※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。 未成年の飲酒描写が出てきますが、この世界では13歳からワインは合法になります。
(第6話)
何度もわたしの夢を侵略した、あの男が、今わたしの目の前にいる。
彼は、記念硬貨の中に刻まれたあの顔から、何も変わっていなかった。 黒髪を綺麗にオールバックに纏めて、銀縁の眼鏡を掛けている。 少し深めのダークブルーのジャケットを着こなして、その下には黒のタートルネックを着ていた。 ズボンはこれといって特徴のない黒いものだった。 皇国の出身にしては背が高く、顔の作りも相まって、美男子といっても差し支えないだろう。 だけどわたしが何より憎んでるのは、その目と口元だった。 彼の目と笑顔は、一見穏やかで素晴らしく、だけどわたしには、その下にあるハッキリとした差別と軽蔑の感情が滲んでいるように思えた。 もちろんそれはわたしの気のせいかもしれない、わたしは彼を過度に憎んでいるのかもしれない。 お姉ちゃんが政略結婚させられた相手、ただそれだけの理由で。 でも彼は、なんとなくだけど、表面上はどれだけ穏やかで魅力的でも、その下に恐ろしい獣のような本性を秘めているようにわたしには思えた。 彼は和やかな笑みを湛えたまま、わたし達一人一人に挨拶をした。
ーノア君、よくここまで来てくれた。 ルーアも君に会える事を楽しみにしている。 もちろん、僕も義妹に久々に会えて嬉しい。 僕とルーアの結婚式以来だったかな、君と会うのは、ずいぶん大きくなった。
ーそれから、ヘリオ君。 君ともずいぶん久しぶりだ。 義妹と仲良くしてくれているみたいで嬉しいよ。 妻が君にも会いたがっていた、今日はゆっくり休んで、明日は朝のうちにこの水の都オドペレイトを楽しんで、それからノア君と、君と、僕と、ルーアで昼飯を食おう。 悪くないシーフードの店がホテルの近くにある、そこを押さえた、明日はゆっくり話そう。
ー運転手さん…いや、知らないふりをする必要もないかな、アリア君。 お父さんーイチモは元気かな？ ノア君と君が出会ったのは偶然かもしれないが、たまたまでも僕は嬉しい。 どこぞの訳のわからない運転手じゃなくて、君なら信頼が置けるからな。 イチモにもよろしく言っておいてくれ、今度一緒にヴェルマーレで飲もうってね。
アリアさんは、相変わらず歌うように、光栄です、総裁殿、父もきっと喜びます、旧友に乾杯、you’re my best friend…そう返した。
ーI've been with you such a long time……今度映画を観に行かないか、もちろんイチモも一緒に………それから君は、皇国の出身？ ノア君の友達？
最後に彼は、ハルカちゃんの方を見て、そう問いかけた。
その時にハルカが見せた表情は、わたしを愕然とさせた。
彼女は深く怯えていた。 そして、怯えながらも、この男を、間違いなく尊敬し、そして愛していた。 それほどに、恍惚と希望に満ちた眼をしていたのだ。
ー……はい、総裁殿。 ノア様とヘリオ様に助けて頂いて、今私はここに存在できています、全部ノア様とヘリオ様、それから、アリア様が私に優しくして頂いたお陰です、わたしの全てはヒトである皆様に捧げるためにあります、この御恩は、私の臓器と、性器と、労働力と、それ以外の全てを持って奉仕させていただきます……。
ハルカは神童を見つめながら、その近くに歩いて行った。 あれほど人混みに怯えていた幼い子が、見ず知らずのはずの神童総裁に向かって、まるで熱にうなされたかのように歩いて行って、そしてその足元に跪いたのだ。
わたしは愕然として、ただその様子を眺めていた。
ー…………隠してもしょうがない。 ノア君、ヘリオ君、ハルカは我が皇国の大事な商品だ、実は今回も、ヴェルマーレのある貴族の息子に腎臓を提供してきたばかりでね。 要するにドナーだ、人工的なね。 あとそれ以外に色々と用途があるけど、まあ大事なのはそこじゃない。 これは皇国の偉大な技術の結晶だ、無事送り届けてくれて、心から礼を言う。 シュラーフではまだ一般に広がってないかもしれないが、もう世界では広く受け入れられてる。 心からありがとう、ノア君、ヘリオ君、アリア君、ハルカをここに送り届けてくれて。 これで彼女も安心して皇国にーーー
わたしは我慢できなくなった。
「……黙れ、だまれ、クズ野郎。 ハルカはお前の所有物じゃない。 よくもそんな忌まわしい事を考えついたわね。 あんたに、いや、どんな人間にも、ハルカちゃんを自分のものとして扱っていい権利があるわけがない、この子がどれだけ怯えていたか、あんたにわかるの、あんたはそうやって、お姉ちゃんも、ハルカちゃんも、自分の物として扱うつもりなの。 もしそうだとしたら、そんな事はわたしがさせない。」
神童は黙ってわたしを見つめて、そして、足元のハルカちゃんの頭にそっと手を伸ばして撫でた。 優しく。 割れ物でも扱うかのように。
その行為が一層、わたしの心を逆撫でた。
わたしは思わず神童に向かって駆け出そうとした。 それを止めたのはヘリオだった。 彼女は神童に向かって話した。 どこまでも冷静に。
ー…申し訳ありません、総裁殿。 ノアはハルカちゃんの事を大切に思っています、そこから出てしまった発言です、皇国の産業を貶すつもりはーー
「ヘリオ、黙ってて。 お願いだから、こんなクズに頭を下げないで。」
