※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。 未成年の飲酒描写が出てきますが、この世界では13歳からワインは合法になります。
※みんな吐くので食事中には読まないでください。
(第5話)
当たり前の話だけど朝起きたら頭が痛かった。というよりほとんど寝た気がしないし、昨日最後に何をしたかも全然覚えてない。 みんなで歌を歌ったような気がする。 綺麗で力強く、そして寂しい歌だった。 あんなに楽しそうに歌ってるヘリオを初めてみた気がする。 わたしは痛む頭を軽く片手で抑えてベッドから起き上がったら、またハルカちゃんが隣で寝ていた。 ちなみに奇跡が起こったようで、ヘリオもまだ寝ていた。 アリアさんは別の部屋を取っていた、彼女だけはどれだけ飲んでもしゃんとしていた気がする、本当にとんでもない人だ。 わたしはハルカちゃんを起こさないようにー昨日かなり飲んでた気がするけど大丈夫なんだろうかー起き上がって、洗面所に向かって鏡を見た。 鏡に映ったわたしは髪もぼさぼさで寝癖があちこちについていたけど、何よりも自分の青白い顔を見て驚いた。 酷い有り様だ、こんなことではとても、シュラーフの王女としてやっていけない。 反省しなければ、アルコールは災いの元なのだ。 自分の姿を見てると、なんだか余計に気分が悪くなってきて、わたしはそのままトイレに向かって、鍵を閉めてからひたすら胃の中のものをもどした。 そもそも気分が悪くて戻す事自体、よっぽど酷い風邪をひいた時くらいだったし、ずいぶん久しぶりで、苦しかった。 もう胃の中の物を全て放出する事以外は何も考えられなかった。 なるべく見ないようにしていたけど、見てしまったら余計に気分が悪くなって、出てくるものが胃液だけになっても吐き出し続けた。 全部終わるとようやく開放感が訪れて、全部流してしまって、口を何度も濯いで、ようやくわたしは解放された気がした。 トイレから解放されると、扉の前に青白い顔をしたヘリオが立っていた。 彼女の気持ちがよくわかったので、わたしは頷いただけで洗面所に直行して、ヘリオは入れ違いにトイレに入っていった。 本当に反省しなければならない。 ヘリオと、あとハルカちゃんは(未成年だけど)ある程度羽目を外すのは仕方がないとして、わたしは一国の代表なのだ、この有様ではわが祖国の同志達に申し訳が立たない。 清貧たるべし、過度な贅沢は謹んで、全ての所有は祖国シュラーフのものであると心に刻み直す必要があった。 これからは3食オレンジとトマトだけでも文句は言わない。
洗面所で髪の毛を整えて、ようやく少ししゃんとしてから部屋に戻ると、ハルカちゃんも起き上がっていた。 物凄く気分が悪そうだ。 昨日の幸せそうな顔はどこに行ったのだろうか。
ー……………その、ノア…………ごめんなさい、気分が、あまり良くなくて………
それはみんなだ。 あの量を飲んで正気でいられたのはアリアさんくらいのものだ。 わたしはハルカちゃんに隣に腰掛けて、その小さな背中をさすってあげた。 ついでにヘリオがようやく復活してトイレから出てきて、今度は洗面所に直行したので、わたしはハルカちゃんをトイレに連れて行って、背中をさすって励ましながら楽にしてあげた。 なんだか保護者ーお母さんになった気分だ。
ハルカちゃんも悪魔から解放されて、そのまま洗面所に連れて行ってあげた。 ほとんど涙ぐんだその哀れな顔を見て、わたしは自分がものすごく悪い事をしている気分になって、少し落ち込んだ。
ー………ノア、ごめんなさい、ご迷惑ばっかりかけてしまって、あの、わたしは、やっぱり一緒に行かない方が…………
何言ってるの、そんな事ない、ここまで来たんだから、これからも、一緒に行こう。 貴方はまず、自分の幸せを見つけなきゃ、他人の幸せより前に。 少なくとも、わたしは貴方の事を大切に思ってるから。 この世で貴方の幸せを想ってる人が誰もいないなんて思わないで、少なくとも、わたしと、多分ヘリオもー貴方に幸せになって欲しいと思ってるから。
ー……………ありがとう、ございます。
ノア、貴方は、その、今、幸せなんですか？
わたし？ わたしは…まあ今でも結構幸せだし、立場があるから。 同志達みんなの幸せをちゃんと考えないといけない。
ー…そう…ですか。 なら、もしノアが幸せじゃなくなった時には、私が助けに行きますね。 必ず。 約束します。
それは嬉しいね、きっとね。
もう陽が昇って随分と経っていた。 ヘリオはもう着替えまで済ませていた、今でも顔が少し白かったけど。 わたし達は彼女から急かされて、慌てて服に袖を通した。
