※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。 未成年の飲酒描写が出てきますが、この世界では13歳からワインは合法になります。
※非常にショッキングな描写がありますので、苦手な人は飛ばしてください
※時系列が入り乱れるので、補足をつけてます
(第7話)
[25日 14:27 オドペレイト市街]
紗奈さんと一緒にホテルの玄関口で待っているその子は、本当に私と同じ顔だった。 髪の毛が私より少し短めな気がするけど、違いらしい違いはそのくらいだった。 もちろん着てる服は違うけど、その辺を少し揃えるだけで、もう見分けがつかなくなってしまいそうだった。 それはなんだか怖い事だった。 私は一人っ子だし、実は他に兄弟姉妹がいましたなんて、お父さんからもお母さんからも、一度も聞いたことがなかったから。 なんとかしてあの子が誰なのかを知りたい。 紗奈さんに私が勝手に外に出てる事がバレたらまずい。 けど、紗奈さんは上機嫌でーというより酔っ払っていた。 この人は普段はけっこう真面目だけど飲むとすぐこうなる。 隣にいる知らない女の人も相当酔っ払って、意味のわからない歌を呟いてる。 昔の歌だ。 そういえば、お父さんもこんな感じの歌をよく聴いていた。 そんなに有名なの？
とにかく、この酔っ払いどもをどうにかして回避しなければ。 幸い、少し待ってると、紗奈さんの方がずいぶん気持ち悪そうになってトイレに駆け出していった。 大人の女の人も、ちょっと待っててね、これ結構大事かもしれないから、急性アル中ってほんと怖いからね、地獄の苦しみ、地獄へ道連れ……。 そんな事を歌うように呟いて紗奈さんの後を追っていった。 その子だけが、ぽつんと1人残された。
私は思い切って駆け出して、私とそっくりな女の子の手を取って、出来るだけ急いでホテルを後にした。 私に手を引かれてる女の子の方は当然あっけにとられて、抵抗も何もせず私に従ってくれた。 私達はしばらく走って、運河沿いの大きな寺院がある広場まで走り抜けた。 相変わらず人多すぎ。 だけど、これだけ山のように観光客ばかりだと、逆に私達も目立たないかもしれない。 多分。 私はまだ事態が全く飲み込めてなさそうな女の子と、初めて目を合わせた。 本当に私とそっくり、鏡でも見てるみたい。 とりあえず自己紹介から。
ごめんね、いきなり。 ルカ。 私の名前。 神童ルカよ。 ねえ貴方、私と本当にそっくりだけど、実は私達双子とか？ ……そんなわけないか。
女の子の方も、自分とあまりにそっくりな私の姿を見て唖然としていたけど、とりあえず私の言葉に応えてくれた。
ー………ハルカ、です。 その、多分ですけど、双子とは違うんじゃ無いかと……
わかってるって、冗談よ冗談。 でもあんまり似てるから、多分偶然じゃなくて運命ねこれは。 運命の出会い。 ちょうどいいわ、お父さんもお母さんも私を放っておきっぱなしで退屈だったの、ねえ貴方、私のちょっとしたお散歩に付き合ってくれない？ ちょっとしたお散歩、ちょっとした冒険。
ー…………は？ え、いや、だけど私は今晩には皇国に向けて出発しないとーーー
だから、「ちょっとだけ」って言ってるでしょ。 日が暮れる前にはちゃんとホテルに戻るから、ね、行きましょう、途中で、貴方の事をもう少し教えて、ハルカちゃん。 名前まで私と一文字違いなんだ。 凄い偶然。
私は特にハルカちゃんの返事を待たずに、彼女の手を取って歩き出した。 デートの時はちょっと強引気味にエスコートする方が成功するんだ、多分ね、お父さんはそんな事を言っていた気がする。 お母さんはそれを聞いて、貴方はちょっとサイコパス気味なんじゃ無いかしら、そう冗談とも真面目ともつかない事を言っていたっけ。
とにかく、私はハルカちゃんの事をもっと知りたかった。
自分の鏡なんだから。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[25日 19:30 オドペレイト郊外 飛空挺離陸場]
結局、荷物を纏めて準備して夕方に出発したのに、辺りはもうすっかり夜になっていた。 ノアは最後にハルカちゃんに会いたそうにしていたけど、僕がやんわり止めた。 余計な情が芽生えて、ノアのシュラーフ行きを遅らせるかもしれないし、それに個人的にも、ハルカちゃんを巻き込みたくなかった。 僕には僕の、ノアには王女としての、そしてハルカちゃんにはハルカちゃんの人生があるのだ。 それは結局のところ、決して交わることの無い線のようなものだった。 短い旅の間、偶々一緒に過ごしただけ。 それだけの関係だった。 それでおしまい。
