※実在の地名、人物とは一切関係しません。
あくまで創作の中での話です。 未成年の飲酒描写が出てきますが、この世界では13歳からワインは合法になります。
※時系列が入り乱れるので、一部に補足をつけてます
(第9話)
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[26日 16:40 シュラーフ国内 思想教育棟 101号室]
わたしが鍵を回して、取っ手に手をかけてそれを引きかけて、101号室の扉を完全に開き終わるより早く、開きかけた僅かな隙間からハルカちゃんの小さな身体が部屋の中に滑り込んだ。 それとほとんど同じ時にー私には少なくともそう思えたー部屋の中から小さな1発の銃声が聞こえて、私の身体は硬直した。
この扉を早く開き切らなければ。
そう思ったけど、私の手はそれ以上動かなかった。 中に何があるのか、それを見るのがとても恐ろしかったから。 私の後ろの紗奈ちゃんも、微動だにせず、私たちの身体はしばらくその場で固まった様に動けなかった。 ハルカちゃんが部屋の中に滑り込んだのは、銃声が聞こえる少し前だったはず、いや、ほとんど同じだったかもしれない、その「ほとんど」の程度が、私には分からなったのだ。 部屋の中からはそれ以降何も聞こえなかった。 全てが眠りについて、そして誰もいなくなったように。
何してるんだ私は。 こんな事をしてても、何一つ事態は進まないじゃないか。
私は少し震える手で、軽く勢いをつけて扉を開き切った。
私の目の前に、2人のよく知ってる女の子が倒れている。
ハルカちゃんが上で、その下はー………
「………ノアちゃん。」
私は101号室の中に足を踏み入れた。 ノアちゃんに覆いかぶさるように倒れているハルカちゃんの左手が伸びている。 その先に、銀色に光る小さな銃が硬く握りしめられていた。 壁の一部には、そこから放たれたであろう、小さな銃痕が空いている。
間に合った。
私と紗奈ちゃんは、その光景を眼にして、部屋の入り口で立ち止まった。 ハルカちゃんとノアちゃんはまだ動かない。 それからしばらくーほんの数秒だった様に思うけど、それはずいぶん長く感じられたー間が空いて、ハルカちゃんが小さく、本当に聞き取れないほど小さく、ポツリと呟いた。
ー……………………………………帰りましょう、ノア…………………………………。
私たちは彼女の呟きを聞いてようやく、2人の元に駆け寄った。
ハルカちゃんに手を貸して立ち上がらせて、その身体の下にいたノアちゃんの呆然とした顔を観て、そして初めて、私はーー生まれて初めてーーこの国の人間を、1人残らず殺してしまいたいと、そう思った。 こんなに激しい憎しみが自分の心から溢れ出してくるなんて、考えたこともなかった。 この子が、まだ私より幼い、成人も迎えていない子が、この場所で受けた非人道的な仕打ちを、私は今初めて知った。 あんなに長くて綺麗だった髪の毛が短く雑に刈り取られ、痣や土埃で覆われて、そして、その顔の半分くらいがー右頬から眼に至るまでー焼かれて、その片目はもう二度と、一切の光を映すことのないものとなっていた。
ー…………ひどい……………
私の横で紗奈さんがぽつりと呟いた。 私も、ハルカちゃんも、ノアちゃんを見つめたまま何も喋らなかった。 話せなかった。
ここを、離れましょう。 早く、出来るだけ早く。
私はノアちゃんから眼をそらして、そう呟いた。 彼女の姿を見ていると、人間のことが、それから世界のことが、全て嫌いになってしまいそうだから。
ノアちゃんを背中におぶって、紗奈ちゃんを先頭に、私たちはミカエルの待つ飛空挺に向かって駆け出した。
baka＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[27日 11:00 ヴェルマーレ イチモ家の一室]
