※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。 未成年の飲酒描写が出てきますが、この世界では13歳からワインは合法になります。
(第4話)
次の街まで歩いて行くといっても、大体その「歩いていく」の部分が結構、大掛かりな作業であることは間違いなかった。 ヴェルマーレの街間は基本的に汽道列車での移動がベースだったので、一応街と街を結びつける道はあるものの、特に舗装もされていない海に面した崖に作られた険しい道だった。 僕たちは結構すぐに息が切れてきた、驚いた事に特にハルカちゃんが一番しんどそうで、すぐに膝に手を当ててゼエ、ゼエと荒い息を立てていた。 この中で一番若いのに。 ロクに運動してないノアの方がまだマシだった。 僕はこれくらいなら何とか普段のペースを保てたけど、2人に合わせて少しゆっくり目のペースで歩いた。 海の匂いが漂ってきて、何となく気持ちが良いくらいだった。 たまに林の外に見える街並みはカラフルで優美で、景色だけ見れば素晴らしい観光地と言っても過言ではなかった。 だけどこの街には例のホテルとスズキで割とやられていたので、正直早く出たかった。 そういえばルーア様に用意してもらった正規ルートを外れたことで、ホテルとかは基本的に現地で探すしか無くなった。 あと現実的な話をすると、交通費、宿泊費、そういうのも全て実費として払わなければならなかった。 要するにお金があまりないという事だ。 シュラーフではこれだけあれば1ヶ月以上余裕で過ごせるお金だったけど、それはそもそもあの国の通貨と外貨が不均衡すぎるからであって、現実的に僕たちはお金がなかった。 しかもプラス1人されている。 残念ながら3食満足に食べる余裕はあまり無さそうだった、少なくとも朝昼はトマトとか、オレンジで我慢してもらうしかない。 僕の考えでは、トマトとオレンジはこの世界で最高位に位置する機能食物の１つだった。 それ自体で調味料なしで完成されている風味、片手で食器なしで食べられる機能性、オレンジに至っては各個で袋分けまでされているという完璧さまで備えていた。 僕は一応、バカ王女にお金が無い旨と、そんなわけでこれからはトマトとオレンジが食事のベースになる事を伝えておいた。 ノアはすごく微妙そうな、というよりすごく困ったような顔を見せた後で、ごめん、オレンジあんまり好きじゃないんだけど、酸っぱいから、あと皮を剥くのがめんどくさい、そう返してきた。
こいつとはやっぱり根本的に考え方が違うようだ。 じゃあ皮ごと食え。
ハルカの方はだんだん苦しそうに、息もはっきりと耳に聞こえるほどに荒くなっていた。 ノアが見兼ねて、ヘリオ、ちょっと休もう、そう提案してきた。 僕はダメだ、予定に遅れる、そう返そうかと思ったけど、さすがにこの状況でノアとこれ以上喧嘩したら色々とやり難くなる気もしたので、その提案に従った。 そしてそんな忖度をしないといけない自分が嫌になった、人間的にはノアの意見の方がどう考えても正しいのだ、それは嫌だけど認めなくてはならない。 ハルカはごめんなさい、ごめんなさい、気にしないでください、私は何ともありません、私のせいで遅れてしまってごめんなさい……そんな事をしきりに呟いていたが、ノアは彼女を座らせて、背中を優しく撫でて水を飲ませて、気にしないで、困った時はお互い様だから、そう優しい声で呟いていた。
ー…………でも、私は……少なくとも今のところは、ノア様とヘリオ様に助けていただいてばっかりで、その、ヒトである皆さんに、私なんかに、こんなに気を回して頂く必要は……
ー「様」はやめて。 お願いだから。 もし、もしわたしとヘリオが困ってる時には、貴方に助けてほしい、それでいいの。
ー………はい、ノアさ……ノア。