わたしはそれでも我慢できずに、今度はヘリオに向かって怒鳴った。
彼女の制止を振り切って、わたしは神童に向かって走り出してーーーその歩みを止めた。 わたしの目の前に、ハルカちゃんが立ち塞がったからだ。
彼女は決然とした眼でわたしを見つめていた。
ー……ノア様、お願いです。 これ以上はやめてください。 総裁殿、いえ、お父様をを貶すのはやめて下さい。 いくら貴方でも、それだけは、許せません。
ハルカ……。 わたしは立ち止まって、神童に振りかざすつもりだった拳を下ろした。 どうして、どうしてこんな奴に………。
ー……私は、皇国の商品です、ノア様。 私は、これで幸せなのです。 貴方は私自身の幸せが大事だと言ってくれた、私は、今が一番幸せなのです。 偉大なる皇国の産業の一部たり得る事が、私の穢れた身を以て世界中の人々に奉仕させて頂く事が、私の幸せなのです。
わたしは、何も言えなかった。 ただハルカと、お互いに、その眼を見つめあった。
「………………『様』はやめて。 お願いだから。」
それだけ言うのが、ようやくわたしが絞り出せた言葉の全てだった。
ぱんっ、神童が手を叩いて、さあ、もうみんな休んだ方がいい。 ハルカ、ちゃんとお礼を言う意味でも、今夜はノアとヘリオと一緒に居なさい。 ノア君、明日の昼11時から、ちょっと早いけど店を抑えてる、場所はあとで教えるから、そこに来てくれ、君と、ルーアと、私とで食事を一緒に食事を摂ろう。 案内と、護衛には南条君が就く。ヘリオ君、ハルカ、よければ明日は、一緒にオドペレイトを観光して回ったらどうだい。 アリア君も良ければ。 紗奈君を護衛兼案内につけよう。 そんな事を話した。
わたしは神童の目線の先を見た。 わたし達がくぐったばかりの扉の前に、男と、そしてもう少し背の低い女の人が立っていた。 黒いストレートの方の女の人の方は、わたし達とそれほど年も変わらなさそうで、全身黒の軍服のようなものに身を包んでいたが、背の低さも相まって随分子供っぽい感じに見えた。 でも、わたしが本当に恐怖を感じたのは、その横に佇む男の姿を見てからだった。 男はその女の人ー神童曰く、紗奈さんーより一回り以上背が高く、同じ黒の軍服を着ていた。 整った顔立ち、短く切りそろえられた髪、引き絞られた唇、切れ長の目、それら全てが精悍な印象を与える男だった。 だけどその男は間違いなく普通の人間ではなかった。 なんと言えばいいのか、わたしにはうまく形容する事が出来なかったけど、敢えて感じた事をそのまま言うなら、獰猛な肉食獣が人の形をとってるような、そんな感じ。 わたしがもし神童を殴っていたら、いや、その前に、わたしはこの男に殺されていたかもしれない。 それほどに恐ろしい印象をわたしに与えた。
ーおい、和哉君、紗奈君、そんなに睨まないでくれ。 君たちにしか頼めない大事な敬語なんだ。
神童が呑気そうな声でそんな事を言うと、女の人ー紗奈さんーの方が、明らかに不満げな声を上げて食ってかかった。
ー総裁、私は、護衛はいいですけど、観光案内人をするつもりはありません、大体何しろって言うんですか、ゴンドラを漕ぐためにこの軍服を身につけたわけじゃーー
ー紗奈、黙ってろ。 神童、済まない、妹が勝手を言った。
男が紗奈さんの愚痴に割り込んだ。
神童は気にしない感じで、いや、間違いないよ、紗奈さん、これは命令ではなくお願いだ、君も少し羽を伸ばして、オドペレイトを観て回ったらどうだい、我々の警護は和哉君に任せて、近くの島とかを見て回って、この国のビールでも飲んできたら、あんまり美味くないかもしれないけど……というより全然美味くない、この国はビール文化に乏しいから………そんな事を言った。
さあ、もう寝よう、ずいぶん話してしまった。 私も自分のホテルに戻ろう、娘が拗ねているかもしれないからね。 そう言って、神童はわたし達に軽く頭を下げて、扉に向かって歩いて行った。 和哉とか呼ばれていた男も、神童に従って、わたし達に軽くお辞儀をして、彼の後に続いて出て行った。
後には、わたし達と、紗奈さんだけが残された。
わたしはハルカの元に駆け寄って、思わずしゃがみこんで彼女の両肩を掴んで、激しい口調で言ってしまった。 ハルカ、やめて、お願いだから、皇国とか総裁のために、自分の身を犠牲にしないで。 貴方は自分の幸せを手に入れないとーーー
ハルカちゃんの顔から、その時ふっと表情が消えた
ー……………ノア…………私の幸せって、何なんですか？
わたしは何も言えずに、ハルカを見つめた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
そんな事はわたしがさせない、だと、無知で無能な王女如きが。
やってみろ。 お前が無事この先も生きていられたらな。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
ノアと、ハルカちゃんと、僕と、あとアリアさんは、それぞれ別の部屋に案内された。 これまでの結構酷いホテル生活が嘘のように豪華ないい部屋で、黒と白を基調に整えられたシンプルで清潔な部屋に、キングサイズのベットと清潔なシーツ、黒で統一された椅子と机、柔らかなソファとガラス製のサイドテーブル、あと冷蔵庫に水の瓶が2本と、赤と白の小さなワインの瓶がそれぞれ1本ずつ格納されていた。 無駄のない機能的な部屋で、かつ居心地も良かった。 僕としては理想的な部屋だった。 僕は熱いシャワーを長い時間をかけて浴びて(もちろん扉もちゃんと閉まった)、動きやすい白のパジャマに着替えてソファに腰を下ろして、冷蔵庫から出してきたワインをグラスに注いだ。 なんだか毎日飲んでるような気がするけど、僕としても明日のために心を落ち着けたかった。 明日は非常に重要な日なのだ、僕とノアの運命を分けるかもしれない日。 僕は明日、ノアに嘘をつかなくてはならない。
