場人物・地名・固有名詞は実在するものとは一切関係がありません。
また、実在するニューラナーク村には、今でも人が住んでいます。 申し訳ございません。
また、文体がかなりのパクリですが、それに関してもご容赦下さい。
(第5部)
「ねえ、貴方に1つ聞いておきたいことがあるんだけど。」
エジンバラ中心部に向けた石畳を歩く途中で、アニーが僕に聞いてきた。
「…その、なんて言ったらいいのかあまりうまく分からないけど、貴方も、その、人が就いている職業によって……その人の性質とか、性格まで決まるとか、そういう事ってあると思うの？」
それはない、と僕は答えた。
「でも、あの人達は…その、わたしを、否定した人達は………私のことを、その、害虫とか、寄生虫みたいなものだって、言ってたの、わたしが、学校にも行っていない、造花の押し売りだから……。」
僕はアニーの顔を見なかった。 アニーが泣きながら喋っているのが分かったからだ。 僕は慎重に言葉を選びながら、でもできるだけ正直に答えた。
まず、彼等が寄生虫とか害虫とかいうのは根本的に間違ってる。 君にも押し売りにも考える自由はあるし、実際に日々を考えて社会性をもって生きているから。 その点で彼等の言い分は根本的に生物学的な間違いがある。 もちろん君はそんな事を聞いているんじゃないんだろうけど、これはけっこう大事なことなんだ。 その人達主張しているのは、強力な種類の言葉を使って、人間の理性ではなくて感情に訴えかけるような類の意見だ。 それも人間の、弱者に対しての攻撃性や加虐性といったような部分を刺激する意見だ。
「………でも、その意見が正しくないなんて、誰にも……貴方にも言えないんじゃないの？ わたしは実際に貧乏だし、計算はお金の足し算と引き算しかできないし……」
確かに、それはそうだと思う。 彼等の意見が正しくないという事を証明するのは非常に難しい、もしかしたらそう遠くない未来、彼等の意見は、少なくとも世界経済を安定させる上ではある一定の正しさを持っていたことが分かるのかもしれない。
けど大事なのはー少なくとも僕は大事だと思ってるんだけどー１つは、結局はその人達の意見はその人達の意見だし、僕の意見は僕の一面的な偏ったものの見方を表してるものでしかないし、君の意見は君の意見でしかないし。要するにそういう事だと思う。
「……………何が要するになのか全然分からない。 貴方が非常に偏った意見の持ち主だということだけには同意するんだけど。」
僕はアニーの皮肉を聞き流して続けた。 つまるところ、君は自分の中でこれから育っていく価値観に沿って自分の意見を作っていく必要があるし、それを言葉に表せるようになる必要があるって事さ。 他人と、それは家族とか友人も含めるんだけど、100パーセント考えが一致するなんて事はあり得ないんだからさ。
「貴方と意見が一致しないところがあるのはすぐに分かったんだけど、お姉ちゃんとわたしは気が合うように思えるけど。」
僕はジェーンの事をまだアニーに伝えていなかった。 アニーは自分で確かめたいと言っていた。 彼女が傷つくのは目に見えていたから、僕は止めようかと思ったけど結局やめておいた。 それが正しい行動なのかはまだ分からない。
気が合うかもしれないけど、完璧な一致は得られないんだよ。 ジェーンは煙草を吸うけど、君は吸わない。 君があった人達はウエイターや押し売りを寄生虫や機械みたいだと言って罵るけど、少なくとも僕はそうは思わない、そういうことだよ。
「……貴方と話してると、本当に言いくるめられちゃうわ。 私が子供だから？」
僕はそういうのが割と得意なんだ。
ちなみに大事なことの2つ目はなんなの、アニーはそう聞いてきたけど、僕はとりあえず言わなじゃった。 なんとなく、今それをアニーに話すべきかどうか躊躇われるような気がした。 またいつか言うよ、そう言って誤魔化して怪訝な顔を向けられて、僕たちはまずニューラナーク村にもう一度行くにあたって必要な品物を買いに行った。 あの村でまともな食事にありつくのは無理だと僕はすでに知っていたので、とりあえず出来る限りまともそうなサンドイッチを何種類かと、トマトのジュース、それから蜜柑と林檎をいくつか、あと大きなボトルに入ったガス無しの水と、ビールを2本買っておいた。 昨日買ったラフロイグがまだ半分は残ったいたので、ウイスキーはとりあえず買わなかった。 やれやれ、あの村で何泊する事になるのやら、あるいは一泊もしないでさっさと帰れるのか分かったものではない。 アニーは家にキャベツがまだあるから、そう言って何も買おうとしなかった。 僕は葉物だけじゃ体に悪いから、とりあえずトマトは買っておいたほうがいいと教えて、アニーは新鮮そうなトマトを3個だけ買った。 トマトと蜜柑と林檎は完璧な食物だと僕はアニーに教えた。それ自体で味も栄養も機能性も完結しているし、水分もある。