僕は道の脇の縁石に腰掛けて、2人の会話を聞いていた。 そして今度は得体の知れない感情を覚えた、ノアに対しての怒りとは少し違った。この優しさを少しでも自国民に分けてあげれば、どれだけ大勢の人が救われるだろう、あの優しいアイスクリーム売りのおじさんはお前の嘘発見器まがいの芝居のせいで殺されたんだ、そんな事を考えたけど、それは仕方のない事だった。 彼女は何も知らない温室栽培の無能なりに、自分の役目をこなそうと必死なだけなのだ。 腹立たしいけどそれは分かっているつもりだった、それとは全く違うところで、僕自身の問題として、黒い靄が僕の心を覆っていた。 それはむしろ、ハルカに対して向けられているような気がして、それを自覚して飲み込んで、その感情の正体に気付いて僕は愕然とした。 それは嫉妬だった、会って話して、僅か1日にも満たない幼い少女に対して僕は激しく嫉妬していた。 ノアの優しさや、不安や、愚痴や、不満や、恐怖や、慰めを受けるのはこれまでずっと護衛である僕の役目だった、そしてそれらを聞いて僕はこいつを見下していた、ノアは僕を必要としているけど僕はそうじゃない、そう自分を納得させて自分自身も安心させていた。 だけど僕は今、ハルカに対して明確に嫉妬していた。 どうして、どうして出会って1日にも満たない、素性も得体もしれない少女が、ノアの関心を引いているんだ、困ってる時は助けるだと、それは僕の、僕の役目のはずだった、そしてそれを実行するかどうかを選ぶ権利は僕だけにあるはずだった。 お前に何が出来るんだ、ノアのことを知りもしないのに………
僕は急に気分が悪くなってきた。 嫉妬をしていることに対してではなかった。だんだん怖くなってきたからだ。 僕がノアの事をどう考えて、自分にとってどんな存在だと見做しているか、それが分からなくなってきたからだ。 ノアは無知な温室栽培のどうしようもない王女、報いを受けて当然、僕はノアがいなくても生きていける…。 そう今まで思っていた、だけど本当にそうなのだろうか。 僕は学校のことを思い出した、ノアには割と沢山の友達がいたけど、僕が食堂で一人で昼食をとっていたら決まって横に来てくれた、とんだお節介だった、でもそれが彼女なりの気遣いである事は理解しているつもりだった。 そして、それを当たり前のように享受していた。 鬱陶しいとすら思っていた。 だけど今、彼女の優しさは見ず知らずの少女に向けられていた、僕に対してではなく。 それが僕の心をざわつかせた。
ハルカの呼吸が落ち着いた時を見計らって、そろそろ行こう、僕は2人にそう声をかけて立ち上がった。 心の揺らぎと同様を隠すために、それから次の町の小さなレンタカー屋に着くまで、僕は2人の方を一度も振り返らなかった。
ヴェルマーレ唯一のレンタカー屋だと地図にはそう書いてあったけど、僕はその建屋の見た目を見た瞬間からマズいと思った。 中古車の販売、修理とメンテナンス、燃料供給、そしてカーレンタルを兼ねているらしいその店はどう贔屓目に見ても清潔とは言えず、真っ赤でけばけばしい服を着た年老いたお爺さんを僕に思い起こさせた。 要するに、けばけばしい赤を多用した店の外見と、その痛ましいほどの老朽化が果てしなくミスマッチで、とてもじゃないけどまともな商売をしてそうには見えそうにないという事だ。 僕は先程までの心のざわつきも忘れてノアの方を振り返ったけど、彼女も困ったような、なんとも言えない顔をして、「こんなの…」、そう一言だけ呟いてあとは何も言ってくれなかった。 僕たちはしばらく黙りこくって、と言っても他にタイタニアに行くいい手も思いつかなかったので、とりあえず店の中に入った。 扉は無骨な木製だったけど、僕たちの溜息だけで吹き飛んでしまいそうなほど頼りなく、薄っぺらく、そして痛んでいた。 何年風雨に晒されて続けたらこうなるんだろう。 そしてどうしてそれまでに修理もしなかったのだろう。 世の中には理解出来ないことが沢山ある。 だけどもっと理解の範疇を超えた存在がその店の中に鎮座していた。
店の中はオイルと鉄の匂いが充満しており、そしてその男は、古新聞を床敷き代わりにして床のど真ん中に鎮座し、黙々と何かの機械を弄っていた。 多分車の内燃機関か電力変換器か何かだろう、それも随分と年季の入ったやつだ。 彼は僕たちに気付くわけでもなく、1人でブツブツ呟き続けていた、負荷を、低圧系の負荷をもっと減らして蓄電器の負担を和らげなければ、大体どうしてacやらワイパーが車に必要なんだ、そんなものは重いだけだ、負荷になるだけだ、減らさなければ余計な重さになるだけだ、だいたいそこのお前はたぶん魔法使いだろう、自分の魔法で冷やすも暑くもしたらいいじゃないか、自分でやれ、機械に頼るな……。
僕は自分の事を言われたのか、それとも誰か別の事を指してるのかよくわからなかったけど、辺りを見渡しても、この店の中には僕と、あとノアとハルカと、それからこの変人しか居なかった。 勘弁してほしい。 なんだこいつは。