荷物を纏めて外に出ると、アリアさんはもうすでに車を回してくれて待機してくれていた。 おはよう若人達、快適な眠りを過ごせたかな？ もう陽が随分昇っている、旅を急がなくてはならない。 相変わらず歌うようにわたし達に語りかけて、小さめのオレンジをぽん、ぽん、ぽんっとわたし達3人に向かって放り投げてくれた。 朝ごはんという事らしい。 ゴシック様式の政庁と、自由を象徴する女神様の像が建つ小さな美しい広場の石の囲いに腰掛けて、わたし達は並んでオレンジを剥いて食べた。 アリアさんはまた何か歌いながら、車のフロントカバーを上げて中の機械を弄っていた。 自分で勝手に弄って大丈夫なんだろうか、止まったら困るけど。 わたしはオレンジの皮を剥いて、1つずつ慎重に身を外して、薄皮を剥いて果肉だけを食べた。 ヘリオはわたしの食べ方があまり気に入らないようで、栄養を捨ててる、そう呟いて自分は薄皮と、その周りの白いやつごと食べていた。 なかなかワイルドな事をする。 歌ってる時は楽しそうだったけど、何故だかヘリオは昨日から、少しだけ元気が無いというか、何かに思い悩んでるように見えた。 もちろん気のせいかも知れないけど。
ヘリオ、もしかして、何か悩んでるの？ なんだったら相談してくれても…。
そう言ってみたけど、彼女はしばらく上の空でオレンジを摘んで違う方向を見ていた。 わたしも同じ方向を向いてみたら、先の方の山の先端に、タイタニアの史跡として有名な城塞の姿が小さく見えた。 しばらくして、わたしの方を振り向かないまま、ヘリオは石畳に視線を落とした。
ー……ノア。 変な話だけど。 僕と、ハルカちゃん、どっちの方が大切…？
わたしは思いがけない質問に驚いて、まずハルカの方を振り返って、ヘリオの小さな呟きが聞こえてない事を確認した。 その後でヘリオの方に向き直ったけど、なんて言ったら良いのか、わたし自身が分からなかった。 決められないよ、そんな難しいこと……。
ー難しい。 そうなんだ。 けっこう移り気が早いんだね、王女様。
その言葉の刺々しさに、わたしは思わず怯んでしまった。 どうしてこう、1日ごとにヘリオと喧嘩しなきゃいけないんだろう、そんなつもり全く無いのに。 わたしは取り繕わず、正直に自分の気持ちを話すことにした。
どうしてそんな意地悪な事聞くの、ハルカちゃんのことは確かに助けてあげたいし、幸せになって欲しい、そう思ってる。 でも貴方はずっと一緒にいてくれるわたしの大事な友達だし、家族だと思ってる、そんなに簡単に上下なんてつけられないよ。 それくらい、貴方はわたしにとって大切なの。
ヘリオは黙ったままわたしの言葉を聞いて、考えていた。 しばらくして、彼女は小さく、ごめん、変なこと聞いて、そう言ってまたオレンジを摘む作業に戻った。
わたし達は朝ごはん(オレンジ1個)を食べ終わって、アリアさんの車に乗り込んだ。 さあ若人達、旅は続く、今日もいい天気だ、元気に歌っていこう、アリアさんはそう言って相変わらずものすごい音量でロック・ミュージックを流し始めた。 タイタニアが聳える山を降りて、それから何時間かぶっ続けで進んでも、ずっと変わらない美しい風景が続いていた、草原、羊、細長い木、なだらかな丘、あとはたまに葡萄畑。 美しい、確かに美しいのだけれども、何時間も眺めていると流石に飽きてくる。 ハルカちゃんは当然もうダウンしていて、その小さな頭をわたしの肩に預けて小さな寝息を立てていた。 飲みすぎて眠りの質が悪かったのだろう、わたしもだけど…。
ヘリオはどうして、さっきあんな事を聞いてきたのだろう。 ハルカちゃんと、ヘリオ、どっちが大事かなんて、わたしには決められない。 出会って数日の見ず知らずの少女のために、どうして君はそこまでするの、ハルカちゃんが僕よりも大切なの、ヘリオは暗にそう問いかけているように思えた。 だけど、わたしはヘリオを本当に、大切な妹だと思ってたし、ヘリオがいない日常なんて考えられなかった。 家族と同じなのだ。 だから、そもそもハルカちゃんと比較してどっちが大事かなんて、意地悪すぎる質問だった。 どうしてそんな事……。
なんだか考えが鈍くなってきた気がする。 少しだけ目を閉じよう、わたしはそう思って目を瞑った、30秒くらいで開けよう、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10秒たった、あと30秒、11…12…13…14、15、16、7、8、9、9、9、きゅう………
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕は助手席に座って、大音量で流れる綺麗な歌声を聞いていた。 僕はこの歌声がずっと好きだった。 もうずいぶん古い、2度の大戦より遥かに古い時代の歌だけど、それは今でも色褪せることなく、僕の胸に真っ直ぐに響いた。 どうしてこんなに古い歌が好きなんだろう。 お父さんが、昔聞いていた気がする。 マクラウド家に受け継がれきた古い音楽だ、僕の祖母も、これを聴いていた、祖母はさらにそのお婆ちゃんから教えられたらしい。 辛い時には音楽を聴きなさい、そして美しい物語を読みなさい。 人の心を真に癒せるのはそれだけだから、僕が祖母から教えられたことだった。