「……でも、キャベツより高いわ。」
アニーはそう言って、慎重に潰さないようにトマトを自分の鞄の中に入れた。 高くても栄養の問題もある。
「ねえ、このお金はもともと、わたしのために村のみんなが出してくれたお金なの、たった何日かの旅行みたいなものに行って、結局帰るわたしが、このお金を使う権利なんて無いんじゃないかって、今さらだけどそう思って……」
やれやれ、本当に今更な話だ。まあそれは君の意見だし、そう思うなら残しておけばいいと思うけど、僕はそう返した。 ちなみに君は、この旅行で何か思うところはあった？
「…少なくとも、世界にはいろんな人がいて、いろんな食べ物があって、フィンランドでは中華料理が一番美味しいって事は分かったわ。」
それだけ学べたら、十分お金を使った甲斐はあったと思うけど。 ちなみに君のロンドンでの滞在費は僕のビザ・カードから引き落とされてるんだけど。
「ロンドンはとりあえずしばらく行きたくないわ。」
まあそれはそれでいいんじゃないかな。辛いこともあったみたいだし。
「でも、楽しいこともあったし、優しい人もいたわ。」
ちなみにどこが楽しかったの？
「キュー・ガーデンズにならもう一度行ってもいいわ、午前中にいろんな花と植物を見て、疲れるまで歩いて、ジンジャーエールとサンドイッチを買って芝生の上に寝転びながら食べるの。 あそこだけは楽しかったわ。」
気に入って貰えたようで何よりだ。
「………できれば、次はお姉ちゃんとも一緒に行きたい。 もし、万が一、貴方も付いてきたかったら、別にそうしても構わないけど。」
別にそこまでして僕は行きたくないけど……そう返そうと思ったけど、なんとなく求められている答えとは違う気がしたので、僕はじゃあまた今度行こうか、できれば秋くらいに、そう返した。 アニーもそうね、それがいいかも、そう言って笑った。
僕とアニーは、ラナーク駅へと向かう列車へと乗り込んだ。 天気は前と同じように崩れ気味で、土砂降りとまでは行かなかったが雨がしとしと降り出した。 なぜ僕がニューラナーク村に向かう時には、こんなロクでもない天気になるのだろう？ あんな村でも、天気さえ良ければもう少しマシに見えたかもしれない。 買い物をして列車に乗り込む間に、時刻はもう昼くらいになっていた。 僕は珍しくビールを飲まなかった。 代わりにトマトジュースに僅かに塩を加えて飲んで、それでサンドイッチを流し込んだ。 アニーは昼食代わりにトマトを齧って、足りなさそうだったので僕は自分のクラッカーを3袋彼女に贈呈した。 だから変に意地を張らずに蜜柑と林檎を買っておけば良かったのだ。 蜜柑こそが完全な食物だと行っていたのは誰だったっけ、そういえばその人は、蜜柑の中身が薄皮に包まれて一口大に既に分割されていることまで褒めていた気がする。 それはそれで同意するけど、僕はやはり完全な食物を１つ挙げろと言われれば、やはりトマトを選ぼうと思っていた。 ここまできて大変申し訳ない話だけど、ニューラナーク村で薄いキャベツのスープを毎日飲むなら、ジェーンじゃなくても多少は嫌になるかもしれない。せめて胡椒を振って、トマトの薄切りでも添えてやればまだ食べられたのだ。 そんな下らない事を考えていたら、ねえ、ねえ、そう言ってアニーが語りかけてきた。
「もうそろそろいいでしょう。 大事なことの2つ目を教えて。」
そう言えばそんなものもあったな。 どうしても聞きたいなら別に言ってもいいんだけど、今じゃないといけないのかな？
「…今の方がいいわ。」
それはどうして？
「……わたしがニューラナーク村に帰って、貴方は市長になる。 立場の違いができるの。 わたしは怖いの、貴方もわたしも変わってしまうことが。 さっき貴方はキュー・ガーデンズに一緒に行ってくれるって言った、でも貴方は忙しくなる、わたしを使う立場になってしまう、そうなったら、わたしと貴方は、少なくとも…対等な関係じゃなくなると思うから。」
確かにアニーの意見は正しかった。 そういえば、行きの列車で僕は、少なくともアニーと僕の関係は対等のつもりだと約束した、だから年齢も資産も故郷も違っても、こうやってお互いの意見をある程度は正直に打ち明けて会話できているのだ。 僕が市長になるという一点だけはアニーは誤解している(僕がまだ言ってないだけなのだが)のだが、確かにその意見は彼女の今持ちうる情報を合わせれば、一面の真理をついていた。 僕はそう思って、あの時何を考えていたのか思い出そうとした。