僕はなんだか彼の空気に逆らってはいけないような気がして、はあ、まあ、そう生返事を返したら、おいなんだその気の無い返事は、そう怒られた。 本当に勘弁してほしい。 大体こいつの格好自体がそもそも正気じゃない、ずいぶん高そうなスーツを着着崩して、白髪をオールバックにして、サングラスを頭の上に上げている。 マフィアか何かの間違いじゃないのか。 少なくとも真人間には見えない。 よく見ると随分と背も低い、御伽噺に出てくるドワーフかホビットとかその類の身長しかない。 だけど僕はー僕だけじゃなくて、たぶん後ろの2人もーその年老いたドワーフサイズのマフィアから目が離せなかった。 彼は一度も僕たちの方を振り向かなかった。 だけどその老眼は鈍い光を湛え、僕は不思議と彼の前では何も隠し事ができない、そんな気がした。 何しにここに来た、彼はそう呟いた。
その、車と、あと運転手さんを、暫く何日か貸してもらいたくて、僕はなんとなく彼に気圧されてしどろもどろになりかけながらそう返した。 貸す？ 車はともかく人間を貸すとはどういう言葉遣いだ、お前は俺の弟子や娘たちをモノ扱いするのか、彼は怒気を孕んだ声で僕に返してきた。 僕も、後ろの2人も、何か背筋を寒いものが駆け抜けた。 確かに正しいのは彼の方なのだ。 ごめんなさい、その、そういうつもりじゃ、僕はそう答えるのが精一杯だった。
彼は暫く何も答えずに、淡々と機械を弄っていた。 器用に片手で部材を支え、もう片手でスパナを軽く扱ってトルクを緩めて、カバーを開け、中の配線をしげしげと見つめてから、ふん、そう呟いて配線を何か弄っていた。 ひとしきり弄った後で、車は貸してやる、運転手も優秀な奴をつけてやる、どうせ金はあるんだろう、シュラーフの王女様一行だからな、そう呟いた。 こいつは本当に何なんだ。 格好と態度は滅茶苦茶だけど、こいつは全ての本質を言い当てる、その訳の分からない格好とか態度とかの裏に秘められた、賢くて冷静な部分が見え隠れする、この男に比べたら、バカ王女様やハルカはもとより、僕もただの未熟な子供でしかなかった。
おい王女様、お前に聞きたいことがある、そこの護衛君とか、あの神童のエゴイズムの犠牲になったかわいそうな娘に聞いてるんじゃない、偉大なるシュラーフの女様、お前の口から聞きたいんだ、お前は何がしたいんだ、何になりたいんだ、この覚めない眠りにつきかけた世界の中で。
彼はそう問いかけた。 僕じゃなくて、ノアに向かって。
ノアも何を答えていいといいかわからないと言ったような表情で、迷いながらも僕の前に進み出た。 大体こいつはどうして僕たちがシュラーフから来た事を知ってるんだ、こいつからは明らかに危険な気配がする、狂人の皮を被りながら、その実は相当賢くて老練な奴だ、危険というか、僕たちをどういう方向に転がすのか、その決定権すら彼が握っているようにも思えてしまった。 ノア、やめよう、他を当たろう、僕はこの温室栽培王女様が余計な事を言わないうちにここから退散すべきだと思った。
だけど当然、温室野菜様の考えは、僕の遥か斜め上、もしくは斜め下をいった。
ー…わたし達シュラーフ国民の思いは１つです。 清貧と所有に関するわが祖国の思想をもって、世界をより良い方向に導きたい、それだけです、貧困と差別と独占の悪徳の前に危機に瀕している世界を変えたい、わが祖国の門は常に世界に向かって開かれています、その事を皇国の総裁の妻とーわたしの姉ですがー意識を共有するのが、わたし達がオドペレイトまで訪れる目的です。
なんてご立派な事だ。 貧困と差別と独占の悪徳の前に危機に瀕しているのは、お前の温室のすぐ外での話だろうに、僕はそう思って、さっき少しでもこいつの優しさを求めた事を恥ずかしく思った。 やはりこいつは報いを受けて当然なのだ。
彼は、ノアの言葉を噛みしめるように己の中で解釈してから、その口を開いた。
ー……平和を愛する事と、自分たちの安息を求める事は違う、それは時には相反する事柄だ、隣人が苦しんでいる時に、まるで他人事のように自分は嫌な思いをしていないからといって手を差し伸べない奴もこの世界には大勢いる、お前はそれとは違うと言い切れるんだな、王女様、何があっても。
彼は初めてノアの方をまっすぐ見た。 そこでようやく僕は、彼の顔をはっきりと見ることが出来た。 少し皺がよった影の濃い顔立ち、髭、マフィアのような外見の中で、その黒い両目の鈍い光だけいろいろな感情を含んでいるように思えた。 達観、同情、そして憐れみを。 そして、温室トマト王女様は、彼のその眼光を真に受けてなお、怯むことなく言い切った。