僕たちは飛空挺から伸びる銀色のタラップを登り、その中に入った。 飛空挺の製造技術は皇国だけが有する。 昔の時代は、こんなものが様々な国を飛び越えて毎日毎日飛び回ってたらしい。 考えてみると恐ろしい話だ。 衝突とかしないのだろうか。 ホテルを出てから、僕とノアは殆ど話らしい話をしなかった。 無能なトマトなりに思い悩んでいるのかもしれない。 僕はホテルの部屋で一瞬感じた衝動から出来るだけ眼を背けて、思い悩まないようにと努めた。 全て予定通りに進んでいるのだ。 これから1日以内、早ければ今夜中にも、シュラーフは滅びる。 あの豚王の時代は終わる、全てが変わる、あの国の民主化が始まる。 狂った王が支配するシュラーフが、ようやく眠りから覚める時がすぐそこに来ているのだ。 それが終わって、ようやく僕は、自分の幸せを取り戻せる。 そのためには、この無知なトマトに同情している余地は無いのだ。 僕はそう自分に言い聞かせた。
鈍い音を立てて飛空挺が離陸する。 少し体が浮くような、経験したことの無い感覚が僕を襲った。 大体僕は高いところが苦手なのだ。 ノアは全然平気そうにしてるけど。 バカは高いところが好きなだけだろう。 僕の体は微かに震えていた。 それに気付いたのか、隣に座ってたノアがそっと僕の膝に手を置いてくれた。 柔らかくて温かな手だった。 何も言わなかったけど、僕に対する信頼と感謝が伝わってきて、それが僕の心を鋭く抉った。 違う。 僕は叫びたかった。 違うんだ、お願いだから、そんな眼をするのはやめてくれ、僕は君を見捨てなくちゃいけないんだ、裏切らなきゃいけないんだ、僕の決心を鈍らせないでくれ……。
飛空挺はいつのまにか上昇をやめて、安定飛行に入っていた。
ベルトを外しても構いません、その機内放送を聴いて、ようやく僕は身体を締め付けていたベルトを緩めることが出来た。 でもノアは、ずっと僕の膝の上に手を置いたままだった。 彼女は一言も話さず、ずっとそうしていた。 本当に、やめてほしい。 これ以上、僕の罪悪感を、膨れ上がらせないでほしい。
そうだ。 僕は小さく呟いて、自分の鞄を探って、小さな平べったい包みを取り出した。 それから、それをノアに渡した。 彼女はそうしてようやく、僕の膝から優しい手をどけてくれた。 このサイズのやつを探すのに随分苦労した甲斐があった。 僕はノアが何か言おうとするのを制して、自分の方から話しかけた。
これをずっと、大事に持っていて。 君が本当に、本当に困った時とか、悩んだ時とか、辛い時ー死んでしまいたいほど辛い時にだけ、これを開けて。 上着の内ポケットにでも入れて。 これを絶対に離さないこと。 それから、普段は開けないこと。 ノア、約束して、君が本当に辛い時にしか、これを開けないって。
彼女は僕をじっと見つめた。 あの澄んだ深い翠の眼で。
その後でコクリと頷いてくれた。
良かった。
列車や車でトロトロ地を這って移動すると、オドペレイトとシュラーフは随分離れているように思えたけど、さすがに皇国の飛空挺は科学技術の結晶だ。
シュラーフはもうすぐそこに迫っていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[25日 22:47 シュラーフ市街]
久し振りの祖国からは、街の灯りが消え、全てが眠りに包まれていた。 わたしとヘリオは市街の端に設けられた簡易的な飛空挺離陸場(というより、ただの平原だったけど)から車で移動して、市街の中に戻ってきた。 灯りは殆どなく、市街からは人の気配というものが感じられない。 そして市街には、まぎれもない戦乱の痕跡が残されていた。 倒された車、割れたガラスが道のいたるところに散乱している、月明かりに照らされた民家の壁には銃痕がいくつも残っている。 あれだけの荘厳さを誇ったオルフェン寺院も、ステンドグラスが罅割れ、一部の壁が崩れかかっている。 聞いていたよりもシュラーフの現状は酷いようだ。 わたしは傷ついた市街を見て、こみ上げる悲しみと涙を隠せなかった。 どうして、どうしてこんなことに。 みんな元は、シュラーフに生きる同志なのに。 何故、どうして、こんなことに…。