まあ2つ目を僕がいうのも何なんだけど、そう前置きしてから僕は自分の考えを率直に話した。 他の人の考えと自分の考えは違う、そういうものなんだ、それを分かった上で、きっと君にもどちらかの考えや意見を自分で汲み取って、それが正しいかどうかを判断して行動しなきゃならない時が来ると思う。 その時は結局のところ最終的には運と勘に従うしかないんだけど、どうしても困った時用に、何か自分の「これだけは譲れない」っている線を引いておくと決めやすいかもしれない。 それで失敗しても、まあそれはしょうがないよな、って納得するしかないから。 そういうラインの決め方を他人に任せちゃうと、後々後悔するかもしれないから。
「…ちなみに貴方の譲れないものはなんなの？」
いや特に無いかな、そう答えるとアニーはやれやれ、と小声で呟いて溜息をついた。 残念ながら人は何日か一緒にいると影響を受けてしまうものなのだ。
「忠告ありがとう。 わたしはちゃんと考えておくわ。」
それは良かった。
僕たちは確実にニューラナーク村に近づいていた。
天気は救いようが無いほどに崩れており、僕はサンマリノで買った例の傘を取り出した。 君は傘を持ってるの、そう聞くとアニーは持ってないと返してきたので、僕はサンマリノ傘をアニーに進呈した。 アニーは僕が傘を譲ってくれたのが信じられないほど意外なようで、僕を何か別の生物を見るかのような怪訝な目で見ていた。
「………どういう風の吹き回しなの。 貴方、エジンバラのホテルではわたしに床で寝ろって言い張って聞かなかったくせに。」
そういえばそんなこともあった。 レディを優先するのがニューラナーク村流なんだから、とりあえずそれに従っておくよ。
「それは市長になるからなの？」
アニーがそう聞いてきたので、僕はそうだねと返した。 郷に行っては郷に従えともいうし。 まあしょうがない。 僕は冗談のつもりだったけど、その後でアニーが本気で泣き出したので少し驚いた。 やれやれ。 そういえばヘルシンキに向かう途中でも同じようなことがあった気がする。 僕は仕方なくどうしたのとアニーに聞いた。 アニーはしばらくの間泣いたままで何も答えなかった。 その間に列車は既にラナーク駅に着こうとしていたので、僕はしょうがなくアニーの分の荷物もまとめて自分が持って、2人でラナーク駅に降りた。 泣き止まない幼い少女と中年に差し掛かろうかという人相の悪い男では、誰が見ても悪いのは僕なのだ。 微かに雨が降る中、アニーはサンマリノ傘をさして、僕は濡れて歩いた。 アニーはまだ泣き止んでいなかったが、傘を2人で共有すべきかに関して一瞬迷ってくれた。 僕はありがとう、でも君の身長じゃ届かないよ、そう言って断った。 煙草が吸いたかったが、アニーは煙草を嫌っていたし、どの道この雨と風の中では諦めざるを得ないようだった。 そういえばジェーンはずっとアニーを騙していたかも知れないけど、少なくとも喫煙者であることだけは正直に話していた気がする。 やっぱり家の外で煙草を吸わざるを得なかったのだろうか。 やっぱり喫煙者と非喫煙者の同居は今の時代にはなかなか難しい。 そんな事を考えていたら、ようやくアニーが僕に話しかけてきた。
「……あと何本残ってるの？」
何が？ 僕は本気でわからなかったので大人しくそう返した。
「煙草よ。 その臭いマールボロは後何本残ってるのってこと。」
怒ったようにアニーは返してきた。 やれやれ、僕はそんなに怒られるような事をしたのだろうか？ 困ったものだ。 非喫煙者はやっぱりイライラしやすい、彼女も少し吸った方がいいんじゃ無いだろうか。
「冗談言ってないで、後何本なのか教えて！」
僕は諦めてあと26本だと返した。 申し訳ないけどバッグの中に入っているまっさらの箱の分も含めさせてもらった。 もしかしたら爺さんの雑貨屋で補充して86本くらいになるかもしれないけど、それくらいは許してほしい。
「………ねえ、お願い。 約束して、お願いだから。 貴方がこれから先どうなっても、市長になっても、もしいつか市長を辞められても、今持っている煙草が切れたら禁煙して。 約束して、今。」
それは今じゃなきゃいけないのかな？
「今、今じゃなきゃいけないの。 お願い。」