ーはい。 わが祖国の門を、少なくともわたしが閉ざす事はありません。
それを聞いて、彼はまたしばらく考え込んで、それからその重い口を開いた。
ー…………車は貸してやる。 いいやつをな。 それから運転手には俺の娘を1人つけてやる、心配するな、少なくとも俺にはあまり似てない、母親の方の血を濃く受け継いだ、夫の俺がいうのも何だが美しい妻だ、まるで神のようにな。 運転も問題なく優秀だ。 金は…お前らの出世払いにしてやる、10年後くらいには返せ、それでこの工房を建て替えさせろ。
…何だかよくわからないけど、とりあえず彼を説得できたって事でいいんだろうか。 温室トマトが初めて役に立った瞬間かもしれない。 奇跡だ。
いえ、お金は、ちゃんと払いますけど、そう慌ててノアが言った。 全く本当に、口を開いたら余計な事しか言わない、こういう時は相手の善意に乗っかっておけばいいんだ。 どうせ結末は変わらない事なら尚更。
ー……3食トマトとオレンジでお前らが耐え凌げるなら別に俺はそれでいいけどな。 タイタニアには美味いラザニアがある、小さいが温かくていい店だ、後で教えといてやる、フローラは有名な牛のでかいステーキがある、まあ量はちと多いがそれなりに食える代物だ、そういうのを捨ててトマトとオレンジを齧るなら、俺は喜んで金を受け取ってやる、まあそういうことだ、大人しく出世払いにしておけ、金はいくらあっても困ることはない。 幸せは金だけでは買えないが、飯は買えるからな。
ごもっとも。 本当に外見に反してまともな事を言う。
ノアとハルカが工房から出てしまい、車が止まっている場所に歩いて行こうとする中で、僕だけが彼に呼び止められた。 ちょうど良かった、僕も聞きたいことは山ほどあった。 どうして僕たちの事を知っていたのか、これからどこに行こうとするかまで知っているのか、そもそもあんたは何者なんだ。 僕は矢継ぎ早に質問した。
彼は静かに答えた。
ー……俺がお前の質問に答えなきゃいけない理由は無いし、その義務も無い。 一つだけ教えてやるとすれば、俺は神童も、南条も、藤鷹の奴も知っている、古い付き合いだ、こっちに来てからずいぶん古い付き合いだ。 今じゃみんな偉くなっちまったがな。 要はそういうことだ。
神童総裁、藤鷹副総裁？ おまけに南条だって？ 南条家は皇国で最大の民間警備会社の母体だ、だけどその実態は、神童総裁の武装親衛隊と言っても過言ではなかった。 この男がどうして、そんな皇国の主軸達と知り合いなんだ？
嘘をつくな、そんな見え透いた嘘を、僕は精一杯の虚勢を張って返したけど、それが無駄な試みであることは自分でも分かっていた。 この男は嘘をついていない。
ー………神童の飼い犬が。 声が震えてるぞ。 虚勢と蔑視で自分の小さな弱い抜け殻を守るしかないお前よりも、まだあの王女様の方が無知な分マシというものだ。 少なくとも自分というものをしっかり持ってるからな、それがどんな前提の上に成立しているかまでは、俺の知ったことじゃないが。 お前は魔法も使えてしかも賢い、不幸な過去も背負っている、向上心もある、だがそれだけだ、所詮は神童の奴とルーアに見捨てられないように必死に尻尾を振って獲物を得意げに咥えて見せびらかすだけの飼い犬だ、お前はいつか棄てられる、そしてその時には、自分が見捨てたはずの王女様にすら、裏切り者として相手にされなくなるのさ、もうその未来はすぐそこまで来ている。 そしてお前には誰も、誰一人、振り向いてすらくれなくなる……
僕はこいつの言葉を聞き終わる前に、上着の袖に仕込んでいたナイフを持って、その喉元に突きつけた。 そのために毎日ちゃんと磨いていたのだ。
「お前が、何も知らないお前なんかに、ルーア様と、神童総裁を語る権利なんてない、こんな片田舎で崩れかけた車工場を細細と営むしかないお前なんかに、神童夫妻の事が分かってたまるか、それに、ノアの事も、お前なんかに何がわかるんだ、あいつが僕よりマシ？ 僕はノアの事は誰よりも知ってる、あいつのどうしようもない無能さと愚かさも知ってる、あんな腐りかけのトマトより僕が劣ってるだって？ もう一度言ってみろ。」
だけど彼は、僕のナイフの先端を喉元に突きつけられて尚、その顔は泰然として、一切の恐怖や焦りに覆われることがなかった。 向けられた眼は、むしろ僕を憐れんでいるようにさえ感じられた。 その眼が僕の心を一層かき乱した。