王宮に向かって小走りに歩いていると、ヘリオが急に、ノア、見るな、そう緊張した声で小さくわたしに話しかけてきたけど、もうその塊はわたしの眼の中で認識された後だった。 それは道路の石畳の端に棄てられた死骸だった。 自由衛兵の制服を着ているけど、それは人というより、ミンチにされた肉のような塊だった。 グチャグチャに潰れたそれに、蟲と鴉が何匹かたかっている。 鴉が肉をつついて、時折嬉しそうにカア、カア、カアアアア、そう鳴き叫んでいる。 わたしは石畳の上に膝をついて、頭を両手で抱えて吐いた。 ヘリオがわたしの肩に手をかけてくれて、ノア、立ち止まらないで、行かなきゃ。 そう話しかけてくれて、脚に力の入らないわたしの肩を支えるように立ち上がらせてくれた。 わたしの身体はどうしようもなく震えていた。 王宮に近づくにつれて、震えはどんどん酷くなって、それから、わたしの視界に入る死体の数も増えてきた。 皆それぞれの服装をしている。 自由衛兵、国軍、それから、エプロンや作業服に身を包んだ、街の人たちも。 彼ら、彼女らは、今はもう人ではなく、肉の塊に変わっていた。 どうして。 どうして、こんな。 わたしの知っているシュラーフは、こんな、こんな地獄じゃ、無かったはずなのに。
わたしとヘリオはなんとか王宮まで辿り着いて、その門を開いた。 少なくとも王宮は無事のようだ。 見慣れた廊下を進んでエントランスに向かうと、そこに何人かの自由衛兵さんと、その総監さんが待っていた。
ーノア様。 ヘリオ様。 御無事でしたか。 皇国の総裁から連絡がありました、お2人がシュラーフに向かっておられると。 ノア様、着かれたばかりで、このようなお話をする事をお許し下さい。 国防軍と自由衛兵たちはこの王宮に集結しています。 お父様ー国王陛下も御無事ですが、陛下は今、床に伏せっておられます。
父が？ 父に、何かあったの？
ー……つい2日ほど前、お食事中に倒れられました。 意識はまだお戻りになりません。 ノア様、今この場で、国軍と自由衛兵ー私どもーに命令を下せる権限を持つのは、貴方しかいません、お願いです、どうか、どうか我々に出撃の命を。我々に、祖国シュラーフを守る命令をお与え下さい。 不意打ちに散った同志達の無念を、どうか晴らす機会をお与え下さい。 敵の兵力は微小ですが、奴らは壁の向こうに隠れています、今、今しか無いのです、ノア様、これ以上被害が拡大する前に……。
父が、倒れた。
わたしは思わず、ヘリオの方を振り向いた。
ー……ノア、落ち着いて。 総監の言うことが正しい。 君にとってはとても辛い決断だし、僕も嫌だ、だけど市街を見ただろう、今、反乱因子を鎮圧しなければ、結果はもっと酷いことになる。 そして今、この場でそれが出来る権限を持っているのは、君しかいない。
………だけど、反乱を起こした人達も、シュラーフの同志………
ーノア。 そうだ、その通りだよ。 だけど彼等は…祖国を裏切ったんだ。 皆を助ける事なんて誰にも出来ない。 今、君にできる事を、君がしなければならない事を、考えるんだ。
…………わたしに、できることを…………
わたしは、総監さんと、それから国軍の司令長官を呼んだ。
「……………総監、長官。 我々は戦わなければなりません。 辛い事です。 わたしにとっても、皆にとっても。 けれど、シュラーフを、平和なシュラーフを取り戻さなくては。」
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[26日 0:45 シュラーフ国王自室]
ー……総監、いつまで私をここに監禁するつもりだ。
ー陛下。 もうすぐです。 反乱は直ぐに鎮圧されます。 ノア王女様のお陰でね。
ー………ノア？ 何故、どうしてあの子がここにいる？ それに、ノアのお陰だと、貴様まさか………
ーええ、ええ、陛下の御慧眼には全く恐れ入ります、御察しの通りです、ノア王女様から、我が自由衛兵たちと国軍に対して出撃の命が下りました。 もう壁の向こうに展開した部隊が動いています。 当然、直ぐに全員殺されるでしょうがね。 反乱軍の数は多い、そして皇国製の最新鋭の装備で武装している、恐らくは、その中に皇国の手練れもいるでしょう、指揮は彼らが執ります。 我々の勝ち目は万に一つもありません。 陛下、これまで御苦労様です。 我々と反乱軍の衝突をなんとか抑えるのにどれだけ御苦心されていたか、察するに思い余ります。
……ですがそれも、1人の馬鹿のせいで、全てがご破算ですがね。
ー……貴様、私と、ノアを……売るつもりか……