祖母が亡くなってしばらくして、お父さんもお母さんも死んでしまった。 今でも覚えてる。 2人が僕の目の前で殺されて、車に無理やり載せられそうになった僕が叫ぼうとして、僕は口を塞がれて、その後で車に乗せられた。 そして気がついたらそこはあのシュラーフの思想教育棟だった。 後でルーア様に教えてもらったけど、その時シュラーフは追い詰められて拉致活動やテロリズムに活路を見出そうとしていた、連合国側とそれで交渉できると本気で思っていたのだ。 案の定、それは皇国の怒りに火をつけるだけの結果に終わった。 ルーア様は僕に、ごめんなさい、そう心から済まなそうに謝って下さった。 あなたの未来を、わたしの国が奪ってしまって。 本当に、本当にどうしようもない国、こんな所に産まれてしまったことが恥ずかしい、そう続けてくれた。 僕はルーア様に救われて、それから神童総裁とルーア様のために尽くした。 その代わりにノアを憎み続けた。 何も知らないトマト並みの頭だと心の中で罵り続けた、なのにどうして、僕は今更、ノアをハルカちゃんに盗られてしまう事を恐れているのだろう。 ノアはあの悍ましいシュラーフの象徴だ、無知と蒙昧に満ちた腐った権力者の末裔だ、僕の人生と、家族を奪ったあの国の王女なのだ、僕はノアを憎み続けなければならないはずだ。
ー……あれは随分、意地悪な質問だったね。
物思いに耽っていたところで、いきなりアリアさんに声を掛けられてびっくりした。
聞いてたんですか。
僕は多少の怒りと、恥ずかしさを覚えて、無理に声の調子を低くした。 少し後ろを振り返ったら、ノアもハルカちゃんも、呑気に眠っていた。 まるで実の姉妹のように。
ーエルフは耳がいいのさ。 勿論エルフなんてこの世にいないけど、まあものの例えという事でね。 私は中々耳がいいってことさ。 まあ、ずいぶん意地悪な訊き方だったとは思うよ。 ねえ、本題に入る前に私から少し聞きたいんだけど、君の考えを。
僕の、考え？ 何をですか？
ー…ある男がいたとしようーこれは例え話だから、誤解しないでくれーその男はとんでもない犯罪者で、何人もの人を殺した、残虐な方法で。 そして逮捕されたとしよう。 遺族はその男を激しく恨む、当然のことだ。 大事なのはここからだ、もしその男に娘がいたとしよう。 男は娘を愛していた。 そして娘も男を愛していた、ただの和やかな父と娘の関係がそこにはあった。 そんな中で男は逮捕された、もちろん娘も白い目で見られる、石を投げられる、排他される、学校でも虐められる、もう住んでた街にはいられない、引っ越しする、でも噂はすぐに広がる、次の街でも同じ目に遭う、そして世界から排他される。 さて、君は、娘さんには責任があると思うかい？ 親の犯した罪の責任を娘が被るべきだと思うかい？
それは。 例えじゃなくて、ノアのことを聞いているのですか。
ーだから例えだって。
はっきり言っておきますが、貴方は何も知らない。 貴方の例えは間違ってる、その娘は自分の親が犯した罪のことを知ってるのでしょう、それは僕たちが判断すべきことじゃない、彼女自身がどうするのか判断することだ。 冷たいかもしれないけど、僕には少なくとも関係ない。 ノアはあの豚王が犯した罪のことも何も知らない、無知なんだ。 僕はそれが嫌いだ、許せない。 自分は王女らしく振舞わなきゃとかなんとか言って、あの国の悪事に知らず知らず荷担してる、無知の邪悪だ。
ーならなぜ君が教えてあげないの。
……………………何？
ー君が真実を教えてあげたらいいじゃないか。 そうは思わないのかい。 ノア王女様はあれで中々、自分なりに努力しているように見えるけど。 それが悲しいくらいに間違っていたとしたら、どうして君が教えてあげないんだ？
………お前、あんまり余計な事に口を突っ込むな。 お前も、あの車工場の男も、どうして知ったつもりで上から物を言うんだ。 お前らなんかに何がわかる、僕が何をされたか、あの国で何をされたか、お前らみたいな奴らに何がわかるって言うんだ。
ーでも君は、王女様に構って欲しい。 それはなんだか矛盾しているように聞こえる。
はっきり言おう、私は君が何を考えているのかまでは全然知らない、君が皇国と繋がっていようがどうであろうが、それはどうでもいい。 多少本題とも被るけど、さっきからずっと何台かの車が私達を追ってきている。 タイタニアでもそうだ、監視されてた、これから行くつもりのフローラでもそうだろう。 それは私達の行程を知ってないと出来ないことだ。 そして私の請け負った仕事は、君たちをオドペレイトまで無事送り届ける事だ。 別に君たちに関わる気は無い。 だから、これはただのアドバイスとして聞いて欲しい、あるいは変な女の独り言として聞き流してくれ。
君たちは、間違いなく破滅に向かって進んでいる。 きっと誰も助からない。 ノアちゃんも、ハルカちゃんも、そして恐らく君も。 今それを止められるのは、おそらく皇国と繋がっているであろう君だけだ。 いいかい。 君は今のうちに、ノアちゃんとしっかり向き合わなければいけない。 そして自分自身の信念を明確にしなければ。 皇国を盲信しないほうがいい。 彼らの手は長く、そして力強い。 彼等は想像より遥かに強い力を持っている。 権力も、金も、軍力も、資源も、発言権もだ。
いいかい、もう一度言う。 ノアちゃんにしっかり向き合ってーもし君が心の何処かで彼女のことを大切に思っているのならー、今のうちに全てを打ち明けるべきだ。 そして話し合うべきだ。 それが家族ってものだろう。