ーそうなってからでは取り返しがつかない事もある、そういう話だ。 お前はお前で、自分がどういうやつで、何をすべきなのか、どんな信念を持つのか、それを明確にしておいた方がいい、それだけのアドバイスだ。 まぁ好きにすればいい。
彼は僕のナイフを意に介さず顔を背けて、また部品いじりに戻った。
僕はナイフを下げて、何度か深く息を吸って吐いた。 それでも、散々に乱れた気持ちだけはどうしようもなかった。 こいつは間違ってる、絶対に僕の方が正しい…。
僕は何も言わずに彼に背を返して、ノアとハルカの後を追った。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
初日から長い会議だった。 先が思いやられる。 大体人間の集中力なんてそれほど長く続くものでもないのだ。 食料問題、資源問題、環境問題、人権問題、富裕と貧困、中絶の増加、難民、通過不均衡…議論すべき事は山ほどあるようだったが、それら全ては結局のところ１つの根本的な問題に行き当たるのだ。 この星に存在する資産は確実に磨耗し、増えすぎた我々人間に対して平等に行き渡る事は最早あり得ないのだと。 何度も何度も戦争を繰り返して資源の無駄遣いばかりしているからこうなったのだ。 我々は現実と向き合って、解決に向けた具体的な骨子を秘密裏に話し合う必要があった。 主要6ヶ国が中心となって構成される世界国家ーもしくは世界政府と呼ばれる形態ーは、明確な管理システムに基づき金、プラチナ、貨幣、資源、食料の配分を定め、そして国とその人口を明確に管理する必要があった。 極秘ではあったが、既に私を含む首脳陣の間では、シュラーフを筆頭に、スケープゴートとなる国をいくつか決めていた。 このグラエキアや過去の栄光に溺れたブリテンも潰す。 それはもう決定事項に近い案件だった。 私はこれまでにないほどに気力も体力も充実していた。やるべき事は山ほどある、敗者のための時間は用意されていないのだ。
私は煙草を咥えて火をつけようとして、妻と娘との約束を思い出した。
ーお父さん、お仕事頑張ってね、わたし応援してるんだから。
ルカは私がグラエキアに旅立つ前にそう言ってくれた。 私が約束を破るわけにはいかなかった。 最も、昨日一本吸ってしまったが、まああれは無意識のようなものだ。
私は明日の資料に再び目を通した。 だが数分もしないうちに、彼女から電話があった。 面倒臭くて無視しようかと思ったけど、南条君の妹を無視したら後で何を言われるか分かったものでない。 そういえば彼女が今回の会議の警護隊の取り仕切りを行なっていたはずだ。 私は何度かコール音が鳴る内に、ウイスキーをグラスにストレートで注いで、それから受話器を取った。
ー総裁、神童総裁ですか、紗奈です、南条紗奈。 電話取るの遅いです。
早速文句か。 相変わらず何の遠慮も無い奴だ。
ー…それはすみませんね、申し訳ないですけど癖なんで。 手癖ってなかなか治らないでしょ、そんなものです。
口癖の間違いじゃないのか。
ーまあどっちでもいいです、総裁、ちょっと話したい事あるんで、悪いけどそとまででてきてくれません？ サン・マルコ広場に面した大運河の辺りのゴンドラ乗り場、その辺で待ってますから。
それだけ一方的に言われて、彼女は直ぐに電話を切ってしまった。 やれやれ、初めて会った十数年前はまだかわいい学生だったのに。 その頃からあまり私に対する態度が変わってない気もするけど、まあ気のせいだろう。 警護隊長直々のお誘いなら、私が勝手に外出しても文句は特に言われまい、多分。
妻と娘からまた電話がかかってきたらどうしよう、その恐れは無いでは無かったので、私は秘書に紗奈ちゃんと会ってくる胸だけ伝えて、妻と娘から電話が来たら何とかよろしく、そう言ってホテルを出た。 彼は凄く困ったような顔をしていたけど、まあ優秀だから何とかしてくれるだろう。 多分。
紗奈ちゃんは相変わらず背が伸びてなかった。 昔はボブカットの茶髪でなんとなく不良みたいだったけど、今は黒く染め直してストレートにしている。 警護隊の制服を着ていることもあって、なんとなく凛々しかったけど、子供が無理に背伸びしているみたいで、どちらかというと微笑ましさを感じた。 紗奈ちゃんは私を見て、何笑ってるんですか、また子供扱いして、そう私を怒った。 私はすまない、そう返して、立派になったと付け加えた。 南条君も鼻が高いだろう。 ちょっと歩きませんか、なんか会うの久しぶりですし、そう誘われて、我々は並んで運河沿いの道を歩いた。 オレンジ色の優しい灯りが暗い川面を優しく照らして、なんとなく道を行く人もみんな穏やかそうな顔になっている気がした。 このオドペレイトは今でもなんとか昔の栄華を保とうと必死だが、市の財政を少し調べると破綻は直ぐそこに見えていた、そもそも国自体が泥舟なのだ。一緒に沈むしか無い。 会議中の警護費を捻出する金すらなかった。 それは結局皇国で受け持ったが、そういう事もあって、わが国は相変わらず会議の主導権を握り続けている。