ーええ、ええ、その通り、陛下と馬鹿王女の命2つで、私は反乱軍にも、皇国の総裁にも恩を売れる、取り入れるのです。 反乱軍も、皇国も、これで心置きなく攻撃に移れる。 何せ、人でなしの王女様から、哀れな人民を守る為ですからね。 大義名分というやつです。
さて、お世話になりました。 陛下。 王女様も直ぐに貴方の後を追うことになるでしょう、あの世で宜しくやって下さい。 傷を舐めあって、王家の血を濃くするために娘とのセックスにでも励めばよろしいでしょう、ああ、それでは近親相姦になるでしょうか。 無礼をお許し下さい。
……それでは陛下。 先に、あの世で娘さんをお待ち下さい。
彼はそれだけ言ってしまうと、王に向けて銃を何発か撃った。
それだけで、権威を誇った王は、もうこの世の人では無くなっていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[26日 6:24 シュラーフ王宮]
何故………。 どうして、こんなことに………………。
王宮は包囲されていた。 窓から見る街は至る所から火の手が上がっている。ノア様、早くお逃げ下さい、もうすぐ王宮の中にも敵が………戻ってきた国軍の兵士さんの1人は、そう呟きながら息絶えた。 彼の腹部から流れ出た血が、わたしの部屋に大きな水溜りを作っていた。 わたしはもう、何も考えられなくなっていた。 どうして。 反乱軍の兵力は微小なはずじゃなかったの、それが何故、今こんなことに……
ヘリオがわたしの手を引っ張っている。 わたし達は廊下を駆けている。 わたしはふと、あのよく見ていた夢を思い出した。 これも、わたしの夢なのだろうか。
どうか、そうであってほしい。
そう願うことしか、今のわたしには出来なかった。
王宮の門扉の前に、総監さんと、何人かの自由衛兵さんたちが立っている。 良かった、まだ無事な人たちが……………
ー来い、クズ王女。
総監さんがわたしの髪の毛を無理に引っ張って門の外に出させようとする。 何をするの、やめて、やめなさい、今外には………
ーそうです、反乱軍に囲まれています。 さあ、無能なお前達王族も、そろそろ自分達がやってきたことの報いを受ける時が来たようですよ。
待って、やめて、報いって何なの、わたしとお父さんが何かしたの、わたし達はシュラーフのために一生懸命、ずっとーーー
ーもう喋るな、ゴミ。
総監の太い腕がわたしのお腹にめり込んで、わたしは蹲って咳き込んだ。 総監がまたわたしの髪の毛を引っ張って立たせる、やめて、お願いです、やめてください、助けて、ヘリオ、助けて、こんなことやめさせて………
その時、わたしはようやくヘリオの顔を見ることができた。
ヘリオはただ、わたしを見つめていた。
それから小さく呟いた。
「………さようなら。 ノア。」
わたしの目の前で、門が開けられた。
王宮の外に、溢れんばかりの人がいる。
彼ら、彼女らの眼は、煮えたぎった憎悪を湛えていた。 そしてその全てが、今、わたしに向けられている。
ー王女だ、王女が出てきたぞ、捕まえろ、王族のクズの末裔だ、思い知らせてやれ、我等の痛みを、こいつの告発で死んでいった同志たちの痛みを、この豚に思い知らせてやれ、お前達の無知な国策で、どれだけの命が消えていったか、どれだけの資源を搾取される羽目になったか、幼い子も皆死んでいった、壁の向こうではお前より遥かに小さい女の子が股を開いて客を取って生きていたんだぞ、腐った肉とパンで命を繋いでいたんだぞ、こいつに全てを思い知らせてやれ。
わたしは後ずさった。 何、これは何、どうして、どうしてこんなに人が、やめて、みんなシュラーフの同志でしょう、わたし達は平和に暮らしていたはずーー
ーもうお前は口を開くな、無能。
誰かがわたしを後ろから蹴り飛ばした。 わたしの身体は石造りの階段を転げ落ちた。 痛い、頭から少し血が出ている、それがわたしの眼に入る、わたしはそれを拭う、お願いします、こんなこと、もうやめてーーー
人が、人が、人が、座り込んだままのわたしを取り囲んでいる、彼らの1人が銃座の底でわたしの頭を殴った、鋭い痛みが走る、それから、たくさんの、脚が、わたしを踏みにじるために向けられた、息ができない、やめて、助けて、ヘリオ、ヘリオ…！
ーこんなちっぽけな、無能の血脈のせいで、我々はたくさんの、数え切れない尊い命を失った、無能が一国の舵を取るということがどれほどの大罪か。 お前に何の権利がある、何の権利があって、我々をこれまで苦しめてきた！