わたしはどうなったんだろう。 死んでしまったのかもしれない。 きっと地獄行きだとばかり思ってたけど、地獄がこんなに清潔な場所だとは思わなかった。 わたしは眠りから覚めて、ふかふかのベッドに横たわったまま、少し顔を動かして部屋を見回してみた。 右目は何も見えなかった。 木で作られた、小さいけどさっぱりした清潔な部屋で、わたしの身体の上に柔らかい白い羽毛の布団が被せられている。 わたしは起き上がって布団をベッドの端に避けて、脚を床につけていつもの様に立ち上がろうとして、そして床の上に倒れた。 脚が、動かない。 ぴくりとも。 ああ、そういえば、腱か何かを切られたんだっけ。 四つん這いで歩いてた気がする、犬みたいに。 これからずっとこのままなのかな。 地獄でもこのままなんて。 そう思ってわたしは気分が暗くなった。 なんとか壁際まで這っていって、壁に体重を預けるようによろよろ立ち上がって、それでようやく壁伝いにゆっくりと、本当にゆっくりとだったけど、歩けるようになった。 部屋の隅に鏡が掛けられている。 わたしは震える脚で、壁にもたれかかりながらーそれでも時々膝をついて息を整えなきゃいけなかったけどー鏡の前まで歩いて行って、それを覗き込んで、ようやく今の自分を認識できた。 燃えている、わたしの顔が、国が、みんなが、燃えて、焼けて、融けて、黒い炭になっても燃え続けて、燃えて、声が響く、叫び声が、鴉と子供の肉の焼ける音が、大人達が叫んでいる、こいつを殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、燃やし尽くせ、憎しみにかられて彼らは叫んでいる、わたしにむかって。
ああ、ああああ、声が勝手に出てくる、抑えようとしても、わたしが、わたしじゃなくなってしまったみたいに、わたしの声はだんだん大きくなり、それから、叫びとなって部屋中にこだました。 ああああああああああぁああぁああああああああああああああああぁあああああああああああああああっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、みんな、ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、何も知らなかったんです、わたしは知らなかったんです、自分の国があんなことになってるなんて知らなかったんです、許して、赦して、ヘリオ、赦して、わたしは知らなかったの、知らなかったから死のうとしたの、なのに生きてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ……………………………………………
わたしの声はそこでようやく収まった。
小さな細い2つの手が、鏡の前のわたしを優しく、だけど強く、抱きしめていた。 わたしは前を向いて、鏡を除いて、焼け爛れた自分の貌の後ろにいる子を見た。 だけどわたしの呼吸は落ち着かなかった。 落ち着くどころかますます荒くなった。
どうしてわたしを助けたの。
そう呟いてみたけど、答えは何も帰ってこなかった。 わたしを後ろから抱きしめる手の強さが少しだけ強くなった気がして、それがわたしの心をますます掻き乱した。
どうしてわたしを死なせてくれなかったの、そう聞いているの、答えて、答えなさい、ハルカ！ どうして、あの時、わたしの頭を吹き飛ばしてくれなかったの、全部忘れられたのに、全部赦されたかもしれないのに！ このままわたしに生きろって言うの、あなたは、何も知らないくせに、わたしに生きなさいって、そう言うの！ わたしのせいでシュラーフは滅びる、眠りの後で滅びがやってくる、わたしが自分の祖国を殺したの、お父さんを殺したの、ヘリオもわたしを見捨てた、わたしはこの焼けた醜い貌を見るたびにそれを思い出さなきゃいけない、みんながわたしを憎む、憎み続ける、後ろ指を指す、石を投げる、わたしだけじゃない、わたしにもし、子供が産まれても、それはずっと続くの、国を滅ぼした屑の子供だって！ そんな地獄の中でわたしを生き延びさせようって言うの、覚めない悪夢の中でわたしはこれから生きなきゃならないの！ わからないの、ハルカ、貴方にはそれがどうしてわからないの、ああ、分からないか、分からないに決まってるよね、貴方には人の幸せが何かなんて分からないんだから、金持ちの豚どもの子供に臓器を貢いで、屑どもの前で股を開いて踊って見せるのが貴方の幸せだもんね、ああ、貴方に何も分かるわけないよね、皇国の大事な大事な商品でしかないお前に、人の幸せなんて分かるわけないもんね！！
