※この話の中で書かれる設定は、創作の中の架空の設定です。
例えば、ルーブルの中の秘密の部屋を探ろうとして、政府の役人が立ち入ったりするなんてことは、当然現実ではあるわけないです。
※未成年の飲酒は犯罪です。
(第3話 素直じゃない人編)
[…16年前 フランス アルザス地方 ストラスブール]
その店のクレープは、確かに悪くなかった。彼女が教えてくれた通り、香ばしい焼き目がついて、けれど焦げ臭くならないギリギリを見計らって薄く、香ばしく焼き上げられている。それが半分に折られて、白い粉砂糖をたくさん振りかけられて、私の前に供されている。私は1/6ほどに減った白ワインのデキャンタをグラスに空けてしまってから、クレープの残りに取り掛かった。
……彼女の紹介してくれた画商に、私の絵を売ってから、もう1年と6ヶ月が経つ。画商から音沙汰はないし、このところ、彼女でさえなんだか歯切れが良くない。ということは、まあ、きっぱり諦めてしかるべき時期に達している、要するにそういうことを暗示しているのかもしれない。
私の絵は、やはり、取るにも足らない、ただの青年の夢と憧れを映したものでしかなかったのだろうか。
……そうかもしれない。
夕食にクレープ・シュゼットだけをとったので、ホテルから帰る途中にもやたら腹が減る。ストラスブール大聖堂の広場の前で、焼き栗を売る屋台が出ている。私は屋台に立ち寄って、香ばしい焼き栗を一袋だけ買い求める。パリではよく見かけるけど、ストラスブールでも同じようなものなのだ。何故だか少しほっとして、私は栗の皮を剥く。
…たとえ私の絵が高い評価を得なくとも、私は金を稼がざるを得ない。生きるために。自殺しようかとも思った、ただ、それは怖くて、どうしてもできなかった。そうなった以上、私はこの世界にしがみつくしか無いのだ。
…私は、少なくとも今は、自分に出来ることを、精一杯こなす以上のことは出来ない。
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なんでも好きなもの頼んでいいわよ。boef bourguignon(ビーフシチューみたいなもの)が名物だけど、それ以外でもまあまあ美味しいわ。日替わりランチなんて、15ユーロでけっこう美味しいわよ。…グラスワインもちょうど6ユーロ。ボルドーの若いやつだけど、まあまあいける。
ー……君は未成年で、かつ昼からワインを飲むの？
ネージュは非難がましげにそう言ってくるけど、ワインくらいはまあ、誰かに責められる筋合いはないだろう。ビジネスマンも、お爺さんもお姉さんも、みんな昼から一杯飲んでるし。私はちょっと挑発してみる。
…別にわたしだけワイン頼むから、貴方はミルクでも頼んでたら。お子様？
ネージュは私を睨んで、その手には乗らないとばかりに無視してメニューに目を落とす。けど、どう見ても目が泳いでるし、そういえばこの子、文字読めないんだっけ。さすがに私は嫌味じゃなくてフォローを入れる。まあ、誘った手前、というのもあるし。
………上から、日替わりのランチ…今日はビーフとポテトね…、ビーフのシチュー、トリを小さい鍋で香草と一緒に焼いたやつ、タルタルステーキ。…魚の方も読んだ方がいいかしら？
ー……いい。肉が食べたい。タルタルステーキって何？
牛の生肉を叩いて、香草と胡椒と一緒にまとめるの。私も体力つけたい時にはけっこう頼むわよ。…これにする？
それでいい。なんだか、よくわかんないけど。
私はウェイターに、ネージュのためのタルタルステーキと、自分の分のboef bourguignonを頼んで、それからボルドーの赤ワインのグラスを2つ頼む。どう考えても、子供がお酒を飲んで良い時間ではないはず(というか、そんなタイミングは無いはず)なんだけど、ウェイターは迷いもなく了承する。まあ、我が国のことながら、こういうものなのかもしれない。