アニーは真剣な目で僕に向かって話していた。 それは本当に懇願するような目だった。 僕が煙草を止める事が彼女の人生において何か重要な意味を持つのだろうか？ 仮に市長になったとしても、どうせ死ねない身体になるのだ。 亡霊がどれだけ煙草を吸っても別に病気にはならない気がするけど。 それともあちこちに癌が転移した身体を抱えて、それでもなおニューラナーク市長としての務めを立派に果たし続けなければいけないんだろうか、永遠に。 それは確かに大きな問題だ。
でも、この時彼女が話しているのは、そういう事を問題にしているのでは無いことくらいは僕にも分かった。 彼女が問題にしているのは、僕が市長になっても自分と交わした約束を覚えていられるのかという事であり、それは意訳すると、市長なっても貴方はわたしと対等な関係、友人のままでいてくれるのか、そういう問いかけであるようにも思えた。 それはもちろん僕の考えすぎなのかもしれなかった。 アニーは煙草が物凄く嫌いだし、もしかしたら僕の身体を本気で心配しれくれているのかもしれなかった。 いずれにせよ、彼女は本気だった。 アニーは立ち止まったままその場を動かずにただじっと僕を見つめていた、懇願するような目で。
僕も何も言わずに、ただ頷いた。
「……約束、守ってね。」
アニーは短くそれだけ返した後、少しだけ僕に向かって笑ってみせた。
僕たちは並んで、ニューラナーク村への入り口の坂を下った。
村の広場の入り口で、あのロールスロイス・ゴーストの運転手が僕たちを待っていた。 お待ちしておりました、ここからはアニー・マクラウド、貴方に1人で来て欲しいと市長がそう言っております。
アニーだけ？ 僕の方からそう聞き返した。
そう、そうです。 アニー・マクラウド1人で市長に契約書を手渡してもらいます。 ジェーン・マクラウドは今、市長直轄の医者に診てもらっているところです。 申し訳ありませんが、今から起こりうる事に対しては、今のニューラナーク村の住民たちだけで進められるべき事なのです。
僕とアニーは顔を見合わせた、アニーはどう答えていいか分からないようだった。 その場に僕を立ち会わせないことが適切な事なのかどうか、アニーには分からないようだった。 僕は運転手に少しいいかな、そう言って時間をもらい、アニーを広場の隅に連れて行って話した。
いいかい、君は今から1人だけで市長にその契約書を渡しに行く、そしてジェーン姉さんと再会できる。 手順自体は特に難しく無いし簡単な事だ、ベルに僕がいてもいなくても大した話じゃ無い。 だけど、もしかしたらそこで君は、君自身がまだ知らないいくつかのことを知る事になるかもしれない。 それは僕のせいでもある、対等な関係と言っておいて、君にまだ言いだせていない幾つかの話がある。
アニーは黙って、真剣な、本当に真剣な目で僕を見つめた後で言った。
「……それは、お姉ちゃんに関すること？」
イエス、でもそれだけじゃ無い。 もう何個かあるけど、それらは全部絡み合って構成されている事象になる、そして君が今それを知るのと、後でそれを知るのとでは、もしかすると君の選択に多少の影響を与えるかもしれない。 君はどうしたい？
アニーはしばらく考えた後で、小さく、でもはっきりと言った。
「わたしが自分で見て、聞いて、判断したいわ。」
僕もしばらく考えて、ならそれでいいよ、そう同意した。
短い話を済ませた後で、僕とアニーは運転手の所に戻り、アニー1人で行く旨を伝えた。運転手も頷いて同意を示し、ゴーストの扉を開いた。 アニーはそれに乗る前に、最後に少しだけ僕の方を見た。 僕もアニーの方を見つめていた。
「行ってくるわ。」
僕は頷いて、健闘を祈るよ、そう返した。
アニーは頷いてゴーストに乗り込み、運転手は扉を閉じた。 車はゆっくり発進して、そのままゆっくり進んで、やがて距離が開いて行った。 僕は溜息を微かに吐いて時計を見た。 時刻は17時前を指していた。
アニーと運転手が行ってしまうと、もう僕は特にすることがなくなった。 気にするほどでもなかったが、ぽつ、ぽつ、ぽつと雨も僅かに降っている。 僕はとりあえず、アニーが帰ってくるまで待つ場所を探す必要があった。 とは言ってもこの街には、マクラウド姉妹と市長、運転手以外に、知り合いは1人しかいなかった。 僕はスクルージ爺さんの雑貨屋を目指してゆっくり歩き始めた。 アニーは市長の家で何を知るだろう、僕は順々に考えてみた。 偽名の契約書でアニーはまず僕の嘘を知ることになる、そしてジェーンがずっとついていた嘘を知る、そして自分がニューラナーク村の労働者では無くなった事を知る。 そうしてアニーの居場所を勝手に奪う行為が適切だったのかどうか、僕は今でも分からなかった。 しかし、あの時のジェーンの本心が別のところにあったとしても、確かにアニー・マクラウドはこのニューラナーク村に縛られるべき子供では無いような気がした。 彼女には少なくとも未来があったし、それがどのようなものになるにせよ、彼女は自分自身の人生を送る自由があるべきだった。