わたしは自分を抱きしめる忌まわしい腕を振りほどこうとした、だけどどれだけ力を込めてもハルカちゃんはわたしを離そうとしなかった。 わたしの心が狂い、踊り、乱れ、そして千切れ飛んで行く、分からない、何も分からない、どうして皇国の商品なんかがわたしを抱きしめるの、生かそうとするの、一生消えない罪と、この醜く焼けた半分の貌を一生見つめて生きろって言うの、わたしはもう歩くことすらできるかどうか分からないっていうのに、土を舐めながら四つん這いで歩いて、石を投げられながら残りの生を全うしろって、こいつはそう言ってる、拷問だ、こいつはわたしに拷問を受けさせる気だ、今は優しくしててもいつかきっとわたしを裏切る、突き落とす、その時のこいつの顔はきっと笑顔に満ちている、わたしの無知と愚かさを嘲笑いながら、そうだ、ヘリオもそうだったに違いない、ずっと、ずっとわたしを心の中で嘲笑ってたんだ、あの時も、怒れる群衆の前にわたしを突き落とした、あの時も、笑いながらそうしたんだ、そうだ、そうに決まってる、悪魔め、悪魔どもめ、こいつも悪魔に違いない、そのはずだ、だからわたしを生かして地獄に留めておこうとする、こいつらはわたしに手を差し伸べるふりをして心の中ではわたしを憎んで見下しているんだ！
わたしは無理やり頭を鏡に叩きつけた。 鏡の破片がバラバラ床にこぼれ落ちた。
わたしの思考は不思議とその時静かに、冷静になった、手は自由だ、ハルカは後ろからわたしの胴体を抱きしめている、どうやったらこいつの手を払いのけられる、まずこいつを退かせて、その後でもう一度ちゃんと死ななきゃ、そうしなければわたしは赦されない、そう考えてわたしは一番尖ってそうな鏡の欠片を拾い上げて掴んだ、それでわたしを抱きしめる忌まわしい手の甲を突き刺した、血が吹き出て、鏡の欠片をつたって床に零れ落ちた。 ああ、なんだ、お前もやっぱり赤い血が流れてたんだ、てっきり青か、何かそれ以外の変な色をしてるんだと思ってた、そう言ってわたしは笑った、そして鏡の破片を引き抜いてもう一度、今度はもう少し深く突き刺した、おかしいな、けっこう痛いと思うんだけど。 さっさと離してほしい。 このままじゃわたしが死ねない。 ああ、そうだ、こいつに構わないでさっさと死んでしまえばいいんだ、えっと、どうしようか、首に突き刺すのがいいかな、心臓ってなんだか深い位置にありそうだし、ただ痛くて損をするだけな気がする。 やっぱり首かな。 結構痛そう、だけど、このまま生き続けるよりは、よっぽどいいと思う。 わたしは勢いをつけるために破片を高く掲げて、それを自分の首に向けて振り下ろそうと、そう思って腕を動かして、それから、誰かに蹴られた。 鏡の破片が、わたしの掌から零れ落ちる。
ー何してるの、バカ！！！
わたしは蹴られた勢いで床に仰向けに転がった。 また邪魔された。 なんだっけ、この声。 知ってる気がする。 ああ、あれだ、運転手だ、やたらと歌ってた意味のわからない女だ、なんだ、こいつも悪魔なんだ。 邪魔するんだ。
ーミカエル、紗奈ちゃん、とりあえずノアちゃんを押さえて、このままじゃ何しでかすか分からないわ。 ハルカちゃん、待ってて、手の甲をしっかり押さえてなさい、今血を止めるもの持ってくるから、そのままじっとしてなさい……。
ミカエル？ 紗奈？ ああ、あのクズ男と、神童の飼い犬の女だ。 わたしは強い力で床に仰向けに組み伏せられた、わかった、わかった、そこまでしなくてももう暴れないから。 はいはい。 それでいいんでしょ。 ここで死のうとしたわたしがバカだった。 どうせ1人になる機会なんていくらでもある。 その時でいいじゃないか。 それにしても、人のことをバカ呼ばわりって、アリアさんもなかなか酷い。