僕の本当の家族はシュラーフに殺された。 ノアの父親の命令でだ。
後ろで寝てる腐ったトマトは、僕の家族でも、友達でもない。
アリアさんは暫く何も言わなかった。 それから何度か、深く息を吸い込んで、それからようやく口を開いた。
ー………そうか。 まあ、人の気持ちは複雑だからね。 ごめん、出過ぎたことを言ったかもしれない、許してくれ。 ちなみに本題の方だけど、私達はこれからフローラに向かってそこで一泊の予定だ。 当然そこでも皇国の高等警察ー南条家ーに張られる。 まあ、あまり気持ちのいいものじゃないが、少なくとも今のところは監視だけだ。
選択肢は2つ。 1、フローラにこのまま泊まる。 これがある意味最善。 でっかいキアーナ牛のビステッカを食べて、あと白インゲン豆の煮込み、それを前菜にとって、楽しく飲んで本日はおしまい。 おそらく高等警察どもは様子見に徹すると思う、総裁から何か命令を受けてるなら、昨日のうちにもう事を起こしてるはずだ。 あるいは、私のお父さんと揉めたくないのかもしれない。 そして2つ目、フローラには行かない。 オドペレイトにも行かない、このまま逃げて、私はどこかで君たちを降ろす、その後のことまでは知らない。 要するに、これは最後のチャンスだ。 以上。 選ぶ権利は、この場では君だけが持っているはずだ。
選ぶ………。 フローラに泊まれば、もうその後は一直線でオドペレイトだ。 今なら、この田舎道の何処かに逸れて、上手くやったら撒けるかもしれない、アリアさんはそう言っているのだ。 僕の答えは当然決まっていた。
フローラに泊まる。 明日はオドペレイトに行く。 貴方とはそこでお別れ。
それだけだ。
アリアさんは何も言わなかった。 彼女の目が少し泳いで、ミラーに映ったノアと、ハルカちゃんを見た気がした。
車は予定通り、フローラに舵を切った。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
会議の2日目が終わった。 概ね予定通り。 骨組みだけに過ぎなかったが、世界国家設立に向けての取り組みは概ね共有された。 あとは通貨問題。 世界国家設立に向けて、もう一つ刺激が必要だ。 新たな共同通貨だと、馬鹿馬鹿しい。 そういう名目を取らざるを得ないにしろ、その基礎は我が皇国の通貨が担うべきだった。 重要なのは通貨価値だ、他国の通貨を、それまでに価値のないただの紙切れ同然に変えておかなければならない。 既に主要6カ国以外では、何件もの取り付け騒ぎが発生している、財政破綻したクソみたいな国も数えきれない。 なんとか6カ国のみが耐え抜いていたが、その中で圧倒的優位に立っているのは皇国だけだ。 あとはトドメだけが必要なのだ。 石油、ガス、食料、金、プラチナ、レアメタル、半導体、鉄…。 皇国に足りていないのは魔晶だけだ。 魔晶は確かに資源としての量こそ少ないが、その存在価値は大きい、短期的とはいえ物理現象を超えた現象をもたらすのだ。 その真の利用価値に気付いたのも我が皇国が最初だ、そして他国には、それを真似できない。 瀬田研究主任が開発した技術は、確かにヒューマニズムに反しているだろう。 人間を創り上げ、魔晶をその心と魂の代替として埋め込む。 出来上がった人間は普通の人間と何ら変わらない、だがそれは人間ではなく、商品だ。 臓器、安価な労働力、性の処理、兵力…あらゆる用途にそれが使えるのだ。 その価値は想像を上回った。 今やそれは、世界にとって欠かせない、皇国の主要産業の一角を担っていた。 他国が技術を手にする前に、世界を一つに纏める必要がある。 魔晶によって作られた人工生命が、その設立の肝だった。 増えすぎた寄生虫どもを一掃して、豊かさを享受できる人々を限らなければならない。 そして、ゆくゆくは、寄生虫どもは置き換えなければならない。
決して逆らわない、権利も主張しない、従順な新たな生命に。
それは確かに大きな挑戦だった。 私の人生だけでは成し遂げられないかもしれない、しかし、少なくともその礎だけは、私が築くつもりだった。
まずは、シュラーフの魔晶を確実に皇国が抑えなければ。
しかし、それ以上に気が重いー非常に楽しみでもあるのだがー問題に関して、私は考える必要があった。 妻と娘が、今日オドペレイトに着く。 私は昨日も電話に出れていなかったが、秘書が教えてくれた。 ルーア様がお怒りでした、総裁、申し訳ありません、いかに総裁といえど、家庭内の問題はご自分で解決願います……。
確かにその通りだ。 的を射ている。
そして電話が掛かってきた。 私は少し震える手で、僅か2回のコールでそれを取った。 はい、神童ですが………。
ー………貴方。 貴方よね。 着いたわよ、もうホテルのロビー。 いろいろ言いたいことはあるんだけど、とりあえず、部屋まで案内してくれないかしら。
やれやれ。 確実に怒っている。 勘弁してくれ。
僕はわかった、すぐ行く、そう言って電話を切った。