少し経って、まずグラスワインが運ばれてくる。形だけだけど、ちゃんとテイスティングまで済ませて、私は注がれたワインをネージュにも勧める。
初めてなんでしょう？ワイン。ちょっと試しに飲んでみたら。 気に入らない味だったら、残しても誰も何も言わないし。彼女は素直に頷いて、小さく口をつける。そもそもワイン・グラスを持つの自体が初めてみたいだったけど。
………どう？
ー……苦くて、重たい味がする。
まずい？
ーそういうわけじゃない、と、思う。
ネージュはまた一口、今度は最初よりもう少し多い量を口に含む。明らかに慣れてないであろう彼女の所作を見て、私は不思議な気持ちになる。なぜだろう。
しばらくして料理が運ばれてきた。
私はネージュに、簡単にテーブル・マナーを教える。ナイフは右手、フォークは左手で持って、なるべく音を立てないように食べるの。ナイフの上に乗せて食べないように。 彼女は私の言うことに大人しく従って、繊細な外科医のように慎重に、注意して生肉の塊を小さく取り分けて、フォークで掬って口に運ぶ。
……どう？
ーおいしい、と、思う。
はっきりしないわね。
ーおいしいって感覚がよくわからない。レストランで食事をするのって初めてだし、生肉を食べるのも初めてだから。少なくとも、苦手な味じゃない。
私も自分のシチューに取り掛かる。私とネージュの食卓の間には、沈黙が流れ続けていた。ただ、それは居心地の悪いものではなかった。私はスプーンを置いて、赤ワインを少しだけ口に含む。苦くて、重たい味がする。ネージュが慎重に、かつ真剣に食事に集中しているのを眺めて、私はさっき思い起こした、不思議な感覚のことを考える。多分、ネージュみたいな食べものや飲み物に対する味わい方を、私がこれまでに見たことがないからそう思うのだ。それはどこまでも純粋で、クリアで、変に衒ったところのないものだった。誰かに頼ることなく、自分の感覚だけで、素直に味わって、考えて、自分の言葉で解釈する。
…私はもうずいぶん、そういう食事をしていない気がする。学校でも、家でも、常に何かを気にして、警戒しなければいけなかったから。
ー……クロエ。
どうしたの？
声をかけられて、私はようやく自分の思索から抜け出す。
ーくるくるする。
……は？ 何が……
言いかけて私は、ネージュのグラスが空になっているのに気づく。
ーくるくるする。
早く飲みすぎなのよ、貴方…。
私はウェイターを呼んで、ワインの代わりに水を頼む。ネージュの目がとろんとして、私はなんとなく可笑しくなって、少し笑った。
そういえば、笑うのも、ずいぶん久しぶりな気がする。
デザートを頼んで、レモン・ムースとしっとりしたショコラを小さなスプーンで掬いながら、私はエスプレッソに砂糖を6匙分入れる。
ーそんなにいれるものなの？
こうして、かき混ぜないで飲んで、後に残った砂糖を掬って舐めるのが美味しいのよ。
私がそう答えて、ネージュもそれに従う。
ーねえ。
どうしたの？
ークロエはどうして、学校に行かないの？
彼女はなんの前触れもなく、あっさり聞いてきた。私は愕然として、それで打ちのめされたような気分になる。それはネージュの中では、あくまでも純粋な疑問でしかないのだろう。少なくとも今この場で、意地悪な質問で私を困らせてやろうとか、そういうつもりではないのだろう。まあ、こんな時間に学生がウロウロ暇そうに歩いてレストランで食事までしてたら、それは自然な疑問なのだ。
……行きたくないからよ。
ーどうして？ 学校って、行きたくないような場所なの？
少なくとも、私にとってはね。
貴方には分からないでしょうけど、辛辣にそう言いかけて、私はやめておく。そんな事言ったら、一昨日と同じじゃないか。