ー…………ハルカちゃん、手、見せて………うわ、ごめんわたし無理、紗奈ちゃん、こういうの慣れせそうだから代わって…………うん、そう、ノアちゃん、動かないでね、ちょっと落ち着いて……………
落ち着く？ わたしは落ち着いてる。 冷静だ。
落ち着いてないのは貴方の方でしょう、わたしはそう言ってみた。
死なせてよ。 早く。 さっきはハルカが邪魔して失敗した。 早くわたしを楽にしてよ。 もう十分でしょ。 これでも、わたしを、虐め足りないって、そう言うの。
ー………ノア…………ちゃん……………
なんだこの偽善者。 泣いてる。 気持ち悪い。 嘘つきばっかりだ。 わたしの周りには嘘つきしかいなかった。 お父さんも、お姉ちゃんも、ヘリオも、ハルカも、アリアさんも、クズ男も、車工場のお爺さんも、神童も、みんなみんな嘘つきだ。 心の中でわたしを嗤ってる、良くて憐れんでる、無知な王女だからしょうがない。 そういう風に。 ここはやっぱり地獄だ。 早くわたしを楽にしてほしい。
ハルカ。 わたしは話し続けた。 早く殺してよ、わたしを。 言ってたよね、わたしが幸せじゃなくなった時には助けるって、今がその時よ。 早く、早く、早くわたしを楽にして。 余計なお節介を焼かずに、早く。 それがわたしの幸せなの。 今、まさに望むことなの。 わたしを幸せにしてよ。 出来ないの？
答えは何も帰ってこなかった。 部屋中が、沈黙に包まれた。 辛気臭い。 そんなに思い悩むようなことでも無い気がするんだけど。 少し考えれば分かるのに。 わたしはもう少しハルカを煽ってみることにした。
早くしてよ。 わたしを幸せにしてくれるんでしょ？ …あ、ごめん、出来ないんだよね、出来るわけないんだよね。 認めたくないもんね、自分のしたことがただのお節介で、間違いだったなんて。 わたしもそうだもん。 特にハルカちゃんはそうだよね。 真っ当な幸せなんて貴方に分かるわけないもんね、そうだ、貴方流の幸せの定義に従って、わたしのお腹を割いて心臓でも肺でもなんでも取り出して、皇国の豚にでも売ってみたらどう、みんな涙を流しながらお金をばら撒いて買ってく…………
ーこのバカ、いい加減にしろ！
火傷してない方の頬を叩かれた。 けっこう強い力だ。 男の声だ。 ああ、あのフローラのクズ男か。 いい加減ヒモは卒業したのだろうか。
ーみんながお前を助けようと必死だったんだぞ、そのために幼い女の子が危険を冒して内乱中の国に飛び込んだ、お前それを分かってるーーーー
分かるわけないじゃない。 わたしに。 人の気持ちなんて。
今まで、何も知らずに呑気に過ごしてきたんだから。
わたしはそう吐き棄てるように呟いた。 誰も、何も言わなかった。
あの子を除いては。
ー……………ノア。 わたしは、余計なことをしてしまったんでしょうか。
krハルカちゃんが小さな声で呟いた。 消えてしまいそうなほど小さな声だった。
わたしは、そうだね、そう返した。 本当に余計なことだ。
ほかに何か言いたいことはないの。 皇国の大事なドナー奴隷さん。
ー…………………はい。 一つだけ。
あっそ。 何？ 早く言ってくれる？
「…………………ノアが無事で……………。 本当に…よかった……………………。」
………………………………は？
何、言ってるの。 意味が分からない。 おかしいでしょ、前後の文脈のつながり。
大体、なんで貴方が泣いてるの。
余計なことだって言ってるのに。
言ってるのに………………………………………………。
わたしはそう呟きながら、泣いていた。 訳も分からずに。
少し考えて、ようやく、分かった。
わたしを想ってくれてる人がいるって、ようやく、そう思えたから。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