ホテルのロビーは相変わらず清潔で、白と黒のモザイク調のタイルを敷き詰め、少し暗めの明かりに照らされた調度品やピアノが煌いている。 それらは決して自分から主張することなく、ただ静かにそこに留まっていた。 過度な優美さや虚飾を排し、かといって質素には留まらない美がそこにあった。 オドペレイト自体はともかくとして、このホテルだけはなかなか好きだった。 しかし残念ながらーいや、本当は喜ばしいことなのだがー見るからに怒りに燃える我が妻ルーアと、愛しい娘ルカがそこにいた。 ルカは私を見るなり、お父さん、そう言って私に向かって走ってきた。 私はしゃがんで娘の突進を受け止めてやり、私の胸に顔を埋める娘の頭を撫でてやり、よく来たね、遠かっただろう、そう言った。
ーううん、全然遠くなかったよ、飛空挺に乗ってからほんのちょっとしかかからなかった。 お父さん、どうして電話出てくれなかったの…私のこと、嫌いに、えぐっ…きらいに、なっちやったの………。
私は慌てて、違う、それは断じて違う、ここ何日か仕事が忙しくてちょっと出れなかっただけだ、ごめん、お父さんが悪かった。 そう謝った。 謝りながらチラッとルーアの方を見たけど、当然白い目で私を見ていた。 ほとんど睨んでいるといってもいいくらいだった。 本当に返す言葉もない。
ー………本当？ 本当に？ お父さん、私のこと、嫌いじゃない？？
もちろん。 ルカ、明日は会議は昼で終わりで、お父さんちょっと昼ご飯は別の人と食べるんだけど、夕方と夜は暇なんだ、オドペレイトを観て回ろう。 観光客だらけの結構汚い街だけど、運河沿いの道はまあまあ綺麗だ、ゴンドラに乗って街を見て回ろう、それからルカが行きたいところに何処でも連れて行ってあげるよ。 学校のみんなにお土産を買って帰ってあげるといい。 まあなんか適当なチョコレートかなんか持ってってあげたらみんな喜ぶんじゃないか、多分……。
ー…………お父さん、約束だよ。 ちゃんと守ってね。 あと、タバコちゃんとやめてる？ 私、お父さんが肺ガンで死ぬのは、その、えぐっ……いやだから………グスッ……
私は慌ててもう一度ルカを抱きしめた。 それから正直に言った。 ごめん、これでも結構控えてるんだけど、一昨日に2本、昨日1本吸った、でもあと4本しか残ってない、これでおしまい。 もう残り4本なんだ、これが尽きたらお父さんにもどうしようもない。 だからあと4本だけは許してーーーーー
ー………それで明日には、あと24本に増殖するって寸法ね、あなた。
ルーアがついに割り込んできた。私を見下ろす顔は、一文の弁明も許さない冷厳な怒りに満ちていた。 僕は娘の頬にキスしてから立ち上がって言葉を続けた。 ルーア、来てくれて嬉しいよ、ルカは良い子にしてたかい、僕はもう君たちのことが心配で心配でーーーー
ー………質問に答えなさい、意志薄弱な総裁殿。 結局禁煙してないんでしょう。 挙げ句の果てに昨日の電話は無視。 自ら家庭関係を悪くする道を選ぶとは、中々大した根性ね。 ルカ、疲れたでしょう、お母さんちょっとお父さんと話すことがあるから、ルカは部屋で少し待っててちょうだい、後でみんなでご飯を食べに行きましょう。 お父さんが奢ってくれるはずだから。
おいおい、僕の小遣いを握って把握してるのは君だろう、私的な出費は公費で落とせないんだぜ、しかもオドペレイトのレストランはびっくりするくらいのボッタクリのやつが結構あるんだぜ、おまけにハッピーデイも過ぎてる、酒も安くないぜ、昨日スズキのソテーを頼んだだけで80チェンテージモ持ってかれたんだ、せめて僕と君の共同の財布から出すべきじゃーーーー
ー…………返事は。
はい。 申し訳ありません。
私はルーアとルカを部屋に案内し、そしてその散らかり方を目にした娘に唖然とされ、ルーアはまるで僕を哀れむような目で溜息をひとつ付いて、ルカ、ごめんね、お父さんの着替えとか、その辺のお酒を片付けておいてくれない、すぐ戻るわ、あとタバコは見つけ次第全部捨てて良いわよ、そう娘に言って、私の手を引っ張って部屋の2階に連れて行った。
私は2階のベッドの上に座って、向かいのソファに腰掛ける我が妻と対面していた。 もちろんルーアは怒っていた。 それは当然のことだ。 私が褒められる要素は少なくとも思いつかなかった。 禁煙には失敗したし、電話は2回とも遅れたし、少なくともうち1回は完全に無視してしまった。 ルーアが怒るのも当然のことなのだ。 だけど、妻が私に投げかけた言葉は、恐怖に怯える私の想像とは全く違った。
ー……本当に無事で良かったわ、貴方。 心配したのよ、私。 貴方、敵も多いから。
………心配させてすまない。 私は心から謝った。 電話に昨日出なかったのは本当に悪かった。 君も、ルカも不安にさせてしまった。
ー何か、考えなきゃいけない事があったんでしょう。 それくらい分かるわよ。 ノアのバカが迷惑をかけてごめんなさい。 ずいぶん予定外の事が増えちゃって……
それは君が謝る事じゃない。 そもそも上手くいくか分からない計画だ。 上手くいけばそれでいいし、無理だった時のバックアップもちゃんと考えてる。 ハルカさえ取り戻せれば懸念事項は何も無くなる。 ヘリオ君がちゃんとあの馬鹿を誘導してくれるのを祈るばかりだが、それでも大事なのは明日だ、君もそれは分かってるだろう。