ーふーん。そういうものなんだ。僕はてっきり、あるていど楽しい所だとばかり。
……学校には学校での苦労があるし、うまくなじめない人もいるの。そういう所。少なくとも私は後者だった。うまくいかないものなの。
ーべつに、無理して行く必要もないと思うけど。たぶんね。
その言葉は、私にとっては意外だった。
……意外ね。またてっきり、学校に通える恵まれた身分なんだから、贅沢言うなよとか言われると思ってたわ。
ネージュは私の返答を聞いて、心底意外そうな顔になる。
ーどうして？僕はそんなこと思わない。僕は確かに、学校に通えない境遇で、正直に言って、君がうらやましく、贅沢な悩みに思える。かといって、別に君に強制することはできない。誰にだって嫌なことはあるし、誰にだって自分の生き方がある。ただそれだけじゃないの？
私はそれ聞いて、黙ってエスプレッソのカップに目を落とした。一口だけ飲んで、心地よい苦味で満たされてから、小さく答えた。
…ありがとう。なんだかほっとしたわ。
ーそういうものなの？
そういうものなの。
ねえ、デザートが終わったら、もう一杯だけワインを頼まない。
ーいいけど、僕はくるくるする。今はちょっとマシだけど。
ゆっくり飲めばいいのよ。 ゆっくりね。
***********************
私とネージュは、結局2時間ほどゆっくりして、それから地下鉄を乗り継いでルーブルに帰る。ネージュは帰りの電車の中で、うつらうつらして、私の肩に頭を預けてきた。私はネージュを起こさなかった。起こすと悪い気がしたし、それに、本当のところは、私にとっても嫌なことじゃなかったから。
ルーブルに帰ってきて、ネージュはまた栗売りに戻る。ただ、酔わせちゃった手前もあるし、私はそのまま彼女を見守ることにした。ただ、余計なお喋りでちょっかいを出すのはやめて、美術館の壁に背中を預けて、ネージュが栗を焼くのを見る。…手慣れた、でも慎重で手を抜かない、綺麗な動作だった。
1時間ほど経って、ルーブルの中が、少し混み合ってきたことに私は気付いた。少しネージュのそばを離れて、私はピラミッドに向かう。いつもよりはるかに長い列…というより人だかりだった。少し待ってみても、彼らは全く中に入れてもらえる様子がない。私は知り合いの警備員さんに話しかけてみる。
何かあったんですか？
ーああ。クロエお嬢様。いやね、観光客がなんだか揉めてるみたいで。…たぶんジャパニーズなんですが、2人で来てて、もう片っぽが美術館から出てこないとか何とかで。
ああ、迷子？ よくある話じゃない。
ーそれがそうでもないみたいなんですよ。聞いた話じゃ、居なくなった方のiPhoneとApple watchだけが館内で発見されて、持ち主の方はそれっきり見当たらないみたいで。変な話でしょう、iPhoneは落としたならともかく、時計まで同じ場所に落として、本人は見つからないって。…警察まで来て、何か事件に巻き込まれたかのうせいがあるとかで、今一時的にお客さんの出入りを止めているところです。
…誘拐とか、そういうの？
ーかもしれません。そうじゃない事を祈りますけど。警察だけじゃなくて、なんだか変なのまで来てるし。ああ、あいつらですよ……
彼はそう言って、ピラミッドの入り口あたりを見渡す。それを見て、私は心臓が飛び上がりそうになった。…父と、それから、エドガーがそこにいた。
ーあれですよ、たまに来る政府の役人…エドガー・アグノエルとかいう奴です、あいつが来ると、だいたい面倒なことになるんだ、お父様も対応に大変でしょうに…。