わたしはまた暫く1人にさせてもらった。 それから、ベッドの上に座り込んで、ずっと1人で泣いた。 泣き続けた。涙は枯れることなく溢れてきた。 それは、わたしの頭や体がそうさせてるんじゃなくて、わたしの心のもっと深い部分から、汲んでも汲んでも水が尽きることのない井戸のように浸み出した涙だった。 何も知らなかった愚かな自分への呪い、ずっと一番大事な家族だと思っていたヘリオに見捨てられた哀しみ、暴力への恐怖、それでもわたしを見捨てずに助けにきてくれたみんなへの申し訳なさと、ハルカちゃんに対する罪悪感。 全部がごちゃ混ぜになって、それが涙になって、わたしの頬を濡らし続けた。
これから、わたしはどうすればいいのだろう。
わたしはたくさんの人を傷つけた。 赦されないことをした。 わたしを想ってくれている人達さえも傷つけた、裏切った、決して言ってはいけないことをたくさん、言ってしまった。 謝って許してもらえるものじゃない。 逃げて出してしまいたい。 どこか遠いところへ。 わたしのことを誰も知らない、遠い遠いところへ。 そう思いながら、涙に濡れた眼で窓を見上げて、空を見つめた。 もううっすら日が沈みかけており、美しい夕陽がその姿を覗かせていた。 きれいだ。 こんなにきれいなものを見るのは、なんだか本当に久しぶりな気がする。
ベッドから抜け出して、わたしは部屋に面した広いベランダに向かおうとして、それでまた脚に力が入らなくって床に倒れた。 また壁際までズルズル這って行って、それを支えに身体を持ち上げる。 なんだか少し慣れてきた気がする。 こんなのに慣れたくないけど。 窓のすぐそばまでのろのろ進んで、鍵を開けて窓を開いた。 部屋と同じ、木張りのベランダに裸足のまま出て行って、わたしは海に沈もうとしている夕陽を眺めた。 本当に綺麗だった。 そういえば、汽動列車でシュラーフから出発した車内で、ヘリオと夕陽の話をした気がする。 ヴェルマーレの海に沈む夕陽はとても綺麗らしいから、一緒に見に行こうって。 そうしたら列車が止まって、線路の上を歩いて行って、ハルカちゃんと出逢ったんだっけ。 あの時もわたしだけが無邪気にはしゃいでいたけど、ヘリオはきっとそうじゃなかったんだろう。 どうしてわたしは何も気付かなかったんだろう。
きっとわたしは、何も見れてなかったんだと思う。
片目で見る夕陽は、不思議なことに、両目ではっきりと見た時よりも、より一層赤く輝いて、美しく、そして儚く見えた。 今のわたしには、なんだか分かるような気がした。 人は、喪って初めて、その大切さに気付くんだって。
ーおい、大バカ王女。 やっと起きたか。
なんだか黄昏てたら、聞いたことのあるような男の人の声に邪魔された。 なんだっけ、この人。 声だけ聞いても思い出せない。 わたしは首を横に向けて、声のした方を見た。 このお爺さん、前に会った気がする、そうだ、この街でーー
……イチモさん、でしたっけ。
彼はじろっと私を見た。 優雅にチェアに腰掛けて、その脇の小さな丸いテーブルにワインの瓶と、半分くらい注がれたグラスが置いてある。
ーでしたっけとは何だ。 俺の娘と一緒に何日かいたくせに、随分な言い草じゃないか。 まあ、いい、おいどうだ、お前も一杯。
彼は立ち上がって、ワインの瓶と空のグラスを持ってわたしの近くまで歩いてきてくれて、グラスを赤いお酒で満たしてわたしの手に持たせてくれた。 ありがとう、わたしはお礼を言った。
ーおお、随分素直に礼が言えるじゃないか。 最近の若者はちょっとしたことですぐキレるって聞いてたからな。
そんな事ないです、わたしはそう言ってから、自分がさっき、ハルカちゃんに対して言ってしまった事に気付いた。 ずいぶん酷い事を言ってしまった。 わたしを助けに来てくれたのに。 わたしはまた自分が嫌になって、俯いた。 そうしたらまた、涙が出てきた。
ー怒ったり泣いたり忙しい奴だ。 最近の若者はよくわからん、特に人間はな。 変化が早すぎてな。 短い生の中で、火のように激しく燃え尽きるように過ごす奴もいれば、水のように下に下に流れて行く奴もいる。 俺もいろんな奴を見てきた。 そしてみんな、俺より早く死んでいった。 儚いものだ。
貴方は、人間………じゃないんですか？