僕はあの懐かしきスクルージ爺さんの雑貨屋の扉を開けた。 爺さんは相変わらずジロッとこちらを見て、なんだまたあんたか、アニーちゃんはどうしたんだ、そう僕に言ってきた。 色々あるんだけど、とりあえず彼女とは一緒にこの村に一旦戻ってるんだ。 とりあえず、アニーが帰ってくるまで待てる場所がどこかにないか、教えてくれないかな。
スクルージ爺さん(のような店主)は、ううむ、と僕を睨みつけながらしばらく考えていた。 石のような沈黙が僕と爺さんの間に降りた。 爺さんはようやく口を開いて、食堂に行こう、と言った。 この村にまさか食堂があったとは驚きだ。 爺さんはよっこらせ、ううん、ああ、とか唸りながら店の扉を閉めて、僕と連れ立って食堂まで歩いて行った。 歩く途中で、この村の唯一の自慢の食堂だ、ビールと、パンと、チーズと、キャベツのスープが飲める、そう説明してくれた。 それは素晴らしい。 少なくともアニーの家よりご馳走には違いない、何せビールがあるのだから。 あの子は元気だったか、旅は楽しんでいたか、ジェーンの様子を見たらまた旅に出るのか、爺さんは矢継ぎ早に僕に聞いてきた。 僕はイエス、イエス、最後の質問にはちょっとまだ決めてないんだと言った。 爺さんはそうか、と呟いた。 あの子がジェーンの事を知ったら悲しむかもしれんぞ、そう爺さんが言うのを聞いても僕はあまり驚かなかった。 村の人たちは、ジェーンの事を知っていたんですね。 そう爺さんに聞くと、彼は黙ったままこくりと頷いた。 アニーに黙っていたのは、市長かジェーンから止められていたのですか。 爺さんは立ち止まって僕を見つめて、再び頷いた。 わしを酷い奴だと、そう思うか、彼は僕に聞いてきた。 僕は、僕も同じようなもんだから言えたものじゃないけど、そう答えて、また爺さんと並んで歩いて行った。
意外なことに、石造りのその食堂の内装は思っていたよりはまともだった。 古びてはいるけど手入れがされていて、机、椅子、木製のカウンターも一応磨かれているようだった。 人は僕たち以外には誰もいなかった。 僕と爺さんは真ん中のテーブルに向かい合ってついた。 爺さんはウエイターを読んで、僕たちは煙草に火をつけた。 そういえば爺さんの店で煙草を追加するのを忘れていた。 これであと25本、やれやれ。 アニーが帰ってくるまで持てばいいんだけど。
やがて白い顔をしたウエイターが注文を取りに来た。 彼の顔にも、あの運転手と同じく表情という表情が何もかもなかった。 ただじっと僕たちが注文を取るのを聞いていた。 爺さんと僕はビールを注文して、ついでにチーズとキャベツのスープも注文した。 ビールが運ばれてくるまでの間、爺さんも僕も黙って煙草を吸っていた。
あのウエイターはもう64年目だ、爺さんがようやく口を開いた。 64年？ まだそんな歳に見えなかったけど。 僕がそう返すと、爺さんはこの村に取り込まれてからな、そう言った。 わしはまだ13年しか経っていない、この村ではアニーの次に若い。
アニーの次？
そう、アニー・マクラウドが最も若い。 あんたがどんな選択をしたのかわしは知らん、わしは偽名を書いた。 偽名を書いて、2度とこの村から出られん。
僕は爺さんの唐突な話を理解するのに少し時間がかかった。 僕は黒いビールを一口飲んだ。 奇跡的に冷えていて、苦くて、強目のアルコールが感じられた。 つまり貴方は、あの契約書にサインした、偽名で。 そしてどんな理由か知らないけど、この村に来て契約書を市長に渡した、そしてこれもどんなわけか知らないけど、この村から出られずに13年間ここにいる。 そういうことですか？
爺さんはイエス、そう答えた。 やれやれ。 わしはまだ幼い女の子にせがまれてサインした、その娘は病気の父親がいた、わしがサインしなければ村に帰れないと言ってきた。 わしは初めは断った、その女の子はそれでもわしについてきた。 わしが腹が立ってビールを少女の頭からかけてしまった。 彼女は少し泣きながらわしを見つめて、そのあと立ち去っていった。
翌日わしはその少女をもう一度パブで見かけた、相変わらず薄汚れた造花を彼女は売っていた、わしは何故だか気の毒になって一本だけ買ってやった。 その少女とその後で話をした。 長い長い話になった。 話終わって彼女はまたわしに頭を下げた、この契約書に名前を書いて、お願いします、父にもう一度会いたいの、確か彼女はそんなことを言った。 わしは偽名を書いた。 エベネーザ・スクルージ、わしはそう書いて彼女に返した、そして一緒にこの村に来てやった、最後に騙されたままの彼女を嗤って逃げようと思っていた、そしてわしはそのまま出れなかった。