エドガーは、次の休館日まで…火曜日に来ることになってたはず。あいつが…どうして今ここに？ あいつは、不確定な誘拐事件疑いなんかで、ここに来る奴じゃない…。相変わらずのオールバックに纏めたブロンドの髪とダーク・スーツ、それから…その端正で、凍りついたような細い青い眼を見ただけで、私は昔を思い出して、それから唐突に吐き気が込み上げた。膝がガクガク震えて、力が入らない。頭がクラクラする。…私はその場に倒れ込む寸前になって、ようやく誰かが、隣で私を支えてくれていることに気づいた。
……ネージュ。
ーすみません、その、クロエがちょっと具合悪いみたいなんで、少し休ませてあげたいんですけど、この辺に空いてる部屋とかあります？
ー…君は？ 確か、リシュリューの前で栗を売ってる……
ー知り合い…………………友達です。
警備員のおじさんは、胡散臭そうにネージュを見て、それから私を見て、私が頷くのを見てから、ようやくネージュに指示してくれた。
ー警備員の休憩室があるから、そこを使ってくれて構わない。君がいつも栗を売ってるリシュリューの下の通路の、パスホルダー専用の出入り口の向かい。そこにある。俺のサインを見せたら入れるから、とりあえず、そこでお嬢様を休ませてくれ。
ーありがとう。それじゃ……。
私はネージュに体を支えてもらいながら、リシュリューに向けて歩き出した。
***********************
僕はクロエを支えながら、リシュリューの警備員室に入る。それは簡素な部屋だったけど、暖房が効いていたし、奥の方に仮眠用のベッドが3つあった。僕はクロエをベッドに腰かけさせる。ついてきていたルルの方を、感謝を込めて小さく頷いてちらっと振り返る。ルルが教えてくれたのだ。
ーなんとなく、出て行く奴らの雰囲気が違う気がする。不満、諦め、そういう感情が見える。ルーブルで何かあったかも知れない、それに、さっきから、あの女…クロエも、戻ってきてない。
ルルにそう言われて、僕はまだ若干くるくるしていた頭をしゃんとさせて(気持ちだけだけど)、ピラミッドの方へ向かった。そこにいたクロエの顔は青ざめていて、もうすぐにでも倒れてしまいそうだった。
僕はクロエの呼吸が落ち着くのを、6分近くかけて待って聞く。
……落ち着いた？ もうくるくるしない？
ー……くるくる、というより、グラグラしてたのよ。今は落ち着いてきた。ありがとう。助かった。
何かあったみたいだけど。ルーブルで。
ーええ。何かあった。確実に…666号展示室に関わる何かがあった。
僕は少し驚く。クロエが短い間に、そこまで断定できた事にも驚いたし、彼女のほとんど確信に近い決然とした言い切り方にもびっくりした。…もしかすると、彼女にはまだ、僕には言っていない何かを知っているのかもしれない。
…それはまた、えらく早いね。観光客がみんなスルーするお陰で、おやつの時間なのに栗も全然売れなかった。ちなみに、何があったの？
ー観光客が1人、行方不明になった。…それに、エドガー・アグノエルが来ていた。
……全然誰か分からない。
ーこの国の官僚の1人よ。表には出てこない。私は知ってる。エドガーは…あのクズ野郎は、ルーブル美術館の運営方針に深く関わってるし…それに、多分だけど、666号展示室のことを追い求めてる。
なんでまた、そんなことを？
ー『私が知ってるの？』と続く質問かしら。それとも、『彼が知っているの？』かしら。
まずは前者について教えて欲しいし、後者についても知りたい。
なるほど。僕は思った。はっきり伝えないと分からないこともあるものだ。
ーじゃあまず最初の方から。私は昔…9年前の、5歳の時のクリスマス・イブに、あのクズ野郎と初めて会った。それは私が…その…いろいろと、ちょっとした騒ぎを起こしたからなの。
騒ぎ？ 君は露骨に嫌な態度をとる時じゃなかったら、そんなに騒がしいタイプには見えないけど。
ー別にやんちゃが過ぎたわけじゃないわよ。…私が丸2日、ルーブルの中から出てこなかった事件ってのがあったの、その時。