ー……ええ。 ノアには、ちゃんと償って幕を下ろしてもらうわよ。 シュラーフの忌まわしい歴史と政治に。 でもお願い、貴方、ヘリオちゃんは、あの子は悪くないの、殺さないで。 貴方の思想は分かるわ、貴方がヘリオちゃんを認めてないのも、むしろノアより遥かに忌まわしい存在と思ってるのも分かる、でも殺さないで。 お願いだから……。 彼女は可哀想な子よ、せめて助けてあげなきゃ…………
私は何も感情を込めないように、自分の考えだけをルーアに語った。
いいかい。 君がなんと言おうとも、ヘリオには死んでもらう。 知り過ぎたからとか、そんな話じゃない。 もっと根本的な、人間としての信頼の問題だ。 君も分かっているだろう、ヘリオが我々に尻尾を振っているのは、他に居場所が無いからだ。 シュラーフは憎むしか無い、そうしないと自分を保つことすら出来なくなるからな。 彼女の祖国との繋がりは切れた、あの国ははヘリオ君の救出にかける資金を削減し続け、もう事実上取り止めたからな。 要するに見捨てられたんだ。 だから優しくした君に尻尾を振るしか無いんだ、発情期の獣と同じだ、僕の事を見てください、みてください、見捨てないでください、それしか言ってないのさ。 そのどうしようもない精神性こそが最も危険なんだ、適切な段階で、適切な承認段階を乗り越えて成長するというステップを踏んでいない。 妄執と怨みと承認への渇望だけに囚われた思考停止さ、あいつは自分を認めてくれる奴ならーそれがシュラーフの王女以外ならー何でもいいのさ。 僕たちじゃなくてもいいんだ。 だから、僕たちのこともきっと簡単に裏切る。 いつまで経っても満たされることのない空虚な獣だからな。 ある意味、ノア王女より遥かにどうしようもない屑だ。 あの王女は無知なだけだが、ヘリオは自分が無知である事を認めまいと必死なんだからな。
………君には本当に申し訳ないが、アレには生き残って貰うわけにはいかない。
ルーアは悲しそうな顔で、私の言葉を聞いていた。
私は言葉を続けた。
変な話だが、ヘリオが裏切って、ノア王女様とハルカを逃がそうとしたら、僕はあいつを認めざるを得ない。 ちょっとは人間としてマトモな奴だったんだってな。 もし予定通りに事を進めるようなら、こちらも予定通り、彼女にも消えて貰う。残念ながら、さっき南条君から報告があった。 ノア一行は予定通り、フローラに宿泊、明日夜にオドペレイトに着く予定だ。 全て予定通りだ、ヘリオは我々を裏切っていない。 可哀想だから、まだ子供だから助けるとか、そう言う問題じゃない、ああいうタイプの人間は誰でも平気で裏切るようになる、承認欲求が異様に肥大化したタイプの典型だ、成長して知恵をつけてからでは手遅れになる。
ー…………貴方の考えは分かったわ。 それはある面ではきっと正しい。 だけど、お願い、殺すのだけはやめて、せめてまず捕らえるだけにして、わたしがその後でちゃんと話すから………。
私はしばらく口を開かず、妻の顔を観察した。 その表情は本気だった。 やれやれ、馬鹿を何匹か騙すよりも、妻を説得する方がよっぽど難しい。
分かった。 全てが予定通りに進んだらヘリオを拘束する。 その後のことは君に任せる。 だがそれだけだ、あいつが僕たちの障害になりそうであれば消す、それは間違いない。 僕はあいつの事を認めてないし、可哀想だとも思わないからな。
ありがとう、ルーアはそう小さく呟いて、さあ、もう行きましょう、ルカが待ちくたびれているわ。 そう続けた。 貴方、何処か良い店でも見つけたの？
ワインはまあまあ美味いけど、パスタは塩っ辛い、リゾットはまあまあ美味しい、魚はなんだか頼りない味がする、そんな店でいい？
ー………別の店を探しましょう。 ルカが食べたいものを探しましょう。 貴方のおごりね。 私の分も。
はい。 分かりました。
結婚生活を長く続けるには、とにかく妻と娘の言い分には従うことだ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
花の都フローラは、芸術と侵略で栄えた都市らしい。 わたしはてっきり、周りの風景から考えて、みんな牛でも飼って和やかに暮らしているのかと考えてたけど、そんなことは微塵もない大都会だった。 正直わが祖国の市街より大きいかもしれない。 でもそれに比例するかのように、観光客の数もとんでもないことになっていた。 人が多過ぎて殆ど身動きが取れない。 特にアリアさんに連れて行ってもらった美術館はとんでもない騒ぎだった、よくわからない裸の女の人が貝殻から飛び出してる絵とか、裸の男の人の大きな彫刻とか、そんなものの前に人だかりが山のようにできていた。 大変申し訳ないけど、何が凄いのかよくわからない。 みんな食い入るように見つめてたから、結構すごい芸術みたいだけど、元を正せば石膏と絵の具の塊のはずだった。 わたしが美術の授業で描いた風景画と大差ない気がする。 ヘリオにそう言ったら、まあ君の絵との共通点は、絵の具を使ってるってことだけだね、そう返してきた。 失礼なことだ。 とにかく、有名らしい美術館2つと、あと大聖堂をとりあえず見てしまったら、他にとくにやる事はなかった。 あまり関係のない話だけど、この旅行が始まってから、少なくとも観光だけは失敗してない、行きたい場所に行けないとか、そんなことはなかった。 敗北を知りたい。