僕はここ数日、自分がハルカちゃんに感じていた嫉妬に関して考えてみた。 どうせ僕はノアを裏切るんだ、シュラーフの豚王と、その娘であるあいつにはちゃんと報いを受けてもらう。 それはずっと前から決めていた。 ノアの事は、大嫌いだった。 無知なくせに必死な所も、自国民の現状すら知らないのに見ず知らずの他人にーハルカちゃんにー無償の優しさをかけるところも、何も知らないくせに、僕の事を何も知らないくせに、僕を家族だと思って信じて疑わないところも、何もかもが気に食わなかった。 なのになぜ、僕が嫉妬する必要があるんだ？ それに、アリアさんに車の中で言われた事が、何故だか僕はずっと気になっていた。
今のうちにノアとちゃんと向き合ったほうがいい。
親が犯した罪の責任は、子供にも覆いかぶさるものなのだろうか。 僕はそれに関して明確な答えを出せなかった。 僕が今、ノアに全てを打ち明けたら、何が起こるのだろうか。 僕はその考えを、出来るだけ思い出さないようにしていた。 僕の事を本当に理解してくれて、認めて下さっているのは、ルーア様と神童総裁だけだ。 皇国が、「人間に似た人工生命体」の製造技術をいち早く確立して、重要産業に指定している事も知っていた。 労働力、兵力、臓器…。 ハルカちゃんみたいな幼い女の子がそれだとは知らなかったけど。 だけどそれは、僕には関わりのない事だった。 人間を殺す兵器や薬品が産業として認められるなら、どうして命を創り出す事は禁忌として批判されるのだろう。 命を奪うのは良くても、創り出す事がそんなにも許されない事なのか。 僕には分からなかった。
ほとんど無意識のうちに、僕はワインを注いだグラスを空けていた。 考え事ばかりしているとどうもお酒の量も増えてしまう、まだ若いはずなのに、あまり良くない傾向だった。 そんな事を思いながらグラスを充たして、もう一口飲んだ時に、ドアが小さくノックされた。 はい、僕は返事してグラスを置き、ドアの向こうに呼びかけた。
ヘリオです。 どなたですか。
ー……私です、その、ハルカ、です、ヘリオさ……いえなんでもありません。
ハルカちゃん？ どうしたの、僕は言いながら扉を開けて、彼女を迎え入れた。
ハルカちゃんはなんだか元気がないみたいで、少し下目がちに俯き、その長くて黒い髪の毛が肩にかかった。 あらためて見てみると、本当にルーア様に良く似ている。顔立ちが皇国産まれを感じさせるけど、そういえば何となく、神童総裁の顔立ちにも似ているような気がした。 まだ幼いけど、クリアな高貴さと気品を湛えた顔だ。 その理由も、僕にはなんとなく分かるような気がしたけど、それが総裁がハルカちゃんを気にかける理由とうまく結びつかなかった。 僕は彼女をソファに座らせて、自分は向かい合ってベッドに座った。 そういえば、一緒に旅をする中で、この子はずっとノアと一緒に寝ていた。 眠れないなら、どうしてノアじゃなくて僕の方に来たのだろう？
僕はもう一度、どうしたの、うまく眠れないの、そう聞いてみた。
ー……ヘリオ、私は明日の夜、皇国に戻ります。 そこで新しいホゴシの方について頂いて、何日か後にまた別の国に行きます、次で4回目の提供です、それが私の幸せだとずっと思っていました。 でもノアは、私自身の幸せを探すべきだと言っていました、私にはそれが分かりません、ヒトである皆様と一緒のお部屋に泊まらせて頂き、同じ物を食べさせていただけるだけでも夢のような事なのに。 ヘリオ、幸せってどういう事なんでしょうか、例えば貴方にとっては？
ハルカちゃんは、澄んだ眼で真っ直ぐに僕を見つめていた。 僕は息をすることすら忘れてその美しい眼を見続けた。 それは、波紋一つ立たない静かな湖面のように透き通って、どこまでも純粋で、そして僕は唐突に、この子の命がもう長くない事を悟ってしまった。 僕は思想教育棟に収容されていた時、同室の、僕とそう年齢が違わない人たちが亡くなる直前の姿を見ていた。 彼ら、彼女らはロクに食事も与えられず痩せ細って、日々の苛烈な強制労働で心身を破壊され、そして最期の直前には、みんな透き通った眼をしていた。 自分の中から何かが抜け出していき、そして二度と還らない事を自覚した時に、人はそうなるのかもしれない。 ハルカちゃんの眼は、そんな人たちと同じものだった。
僕は言葉に詰まって、机の上に手を伸ばしてワインをもう一口飲んだ。 幸せ？ 僕にとっての幸せ？ 僕は嘘を答えるべきだった。 今が、ノアと一緒に過ごしている今に満足してる、僕はこれからもずっとそうするつもりだ、そう言うべきなのだ。
だけど僕の口からは、意思とは全く違う言葉が出てきた。
「……少なくとも僕は今、自分が幸せだと思ってない。 僕にとっての幸せは、今では過去にしか無い。 僕はこれからそれを取り戻す、その為に………」
その為に、その続きは、話すわけにはいかなかった。 話すわけにはいかないけど、僕はハルカちゃんに嘘をつけなかった。 今彼女に嘘をついたら、それが最期になるかもしれなかった。 清貧と、所有。 シュラーフの思想を一番体現しているのは、この子なのかもしれない。