ー総裁、いえ、神童さん、ずいぶん久しぶりな気がします。 この前会ったのは…
去年の娘の誕生日、滝を見に言った時だったっけ、確か南条君に運転してもらった。
ーそうですね、そんなに前ですか。 まあ私もこれでも結構忙しかったんです、この警護の準備だとか何とかで。 ルーアさんとルカちゃんはお元気ですか？
昨日ルーアにキレられた。 電話に出れなかったから。
ー…それは元気そうで良かったです。 神童さん、そうですね、こんな遅くに外まで来てもらって申し訳ないんですけど。 また貴方に判断してもらわないといけない案件があります。 ノア王女様御一行の事です。
…またあのゴミの話か、毎晩聞いてる気がする。
ー毎晩で申し訳ないんですけど。 多分明日も報告します。 何時間か前、御一行がタイタニアに到着しました、今晩はそこで宿を取るようです。
タイタニア？
ーそうです、山の上の小さい城塞国家の。
それは良かった。 早いとこハルカを皇国に連れ戻すよう、監査隊に言っといてくれ。 今は南条君が仕切ってるのか？
ーハイ。 お兄ちゃんはまだ向かってる途中みたいですけど、あらかじめ張ってた別働隊が発見しました。 まだ接触してはいません、監視だけです。
私の判断を待つまでもなく、もう動いてくれ、なるべく大ごとにはしたくないし、できる限り穏便に済ませたいけど、最悪トマト様とヘリオは殺してしまってもいい、ハルカを最優先で、最優先で皇国領に連れ戻してくれ。
ートマト？
ヘリオがそう言ってた。 ノア王女様のこと。
ー…分かりにくいです、それ。 まだ接触出来てないのには理由があります。 御一行様にもう1人加わりました、ヴェルマーレで車を借りたみたいなんですけど、その運転手です。 あのイチモの娘です。
私は立ち止まって、運河の方を振り返って眺めた。 それから煙草に火をつけて深く吸い込んだ。 申し訳ないけど娘との約束は次の機会に守ろう。 イチモ？ まさかあいつの名前をここで聞くとは思わなかった、そういえばグラエキアの何処かで小さな車工場を経営してるとか誰か言ってた気がする。
ー………神童さん、いえ、すみません、総裁、どうしますか。 運転手の方は相当な曲者です、魔法が使える上に監視にも気付いている可能性すらあります。
それはそうだろう。 何せあの男の娘なのだ。 賢くて当然だ。
私は何度か煙を深く吸い込んでは吐いて、その後で漸く判断した。
運転手ーイチモの娘には手を出すな、厄介そうだし、それにあいつを怒らせたくない。 運転手と離れた時に上手く接触出来そうなら、そうしてくれ。 機会が訪れ無さそうだったら、無理に手を出さないで、監視を常に続けてオドペレイトまで無事着くようにサポートしろ、最終手段に訴えかけるのは万一の時だけだ、ハルカの身柄が他国に渡る懸念が高まった時には迷わずそうしていい。 運転手ごと始末しろ。
現地での具体的な判断は南条君に任せる。
紗奈ちゃんは暫く何も言わずに、私の一字一句を漏らさずに咀嚼していた。
その後で漸く彼女は口を開いた。
ー………それは、昔の友達だからですか。
あいつの事は昔から知っている。 あいつが皇国に留まってくれれば、今頃総裁は私じゃなくてあいつの方だっただろう。 それ程の賢者だった。 ただその考え方だけが、私と異なって別の道を歩んだ、それだけだ。 友達か友達じゃないかは今問題じゃない、とにかく彼を怒らせたくはない。 彼は「ほぼ」全てを知っているのだ。
ー…………総裁、お言葉ですが何故あの男をそこまで慮るのですか、私と兄に命じてくれれば、直ぐにでも、家族ごとーーーー
紗奈ちゃんはそこで口を含んだ。 私が振り返って、彼女の方を見つめたからだ。
すみません、出過ぎたことでした。
彼女は一歩後ろに下がって、それから帽子を取って私に詫びた。