僕たちはまたお互いにビールを一口飲んで、煙草に火をつけた。 あと24本。
貴方はどうしてこの村から出られなかったのですか？
爺さんは話を続けた。 村の掟だ、この村から出て行く権利があるもの、例えば、飛行機の操縦士や大都市のホテルマンのような職業に就くものが同行しなければ、来た者はこの村から出られないのだ。 わしのそばについてきてくれる者はあの少女だけだった、そしてあの少女はわしの本名を知らなかった。 少女にとってのわしはエベネーザ・スクルージ爺さんであり、わし自身ではなかった。 少女は裏切ったわしを責め立てた、わしは本名を名乗って必死に謝った、逃げたかった、この村にとどまりたくなかった、そしてあの少女はわしを連れ出してはくれなかった。
本名を知る人にに手を引いてもらわなければならない。
そういえば、ジブリの映画でそんなのがあった気がする。 けど僕は思い出せなかった。 何だっけ。 それにどんな話だっけ。
若いの、あんたも同じことをしたのか。
僕はもう一本煙草に火をつけた。 僕と爺さんはビールをもう一杯ずつ頼んだ。 その後で僕は、イエス、そう答えた。
爺さんは、はあ、と溜息をついた。 それは同情にも諦めにもとれた。
あんたの本名を知り、かつこの街から外に出て行ける資格を持つものでなければ、あんたを再び外に連れ出すことはできない。 0時、そう0時だ、0時を超えるとあんたはこの村の住人になる。
やれやれ。
つまり僕が前にこの村を出られたのは、僕は切り出した。 アニー・マクラウドが、僕の本名を知っていてーというより、本名だと思っていてー一緒に外に出てくれたから、そういう事で合ってますか？
イエス。
僕は市長の家がどこにあるのか覚えていなかった。 そして、アニーはもう今では、僕がナガトユキでないと知っているかもしれないのだ。
嘘をついても、結局ろくなことにならない。 口は災いの元なのだ。
僕は念の為、確認しておいた。
その少女が、ジェーン・マクラウドですか？
爺さんは黙って頷いた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
アニーを乗せたロールスロイス・ゴーストは、市長の家の前で止まり、アニーを外に案内した。 アニーは市長の家に来るのは初めてだった。 アニーの目には、その家はより大きく、偉大で、強大な力と権力の象徴のように見えた。 アニーはふと自分の着ている服のことを思い出して、少し恥ずかしくなった。 どう考えても、自分はこの家に似つかわしくないように見えた。 招かれざる客。 いいえ、そんな弱気でどうするの。 わたしは契約書を市長に渡す、そしてお姉ちゃんに逢う。 アニーはジェーンのことを考えた。 ジェーンの体調は少しは回復したのだろうか。 それとも、もっと悪いことになっているのだろうか。 アニーには分からなかった。 そしてそれが不安だった。 お姉ちゃんは、帰ってきたわたしを怒るだろうか？
アニーは躊躇いながらも、玄関口に向けて歩いた。 運転手がドアを開けた。 連れられて板張りの廊下を進んでいった。 内装はロンドンのように過度に豪華すぎず、どちらかというと簡素なようにアニーには思えた。 そして通された部屋で、アニーは市長と出会った。 アニーは彼をにらんだ。 彼が造花を燃やして上から酒をかけたことを、今でもアニーは覚えていた、忘れようとしてもそれは夢になってずっとアニーを追ってきた。 造花を燃やす、ジンを振りかける、そして勢いよく燃える。 いつもそれを見て彼が嘲ったところで夢は終わった。 怖い夢を見た後、彼女はいつだってジェーンの部屋に行った。 ジェーンは彼女の顔を見て、黙って頭を撫でてくれた。
「アニー・マクラウド。」
市長はそれだけ言って、アニーに座るよう身振りで示した。 アニーは座らなかった。この男の言う事は何もかもが嫌いだった、信じられなかった。全ての行動が、全ての言葉が、自分を見下しているように思えた。 そこでようやくアニーは気付いた。 市長とナガトユキは確かに似ているけど決定的に違っていた。 市長はただ嘲りのためアニーの造花を燃やした、ナガトユキはアニーと自身への苛立ちのために造花を燃やした。 行き着いた行動はどちらも同じだった。
「契約書を。」