ー……ヘリオは、今が幸せでは無いんですか？ ノアは貴方の事を家族だと言っていました、貴方は、家族と…ノアと…一緒にいるだけでは、幸せでは無いのーーー
「ノアは家族なんかじゃ無い！！」
僕の本当の家族はもういない、シュラーフの奴らに殺された、ノアはあの忌まわしい豚の末裔だ、僕を助けてくれるのは、神童総裁とルーア様だけだ、あの車工場の爺さんも、アリアも、それから君も、僕の何が分かるんだ、何が…………
そこまで言ってしまって、僕はようやく我に返って、ハルカちゃんが最初は呆気にとられて、それから小さな身体がガタガタ震え出して怯えている事に気づいた。
ごめん、怒鳴るつもりは無かったんだ。 僕はハルカちゃんに謝って、今日のことは、ノアには内緒だよ、色々あるんだ。 ノアが僕の事を想ってくれているのは分かるけど、それだけじゃ解決しない問題もある。 ノアはそれを知らない、知らないままでいいんだ。 余計な心配をかけたく無いから。
ー………わかり、ました………。
ハルカちゃんは小さく呟いて立ち上がった。 僕はハルカちゃんがノアの部屋に行かないように、部屋まで送ってあげたけど、帰りにちらっとドアノブを回してみたら、ちゃんと内側から鍵をかけていた。 自室に鍵をかけない警戒心ゼロのノアにしては珍しい。 何か考えることでもあるのだろうか。 いずれにせよ、明日は朝からノア僕たちは別行動だ、僕とハルカは紗奈さん…南条紗奈さん、最年少で南条家の派兵部隊を取り仕切る怪物…あの人に案内されてオドペレイトを回る、ノアはその間に総裁とルーア様と会食。 僕たちを同席させないのは、それだけの理由があった。
僕は部屋に戻って、ワインを飲み干してしまってからベッドに入った。
でもなかなか眠りにつく事は出来なかった。
ハルカちゃんの澄んだ眼と、その問いかけが、ずっと忘れられなかったから。
僕は朝早く起きて、さっさと支度と着替えを済ませてしまってから、ハルカちゃんを迎えに行った。 ノアと会って万が一にも昨日の事を言われる前に、さっさとホテルを出てしまった方がいい。 僕はまだ寝ていたハルカちゃんを起こして(鍵をかけてなかった、不用心なことだ)、出かける前に一応、ノアの部屋の扉をノックして、行ってくる、そう伝えた。 どうせまだ寝てるだろうけど。 だけど意外なことに、部屋の中からちゃんと返事が返ってきた。 気をつけてね、そう短く返してきたノアの声は、どことなく元気が無いように見えた。 まったく、なんだかみんな悩み事があるような感じだ。 この呑気なトマトに思い悩むことなんてあるわけ無いのに。 ハルカちゃんもノアに対して、行ってきます、そう声をかけた。 一呼吸置いて、ヘリオ、ハルカちゃん、また後でね、ノアはそう返してきた。
また後でね。
僕もそう返した。 確かに、僕たち3人が言葉を交わすのは、これが最後になるはずだった。 ハルカちゃんはそのまま紗奈さんに引き渡す、それで終わり。
それでいいじゃないか。 ハルカちゃんも、今が幸せだと思うって言ってたし。
僕たちはノアの部屋の前から立ち去って、エレベーターに乗ってロビーに降りた。 そこにはもう、紗奈さんとアリアさんが待っていた。
ー…あ、やっと来た、ヘリオちゃん、ハルカちゃん、そろそろ行こう、何だかんだで、結構わたしも観て回るとこ考えてきたんだけど。 まだ今の時間は街が空いてるから、とりあえずさっさと橋と聖堂をやっつけて、それから水上バスで運河沿いの街を見て回って、その後で隣の島に渡ろう、もちろんボートで。 3つもあるから結構大変だけど。 どう、けっこう完璧なプランだと思うんだけど。 敗北を知りたいわ。
僕たちと初めて会う割には、けっこう強烈な奴だ。 年上のはずなんだけど、なんとなくノアに性格が似てる気がする。 大体観光に、勝利とか敗北とかあるんだろうか。 その考えは理解しかねるものがある。
アリアさんは相変わらず、喋ってるのか歌っているのかわからないリズムに乗せて僕たちに話しかけてきた。
ーグッモーニン、若人達、今日は王女様の代わりに紗奈さんが我等がパーティに加入してくれた。 後で新入りに乾杯しよう。
何をする気なのかよく分からない。 僕はあの吐き気を二度と味わいたくなかった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
ヘリオとハルカちゃんがホテルを出てから、もうずいぶん時間がたった気がする。 わたしはベッドの上に仰向けに寝転がって、ずっと昨日の夜のことを考えていた。
ー私の幸せって、なんなんですか？
ハルカちゃんは確かにそう言っていた。 自分の身体を他人に提供して、そしてあの子は何の見返りを得るんだろうか。 おそらく、何も得られないに違いない。 幸せの価値が、失ったものと得たものの差だけで決まるものなら、きっとハルカちゃんは不幸せな子なんだろう。 だけど、それはわたしの一方的な考え方なのかもしれない。 わたしは今になってようやく、自分があの子にどれだけ無責任なことを言っていたかに気付いて、なんだか自分が嫌になった。 そして、自信が持てなくなった。 わたしは、わが祖国の思想である清貧と所有こそが、世界が１つにまとまった時に必要になる考え方だと、それが皆が幸せになる唯一つの方法だと、信じて疑わなかった。
それはわたしの独り善がりな思い込みなのだろうか。