私にはまだ考えなくてはいけない事が残っていた。 トマト王女御一行様がイチモと接触した、彼が何かを話しただろうか。 彼は少なくともハルカの事は知っている、だがその本当の意味までは、流石の彼も把握していないはずだった。 精々臓器提供のための道具、ないしは安価な労働力ー昼も、夜の方もーとしてしか認識していない筈だった、それ以上の事を知っているのは、私と、ルーア、南条君、藤鷹君だけのはずだ。 紗奈ちゃんも、瀬田研究主任も、その目標の本当の部分までは把握していないはずだった。 それにイチモがトマト共にそこまで肩入れするとも考え難かった、彼はあくまで中立の人間なのだ。
全てが偶然の出会いであればいいのだが。
誰かが裏切っている、それは私にとって、最も考えたくない可能性だった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
アリアさんに教えてもらったタイタニアのレストランは、確かに彼女の言う通りとても素晴らしいものだった。 彼女は邪魔しちゃ悪いから、そう言ってわたし達から少し離れた席に座って、店内に流れる音楽を楽しみながら、数分おきにー食事中でもおかまいなしにー煙草を吸って、それから歌を口ずさんでいた。
Somebody, somebody, ooh somebody, somebody,
Can anybody find me somebody to love……？
Find me somebody to love, Find me somebody to love
Somebody somebody somebody somebody……
大変良い人で、車の運転も上手で、わたし達より大人で頼りになりそうで、人生経験も豊富そうで、そしてあのお爺さんの娘さんとは思えないほどの美しい人だった、明るい、かといって眩しすぎないブロンドの長髪、彫刻か何かのように整って、御伽噺の中のエルフのように整った顔立ち…なんて言ったっけ、あの昔の映画。 それに出てきたエルフのお姫様に良く似ている。 でも残念ながら、相当変なお姉さんだった。 服は黒いダーク・スーツをきっちり着こなして、それでいて何故か不釣り合いな皮のロングブーツを履いて、10本の指全てに2個か3個ずつ銀の指輪を嵌めて、車の中では大音量でーそれはもう何一つ会話できないくらいの大きさでーひたすらロック・ミュージックを流しまくり、たまにタイタニアとフローラのレストランと、バート、あと……その、お金を払ってかっこいい男の人と話したり、その、色々するような所の話を、音楽が止まった隙に猛烈な勢いで説明してくれた。 というより、自分の名前と、あとお店の話と、バンドの説明以外は何一つ話さなかった。 ハルカは勢いに押されてすっかり怯えてしまってわたしの隣で縮こまっていたし、ヘリオはヘリオで何故か熱心にそのバンドの古の伝説を熱心にアリアさんと語っていた。 音楽が流れている間はずっと2人で歌ってた。 そんな車の中だった。
でもそれはともかく、教えてもらったレストランは良かった。 タイタニアの小さな街並みはすっかり暗くなって、遠くに城塞の塔がぽつり、ぽつりと見えるだけだったけど、とにかくレストランは良かった。 店内は狭いけど温かみがあって、城塞都市の絵や葡萄の柄の文様が飾られ、ワイングラスが棚に並べられてキラキラ光って、それから出てきたラザニアも素晴らしかった、素朴だけど、地の恵みの味がした。 トマトの酸味と濃厚な牛肉の味、あと赤いワイン。 渋みが強くて苦かったけど、これも飲んだことがないような力強い味で、後口がとても良かった。 わたし達は3人でデキャンタを1本注文してたんだけど、途中からもう瓶を4本くらい空にしたアリアさんがやってきてー5本目の瓶を持ちながらーわたしと、ヘリオと、あと飲んじゃいけないはずなんだけど、ハルカのグラスも満たしてしまった。
ー飲みなさい、若人達よ、さらば救われん、というか飲まないと救われません、God save the Queen…神よ赦したたまえ、さあ、乾杯。
当然わたしとヘリオは飲んだ、ハルカも口をつけた。 飲み干したそばからまた注いでもらった。 ハルカも何故かまた注がれていた。 女王陛下ノアちゃんに乾杯、 女王陛下・クイーンに乾杯、ヘリオちゃんに乾杯……この辺でもう一本きた気がする……ハルカちゃんにも乾杯、どう、初めてのお酒は…美味しい、そう、良かったわ、貴方きっと素晴らしいボーカルになれるわよ、声変わりしなかったらだけど…フレディ・マーキュリーに乾杯、敬意を評して、さあみんなで歌いましょう、