アニーはまだその紙を取り出さなかった。 その前にお姉ちゃんに遭わせて、アニーはそう要求した。 契約書を渡してしまうと、もうそれっきりかもしれないのだ。 市長は暫く考えて、サイド・テーブルに歩いて行き、グラスを小さな棚から取り出してジンを注いで、一口だけそれを口に含んだ。 彼はしばらくそれを味わうかのように咀嚼して、下の上で転がして飲み下した。
「いいだろう。 君がどう思おうが、それで終わりだ。 君はジェーンと逢う、私は契約書を手に入れる。 君が渡さなかっても奪い取る。 それだけだ。」
彼はもう一口ジンを飲んだ。 その後で、煙草に火をつけた。 そのままアニーの近くまで歩いて行き、その顔に煙草の煙を吹き付けた。 アニーは思わず顔を背けた。
「階段を登った先、最初の十字路を右、その突き当たりの部屋。 行きたまえ。」
アニーはありがとう、吐き捨てるようにそう言って、市長の部屋から出て行った。
どうしてみんなあんな臭い煙草を吸うのかしら。 アニーにはそれが不思議で仕方がなかった。 もし彼が、ナガトユキが、市長になっても、今日交わした約束を守ってくれるだろうか。 対等な関係、彼はそう言ってくれた。
でもそれは、アニーは思った。 それは貴方が、貴方の国で貴方自身の暮らしがあり、わたしがニューラナーク村の住人であるからこそ成り立った関係かもしれない。 貴方は市長になっても、変わらずにわたしと接してくれるの、それともやっぱり変わってしまうの。 アニーは階段を登りきった先で立ち止まって、考え込んで、悲しくなって、少しだけ泣いた。 人は変われるんだ。 わたしは貴方との旅で学んだ。 わたしは今、学校に行きたい。 学びたい。 学んで、知って、そして自分の意見を自分で考えたい。 でも人は、変われるかもしれないけど、変わってしまうのかもしれない。 貴方は市長になっても、貴方のままでいてくれるの？ お姉ちゃんがもしも、もしも遠くに逝ってしまったら、わたしはこの村で1人になってしまうのよ。 そうなっても、貴方はわたしと2人でキュー・ガーデンズに行ってくれるの？
考えても考えても、アニーには分からなかった。
アニーは暫くその場で泣いて、服の袖で涙を拭って、ジェーンに会いに行った。
市長に教えられた部屋の扉を、コン、コン、2回叩いた。 入って。 ジェーンの声が部屋の中から聞こえて、アニーは扉を開けた。
ジェーンは部屋の端の、窓際に据えられたテーブルに座っていた。 テーブルの上にはお酒らしい瓶と、グラスと、氷の入った透明のバケツと、灰皿が置いてあった。 ジェーンは自分の前の椅子をアニーに示して、座って、そう言った。 アニーはテーブルの上に置かれたお酒の瓶が、市長が飲んでいたものとよく似ていることに気付いた。
アニーはジェーンの向かいまで歩いて行き、椅子を引いてその上に座った。 そしてようやく、ジェーンの姿を真正面から見つけた。 体調は良さそうに見えた。 とても、死に向かって近づいている人間のそれには見えなかった。 その顔は生気に溢れ、表情からは、自分の人生と行動に対する確固たる自信が備わっているように見えた。 アニーは姉のそんな顔を見たことがなかった。 アニー・マクラウドの中のジェーンは、儚げで、物憂げで、いつだって優しさを湛えた、そんな姉だった。 ジェーンもアニーを見つめて、黙ってグラスの中のお酒を少しだけ飲んだ。 ハーブと、微かにキュウリの爽やかな香りが、アニーの鼻孔をくすぐった。 ジェーンはその後で煙草に火をつけた。 深く煙を吸い込んで、その後で、煙をアニーの顔に向かって吐き出した。 その匂いは、市長の吸っていたそれと同じで、先に飲んでいたお酒の香りと混じり合い、アニーの顔の前で煙はゆっくりと漂い、そして消えて行った。
お姉ちゃん、アニーは声を絞り出した。 自分の喉から出たとは思えないほど、その声は震えて、枯れていた。 隠そうと思っても、恐怖と、不安は、声に現れた。 身体がどうしようもなく震えてきた。 お姉ちゃん、もう一度アニーは縋るように言った。
わたしを、だましていたの。
ジェーンはもう一度深く煙を吸い込み、今度は顔を背けて天井に向かって吐き出した。 そして煙草の後味を洗うために、もう一口お酒を口に含んだ。
「そういうことになるわね。 可哀想なアニー・マクラウド。 私はご覧の通り、とても健康。 残念だけど、貴方と違って、学問も、知識も、経験もある。 立派な仕事にも就ける、今は市長の秘書をしてるけどね。」