違う、違います、苦しめるなんて違う、わたしはずっと国を想ってーー
最後まで言えなかった。 誰かがわたしの頭を踏みつけた。 嫌な音がして、わたしの顔が石畳にめり込んだ。
ーお前は何だ、何も知らずによくそんな厚顔無恥を恥ずかしげもなく話せたな、これが、これがこの国の現状だ、壁の向こうの現状だ、こいつを壁の向こうに連れて行くぞ、見せてやれ、こいつにたっぷり見せてやれ、シュラーフの真の姿を！
わたしは今度は無理やり四つん這いにされた、立ち上がろうとしたけどそれはできなかった、立ち上がろうと脚に力を込める度に殴られた、わたしは犬のように歩かされている、こんな、こんなこと、夢だ、悪い夢…………
ーおい、こいつまだ立とうとしてるぞ、犬以下の畜生の分際で、脚の腱を切れ、歩けないようにしろ、どうせ何日か後に殺すんだ！
わたしはまた取り押さえられた、そして両脚の付け根に激しい痛みを感じてわたしは叫んだ、ヘリオ、ヘリオ、ヘリオ、どこにいるの、お願い、助けて、夢なら早く覚めて、こんな、こんなこと……… 脚に力が入らない、冷たい汗が吹き出てわたしの服を濡らす、切り裂かれた脚に汚い包帯が適当に巻かれて、そしてそれがわたしの血で滲んでいる、見たくない、こんなの見たくない………
ー早く歩け！
わたしは四つん這いで進むしかない、石畳の感触が冷たい、ザラザラする、嫌だこんなの、わたしは犬じゃない、どうして…みんな……ヘリオ……………
そしてわたしの眼の前に、崩れた壁が現れた。
ー行け、進め、王女様、これがお前と、豚王がやってきた事の、その結果だ！
壁の向こうは、この地獄よりも、もっと、さらに酷い世界だった。
殆ど家畜の小屋のような崩れかかった家がぽつ、ぽつと立ち並んでいる、臭い、至る所から腐臭が漂ってくる、動物、人、虫の死骸があらゆるところに転がっている、何人かの少年のグループが鴉を串に刺して焚火で炙っている、それに彼らはかぶりつく、とても酷い臭いをたてるそれを、美味しそうに、食らいつくように、獣のような唸り声を立てて噛み砕いている、わたしはまだ四つん這いで進むしかない、そんな光景をあちこちで見かける、痩せ細って何年も身体を洗っていないような少女がわたしを見つけて指差す、わあああああ、わあああああああああ、わあああああああああああ、彼女は落ち窪んだ眼と所々溶けたような顔でわたしを見つめて叫んでいる、買って、買ってください、わたしを買ってください、買って、買って、買って、買って………誰かがそれを優しく静止する、目を逸らすな、よく見ろ、ちゃんと見てお前のそのちっぽけな頭に刻みつけろ、あの小さな女の子は家族ごと告発されて自由衛兵に連れてこられた、あの子のお父さんもお母さんも殺された、自由衛兵どもはあの子に薬を何本も何本も注射して笑い転げていた、分かるか、お前のあの儀式のせいでああなってるんだ、あの子のお父さんは、家族のために、涙ほどの貯蓄を貯めていただけなのに！ その間お前は何をしていた、笑顔で学校に通って王宮で温かいパンとスープを飲んで柔らかいベッドにくるまって寝ていたんだろう、見ろ、もっとよく見ろ、ゴミが！ 刻みつけろ、お前達がやってきたことを！
わたしは呟いた。
…………これが……………こんなの…………シュラーフじゃ…………
ーこれがシュラーフの本当の姿だ！！ お前に分かるか、鴉と鼠を食って、身体を雨と泥で洗って、擦り切れた布にくるまって寒い夜を過ごす感覚が、お前に分かるか、今お前が味わっていることの何倍も、何十倍も、何百倍も酷いことがこの国でずっと行われてきたことだ、そうだ、あの子を呼んで来てくれ、アイス屋の娘さんを、あの子もずっとこいつに、恨みを抱き続けてきただろう、代表だ、代表として呼んで来てくれ、このクズに、もっと痛みを、痛みを、痛みを！！
わたしは小さな広場らしき場所の中心に座らされた、誰かがわたしの腕を背中で捻り上げて縛る、それから2つの銃が、わたしの身体の前に回される、わたしは膝をついて座らされた、みんな、みんなが、憎悪に、わたしに対する憎悪に燃えている、この人たちは望んでるんだ、わたしの、死を…………
それからしばらくして、わたしより少し幼い女の子が、誰かに連れられてやってきた。 わたしはその子と向かい合うような形になった。 そして、その周りを、皆んなが取り囲んでいる。 わたしの死を望むみんなが。 それから、その子が口を開いた。