ー………君が無駄に偉そうなのがムカつく。
ヘリオはボソッとそう呟いてたけど、わたしは聞こえないふりをした。 ちなみに、あまりに人が多すぎて、ハルカちゃんはまた怯えてわたしの背中の後ろで縮こまっていた。 対人恐怖症なんだろうか。
とにかく、そうこうしてフローラに着いてから何時間かが慌ただしくも楽しく過ぎて、アリアさんが夕食を食べに行こうと提案してきた。 そういえば、朝からオレンジしか食べてない。 酷い仕打ちだ。 だけどお金があんまり無いんだから仕方ない。
ーお金のことなら心配しないで、この街にいいカモがいるから。
カモ？
ー売れない小説家をやってる男。 でもお金持ちの女のヒモを取っ替え引っ替え続けてて、金はたんまり持ってる、寄生虫みたいに。 平たく言うとクズ野郎。 もう連絡はつけておいた、この街で一番のビステッカを食べに行こう、クズには金だけ出させて、別のテーブルに座らせるから。
……アリアさんは逞しい。 どっちがクズなのかよく分からないと思ったけど、まあ何も言わずにおいた。 口は災いの元なのだ。
狭い路地の端にある小さな店の扉をアリアさんが開けて、彼女を先頭に店の中に入った。 中は良い香りのする温かみのある木が敷き詰められており、肉の焼ける良い香りと、芳しいワインの風味が店中に漂っていた。 お待ちしておりました、アリア様、ミカエル様が奥でお待ちになられております、ウェイターがそう言ってわたし達を奥の部屋に案内してくれた。 赤いカーペットを敷いた木製の大きなテーブルを囲うような形で椅子が置かれており、壁際の椅子に彼は座っていた。 ずいぶん線の細い体つきの男で、ブロンドの髪を肩のあたりまで伸ばし、いい生地のラフな青いジャケットと、古びたジーンズを着たその男は、わたし達を見ると軽くグラスを上げた。 もう飲んでいるらしい。
ーおお、アリア、ずいぶん久しぶりだ。 また綺麗になったか？ おいおい、しかも後ろの3人も見目麗しいじゃないか、あと10年したら俺の嫁にしてやってもいいくらいだ。 真ん中の王女様、どう、俺と今夜ーーーー
彼の言葉が終わらないうちに、アリアさんが口を開いて割り込んだ。
ー黙れゴミ、大体なんでお前がわたし達と同じ席に座ってる、さっさと別のテーブルに引っ込んでろ。
ーおお神よ、アリアの言い分を許してくれたまえ、すまないみんな、アリアはちょっと俺に対して素直になれないんだ、皇国にはアリアのような麗しい女性に相応しい言葉がある、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、その佇まいはツンデレ、そんな言葉だ、ねえ小さいお嬢さん、君は見たところ皇国の出身だろうからこの言葉の意味もわかるだろう、もう一度繰り返す、立てば芍薬座れば牡丹ーーー
ー殺すぞ。
ーおお怖。 まあいいじゃないか、ご馳走するからとりあえず飲もう。 おお神よ、お許しください、小さなお嬢様方に自己紹介をしていなかった、俺はミカエル、ミカエル・ヤクソンだ。 しがない小説家。 これでも色々なパトロンから資金援助を受けてる、みんなあれで結構、俺の小説に期待してくれてるーーー
ー要するにヒモだろう、クズ野郎。
ーおお神よ、アリアをお許しください。 王女様、どう、良かったら君も俺のパトロンにならないかい？
わたしは2人のクズみたいな会話に圧倒されてたけど、話を振られてようやく口を開く機会が訪れた。
あの、そのう、どんな感じの小説なんですか。
ー造花売りの恵まれない主人公の少女が、エディンバラ城ーブリテンの端にあるしけた城だーに眠る伝説の剣を得て、悪の市長を倒す物語にしようかと思ってるんだ、どう、そこのボーイッシュな君、良かったらモデルになってみないか。
………ちょっと考えさせてください。
食事は確かに素晴らしかった。 冷肉とパテ、チーズの盛り合わせ、白インゲン豆の煮込み、それから分厚いキアーナ牛のビステッカが、レアに焼かれてどんと出てきた。 お酒はまた重い赤ワインで、もう飲まないと誓ってたのに、今度はミカエルに注がれた。 彼は殆どずっと1人でペラペラ喋ってた。 本当に、この世でこんなにどうしようもない男がいるなんて、世の中は全く不思議に満ちている。 彼はわが祖国の思想の完全なる真逆を行く人間だった、その思想は激しい物欲に満ちてーあと残念ながら性欲も……ー清貧とは対極の位置に存在する男だった。 わたしは流石に耐えかねて、申し訳ないけど異論を挟ませてもらった。
ミカエルさん、あの、大変申し訳ないんですけど、清貧と平等な所有を理念とするわが祖国の思想からは、それは相反しているように思えます。 みんなで稼いで、みんなが稼いだものを共有して、それを神が平等に分け与える。 争いは独占欲から生じるのです、わが祖国では貧富の差はありません、皆が平等に有し、神のもとでは嘘は許されません。 それが世界全ての国に行き渡るべきだと、わたしはそう思ってます。