そう言って、グラスの中に残ったお酒を、残らずアニーに向かってぶちまけた。 アニーの髪の毛も、顔も、服も濡れた。 強烈なアルコールの風味がアニーを刺激して、思わずアニーは咳き込んだ。 遠くに匂った時は爽やかだったハーブとキュウリの香りが、咽せるほど強く感じた。 アニーは咳き込んだ。 咳き込みながら、ジェーンによく作ってあげていた、キュウリを挟んだサンドイッチの事を思い出した。 黒くて硬いパンに、スライスしたキュウリを挟んで、塩を少し振るだけ。 マスタードも、マヨネーズも、売ってはいたけどアニーが稼いだお金では買えなかった。 それだけのことだった。 使った方が美味しいのは、アニーにだって分かっていた。 ただそれができなかった、それだけのことなのだ。
ジェーンは新しいお酒をグラスに注いで、氷を何個かその中に入れた。 カキン、カチン、氷がグラスと自身に当たる時の小気味よい音だけが残った。
「可哀想なアニー・マクラウド。 可哀想な妹。 貴方はこの村で留まるの、ずっと留まるの。 私は出て行くわ、結婚するの。 もう婚姻届は出したわ、私はもうマクラウドじゃないの、もう貴方とは他人なの。 それを覚えておいて。」
アニーは何も言わなかった。 涙も出てこなかった。 ジェーンを信じたくなかった。 目の前にいるジェーンは、自分のやさしいおねえちゃんのジェーン・マクラウドとは別人なのだと思いたかった。 だけど何度見ても、彼女は間違いなくジェーン・マクラウドだった。 紡績工場で働いて、働いて、身体を壊して、申し訳なさそうにアニーの介護を受け、一緒にまずいキャベツのスープを飲み、アニーが怖い夢を見た時は黙って頭を撫でてくれて、そして抱きしめてくれた、ジェーン・マクラウドだった。
どうして、わたしに、嘘をついていたの。
アニーはようやく、それだけを言った。 全身を濡らしているお酒は、とても冷たく、それがアニーの身体も、心も、冷たく凍らせていった。
「貴方には、私と同じ役割をしてもらわなければならなかったから。 あのジャップ野郎をここまで連れてくるのは、どこまでも純粋で、どうしようもない無能の貴方じゃないと出来なかったから。」
昔の私みたいに。 ジェーンは小さく呟いたが、それはアニーには届かなかった。
「契約書を、市長に渡しなさい。 悔しければ、この村で働いて、どんな手段を使ってでも知識をつけて武器にしなさい、武装しなさい。 何をしてもいい、どんな手段を使ってでも新しい市長に取り入りなさい、言われれば靴を舐めなさい、地面にぶちまけられた酒を綺麗に舐めとりなさい、股も開きなさい。 喜んで、心から喜びながら、それから呪いながら。 そしてこの村から外に出ていける権利を持ちなさい、汚い造花なんて売っていても何も変わらないの、精々エジンバラのしけたパブで燃やされてビールかウイスキーに突っ込まれる程度よ。」
アニーは黙って、ジェーンが得意げに語る言葉を聞いていた。
「ずいぶんナガトユキ様と仲がいいんでしょう？ 良かったわね、今のうちに新市長に取り入れて、あの人が疲れている時に誘惑してみたら、片田舎で指を振って車の中の男を誘惑して金を搾り取る娼婦を見習って、もしかしたら貧相な貴方でも、成長したらあの人を誘惑することくらいーーーーーー」
アニーは立ち上がって、テーブルの上から身を乗り出すようにして、ジェーンの頬を平手で思いっきり叩いた。 ぱあん、乾いた音だけが部屋の中に響いた。 それはずいぶん間の抜けた音のように聞こえた。
しばらく、2人とも口をきかなかった。
ジェーンは驚いたような目でアニーを見つめていた。
友達のことを、そんな風に言わないで。
アニーは短く、それだけジェーンに伝えた。
それから黙って立ち上がって、ジェーンをしばらく見つめた。 ジェーンは何も言わなかった。 アニーがそこから立ち去り、ドアを開けて出て行くまで、何も話さなかった。
アニーは黙ったまま部屋から出ていった。
歩いて、歩いて、長い廊下を歩いて、曲がり角まで歩いた。 この角を左に曲がれば、階段がある。 その階段を降りたら、市長が待っているはずだった。
アニーはその場で立ち止まった。 まだ髪の毛がジェーンに浴びせかけられたお酒で濡れていた。 雫がぽたりと床に落ちた。 強烈なアルコールとハーブとキュウリの香りが漂った。 その匂いを少しだけ吸い込んで、アニーは泣いた。 深く、深く、心の底から泣いた。 信じてた。 裏切られた。 それだけのことだった。
100パーセント考えが一致することなんて、家族でも、友人でも、有り得ないんだ。
ナガトユキはそう言っていた。
彼が何を伝えたかったのか、いまではよく分かった。
アニーは声を上げて泣いた。
信じていた人に裏切られること。 友達を侮辱されること。
アニーは、この何日かで、人が人を深く深く傷付けられることを、初めて知った。
(第5部終わり)