わたしは首を振って、ようやくベッドの上から起き上がった。 ダメ、シュラーフの王女であるわたしが、祖国の思想を信じられなくてどうするの。 現に、シュラーフのみんなは幸せだったじゃないか。 いつも学校へ行く途中と、あとたまに夜にも訪れていたアイスクリーム屋のおじさんが、嬉しそうな顔で生まれたばかりの娘のことを話していたのを思い出した。 おじさんは元気だろうか。 シュラーフを離れて数日しか経ってないはずなのに、わたしは懐かしくなった。 帰って落ち着いたら、娘さんを実際に見せてくれるといいんだけど。 ヘリオも誘って家に行ってみよう。 時計を見ると、もう10時半を回っていた。 ルーアお姉ちゃんーとても嫌だったけど、神童も一緒にーとの昼食は11時からだった。 そろそろ向かった方がいい。 わたしは服を整えて、変なシワや折り目が付いていないことを鏡の前で確認して、もう一度髪を梳いた。 靴を履いて、エレベーターに乗ってフロントに降りた。 そこにはもうすでに、昨夜、神童がカズヤ君と読んでいた男が待機していた。 一夜明けて改めて彼を見てみると、昨日感じたような凶暴な気配は少しだけ収まっていた。
ーおはようございます、ノア王女。 南条です、南条和哉。 神童総裁と、その御家族の警護を任されております。 お見知り置きを。 時間が迫っております、早速ですが向かいましょう、表に車を待たせております。
彼は賢い軍用犬のように、一部の無駄もない動きでドアを開け、わたしに先に出るよう軽く促した。 極端に音を立てない男だ。 この男と、それから昨日一緒にいた、何となく騒がしそうな女の人が兄妹とは、やっぱり世の中は不思議だ。ホテルのドアを出ると、すぐ横に黒塗りの大きな車が停まっていた。 どうぞ、彼はそう言って後部座席のドアをわたしのために開けてくれた。 わたしはそれに従って、車の中に乗り込んだ。 水槽を泳ぐ大きな熱帯魚のように、ほとんど音を立てずに車は道を走る。
ー神童総裁は急な連絡が入り、少し遅れるとのことです、ノア王女。 非礼をお許し下さい。 ルーア奥様は先に待っておられます。
それは何より。 (出来れば来ないでほしい)
車は運河に面した広めの道の横につけて停まった。
ー中心市街は車では入れません、申し訳ありませんが、ここで降りて、ほんの少しだけ歩いて頂くことになります。
別に構わない。 ありがとう。
わたしは車から降りて、その後ろから相変わらず殆ど物音を立てずに、彼がわたしの少し後ろからついてきた。 一応道中は護衛してくれるらしい。 主張せずに一歩下がって付き従い、余計な口を挟まないあたり、一応それなりの気遣いはしてくれているのかもしれない。
ー次の交差点を右に。 突き当たりのレストランで、ルーア様が待っておられます。
街の中の運河沿いに面した、少し奥まった袋小路にあるそのレストランは、過度に気取らず、どちらかというと庶民的な造りだった。 白い石垣に緑の苔がちょうど気持ち良いくらいに被さっており、中は年季の入った木製だった。 ずいぶん古いものらしいけど、決して古臭さからくる不潔さは感じさせず、寧ろ長年、この店がお客さんや料理人と共に歩んできた年月が染み込んで、身体にすっと馴染んでいくような心地よさだった。 開放的な店内は、運河に面した箇所が外に面したテラスになっており、そのテーブルの１つに、わたしのお姉ちゃんが座っていた。
わたしとお姉ちゃんの目があって、お姉ちゃんが口を開く前に、わたしはもう駆け出して、次の瞬間にはお姉ちゃんを抱きしめてその胸に顔を埋めた。
ー……ノア、久しぶりね。 元気にしてた？
お姉ちゃんが声を掛けてくれても、わたしは暫くそのまま動かなかった。 やっと、やっと逢えたんだ、ずっとこうしていたい。 お姉ちゃんは夢の中で観る姿と、何も変わってなかった。 夢の中では、追い付こうとどれだけ走っても、すぐにわたしの掌から零れ落ちてしまうのに、今はしっかり、わたしの腕の中にお姉ちゃんがいる。
……うん、元気だった。 お姉ちゃんは、全然変わってないね。
わたしはようやく、それだけ何とか答えた。
ー若く見られるのよ。 …ちゃんと顔を見せて、ノア。 7年振りだもの、妹の成長を、もう少ししっかりお姉ちゃんに見せて。
わたしはそう言われて漸く顔を上げて、少し涙に潤んだ目で、ルーアお姉ちゃんの顔を見つめた。 良かった、本当に何も変わってない。 少しでも触れたら壊れてしまいそうなほど繊細な造りの顔立ちで、わたしより長い髪の毛を綺麗に梳いて背中に流している。 わたしがお姉ちゃんに似ているところといえば、その深い翆色の眼くらいだ。 お姉ちゃんは相変わらず綺麗だね、わたしは笑いながら軽く呟いた。
ーありがとう、よく言われるわ。
お姉ちゃんも笑いながらそう冗談を返して、わたしたちは随分久しぶりに、2人だけで笑いあった。
わたしたちはしばらくの間、小さな丸いテーブル越しに向かい合って、色々な話をした。 その大半はわたしが1人でいい気になって喋っていて、お姉ちゃんは時々楽しそうに笑ったり、相槌や軽い質問をしたりするだけで、ずっとわたしの話の聞き役になってくれていた。 ヘリオのこと、ハルカちゃんのこと、学校のこと、神受の儀式のこと、アリアさんのこと、ヴェルマーレで食べた死ぬほど高い鱸のこと、アリアさんが好きなロック・バンドのこと……(そのバンドはお姉ちゃんも知っていた。 随分古いのに、どうしてこんなに有名なんだろう？)