ー………私は、つい数日前に、壁の向こうに来ました。 自由衛兵です、自由衛兵がお父さんと、お母さんと、生まれたばかりの私の妹を殺しました、わたしは思想教育棟に入れられそうになりましたが、皆様に助けていただいて今ここに居ます、本当に、本当にありがとうございます、皆様を差し置いて、このクズ王女に裁きを与える機会をお与えになって下さったことに、心から感謝します。 ねえ、ノア王女、これがなんなのか分かる？
少女は言って、汚い布で包まれた包みを剥がした。 中から出てきたのは3つの骸骨だった。 大きなもの、それより少し小さいもの、それから、もっと小さいもの。
ーこれが、私の、お父さんと、お母さんと、妹です、貴方の告発のせいで殺された、私の大切な、大切な家族です、ねえ、ノア王女、貴方も知ってるはずです、貴方は私のお父さんを知っています、毎日、貴方はお父さんの作ったアイスクリームを嬉しそうに買って、学校に向かっていたんですから。 お父さん、お母さん、テオ、見てまくれてますか、みんなを殺したこいつが、今私たちの目の前にいます、待っててくださいね、今わたしが、みんなの無念を晴らしますから。
彼女はゆっくりと、わたしの後ろに回り込むように歩いた。 わたしの目の前には、3つの頭蓋骨が残された。 彼らはわたしを見つめていた。 おじさん。 これが、あの、アイスクリーム屋の、おじさんと、奥さんと、おじさんがとても自慢そうにしていた、娘さん。 彼らはわたしをじっと見つめていた。 なにかを、何かをわたしに訴えかけるように。 わたしはずっと、その3つの頭蓋骨を見つめていた。 わたしの長い髪が切られて、土の上に落ちるまで、わたしはずっと見つめていた。
ーねえ、ノア王女、こうして髪を切られたことってありますか。 わたしはあります。 思想教育棟に入れられた時にね。 嫌ですよね。 わたしも、みんなも、嫌でした。 さあ、そろそろ終わりますよ、けっこう綺麗なショートヘアです、丸坊主はやめてあげました。 死ぬ前に坊主は嫌でしょうから。 あ、ごめんなさい、誰かアレ持ってきてくれませんか。 松明と、それから、あの豚も。
少女は誰かから、何かを受け取って、またわたしの目の前に訪れた。 その手には、赤々と燃え盛る松明と、それから、丸い物体を、持っていた。 それは首だった。 少女はその首の髪を掴み上げて、それがだらんと下に揺れていた。
お父さん。
ーはい、貴方にあげます。
彼女はそう言って、お父さんを、わたしの足元に放り投げた。 それは潰れたトマトみたいに、ぐしゃっと音を立てて地面に落ちた。 地面に転がったお父さんと、わたしの目が合った。 ああ、わたしは小さく呟いた、ああ、あああ、あああああ、うわぁあああああああああああああああああああああああ…………………
ー良かったですね、国王陛下とも会えて。 さあ、感動の再会も終わったことですし、そろそろ報いを受けて下さい。 王女様。 せめて最期にこうすることが、貴方の義務なのですから、シュラーフの王女としての。
誰かがわたしの頭を、背後から掴み上げる。
少女が松明を高く掲げる。
わたしは小さく、祈るように呟いた。
ヘリオ。 助けて。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[26日 9:00 公海上 シュラーフから少し東]
僕はもうシュラーフを離れて、皇国へと向かう船の上だった。 案の定、反乱軍が勝利した。 あっけない結末だった。これからようやく、シュラーフの民主化が始まる、主要国と、特にその中心となる皇国の手を借りて。 おそらく発生するであろう難民の受け入れ体制も、神童総裁が整えてくれているはずだ。
ノア。 僕は甲板の上で冷たい風を体に受けながら、ノアの事を想った。
あの優しい手の温もりと、澄んだ翠の目。
僕はもう、彼女を目にする事は無いだろう。
もしかしたら、もう、この世には居ないかもしれない。 当然だ、当然の報いだ、王族がやってきた罪の、当然の、当然の……………
僕の眼から、涙が溢れてきた。
さようなら。 ノア。
甲板に南条さんがやってきた。 あと、他に何人かの人を連れて。
ーヘリオ様、泣いておられるのですか。
僕は涙を拭って、少しだけね、そう返した。 でも、これから皇国で新しい僕の生活が始まる、ルーア様に早く会いたい、神童総裁は、僕の事を褒めてくれるだろうか。
そして僕は、彼らに取り押さえられた。
何？ どうして？ なんで？ 南条さん、冗談はやめて下さい、これはどういう………
ー貴方を逮捕します、ヘリオ様。