ミカエルさんは少しだけわたしを見て、それから美味しそうにグラスを空けた。
ーおお神よ、物欲に塗れた我をお救いください。 ねえノアちゃん、そんなことより、どう今夜。 お酒飲みに行かない、さっきのパトロンの話だけどーーー
わたしは少し口調を強くして言った。 ミカエルさん、これは真面目な話なんです、争いと貧困と差別を無くすためには、皆が清貧と、平等な所有のもとに生きる必要があります、難しい話ですが、きっと実現できるはずーー
わたしの言葉を聞き終わる前に、ミカエルさんが口を開いた。
ー……王女様、それは素晴らしい思想。 しかし人間は所有するもの、独占するもの。 世界が始まって以来、それは止むことはありません。 いいですか、王女様、貴方にとって正しい事が、他の皆にとっても正しいとは限らない、そういう事なのです。 人の心は複雑で、それは人が理解できる範疇を超えている。 どんなに近しい人たちでも、お互いの心の全てを理解することだけは出来ないのです。 そしてそこから独占が生まれる、恨みが生まれる、軋轢が生まれる、嫉妬が生まれる、負の感情はそのようにして生まれるのですよ。 心と心の摩擦の結果として。 お神よ、王女様と我をお許しください、人の身ながら人の心について語る事を。 その心の中に誰しもが獣を飼っている事を、御認めください、そしてお許しください。
わたしには、この男が本当に理解出来なかった。
独占？ 獣？ 摩擦？ 心を理解できない？ 少なくともわたしは、ヘリオのことだけはちゃんと分かってる。 いつもそばに居てくれて、どんな時でも一緒に悩んでくれた家族だ、わたしとヘリオがそうなれたのに、この男はそれすら否定するの？
わたしはそれ以降、この男とは何も口を聞かなかった。
ー………おお神よ、お許しください。 アリアとこのように密談を交わす事を。
ー何が密談よ、クズ。 もう3人とも寝ちゃったわよ、お前も静かに話せ。
ー…皇国の高等警察どもが何処かで聞き耳を立てているかも。 それでも構わない？
ー構わないわよ、結果は変わらないんだから。 それに、多分今は大丈夫。
ー…………おお、神よ、高等警察よ、御許しください。 アリア、確かに王女様は高潔で美しい思想の持ち主だ、その志に一点の曇りもない。 そしてそれは蒙昧と無知の上に成り立っている。 もしそれが崩れた時、彼女はどうなるだろう？
ーそんな事を聞きにきたんじゃないわよ、クズ虫。 あんたしっかり用意はしてるんでしょうね。
ー……………イチモさんの頼みだ、問題ない。 それは問題ないんだが、アリア、お前こそ問題ないんだろうな。 これは本心からの忠告だが、あまりあの王女と護衛、それから皇国の商品には関わるな。 間違いなく悲惨な事になる、過度な同情は身を滅ぼす、自分の身を守る事を考えろ、お前が死んだらイチモさんと奥さんがどれほど悲しむか、それを考えろ。
ー……あんたに説教されたくないわね。 とにかく準備だけはしておきなさい。 万が一にも使わない事を祈るわ。
ー……だから言ってるだろう、イチモさんの頼みは断らない、だがその裏にいるのが藤鷹副総裁なら話は別だ、皇国の奴らには肩入れしない。 中立だ。 皇国内の面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ、副総裁が関わってるなら俺は手を引く、それで良いな。
ー…………それでも構わないわよ。
ーおお神よ、未来の我がパトロンに栄光あれ。 彼女の人生が闇に覆われないよう。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
翌朝早く、わたし達はオドペレイトに向けて出発した。
オドペレイトまでの道は、長かったけど平坦なもので、わたし達は相変わらず大音量で流れる音楽を聴きながら、水の都に向けて走った。 やがて海(川だと言われたけど、どう見ても海にしか見えなかった)が見えて、それから車はオドペレイトに続く橋に入った。 何故だか、わたしも、ヘリオも、そしてハルカちゃんも、少し緊張していた。 フローラを朝に出たのに、オドペレイト市街に着く頃にはもう日が暮れかかっていた。 今日はルーアお姉ちゃんが用意してくれていた、本来の予定通りのホテルに泊まる予定だ。 車を駐車場に止めて、わたし達は荷物を持ってホテルの扉を潜った。ずいぶんと立派なホテルだった。 ヴェルマーレのボロホテルとは大違いだ。 ここならベッドもちゃんと人数分用意されてそうだ。 今日はゆっくり休みたい。 明日にはやっと、お姉ちゃんと逢えるのだ。
お姉ちゃんは元気にしてるだろうか。 あの神童の元で虐められたり、道具のように扱われてないだろうか。 わたしはそれが一番不安だった。 お姉ちゃんに万が一、何かひどい事をしていたら、あいつだけは例外として報いを受けさせてやる、必ず。
そんな事を考えながらフロントに向かった。
そして、わたしの目の前に、あの男がー夢に出てくる時と同じ、全く心の見えない笑みを携えてーそこにいた。
「長旅御苦労様。 ノア君、ヘリオ、運転手さん、それから…ノアの友達？」
神童総裁。
よりによってこの男が出迎えてくれるとは。
(第5話おわり)