ー馬鹿な事を聞くな。 俺はボロい車工場の爺だ。 ただのそれだけだ。 そういえばお前を助けてくれた賑やかな若者たちにもう礼は言ったのか、王女様。
…………まだです。
ーやっぱり失礼な奴だな。 礼儀がなってない。
…………すみません。
……………でも、わたし、その………今晩中にでも、ここを、離れようと思うんです。
お礼は、その、手紙を、残しておきます。
ーほう。 その足でか？
………………これ以上は、お世話になれません。 わたしなんて、本当は、みんなに心配してもらう価値もないんです。 助けてもらう価値もないんです。 それにやっと気が付きました。 だから、これ以上、みんなに迷惑は…………
ー自分勝手だな。 それに愚かだ。
………………そうですね。 その通りです。 わたしは無知で、無力で、我儘で、………
ーそんな事を言ってるんじゃない。 お前が無知で無力で我儘でしかもバカなんてのはとっくに分かってる、そんなもん、初めて見た時から分かってたぞ。
いいか、俺が言ってるのはな。
お前は自分が無価値だと、自分で決めつけている、それが愚かだと言ってるんだ。
……………慰めて、くれるんですか。 でも……………
ーああもういい、お前もう喋るな、本気でバカっぽいからな。
………………………………はい。
それから彼は、わたしの方をじっと見つめて、わたしの眼を見つめながら話した。
ーいいか、これはただの俺の独り言だ。 俺は自分で言うのも何だが変わり者だからな、まあ俺の娘ほどじゃないが……。
人間の本当の価値というのはな。 何を成し遂げたとか、そのためにどんな過程を歩んだかとか、誰を幸せにしたとか不幸にしたとか、そんなもんで決まるんじゃない。
それはもっと、深いところで決まるものなのだ。
…………深いところ。
ーそうだ。 思考も身体も精神も超えたところだ。 何かどうしようもない、大きな失敗をしたとする。 取り返しようもないくらい大きな過ちだ。 謝っても決して許されない、どれだけ償い続けようが決して取り戻せない。 そんな大きな過ちだ。 一生、人から恨まれ続ける、後ろ指を指される、自分が大人になっても、その子供にまで災いが降りかかる。 そんな類の過ちだ。 本当に取り返しがつかない。
…………人の本当の価値はな、そんなどうしようもない絶望的な状況で、何を選択するか、どう行動するか。 それで決まるんだ。 それはもう、考えてもどうにかなるものじゃない。 理性で判断できる代物じゃないからな。
……………じゃあ、どこで決まるんですか。
ー魂だ。 魂と、心だけだ。 絶望に沈んでヤケになる奴もいる。 開き直って自分や他人を傷つける奴もいる。 逃げる奴もいる。 償い続ける奴も。
………そして極稀に、立ち向かおうとする奴もいる。
………………立ち向かう。
ーそんな奴もいるって話だ。 悪いが王女様、あんたはとてもじゃないが、そんな風に見えないな。 さっさと今晩コソコソ逃げ出して、まあその辺の山で野垂れ死ぬタイプだな。 少なくとも俺にはそう見える。 国を滅ぼした王女様。 お前のせいでみんな死んでいく。 あの国の人間はもう助からん。 神童は必ずそうする。 お前がぐっすりおねんねしている間に、奴はもう準備を整えた。 お前の祖国シュラーフは完全に封鎖されている、皇国の軍隊にな。 難民を満載した船が、公海上で何隻か行方不明になった、おそらく沈められた。 まず女子供から乗せられていたそうだ。 みんな海の底に沈んだ。 反乱軍は武器を奪われた。 だが世界の誰もそれを気にかける余裕は無い。 それが何故だかわかるか。
通貨危機だ。 財政的に厳しい国から順に、取り付け騒ぎが起こっている。 このグラエキアも例外じゃ無い。 魔晶だ、あれの市場価格が跳ね上がった事に端を発する。