逮捕？ どういう事ですか、冗談じゃない、なんで僕がーーー
ーシュラーフの暴動を先導したのは、貴方でしょう。
先導だと、僕は怒りで頭に血が上ってきた、あれは総裁とルーア様の意思だ、総裁は約束してくれた、アレが終わったら、僕は総裁のご家族と一緒に、皇国でーーー
ー………これは総裁のご命令です。 本来、総裁は貴方を即刻処分するとのご意向でしたがね。 ルーア様がそれだけはと言って聞かなかったそうです。
そろそろ分かったか、優しい王女様を裏切って、自分のために売り払ったクズ野郎が。 お前は、あの王女よりも、よっぽどタチの悪い屑だ。 そんな奴を、総裁殿が信頼なさるわけがないだろう？
僕は呆然とした。 そんな、嘘だ、こんなの、嘘だ、総裁が、神童総裁が、そんな事を言うわけがーーーーー
ー連れて行け。 お前の行き先は皇国だ、確かにな。 処分されるまで、収容所の臭い飯でも食べながら、自分のやってきた事を懺悔して過ごせ。
いやだ、やめてくれ、違う、間違ってる、僕は、僕は、僕は、何のために、何のためにノアを、あの子を、裏切ってまでこんな事を、やめてください、連れて行かないでください、間違ってます、総裁に、神童総裁に会わせて下さい、ルーア様に会わせて下さい、ご夫妻がこんな事を認めるはずがーーーー
ー早く、連れて行け。
海上を封鎖しろ。 シュラーフから1人たりとも外に出すな。 自由衛兵の総監殿はどうした。 もう出発したか？ 今は空の上。 よろしい。 殺せ。 奴もヘリオと同じようなものだ。 見下げ果てた害虫だ。 祖国に殉じようともせず、虫のように逃げる道を選ぶとはな。 シュラーフの魔晶だけは皇国が抑える。 それ以外は不要だ。
神童総裁に連絡を取れ。 ヘリオの確保は滞りなく完了。 シュラーフの封鎖も順調。 情報操作も滞りなく進んでいる、世界にシュラーフで起こっている事を、まだ知られてはならない。
この何日かで世界は大きく変わる。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[25日 16:03 オドペレイト運河上]
私とハルカちゃんは、たった数時間でオドペレイトのいろんな名所を見て回った。 ゴンドラにもちゃんと乗った。 ずいぶん高かったけど。 いい商売だ。 私も将来はああなりたいものである。 ハルカちゃんは最初は全然打ち解けてくれなかったけど(当たり前かもしれない)、次第に少しずつ彼女の方からも話しかけてくれるようになって、最後の方はずいぶん仲良くなれた、気がする。
どうして私たちがそっくりさんなのかは、結局分からなかったけど。
ねえ、ハルカちゃん、皇国に帰っても、たまにこうして遊ぼうよ。
ーはい、ルカ、喜んで。 次のお仕事が終わったら、すぐにでも。
お仕事？
ーはい、とても大事な。 誰かを幸せにする大事な役目です。
誰か？ それが誰か知らないの？
ー……そうですね、多分、お金持ちの人だと思いますけど。 誰かの役に立つのは、何だか自分が少しでも救われる気がするので。
……ハルカちゃん、何だか難しい事言うね……。 幸せって難しいね、私はお父さんと、お母さんが一緒にいてくれて、今でも幸せだけど。 でも2人ともけっこう忙しいから、中々一緒の時間が無いんだけど……。
そうだ、私は思いついてハルカちゃんに話しかけた。
ー……滝、ですか？
そう、今度一緒に滝を観に行こう。 誰かに車を出してもらって。 お父さんか、お母さんか、まあ紗奈さんでもいいけど、飲酒運転とかしたら捕まっちゃうから…。 私けっこういい一眼持ってるの、今度使い方教えてあげる。
ーいいですね、是非。 お弁当とかも持って。 ……できれば、ノアと、ヘリオさんと、あとまあ、アリアさんも一緒に行けたらいいですけど。
ノア？ ルーアお母さんの妹の、ノア王女様？ ハルカちゃん、ノア王女の知り合いなの？
ーはい。 私を救ってくれた、とても、とても大事な友達です。 ノアは皇国には行かないので、今日でお別れですけど……。
いい人なんだね。 ちゃんとお見送りしようね。
ーはい。 もちろんです。
ホテルに着くのがけっこう遅くなってしまった。 ヤバい。
窓からこっそり入ろうか、そう提案して、わたしとハルカちゃんは一緒にあのパイプをよじ登って、わたしの部屋の窓に向かった。
ー……ルカ、これ、けっこう怖いんですけど…………
もしかして高所恐怖症？ ハルカちゃん、木登りとか無理な系？
ー………絶対無理です。 勘弁してください。