それは確かにちょっとした事件のように聞こえる。
ー迷子になったわけじゃない……いえ、迷子ではないけど、迷い込んだわ。そこがどこなのか、私にはよくわからない。私は小さな部屋の中にずっといたの。だれも私を見つけられなかった。それに、そこに…………………いえ、何でもないわ。
…それは666号展示室の事を言っているの？
ー分からない。ネージュ、私には今でも分からないの。あの時私が迷い込んだルーブルの部屋が、どこにあって、それがどんなものなのか。私がその部屋を見つけて、中に入ったのは、確かに月曜日の夜のことだった。私はそれを、自分の中で勝手に666号展示室と結びつけている、それだけなの。
分かったような、分からないような。君は5歳のクリスマス・イブにルーブルの中に迷い込んで、丸2日間小さな謎の部屋の中にずっといた。それは理解したけど、まだそのクズ野郎の話と繋がらない。
ーエドガーの奴が来たのは、3日目の朝のこと。私は小さな部屋から外に出ていて、気がついたらピラミッドの前に立ってた。そこで彼に声をかけられたの。私は彼に付いて行ったわ、車に乗って、1時間か、もう少し走って、私は古い小屋に連れてこられた。そこで私は聞かれたの。ルーブルの小さな部屋の事を、ずっと、執拗に…
…………彼は聞くの。
『君の名前は？』
私は答えられなかった。
『君はどこからきたの？』
私は答えられなかった。
『どこで生まれたの？』
私は答えられなかった。
『家族は？』
私は答えられなかった。
『どうしてルーブルから出てこなかったの？』
私は答えられなかった。
『部屋のことを、教えてくれないかな。』
私は…答えなかった。
…………これがずっと続くの。同じことを。1時間おきに。きっかり、きっかり1時間…60分おきに、エドガーは私に聞くの。それが6日間続いて…私は、今の家に引き取られる事になったの。
僕はクロエの話に聴き入る。クロエはその時のことを喋る時に、人形のように無機質に、できるだけ感情を抑えて事実だけを喋ろうとしている。ただ、彼女の瞳の本当の奥底には、隠せない怖れと、不安の暗い淵が覗いていた…気がする。クロエの呼吸がだんだん荒くなって、彼女と向かい合って椅子に座っていた僕は立ち上がった。ベッドに腰掛けてる彼女の横に並んで座って、彼女の手をそっと引き寄せて、僕の掌で包んだ。なぜだか、僕はクロエに対して、そうする義務があると思った。
クロエの気持ちが少し落ち着くのを待って、僕は尋ねる。
………今の家は、君の本当の家じゃないの？
ー…………たぶん、そうだと思う。分からないの…分からないの、私は戸籍上は、捨て子になって、今の父に引き取られた事になってる……でも本当は違うの、何も思い出せないの、ルーブルのあの部屋に入るより前のことは……、本当の両親が私にはいるの？私はなぜルーブルにいたの？私は誰なの？…全部分からない。
ひとつだけ覚えてるのは、母…たぶん、私のお母さんだと思う人…が、私に、『病めることも、悩めることもない世界』のことを話してくれた事、それだけ……。私は自分が誰だかも分からない、クロエって名前は、今の父がつけたの…………。
だから君は、666号展示室を探してる。
ー…そうよ。666号展示室が、私の迷い込んだ部屋と同じなのか、それは分からない。ただ…私は知りたいだけ。自分が本当は誰なのかを………
……そこに、君が喪ったものが、あるかもしれないから。
分かったついでに、もう一つだけ聞きたいんだけど。
ー………何かしら。
君はエドガーって奴のことをクズ野郎だと言った。それに…これは僕の印象でしかないけど、君は今の君のお父さんにも、あまりいい感情を持ってないように思える。それはどうしてなの？
ー…………なぜそれを、貴方が聞きたいの？