神童の奴はシュラーフの内乱を慎重に包み隠した、外に漏れないように準備を整えた。 世界が気付いた時にはもう遅かった。 無事だったのは皇国の通貨だけだ、それ以外は軒並み暴落した。 外貨を引き出せない国が今この時にも相次いでいる。 終わりの始まりだ。 取り付けはただの序章だ、その後で飢餓ががやってくる。 大勢死ぬ。 世界中でな。 大人も、子供も、男も、女も、金を持ってない奴から順々に飢えて死んでいく。 餓死は何より辛い死に方だ。 その混乱に飲まれて、お前の国も当然死んでゆく。 後に残った魔晶だけを、神童の奴が抑える。 うまくやったよ、あいつは。 ただのちっぽけな小僧が、知恵と力と権力を身につけた。 お前とは大違いだ。
……………神童、総裁………………。
ー……そうだ。 あいつはまだ何か、大きな事をしでかすつもりだ。 何を企んでいるかまでは知らんがな。 まあ確かなことは、お前の国はもう助からん。 みんな死ぬぞ。 皇国に殺されるか、飢えて死ぬか、それだけの違いだな。 反乱軍もご苦労様な事だな。 国王を殺して、やっと自分たちの時代が始まる、民主化が始まる、希望に向かって進んでいく、そんな淡い偽りの希望を抱いて、そして死んでいくんだからな。 王女がバカなら国民も救いようが無い、まあお似合いの末路ーーーー
彼はそれ以上続きを言えなかった。
わたしが彼の肩を両手で掴んで、割り込んだから。
シュラーフの同志たちを馬鹿にするな、好き勝手言って！ わたしがバカなのは認める、だけど国民を貶すのは許さない、あなたにそんな権利は無い！！
そう言ってから、わたしは、ようやく、彼が何を言いたかったかに気付いた。
ー……………ノア王女様。 もしお前がそう思うのなら。 お前がまだ、あれほどの仕打ちを受けても、顔を焼かれて足を潰されても、あの国を救いたいと思うのなら。
……………まずは、みんなにちゃんと謝ってこい。 そしてお礼を言ってこい。
人間は弱い。 ちっぽけだ。 ドワーフのように屈強でも、エルフのように美しくも無い。 その生は短く儚い。 だからこそ…………支え合って、初めて強くなれる生き物だからな。 そして赦し合える。 美しい生き物だ。
不思議なものだ。 本当に人間は不思議だと思う。 憎しみや恨みに溢れて醜く歪むのも、愛と優しさを讃えて支え合うのも、ただその心と魂の形状だけで決まるんだからな。
王女様。 貴方の魂が、高潔たらん事を…………。
彼はそう言って、わたしの目の高さまでグラスを上げて、一息に飲み干した。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
もうすっかり、あたりは夜に包まれていた。
わたしは部屋に戻って、短くなった髪をできるだけ整えて、それから、壁に体を預けて、ゆっくりと部屋を出た。 廊下をしばらく進むと、明かりが漏れてる部屋があった。 わたしは扉の隙間から中を覗いてみた。 みんながいる。
アリアさん、ミカエルさん、紗奈？さん…………
ハルカ……………………
わたしはゆっくりと扉を開けて、その部屋の中に入った。
みんなが食卓を囲んでいる。 そして、凍りついたようにみんな動かなくなって、誰も彼もがじっとわたしを見つめていた。
わたしは頭を下げて、それから、みんなに言った。
…………迷惑をかけて、ごめんなさい。 助けてくれて、ありがとう。
しばらく誰も話さなかった。 わたしは気まずくなって、やっぱりまた消えてしまいたくなった。
最初に口を開いたのは、あのミカエルさんだった。
ー………………おお、神よ。 今日はなんと素晴らしい日だ。 ようやくノアちゃんが俺のパトロンになる決心を……………………………
そこにアリアさんが割り込んだ。
ー…あんたは早く死ね。 クズ。
…………ノアちゃん。 ………………良かった。
何が良かったんだろう？
次は、紗奈さんが会話に参入してきた。
ーおお、王女様復活。 実は私、初めてノアさんと喋るんですけどね…。 まあそんな事は大きな問題じゃ無いです、じゃあ次はヘリオちゃん救出作戦、みんな張り切って行きましょう！！
なんでこの人が仕切ってるんだろう。 この人、皇国の人じゃないのか。
ー……………まあ総裁とお兄ちゃんにはうまいこと誤魔化しときます。 あの人達以外と私には甘いから、まあ多分なんとかなります。 大体……ちょっとだけ、ちょっとだけですけど、神童さんも、やり過ぎです。