ヒサシの上に登って、ハルカちゃんに手を貸してあげて引き上げて、わたし達はようやくホテルに戻る準備が整った。 誰もいないといいんだけど……
わたしはこっそり窓の端から中の様子を伺った。
ヤバい。 誰かいる。 紗奈さんと……あれ、お父さんに、お母さん？ ごめんなさい、けっこう心配かけたかも……。
私たちはそっと聞き耳を立てて、部屋の中の会話を聞いた。
ーごめんなさい、本当に申し訳ありません、総裁、ルーア様……。
ー………済んだことは仕方ない、紗奈君。 ルカと、ハルカの捜索の方は？
ーもうすでに手配してますが、まだ………。
ー…………あの子、隠れんぼとか凄い得意だから…。 ねえ、貴方、紗奈さんを責めないであげて、警護で疲れてて少し気を休めただけじゃないの。 これまで紗奈さんはずっと頑張ってきてくれたわ。
ー別に責めてないよ。 まあしょうがない、お酒はほどほどにな。 飲んでも飲まれるな。 だけど、紗奈君、これだけはちゃんと理解してくれ。 今はとても大事な時期なんだ。 ノア王女とヘリオは、さっき飛行場に向けて出発した。 これからシュラーフで暴動が起こる、その引き金はノア王女に引かせる。 我が皇国が、シュラーフ国民を保護するために動く名分を作るためにな。 これから数日間が勝負だ、その間に殆ど世界の行く末が決まる、そんな大事な時期なんだ。 それは分かるかい？
ー………はい。 総裁。 申し訳ありません。 私が、気を抜いていました。 どのような処分でも受けます。
ー処分とか、そういうのはやらない。 やるとしても南条君の決めるべき事だ、僕じゃ無い。 終わった事の責任を追及しても何も起こらない。
ーその通りよ、紗奈さん。 責任を取るなんて、ノアじゃ無いんだから、そんなこと言わないでね。 それこそ無責任よ。 …ノアとももうお別れを済ませたし。 あの子はきっと助からない。 ちゃんとシュラーフに殉じてもらわないと、ね。
ー………ありがとう、ございます。
ーさあ、捜索を急いでくれ。 ルカには帰ったら説教だな…。 それから、ハルカはさっさと皇国に連れ帰ってくれ。 頼んだぞ。
ーはい！
私たちはずっと息を潜めて、お父さんと、お母さんと、紗奈さんの会話を聞いていた。 隣でハルカちゃんが小さく蹲っている。 その息がだんだん早く、荒くなって、身体が見るからにブルブル震えてきた。
ー…………ノア。
ハルカちゃん、さっきお父さん達が話してた、ノアって………
ー………………ルカ。 お願いがあります。
おねがい？
ー私は、ノアを助けに行かなくては。 約束したんです。 ノアが幸せじゃなくなった時には、必ず私が助けに行くって。 私は自分の幸せの事はよくわかりません、だけど、ノアが幸せじゃなくなるのは嫌です、死んでしまうなんて、もっと嫌です。
………ルカ。 お願いです、私と……………………
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[25日 18:50 ホテル フロント前]
私は紗奈君から、ついさっきハルカを確保した旨の報告を受けて、ホテルに向かっていた。 ルカの方はまだ見つかってない。 何かがおかしい。 確かに、娘とハルカが一緒にいる保証はどこにもなかったが……。
とにかく、まず懸念の１つが消えた。
私はホテルの扉を潜ってフロントに着いた。 そこにはもう、紗奈君と、それから、ハルカ………が待っていた。
ー総裁、ハルカちゃんは無事です、ルカちゃんの捜索も続けています、心配しないでください、すぐに見つけてーーーー
車を探せ。 アリアだ、あの女の車を早く探せ、抑えろ。
ー……はい？ アリアさん？ その、総裁、ルカちゃんと、アリアさんが一緒にいるわけがーーーー
わたしは黙って、娘の顔を見た。
娘は少し怯えたように俯いた。
………ルカ。 お父さんに教えてくれ。 君と一緒にいたはずの、ハルカは、何処だ。
服を取り替えたくらいで、お父さんの事を騙せると思ったのか。
ルカは小さく呟いた。
ー…………ごめんなさい、お父さん。 ハルカちゃんに、どうしてもって頼まれて……
お父さんの質問に答えてくれ。 ルカ。 ハルカは、今、どこにいる。
ー…………その、アリアさんと一緒に、車で………………
僕は紗奈君に向き直った。 直ぐに、あいつらを探し出せ。 まだそう遠くには行っていないはずだ。 オドペレイト近郊の都市を全て抑えろ。
やれやれ。 こんな事に手を煩わせている暇は無いはずなんだけどな。
(第7話おわり)