僕はそう言われて迷う。なぜだろう？確かに、出過ぎた質問だし、他人の事は他人の事、そうずっと自分に言い聞かせてきた僕の性格と反する気がする。
僕は考えて、正直に答えた。
……困ってるなら、力になりたい。
ー…………貴方が？
うん。僕以外にここに誰かいるの？
僕はルルの方をちらっと見たけど、彼はそっぽを向いて知らん振りを決め込んでいた。
ー……………………
クロエは黙って、それから僕に背中を向けて、黙って服をたくし上げて、彼女の腰から上の素肌の一部を僕に見せた。僕はそこにあったものを見て、そっと彼女に服を元に戻してと伝えた。
ー…………お腹の方も見せようか？ もっと酷いけど。
彼女は自分を嘲るように、諦めるように、小さく笑ってそう呟いた。
……もういいよ。
ー…………こういうことよ。
僕は黙った。コミニュケーション能力には、こう見えて確かに、自信が全く無い。けど、僕をそのときに襲った感情は、そういうもどかしい不安とは、全然種類の違う何かだった。それは怒りだった。やり場のない、どこに行くこともない、自分の中で嵐と溶岩みたいに渦巻いて何もかもを崩してしまいそうな、そういう種類の怒り…。
ー体育の時とか、服脱ぐからね。…こういうの見られると、まあ、けっこう、いろいろ言われたりするものなのよ。
……ごめん。
ーなんでネージュが謝るのよ。そういうキャラだっけ？
クロエはすこし戯けて、揶揄うようにそう軽く返す。
……ちっとも軽くないけど。
僕はしばらく、自分が言おうかどうか迷っていた提案を思案して、それで結局、今は言わない事にした。反社会的で、明らかにクロエにとって不合理…普通に考えれば、それは不合理と言わざるをえない…提案であることが分かっていたからだ。
だからその代わりを、僕はクロエに言った。
……エドガーとかいう奴の知ってる秘密を暴いたら、僕は君の助けになれるかな？
クロエは僕の方を振り向いて、それから少し経って、こう返した。
ー………ありがとう。確かに、最初貴方に協力を持ちかけた時には、そう思ってた。貴方、何か変な魔法？みたいなので私のお金燃やしたでしょ。…それで何とかなるかどうかは分からなかったけど、私はこう考えた。貴方にエドガーを監視…ないしは、跡をつけさせて、あいつの知ってる666号展示室に関する秘密を知りたいって。
…あいつは、確かに確実に、私たち子供の知り得る以上の事を知ってる。あいつが私の『父親』と、何かをずっと話し込んでたのも知ってる。あいつが政府の役人で、ある程度ルーブル美術館に関するある種の特権的な立ち位置にいるのも、あいつと父の会話の断片で分かった。
…ただ、あいつについて、私がいろいろ調べるのはリスクが高過ぎた。踏み込んだ事はできない。私はただでさえ、あいつの中の怪しい奴リストからは外れてないだろうし…。だから私は考えたの。
……僕を、スケープゴートにしようって。
ー………そうよ。その通り。貴方を言いくるめて、エドガーを探らせて、私は666号展示室に関する何らかの情報を得る。万一貴方がバレても、私は知らぬ存ぜぬで押し通す。孤児で身寄りもない貴方なら、多少強引な言い訳でも、生贄に捧げるのに何の問題もないだろうって、そう考えたの。
……だから今、はっきり言うわ。ネージュ。あいつについて調べるのは、お願いだからやめておきなさい。
……なぜ？ 君の助けになるかもしれない。
ー………私は今、貴方の事を大切に思ってる。だからよ。
……ありがとう。
ー666号展示室に行く方法は、別のアプローチで調べましょう。いいわね？
うん。そうするよ。
それで、警備員室での会話は終わった。
僕とクロエは、ベッドを元あったように整えて、椅子を戻してから、部屋を後にした。