わたしはハルカの方を見た。 この子だけは、まだ何も話しかけてくれなかった。
やっぱり、わたしを許してくれてないのかな。
……………酷い事、いっぱい、言って、ごめんね。
ハルカちゃんはまだ何も答えてくれなかった。
しばらくして、やっとわたしに口を聞いてくれた。
ー…………次、死にたいとか言ったら、本気で怒りますよ。 私。
みんながそれに頷いた。
ーハルカちゃんに同意。
ーおお神よ、その通りだ。 まさに真理だ。
ー全くその通りですね。 ヘリオちゃんからトマトみたいな王女だって聞いてたけど、頭の中までプチトマトが詰まってるんですか。
それはひどい。 さすがに。
そう言ってわたしは少し笑った。
みんなも笑った。
ハルカちゃんがわたしに手を貸して支えてくれて、それからわたしは、みんなが待つテーブルに着いた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[26日 18:20 皇国 神童総裁自邸]
私は自室のテーブルに着いて、軽い酒を小さなグラスに注いで、それを飲みながらこれかのことについて考えた。 全てうまく行っている。 怖いくらいに。
藤鷹君は私の不在の間にもよくやってくれた。 彼の情報操作は完璧だった。 皇国だけが世界的な通貨危機を免れている、その間にシュラーフは皇国が抑えた。 南条君の完璧な指揮で、シュラーフのほぼ全てを掌握できた。 反乱軍どもは武装解除した。 さっさと全員殺してやる。 ルーアの心を傷つけた、クズ共の分際で。 民主化だと。 ゴミ共にそんな脳味噌があるわけがない。 義憤に燃えただけの馬鹿が一国の舵を取って、ロクなことになった試しがない。 あいつらはそんな事もわからないのか。
ヘリオも無事捕らえた。 早く殺してしまいたい。 その方が安全だ。
申し訳ないが、ルーアには内緒のうちに、さっさと消えてもらおう。 最早、全てを知る奴は邪魔なだけだ。 特に、いつ裏切るとも知れない犬は。
そういえば、ルカはずっと落ち込んでいる。 私に迷惑をかけてしまったのが相当なショックだったみたいで、帰りの飛空挺でもずっと浮かない顔をしていた。 やれやれ。 今度滝を見せにドライブに行ってあげよう。
私は酒をあおって、少し息をついた。
それから、いつもそうするように、テーブルの上の写真立てを見つめた。
まだ若い僕達がその中にいる。 僕、藤鷹君、南条君、ルーア。
ルーアと出逢ってから、もうずいぶん長い時が流れた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
[…………7年前 皇国首都…………]
やれやれ。 軍役から復帰して、すぐ政治のお手伝いか。 親父も全く息子遣いが荒い。 しかも政略結婚だと。
まあ見合いみたいなもんだ、そう言って親父は笑ってたが、相手はシュラーフの王女様ときてる。 どんな洗脳教育を受けてる奴か、知れたもんじゃない。 勘弁してほしい。 下手したら一生、僕はそいつと過ごす事になるんだ。 我がことながら背筋が冷える思いだ。 僕は公園のベンチに座って、煙草に火をつけた。 王女様は車の中でも当然一言も喋らなかったし、もちろん皇国に来てからも、それは変わらなかった。
とりあえず僕は休みを取って、ルーア王女様とこの公園で待ち合わせた。
何をするかはもちろん一切決めてない。 デートって雰囲気でもない。 勿論。
だけど、僕の家とか、この皇国のセレモニー施設とかでは、もう余計に話が進まない事は請け合いだった。 これは政略結婚だ。 そこははっきりさせておく必要がある。 何にせよ、僕はこれから、見ず知らずの全体主義国家の王女様と、共同生活を始めなければならない。 本当にゾッとする。 一緒の部屋で煙草吸ったら殺されそうだ。
勘弁してくれ。
そんな事を考えてた時、ようやくあの女が来た。
「……………約束通り来たわよ。 皇国のお坊ちゃん。」
やれやれ。 ルーア王女様が、ものすごく冷たい瞳で、煙草を吸いながらベンチに座ってる僕を、見下ろしていた。
(第9話おわり)