Mama,just killed a man……Put a gun against his head,
Pulled my trigger, now hes dead…………
こら、女王陛下、声が小さい。ハルカちゃんも。
Mama,life had just begun,
But now Ive gone and thrown it all away―――
そうそう、良い声出てきた。
Mama ooo, Didnt mean to make you cry―――
If Im not back again this time tomorrow,
Carry on,carry on,as if nothing really matters-……………………
蝿の王、蝿の王、悪魔を私の外から追い出してください………
わたしはすっかり気分が良くなって、ヘリオとハルカと肩を組んで大きな声で歌っていた。 でもヘリオの方が声に熱が篭っていた。 好きなんだろうか。 女王陛下が。 わたしじゃなくて、古代のバンドの女王陛下の方が？ 聞いてみたかったけど、怖かったからやめておいた……。 ヘリオは約束してくれた、わたしが王女じゃなくて、ヘリオがその護衛じゃなくなっても、わたしと一緒に居てくれるって。 とても嬉しかった。 ハルカが急にわたしにもたれかかってきた、お酒が回ったのだろうか、わたしの地面も相当回ってる気がするけど、まあたぶんきっと気のせいかもしれない。
ーねえ、私今、とても、とても幸せです。 今ならどこを差し上げてもきっとへいきです、あたたかくて、なにもかも忘れられると思いますから。
わたしはおかしくなって、どこでも、じゃあ、ハルカの心臓とか、そんなのでもいいの？ ごめん意地悪だったね、それは嫌だよね、そんなのいらないから、ハルカには幸せになってほしいな、おねがいだから、そんな事を言った気がする。
ーあ、ごめんなさい、心臓以外です、心臓だけはノアとか、ヘリオとか、アリアさんと違うもので出来てるんです、あとはみんなだいたい同じですからなんでもあげちゃいますよ。 これまでに、えっと、確か、腎臓と、小腸と、あと片っぽの肺は差し上げていますもん。 けっこうがんばってるんですよ、私。 えへへ。 皇国の技術は凄いんです。 終わった後は人口臓器を入れてもらえるんですけど、私達を長生きさせないように稼働期限がちゃんとついてるんです！ すごくないですか、それ？？
……あれ、ノア？ ノア………寝ちゃいました？
そういえば私も眠くなってきました……地面が、回ってる気が。
3人とも、すぐに寝てしまった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
私はハルカちゃんが朧げに呂律の回らない舌で告白した事を、ずっと考えていた。
お父さんの言っていた通りだった。 皇国の新しい産業は、画期的な医療技術と言いつつ、その実態は全く違う。 奴隷労働力、臓器売買、売春婦、性欲発散の捌け口。 皇国の総裁が何を望むのか、私には分からなかった。 お父さんはその先にある世界について、何か知っているのだろうか。
皇国の高等警察の屑どもが、私たちを見張っている。
面倒な事に巻き込まれる前に、早くフローラに行かなければ。
申し訳ないけど、タイタニアの城塞に登ってる時間は無さそうだった。
(第4話おわり)
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何故かややこしくなってきたので、人物紹介を更新しておきます
ノアちゃん…主人公その1 トマト
ヘリオちゃん…主人公その2 Queenのファン
ハルカちゃん…主人公その3 何か話す度に空気が重くなる
国王…ノアの親父。 空気
ルーア様…ノアの姉貴。タバコが嫌い。
神童総裁…禁煙失敗
南条くん、藤鷹くん…そのうち出てくるけど今は名前だけ
紗奈ちゃん…武神さんの作品とは別の人です。 子孫?
イチモ…takaさんの作品とは別の人?
アリア…イチモの娘さん。 運転手。 何こいつ。
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サンマリノはラザニア以外書くことなかったんで割愛。
(引用)
Somebody to Love (Mercury)…Queen
Bohemian Rhapsody (Mercury)…Queen
本引用は商用を目的とするものではありません。