わたしが神受の儀式をうまくやってる事を話す時に、お姉ちゃんはふと物憂げな顔になって、少し真面目な目でわたしを見つめた。
ー……ノア、ごめんね。 貴方に王女としての役目を全部預けてしまって。 シュラーフは順調に成長してるみたいだけど、その分、貴方やお父様にかかる負担も大きいでしょう。
ううん、全然大したことないよ。 祖国のために、わたしが出来る事なら少しでも頑張らなきゃ、同志達に申し訳がないもの。
ー…ノア、大きくなったわね。 本当にごめんなさい、責任だけ押し付けるだけ押し付けて、わたしは皇国で豪華な暮らしを与えられている、自分で自分が嫌になるわ。 でも、貴方がちゃんと祖国を導いてくれているのはとても嬉しい。 それはもう、今のわたしには出来ないことだから。
………お姉ちゃんは、やっぱり…………
ー………それ以上言わないで、ノア。 わたしは今では皇国の最高権力者の妻。 皮肉なものね、わが祖国の王女が、世界で最も憎むべき悪の枢軸の中心にいるなんて。 裏切り者もいいところよ、ここまでくると。
そう言って、お姉ちゃんは自嘲気味に少し笑った。 わたしは本当に、心の底から、あの神童が憎くて仕方がなかった。 あいつは、政治と国交という名の楔でお姉ちゃんを皇国に縛り付けている。 その上、ハルカまで、自分の国の商売の道具として扱って。 どこまで奪い取れば気が済むのだろう、あの悪魔は。
お姉ちゃんは裏切ってなんかない、今でもシュラーフの王女よ、同志達みんなもそう思ってる、わたしがそれを証明してみせる。
ー…本当に、あの泣き虫ノアちゃんとは思えないわね。
もう、昔の話はやめてよ、わたしはそう言って少し膨れてみせて、それから、わたしたちはまた笑いあった。
わたしとお姉ちゃんはひとしきり話終わった後で、ようやくメニューを見ながら献立を考え始めた。 神童の奴はもう無視でいいだろう。 勝手に頼みたいものを頼んでくれたらいい。 どうせわたしたちとは好みが合わないんだろうから。 わたしたちは相談を重ねながら、前菜に烏賊と帆立と鰯の盛り合わせを取って、メインにわたしは小エビと香草ののパスタを、お姉ちゃんはオレンジ風味の白身魚のソテーを頼むことにした。 お酒はわたしは相変わらず赤ワインを頼もうとしたけど、お姉ちゃんは、シーフードには辛めの白の方が合うのよ、そうアドバイスしてくれて、白のデキャンタを頼むことにした。 お姉ちゃんは食事の前に、ワインとは別にビールを一本だけ頼んで、わたしはビールの代わりに、果物を入れて白ワインとソーダで割った爽やかなカクテルを取った。 それぞれの飲み物が運ばれてきて、わたしたちは軽く乾杯を交わしてお互いに一口飲んだ。 前菜が運ばれてくるまでもう少しお姉ちゃんと話そうと思って口を開いて、その時、わたしはお姉ちゃんの目が、わたしとは違う方向に向いているのに気付いた。 わたしも同じ方向を見た。
あの悪魔が、神童総裁が、昨日の晩と同じ穏やかな蔑視の笑みを浮かべながら、店の入り口に立っていた。
ー遅れてすまない。 先に始めてくれているようで何より。
………ルーア、少しだけいいかな。 ノア君、済まない、すぐ終わるから少しだけ待っていてくれないか。 足りないようなら飲み物をお代わりしておいてくれ。
生憎足りている。 お酒はそんなに飲まないつもりだ。
お姉ちゃんは一瞬わたしと目を合わせて、ごめんね、小さく呟いて、神童の奴の所に歩いて行った。 わたしは出来る限り目を逸らしていた。 お姉ちゃんと、あの悪魔が話してるところなんて、本当に見たくもない。 少しだけと言ってた割には、割と長い話だった。 その間に前菜まで運ばれてきた。 それからようやく、お姉ちゃんと神童が戻ってきて、極めて遺憾なことに、神童もテーブルに着いた。
ー遅くなって済まない。 あ、ウェイター、僕にもビールを。 シーフードか、いいねえ、鰯は特に大好きだ。 鰯を食べると頭にいいらしいからね。
…貴方の分のメインはまだ頼んでないけど。
わたしが出来る限り冷たく言い放っても、神童は全く動じる様子もなく、あ、そうか、それじゃ、このオレンジ風味のシーフードと香草のマリネにするか、そう言って頼んでいた。 本当に気に食わない奴だ。 そもそもオレンジとシーフードなんて合うんだろうか。 やっぱり好みが違うようだ、こいつとは相入れない。 お姉ちゃんも、神童と話してからなんだか浮かない顔をしている。 本当に、こいつなんて来なければ良かったのに。
わたしたちは暫く無言で前菜の烏賊や鰯をつついて、飲み物を飲んで、それから、ルーアお姉ちゃんが会話の口火を切った。
ー………ノア。 ごめんなさいね、ちょっと重い雰囲気になっちゃって。 本当は、こんな話をするために来たわけじゃ無かったんだけど。
……どうしたの、お姉ちゃん、いきなり。
わたしの問いかけに答えたのは、忌わしい事に神童の方だった。
ー………ノア君、私もついさっき聞いたばかりだ。 楽しい食事中に、こんな話をすることを許して欲しい。 単刀直入に結論から言おう、君の祖国、シュラーフで暴動が発生した。 自由衛兵と国防軍が市街への侵入だけは何とか防いでいるようだが、すでに一触触発の状態だ、予断を許さない。
暴動？ シュラーフで？
ルーアお姉ちゃんが、神童の言葉を引き継いだ。
ー………わたしも突然のことで信じられない、けど出所は信頼できる筋よ。 反乱勢力は今のところ大したことのない規模、国防軍には敵わない。 ノア貴方もうっすら知ってるでしょう、シュラーフのも、清貧と所有の思想に反した、ごく一部の独占欲と貪欲に呑まれた人達が、残念だけど少しだけいることを。 反乱の主要因はその人達よ。