***********************
僕は暖かだった警備員室から外に出て、外の寒さにちょっとした驚きを覚える。僕の部屋は節約のために(というか、そもそもそういう設備が無いわけだけど)、常に暖房レスだった。だから冬は、古い毛布に包まって冬眠するしかない。
今日は疲れてるだろうし、クロエはもう休んだほうがいい。
ー………そうね。それがいいかもしれない。ネージュは？
僕はもうすこし栗を売ってくよ。…今日の稼ぎは、あんまり良くない。
ー………ごめんね。
そういう意味じゃない。ご飯、ありがとう。美味しかった。
ーもうくるくるしない？
大丈夫。……たぶん。
僕とクロエは、リシュリューの側面の出入り口から外に出る。クロエと簡単な挨拶を交わして、僕は自分の商いの場所に戻って……クロエが振り向かないのを確認して、栗を焼く鉄板を片付けてしまって、再びルーブル・ピラミッドの正面まで歩いていく。クロエが見ていたブロンドのクズ野郎…エドガーと、それから、クロエの父親だと思われる人…それは僕に50ユーロ札を差し出した、あの人だった…を見かける。彼らは何かを熱心にピラミッド前で話し込んでいて、僕が来てからしばらくして別れて歩き出す。クロエの父親はルーブルの中へ、エドガーは、僕のいる方向へ…つまり、ルーブルの外に向けて歩き出す。僕は、クロエを騙した事は多少申し訳ないとは思いながらも、当然のようにその跡をつけた。
…彼女が僕に心を開いてくれたのは、正直に嬉しい。
僕は今まで、ルル以外の、同い年に近い人間と、あれだけ親しく長く喋った事がなかったから。
だから僕は…少なくとも、今は…クロエの力になりたかった。産まれて初めて、僕は僕のためでなくて、誰かのために、何かをしようとしている。それは自分でも驚いた事に、わりと僕の中ではしっくりくる行動だった。
エドガーがジェネラル・ルモニエ通りの駐車場に向けて歩き出す。僕も少し距離を置いて、その跡をつける。駐車場の彼の黒塗りの車にたどり着いて、僕がルルの方を見て、彼が面倒そうに、まあ、言わんとする事はわからなくもないけどな、そう呟くのと、僕の手を誰かが後ろから握るのは、ほとんど同時だった。
僕は後ろを振り向く。
ー……こんなことだろうと思ったわよ。
僕はクロエに尋ねる。
……ちなみに、どうして分かったの。僕が嘘をついたって。
ー…………貴方、残念だけど、コミュ障でしょう。
そのとおり。
ー嘘をつく時、目が完全に泳いでたし…それに…
それに？
ー………貴方、ひねくれてるし、素直じゃないわよね。
そのとおり。
ー……いい。私は貴方に、本当に、危険な目にあって欲しくないと、今は心からそう思ってるの。
……うん。 それはわかる。
ー……なら、今貴方がしようとしている事は、酷く不合理なことだと思うけど。
………君のためじゃない。僕のためにする。忘れたの、僕も僕で、ずっと、666号展示室に行く方法を探してきた。今目の前に、そのチャンスがあるかもしれない。君のためじゃない、あんまり自惚れないで欲しいな。
ー………………ほんっっっっとうに、貴方、素直じゃないわね。
何のことかな？
ーどうしてそうなったの？
6年も1人で栗を売り続けてたら、そりゃ多少はひねくれるさ。
ー……口の減らない。
………いいわ。私も行く。
は？
ーどう考えても、貴方1人じゃ不安でしょ。
……いや、それは別にクロエが一緒でも、解消されない気が……
ー私と一緒にいるの、やっぱり嫌？
そんなわけじゃない。
ーなら別にいいでしょ。
僕はクロエの眼を見る。…相変わらずの不安の暗い淵と、それから…少しだけ、何か違う光が、そこにあるような気がした。
……足、引っ張らないでよ。
ー……本当に、貴方素直じゃないわね。
ええ、まあ。
ー……それに、ひねくれてるし。
でも、文句は言わないよ。
ーそれは、なによりだわ。
(第3話終わり)