わたしは言葉を飲んだ。 何も話せなかった。 祖国の中で、みんなが平和に安らかに暮らしている中で、そんな人達がいるなんて認めたくなかった。
ーノア君、残念ながら、これは事実だ。 暴動はシュラーフ国軍と自由衛兵によって直ぐに鎮圧されるレベルの規模だ。 君はここオドペレイトから動くべきじゃない、お父様に任せておきなさい。
…鎮圧？ それで、鎮圧された人達は、どうなるの？
神童は珍しく、少し苛立ったような顔でわたしの問いに答えた。
ー………ノア君、君が私の事を嫌っているのは知っている。 それくらいはさすがに気付く。 私は事実を伝えたまでだ、事実を伝えないのは公平ではないから。 そして君はここから動かないで事態を静観するべきだ。 いいかい、君の祖国は今、とても微妙な状況にある、判断を誤ったらまずい事になる。 君の質問に答えると、残念ながらー幸いなことかもしれないがー反乱勢力の武装は国防軍と比べてとても貧弱だ、確かに死傷者は出る、だけど簡単に鎮圧できるレベルだ。 大事にはならない。 もう一度言う、君はここで事態を静観するべきーーーー
………祖国の同志よ。 思想には反していたとしても。 殺し合いなんてさせない。
ルーアお姉ちゃんもわたしに言い聞かせるように話した。
ーノア、やめなさい、変な事を考えるのは。 貴方が行ってなんとかなる問題とは限らないわ。 この人の言う通り、お父様に任せるのが懸命よ。
嘘だ。 お姉ちゃんなら、必ず、すぐにでも向かうはずだ。 暴動に走った人達も、国防軍も、自由衛兵も、みんな祖国の同志よ。 ……もし、万が一、辛い命令を下さなきゃいけないにしても、わたしはその責任から逃げちゃいけない。
神童も、ルーアお姉ちゃんも、何も言わなかった。
神童はビールを一口だけ飲んで、その後で小さく、この分からず屋が、そう呟いた。 お姉ちゃんは何も言わなかった。 彼はそのまま席を立った。 君とはやっぱり相容れない、そう呟きながら。
ー……済まないが、失礼させてもらう。
彼はそう言って、振り返らずに出口に歩いて行った。
そして、帰り際に小さく、どうやって行くつもりだ、そう呟いた。
……確かに。 またアリアさんに車で………
ー関係無い人を巻き込むな。 行くなら1人で勝手に行け。
……皇国の飛空挺を用意しておく。 今夜シュラーフに向けて出発、明日朝には着く。 それを逃したら、行かないものと判断する。 申し訳ないが、皇国としてはそれ以上の事には関わらない。 自国の事は、自分で判断してくれ。
それだけ言って、彼は出て行った。
わたしはしばらく、ルーアお姉ちゃんと向き合った。
お姉ちゃんは、しばらくしてわたしの決心が変わらない事を認めて諦めたようで、そらから小さく話した。
ー……………ノア。 ごめんなさい。 辛い話を、辛い役目を、貴方にだけ押し付けてしまって。 本当はわたしが今すぐにでも行きたい。 だけど、それは出来ない。 貴方に任せるしか無いの。 お願い、出来る限り被害が出ないように反乱を収束させて。
……貴方が夫と相容れないのは、分かってる。 だけど、あの人はあの人なりに、貴方の無事を考えてくれているの。 もちろんそれはわたしも同じ。 いい、ノア、絶対に、無事に帰って来なさい。 もしも行くつもりなら。 それから、ちゃんとヘリオとも相談しなさい。 今の貴方を、一番分かってるのは、きっとあの子だから。
わたしは強く頷いた。 でも、ヘリオを、危険な事に巻き込みたく無い。
まず、ヘリオと話さなきゃ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
僕とハルカは、アリアさんと紗奈さんと一緒に、オドペレイトの様々な島を巡った。 当然オドペレイト市街も。 朝のうちは人が少なくて観光しやすいのよ、やっぱりこういう所では、近くに停まって朝から行動できる地の利を得なきゃ。 貴方達幸運だったわね。 紗奈さんは自分のことのように偉そうにそんな事を話していたが、確かにそれは彼女の言う通りかもしれなかった。 ガラス細工で有名な島に着いたのはもう昼くらいだったけど、既に観光客で溢れかえっていた。 全く、みんな一斉に押し寄せすぎなのだ。 少しくらい譲り合えないものなのだろうか。
幸い、ハルカちゃんも楽しそうだったし、僕もそんなに悪い気分じゃなかった。 一番楽しそうに浮かれていたのは紗奈さんとアリアさんのコンビだったけど。 この2人は、謎な事にとても気が合うようだった。 楽しそうに2人で歌っていたかと思ったら、通りに面した店でビールの瓶を買って勝手に2人で乾杯して歩きながら飲み交わして、挙げ句の果てには酔っ払って橋の上から観光客を煽り出す始末だ。
ー観光客の皆様方、来ましたよ、紗奈とアリアさんです、皆様こんな炎天下でえっちらおっちら歩いてご苦労様です、もう会社で働いてるのか観光してるのかどうか分からないですね、なにせ楽しい休日ですから！
ー観光客のみなさん、せっかくのご縁です、私達からプレゼントに一曲。
……We are the champions, my friends, And we’ll keep on fighting ‘til the end…
We are the champions. We are the champions.
No time for losers
‘Cause we are the championsーーーー
ーーーーー「「of the worldーーーーーーーーー」」
…本当に恥ずかしいから、勘弁してほしい。 酔っ払いどもが。
名曲を酒に酔った声で汚さないでほしい。
僕とハルカちゃんは、こいつらを橋の上から引き剥がすのにけっこう苦労した。
大体こいつは、僕たちの護衛も兼ねてるんじゃ無いのか？
僕たちはそれから少し遅めの昼食を取るために、オドペレイト中心街に戻って適当なレストランに入った。 酔っ払いどもが1人一本ずつワインの瓶を頼んで、お互いに注ぎあって乾杯し合うのを呆れて眺めながら、僕とハルカちゃんは相談しあってメニューを決めた。 ハルカちゃんはシンプルなトマトとチーズだけのピッツァを頼んで、僕はそれにバジルとシーフードを加えて頼んだ。それから、 2人でワインを一杯ずつ頼んだ。 この酔っ払いどもの乾杯に付き合ってたら、とてもじゃ無いけど身が持たない。 本当に勘弁してほしい。 そんな事を考えてたら、紗奈さんがすっかり酔っ払った声で、僕とハルカに声をかけてきた。
ーヘリオちゃん、ハルカちゃん、楽しんでる、楽しんでるよね？ 良かった、君たちが楽しんでくれてなかったら、私がお兄ちゃんと神童さんに怒られちゃいますから。 あ、デザートはここでは頼まないでください、多分近くに美味しいジェラートを売ってる店があるはずですから。 私はもう決めてます、バニラと、ナッツと、チョコチップにします。 みんなは？
僕はチョコミントにすると答えて、ハルカちゃんは、少し迷ってから、えっと、あの、バニラ…がいいです、すみません、ごめんなさい。 何故か謝って、アリアさんはもちろんラムレーズン一択、ラム強めで、そう答えた。
ラム強め？ そんなオプション選べるの？
ーもちろん可能さ。 お酒の味がちゃんとしなきゃね。 アイスなんだから。
意味が分からない。 これだから酔っ払いは。
ー………ねえ、ヘリオちゃんもハルカちゃんも、案外結構親しみやすいですね。 今度はノア王女様も連れてきましょう、きっと楽しいですよ。 近くに行ってないとこがまだいっぱいあるんです、古代の演劇？か何かの、そう、ジュリエットでしたっけ…の家とか……。 ちょっと遠いんですけどね。 そこ、ノアさんも一緒に行きましょう。
……本当に貴方は賑やかですね。 ノアと気が合うかも。
ーもちろん賑やかですよ！ これからも盛り上げていきます！
……まあ、僕も少し気楽になった。 気がする。
それからしばらく楽しんで、僕は予定通り、少し用事があるから、そう適当に言ってホテルに一旦戻った。 ここまでは予定通り。 ハルカちゃんを紗奈さんに預けてーあの酔っ払いで大丈夫かどうかはともかくー僕は、おそらく部屋に戻ってるはずの、ノアに会いに行った。
ノアの部屋を軽くノックして中に入った。
僕は、あくまで気取られないよう、慎重に言い回しを選ぶ必要があった。
このバカの深刻そうな顔に、気付かないフリをして。
ノア、戻ってて良かった。 時間が空いてたら、僕たちと一緒に市街を歩こう、ハルカちゃんもいるし、あと、酔っ払いが2人ついてくるけど………
僕は努めて上機嫌に、浮かれたように言うように努めた。 それから口を噤んだ。 まるで、自分が今しがた、ノアの真剣な悩みに気付いたとでも言わんばかりに。
ー………ヘリオ。 ごめん、少しだけ、話を聞いてくれない。
来たぞ。
ようやく、この無能な王女に、報いを受けてもらう時が。
僕は、ノアが深刻な顔で話すのを聞いていた。 シュラーフで暴動が起こったらしいの。 このままでは、たくさんの人が死ぬかもしれない。 わたしは戻らなきゃいけない、犠牲者を少しでも減らしたい。 それに、もし…もし、辛い決断を下さなきゃいけないにしても、それは、わたしが責任を取らなきゃいけない事だと思うから。
要するにそんな事を、ノアは辛そうに、時折泣きそうになりながら話していた。
この馬鹿が。 無知が。 無能が。 お前と、あの豚王がその元凶なんだ。
僕は黙って話を聞いていて、それから、行くな、そう呟いた。
危険だ。やめろ、ノア。 君があえてそこに行く必要はーーー
ノアはじっと僕を見つめた。 わかってる、でも、彼女は小さく呟いた。
………ヘリオは、ここにいて。 あなたを巻き込みたくーーー
僕は小さく呟いた。 バカ。 そんな事、出来るわけないだろ。
ノアは少し安心したように、ありがとう、そう小さく言って、僕の手を握り締めた。 本心から、僕を信頼するとでも言わんばかりに。 僕の顔を見つめて、それから少しだけ目を伏せて。 それからもう一度、ありがとう、ヘリオ。 小さく呟いた。
ー………ありがとう、一緒にいてくれて。
僕はその時、唐突に、全部をノアに打ち明けたいと思った。
君は、騙されてるんだ。 全部総裁とルーア様の計画通りだ、反乱軍は君の創造もつかないほどに膨れ上がってる、君は死ぬために向かうようなものだ……。 全部、打ち明けてしまいたい感情に、一瞬だけ襲われた。 それほどに、ノアの眼は澄んでいて、何の迷いも疑いもない、ただ僕に対する感謝だけが、溢れていた。
僕は、この子を裏切らなきゃいけない。 それは、単純に、とても悪いことのように思えた。 僕は自分の衝動を抑えるために、少しだけ唇を噛んだ。
僕は、何も答えずに頷いた。
ー…………シュラーフに戻ろう、ヘリオ。
ノアがそう言って、それから僕と彼女は、出発の支度を慌ただしく整えた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
本当につまんない。 お父さんもお母さんも、結局わたしを放っておいて、2人でお昼ご飯なんだって。 そんなことある？ わたしはホテルの部屋の広いベッドの中で、どうしようもなく怒っていた。 もう、お父さんの言うことなんて知らない。 禁煙も結局失敗してるし。 総裁って、そんなにストレスのたまる仕事なのかな？ 世の中はまだまだ不思議だ。ルーアお母さんも、ルカ、いい子にしててね、それだけ言って、今日はわたしを放置していた。 せっかく一緒に遠い所まで来たのに。
あまりにもつまらなかったので、わたしはお父さんとお母さんの言いつけを破って、少しホテルの外に出てみることにした。いつまでも良い子のままでいるもんか。 どうせお父さんもお母さんも、2人で楽しくデートしてるんだから…。
どうせフロントで止められる気がするから、窓から……………
………どうしよう、けっこう怖い。 下に向かって伸びてる配管のあたりから外に降りられそうだけど。 わたしは靴を脱いで裸足になって、脱いだ靴を片手で持って、慎重に木登りの要領で配管を伝って下に降りた。
なんとか石畳の上に降りて、わたしはあらためて上を眺めた。 あんなに高い所から降りてきたなんて、わたしも案外よくやったものだ。
わたしは脱いでいた靴を履いて、辺りを見回した。
やばい、玄関の方に紗奈さんがいる。 わたしと同い年くらいの女の子と、あと大人の女の人と一緒に。 わたしは慌てて、通りの壁の陰に隠れた。
少し様子を伺うために、顔を壁の横から少しだけ出した。
その女の子は、わたしとよく似たーーというより、全く同じようなーー顔だった。
(第6話おわり)
(引用)
We Are the Champions (Mercury)…Queen
本引用は、商用を目的とするものではありません。